Archive for 5月, 2017

Date: 5月 18th, 2017
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(テクニクスの広告)

現在のオーディオ雑誌に掲載されているオーディオの広告については、
あれこれ書きたいことはあるが、ここでは控えておこう。

また昔の話を書くことになるが、
1978年のテクニクスの広告。
「テクニクスカセットデッキ物語」という9ページのカラーページから成るものがあった。

この「テクニクスカセットデッキ物語」の第四章。
リモートコントロールという見出しがついている。

カセットデッキRS-M85の写真もあるが、第二章でとりあげられていて、
ここ第四章ではRP070というリモートコントロールユニットがメインである。

キャッチコピーは、こうある。
《技術が進歩すると、オーディオ機器はハイ・フィデリティになる。
 音楽に対してだけでなく、人間に対しても……。》

ボディコピーの最後には、こうある。
《この機器に込められた「技術の進歩はリスナーに対してのフィデリティに貢献する」という哲学。
 テクニクスがオーディオに心を燃やす理由が、ここにある。》

いまのテクニクスは、どうなのか、そのことに触れたいわけではない。
人間に対してのハイ・フィデリティ、
リスナーに対してのハイ・フィデリティ、
意外に見落しがちなことのように思う。

約40年前の広告を見て、考えている。

Date: 5月 17th, 2017
Cate: audio wednesday

第77回audio wednesdayのお知らせ(THE DIALOGUE)

オーディオラボの「THE DIALOGUE」は、
ほんとうは5月のaudio wednesdayで、
アルゲリッチのチャイコフスキーのピアノ協奏曲とともに鳴らすつもりでいた。

ハイブリッド盤を注文していたけれど、届いたのはaudio wednesdayの二日後だった。
間にあわなかった。
なので、6月のaudio wednesdayは、「THE DIALOGUE」だけに的をしぼって音出しをしようと思う。

スピーカーのセッティングは、ここ数回はこれまでとは違うやり方をとっている。
今回は両方を試しながらも「THE DIALOGUE」を聴きながらのチューニングを予定している。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 5月 17th, 2017
Cate: ショウ雑感

2017年ショウ雑感(その7)

ダイヤトーンのブースで一曲目にかけられたのは、
ヨアヒム・キューンのBirthday Edition

このディスクの簡単な説明が、Dさんからあった。
どの出展社のブースでも、ディスクの説明はある。ないところもあるけれど。

ただ、その解説もとりあえずやっています、というところだと、
聞いているのが億劫になる。
そんなに長い時間でもないのに、早く音を聴かせてほしい、と思う。

そんなところが意外にも少なくないのだが、
もう少し、そのディスクとその音楽についての話を聞きたい、と思わせるところがある。

通り一遍の解説は聞きたくない。
なのに、そんなことをわざわざ話すところがある。

それから、こういうところもある。
このディスクの聴きどころはここで、
その部分がこういうふうに、これから聴かせる音は再生してくれます、といったところがある。

そういうところに限って、そんなふうには鳴ってくれなかったりする。
なのに話をした人は、いかにもそういう音が鳴ってくれたでしょう、という顔をしているし、
聴いている人の中にも、そうだった、という感じで頷いている人がいる。

けれどわかっているところは、そんなことはいわない。
聴きどころはいっても、そこがどういうふうに鳴るのかまではいわない。

オーディオショウでの音出しの前の、わずかな時間の話で、
次に鳴ってくる音はほぼ決ってしまうところがある。
話し方のうまいへたではない。

ダイヤトーンのDさんの話は、期待をもたせるものであった。

Date: 5月 17th, 2017
Cate: ディスク/ブック

ドン・ジョヴァンニ(カラヤン・その3)

浅里公三氏の「待った甲斐があった」の理由も、
まちがいなく黒田先生と同じ理由のはず。

ステレオサウンド 30号のモーツァルトの三大オペラのディスコグラフィをつくられたのは、
浅里公三氏なのだから。

評論家の書くものなど、読み価値がない、という意見もある。
評論家といってもさまざまだから、
そういいたくなる人がいるのは否定しない。

それでも真摯に評論という仕事を考えている人がいる。
そういう人が書くものは、何かに気づかせてくれる。

レコード(録音)の聴き手としての歴史を積み重ねてきた人と、
そうでない者との聴き方の差があるのは当然だ。

黒田先生、浅里公三氏が、
そういわれた理由に気づいたからといって──理由でもあり想いでもある──、
カラヤンのドン・ジョヴァンニを聴いての、私の中での評価が大きく違ってくるということはない。
そうなのだが、それでもその理由を知る前と後とでは、
カラヤンのドン・ジョヴァンニに対する聴き方だけでなく、
レコード(録音)された音楽に対する聴き方に変化が生じる。

このことは大事にしたい。
自分の耳への問いかけを忘れた聴き方はしないためにも。

Date: 5月 17th, 2017
Cate: ディスク/ブック

ドン・ジョヴァンニ(カラヤン・その2)

ステレオサウンドで働くということは、
仕事のあいまにステレオサウンドのバックナンバーを読める、ということでもある。
あくまでもあいまにだから、興味のある号から手にとることになる。

30号の特集は「最新プレーヤーシステム41機種のテストリポート」。
割りと早く読んだほうだが、記事のすべてをその時に読んでいたわけではなかった。
音楽ページは目を通しただけのところもあった。

しばらく見逃していた記事が、「ディスコグラフィへの招待」である。
30号ではモーツァルトの三大オペラで、
ここで黒田先生は「ディスコグラフィからみた三大オペラ」を担当されている。

そこに
《この曲に関して興味ぶかいのは、あのディスクエンサイクロペディストともいうべきカラヤンが、いまだにこの曲をレコードにしていないことだ》
とある。

モノーラル時代にフィガロの結婚、魔笛、コシ・ファン・トゥッテをEMIに録音している。
なのにドン・ジョヴァンニは録音していない。
黒田先生は、ベームも同じようなことがいえる、と書かれ、
ベームはフィガロの結婚、魔笛、コシ・ファン・トゥッテは二度ずつ録音している(1974年時点)のに、
ドン・ジョヴァンニは一回だけである、とも。

デッカがモーツァルト生誕二百年を記念しての全曲盤録音にしても、
フィガロの結婚はクライバー、コシ・ファン・トゥッテと魔笛はベーム、
ドン・ジョヴァンニはクリップスの起用に、《考えてみれば、おかしい》とされている。

確かにクリップスは、グレン・グールドはモーツァルト振りとして評価しているが、
世間一般には、クライバー、ベームと肩を並べる指揮者とはいえない。

なぜなのか。
黒田先生は、ドン・ジョヴァンニのレコード(録音)が少ないことの理由で、
ひとつだけわかっているのは、《歌い手をそろえにくいこと》と指摘されている。

詳しいことはステレオサウンド 30号を読んでいただくとして、
ここだけ引用しておこう。
     *
 大指揮者たちが、とかく「ドン・ジョヴァンニ」を敬遠しがちなのは、そういうことがあるからと思う。いかにカラヤンだろうと(いや、カラヤンだからこそ、といいなおすべきだろう)「ドン・ジョヴァンニ」に人をえなくては、「ドン・ジョヴァンニ」の全曲盤はつくらないだろうし、その理想的なドン・ジョヴァンニをえるのが、ひどくむずかしいとなれば、カラヤンとわずとも、二の足をふまざるをえないのかもしれぬ。
     *
ステレオサウンド 30号の黒田先生の文章を読んで、
カラヤンのドン・ジョヴァンニに、満を持して、と書かれた理由がやっとわかった。

Date: 5月 17th, 2017
Cate: ディスク/ブック

ドン・ジョヴァンニ(カラヤン・その1)

ステレオサウンド 75号から黒田先生の「ぼくのディスク日記」が始まった。
80号の「ぼくのディスク日記」は、それまでとは少し違う、と感じられる一文があった。
     *
 ディスク日記にカセットテープを登場させるのもどうかと思い、一瞬ためらったが、ディスクがないのであるから、やむをえない。しかも、このカセットテープは、「ノット・フォー・セール」である。これもまた、ハンブルクのポリドール・インターナショナルにいる友だちからの、もらいものである。なんだか、今回の「ディスク日記」はもらいものばかりでまかなっているようで、いささか気がひける。
 これは、「プレゼンテイション86」という、ドイツ・グラモフォンが宣伝用につくったカセットテープである(ドイツ・グラモフォン 419548・4)。ここには、近々ドイツ・グラモフォンやアルヒーフで発売になるはずのディスクに収録されている演奏の抜粋が、おさめられている。どのようなものがそこに入っているかというと、カラヤンの最初のレコーディング(!)である「ドン・ジョヴァンニ」の一部とか、バーンスタインの、ニューヨーク・フィルハーモニーを指揮してのマーラーの第七交響曲や、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団を指揮しての同じマーラーの第九交響曲の一部などである。
 書いておきたいのは、カラヤンの「ドン・ジョヴァンニ」についてである。そこでは、序曲と、「カタログの歌」の後の合唱のナンバー、それにドン・ジョヴァンニのセレナーデだけしかきけないが、期待をかりたてられずにいられないような演奏である。ようやくのことでカラヤンによって録音された「ドン・ジョヴァンニ」を、一刻も早くきいてみたいと、首を長くしている。
     *
カラヤンのドン・ジョヴァンニは1985年に録音され、
1986年に発売になった。

黒田先生は別のところで、「満を持して録音」といった表現を使われていた、と記憶している。
それまで黒田先生の書かれるものを読んできた者は、
黒田先生をが昂奮を抑えきれずにいられることを感じとれたはずだ。

1986年は私は23。
ドン・ジョヴァンニをそれほど聴いていたとはいえない。
持っていたのはフルトヴェングラーのだけだった。
ジュリーニ、クリップス、ベームは、部分的には聴いたことがあっても持っていなかった。

そんなところにいた聴き手だったから、
黒田先生のなぜそこまで昂奮されているのかを、よく理解できていたとはいえなかった。

浅里公三氏も、待った甲斐があった、といったことを書かれていた。
もちろん買った。聴いた。

でも黒田先生、浅里公三氏のようにいくつものドン・ジョヴァンニを聴いてきたわけではない。
そんな未熟な聴き手は、カラヤンのドン・ジョヴァンニのすごさを、
その時点でどこまで感じとれていたかははなはたあやしい。

だから「それにしても……」というところがかすかに残った。
それが消え去ったのは、もう少し先だった。

Date: 5月 16th, 2017
Cate: ディスク/ブック

フィガロの結婚(クライバー・その1)

いまではクライバーと書けば、カルロス・クライバーを指す、といってもいい。
私も世代としてはカルロス・クライバーの方である。

カルロス・クライバーは、コンサートで聴くことができたが、
エーリッヒ・クライバーは1956年に亡くなっているから、
エーリッヒ・クライバーを聴く(聴いた)ということは、
1963年生れの私にとっては、残された録音を聴くということになる。

エーリッヒ・クライバーのレコードよりも、カルロス・クライバーのレコードを先に聴いていた。
ベートーヴェンの五番、七番、ブラームスの四番、
魔弾の射手、椿姫、こうもりなどは、
エーリッヒ・クライバーの演奏を聴く前にカルロス・クライバーの演奏(レコード)で聴いている。

それでも私のなかでは、エーリッヒ・クライバーの存在は大きい。

黒田先生が「音楽への礼状」で書かれている。
     *
 つい先頃、はじめて指揮をなさったメトロポリタン歌劇場でも、あなたは、ボエームをとりあげましたね。そしてこの秋の日本でも、「ボエーム」です。そのことについて、不満のあるはずもありません。あなたの「ボエーム」は絶品です。何度でもききたい。しかし、ききてのききたがる作品だけをくりかえし演奏していることによって、あなたは、あなたの意識しないところで、ブランド化している。その結果、あなたは、阿呆のグルーピーを育てています。
 あなたは、あなたのお父上、エーリッヒ・クライバーが、今から六十年以上も前の一九二五年に、ベルリン国立歌劇場で、ベルクのオペラ「ヴォツェック」を上演するために百二十八回ものリリハーサルをおこなったことを、どのようにお考えでしょうか? 一九二五年のききてにとって、あのベルクの「ヴォツェック」の音楽がどのようにきこえたか、これは想像にあまりあります。しかし、あなたのお父上は、聴衆の熱狂が期待できるはずもないことを、やってのけた。
     *
エーリッヒ・クライバーは、ブランド化することはなかった。
時代が違う、といえばそれまでだが、
たとえ時代が同じであったとしても、ブランド化したとは思えない。

そういうエーリッヒ・クライバーの残したフィガロの結婚が、
タワーレコードからSACDで出ている。

エーリッヒ・クライバーのフィガロの結婚は、1955年の録音にも関わらず、
ステレオで残っている。
ワンポイントマイクで録られている。

最初はモノーラルLPで登場した、と聴いている。
ステレオディスクの規格が45/45方式に正式に一本化され、
ステレオLPとして登場した。

再生機器の進歩が、この録音を色褪ない。
録音だけではない。
     *
 クライバーの演奏も軽みや弾みのあるものではないが、クレンペラーの演奏にきかれるような重みからは、遠い。これは世間でよくいわれるウィーン風な演奏の典型といってもいいものだ。音楽の流れは、大変にしなやかで、ソロをとる楽器のねいろはいとも芳しい。情緒ゆたかな演奏だが、クライバーはそれにおし流される一歩手前でふみとどまっている。そのクライバーの節度が、この決して新しいとはいえないレコードをふけこませないでいるようだ。
(ステレオサウンド 30号「ディスコグラフィからみた三大オペラ」より)
     *
録音もそうだ、節度あるからこそ、色褪ないでいられる。

Date: 5月 16th, 2017
Cate: カタログ, ジャーナリズム

カタログ誌(その3)

カタログとカタログ誌は、同じとはいえない。
カタログ誌ときいて、どういうものを思い浮べるかによって、
同じではないか、という人もいようが、私はカタログとカタログ誌ははっきりと分けている。

HI-FI STEREO GUIDEは、まずジャンルごとに分けられている。
スピーカーシステム、フルレンジユニット、トゥイーター、スコーカー、ドライバー、ホーン、
ウーファー、エンクロージュア/ネットワーク、
アンプもプリメインアンプ、コントロールアンプ、パワーアンプ、レシーバー、チューナー、
グラフィックイコライザー、エレクトリッククロスオーバーなど、といったようにである。
さらにブランド別、価格順で掲載されている。

途中から新製品には☆、製造中止の製品には★がつくようになった。

カタログではなくカタログ誌に近い存在といえるのが、
ディスコグラフィ(discography)であるが、
ディスコグラフィとカタログ誌も違う面がある。

私はクラシックを主に聴くために、
ここでのディスコグラフィとは、あくまでもクラシックにおけるディスコグラフィのことである。

ステレオサウンドでは、30号から「ディスコグラフィへの招待」という記事が始まった。
30号ではモーツァルトの三大オペラ(フィガロの結婚、ドン・ジョヴァンニ、魔笛)、
31号ではマーラーの交響曲、32号ではブラームスの交響曲、33号ではカール・ベーム、
35号は小沢征爾、36号はウラディミール・ホロヴィッツ、38号はゲオルグ・ショルティと続いた。

すべてのディスコグラフィは浅里公三氏による。

黒田先生は、31号で、
《もしディスコロジストという言葉がありうるなら、ぼくの知るかぎり日本におけるもっともすぐれたディスコロジストである浅里公三氏によってつくられた》
と書かれている。

Date: 5月 16th, 2017
Cate: カタログ, ジャーナリズム

カタログ誌(その2)

カタログ誌。
オーディオの世界では、
ステレオサウンドが半年ごとに発行していたHI-FI STEREO GUIDEがよく知られている。

ステレオサウンド本誌よりも高くて、
中学生のころは、その数百円の差がけっこう大きくて毎号は買えなかった。

いつのころからか、
ステレオサウンドをカタログ誌になってしまった……という批判を耳にするようになった。
そういいたくなる気持はわかっても、
カタログ誌には、そういった悪い意味もあるけれど、
HI-FI STEREO GUIDEはきちんとしたカタログ誌であり、いいかげんな編集ではなかった。

とにかくすべてを網羅する。
それがカタログ誌でもっとも重要とされることである。
カタログ誌が、これは載せないなどをやっていてはカタログ誌たりえない。

網羅されることで気づくことは、意外にある。
私が買ったHI-FI STEREO GUIDEは、’76-’77年度だった。
ステレオサウンドで働くようになって、それ以前のHI-FI STEREO GUIDEを見ていた。

’74-’75年度版、これが最初の号である。
’74-’75年度版を眺めていると、
この製品とあの製品は、同じ時代に現行製品だったのか、と驚く。

マークレビンソンのLNP2はもう登場していた。
LNP2が載っているページの隣には、
アルファベット順だからマッキントッシュが掲載されている。

当時のマッキントッシュのラインナップは、
C26、C28の他にチューナー付きのMX115があり、
管球式のC22も、まだ現行製品として残っている。

パワーアンプのMC275も、チューナーのMR71も、この時はまだ現行製品だった。

スピーカーでも、ジェンセンのG610B。
私は、この同軸型3ウェイユニットの存在を、ステレオサウンド 50号(1979年春号)で知った。
その時はずっと以前に製造中止になっていたユニットだと思っていた。

でも’74-’75年度版では、まだ現行製品である。
JBLからは4350、4341といった4ウェイのスタジオモニターが発売されていた。

オーディオ機器にも、世代といえるものがある。
その世代が切り替るのを認識するうえでも、カタログ誌は重宝するし必要である。

Date: 5月 16th, 2017
Cate: 型番

ヤマハの型番(続々続・Cの意味)

1970年代までのヤマハのオーディオ機器の型番。
プリメインアンプはCA、チューナーはCT、レシーバーはCRから始まっていた。
この「C」は何を意味しているのか。

コンポーネント(component)であろう、と前回書いた。

ただそれでも、セパレートアンプにはCはついていない。
セパレートアンプもコンポーネントであるにも関わらず。
このことが、少しだけひっかかっていた。

けれど、やっぱりCはcomponentでは間違いないだろう。
というのも、ヤマハのセパレートアンプのスタートとなったパワーアンプのBI。
最初の型番はCB7000となっていた。

HI-FI STEREO GUIDE’74-’75年度版を持っている人は、
パワーアンプのところを見ていただきたい。
パワーアンプの最後のところ、追録でいくつかのアンプが載っている。

そこにヤマハCB-7000が載っている。
価格は335,000円。BIと同じであり、写真もそうだ。
スペックも基本的には同じである。

どういう理由でCB7000からBIに変ったのかまではわからないが、
推測するにペアとなるコントロールアンプCIの型番がそうではないだろうか。

CB7000の型番で登場していたなら、コントロールアンプはCC7000となっていたはず。
Cがふたつ続く。そういうことではないのか。

Date: 5月 15th, 2017
Cate: 提言

いま、そしてこれから語るべきこと(その13)

原一男氏が12日の謝罪で、何を語ったのか。
原一男、謝罪で検索すれば、いくつかのニュースサイトが表示される。

謝罪のすべてが読めるわけではない。
あくまでも一部分だけがニュースになっている。

それを読む限りでは、やはり原一男氏にあるのは無情だ、と思った。
無情があるという言い方も変とは思いつつも、やはりそう思った。

ドキュメンタリー映画は、いわば記録である。
なぜ、ドキュメンタリー映画を撮るのか(残すのか)。

10年後、20年後、さらには50年後、100年後、
そのドキュメンタリー映画(記録)が、未来の人たちはどう観るのか(感じるのか、考えるのか)。

原一男氏に、そこまで想像力はあるのだろうか、と考えてしまう。
無情と書いたのは、想像力がない、という意味も含めてであり、
そこが非情と無情の決定的な違いと考えている。

Date: 5月 15th, 2017
Cate: 再生音, 快感か幸福か

必要とされる音(その4)

四年前の2013年、ヴァイタヴォックスのスピーカーがふたたび輸入されるようになった。
その時点では情報がほとんどなくて、なぜ? いまになって、と思った。

その後の情報では、イギリスのOctave Audio Woodworkingが、
ヴァイタヴォックスのコンシューマー用部門を買収して、ということだった。

オクターヴ(Octave)といえば、ドイツの真空管アンプメーカーのオクターヴがよく知られているが、
何の関係もなさそうである。

Octave Audio Woodworkingは、
十数年前から、タンノイのオートグラフとGRFのエンクロージュアを復刻している。
復刻にあたっては、元タンノイの一員であったテレンス・リビングストンが監修している。

このOctave Audio Woodworkingが、ヴァイタヴォックスのHi-Fiスピーカー、
つまりコンシューマーオーディオ用スピーカーを復刻(復活)させた。

Octave Audio Woodworkingはタンノイの次に、
ヴァイタヴォックスを選択したわけである。

ここがなんとも日本的とでもいおうか、
五味先生のタンノイがあり、
五味先生のオーディオ巡礼に登場されるH氏のヴァイタヴォックスがある。
その系譜を、五味先生の文章を読んできた者にとって、
親近感に似た感情を、Octave Audio Woodworkingに対しおぼえる。

Date: 5月 14th, 2017
Cate: ショウ雑感

2017年ショウ雑感(その6)

今年で平成も29年。
つまり平成元年に新卒で社会人になった人たちもすでに50をすぎている。
おじさんといわれる年代になっている。

私も54なので、おじさん世代であるし、
インターナショナルオーディオショウ、OTOTENに来る人、
オーディオ業界の関係者の多くもそうである。

その3)で、
エレベーターに乗っていた老夫婦の「じいさんとおばあさんばかりだよ」の会話は、
だから外れてはいないといえるわけだが、
じいさんはいいすぎとしてもおじさんといいかえても、
平成のおじさんと昭和のおじさんに、なんとなくわけられそうな気はする。

おじさんというひと括りはできないわけで、
あくまでも個人的見解にすぎないのだが、
来場者には昭和のおじさん、出展社のスタッフは平成のおじさんの比率が高いような気もする。

ダイヤトーンのデモをやっていた人(Dさんとしておこう)は、
ひさしぶりの昭和のおじさんだった。
私がステレオサウンドにいたのは昭和だ。

ステレオサウンドに入ったばかりのころ、
メーカー、輸入元には、濃い人がいた。
クセが強いともいえるし、アクが強いともいえる面のある人たちで、
そのころは後数年で元号がかわるなんておもいもしていなかったら、
昭和のおじさんという見方はしなかったけど、いま思えば、彼は昭和のおじさんだった。

Dさんからも、その人たちは同じ匂いがするのだ。
Dさんがいくつなのかは知らない。
ただアナログディスクをかけたときに、
「老眼が進んで……、頭出しが……」と言われていたから私とそう変らないと思う。

だから、私がステレオサウンド時代に昭和のおじさんと感じた人たちよりも、
世代的には一世代以上若いのだろう。
それでも同じ匂いがある。

Date: 5月 14th, 2017
Cate: マッスルオーディオ

muscle audio Boot Camp(その13)

その12)に、
スピーカーのインピーダンスをアンプの出力インピーダンスで割った値がダンピングファクターだから、
ダンピングファクターが高いということは、アンプの出力インピーダンスが低いということである、
と書いた。

昔のオーディオの教科書にはそう書いてあるし、
いまでも、おそらくそう説明されている、と思う。

間違っているわけではない。
ただこれだけでは不十分なのだ。

スピーカーシステムがもつ直流抵抗分が抜けた状態でのダンピングファクターであるからだ。
実は、このことはずいぶん昔からJBLのエンジニアが指摘していたことであるにも関わらず、
なぜか、ほとんどのオーディオの教科書には載っていない。

スピーカーユニットにはボイスコイルがあり、
ボイスコイルは細い線で巻かれていることもあって、
たいていの場合、ユニットの公称インピーダンスが8Ωであれば、
60から70%の値の直流抵抗(4.8Ωから5.6Ω程度)をもつわけだ。

この直流抵抗分は、スピーカーユニットから見れば、
アンプの出力インピーダンスに加算されたかっこうとなる。

公称インピーダンスが8Ω、直流抵抗が6Ωのユニットだとしよう。
アンプの出力インピーダンスが8Ωであれば、
アンプのダンピングファクターとして発表される値は1であり、
直流抵抗を含めての実効ダンピングファクターは0.57となる。

アンプの出力インピーダンスが1Ωであれば、8と1.14、2Ωでは4と1、
0.5Ωでは16と1.23、0.1Ωでは80と1.31、0.05Ωでは160と1.32……、というふうになる。

アンプの出力インピーダンスが低ければ低いほど、
カタログに載るダンピングファクターは100、200、さらには1000という値にもなるが、
そこにユニットの直流抵抗を加算して、実効ダンピングファクターを計算してみると、
大きな違いではないことになる。

しかも実際のスピーカーシステムではアンプとユニットのあいだに、
LCネットワークが介在する。

Date: 5月 14th, 2017
Cate: ショウ雑感

2017年ショウ雑感(その5)

ダイヤトーンが新製品を出す、ということは事前に知っていた。
とはいえ写真を見た感じでは、積極的に聴きたい、とは思わなかった。

それでも昼には満員で入ろうとは思わなかったブースが、
たまたま空いているのであれば気は変る。

ブースに入って、まず気づくのは、
アンプが、こういうショウではあまりみかけないブランド、ザンデン

勝手な推測だが、ダイヤトーンは同じシステムで、社内での試聴を行っているのだろう。
だとしたら、面白いかもしれない、と期待しはじめていた。

空いていた、と書いたが、数分もすれば、次々に人が入ってくる。
テクニクスの顔といえる小川理子氏も入ってこられた。
こうやってすべてのブースをまわって、音を聴かれたのだろうか。

立っている人もいるくらいになったため、
18時スタートの前に、デモが始った。

この人がやるんだろうな、と思っていた人が、話を始めていく。
この人が、ザンデンのアンプを選択したのだろうか。
そんな気がする。

というのも、この人の話はおもしろい。
そのおもしろさとは、かけるディスクにおさめられている音楽が、
ほんとうに好きなんだろうな、ということが伝わってくるからだ。

どのブースでも、音楽が鳴っている。
けれど、かけておけばいいんでしょう的なところがないわけではない。

なぜ、この曲(ディスク))をかけるのか、と問いたくなることも少なくない。
開発に携わっている人が、聴きたいと思っている曲(ディスク)をかけてくれるのが、
こういう場での音の判断には、そこで鳴っていた音以上に役に立つ、ともいえる。

前々から、インターナショナルオーディオショウでも気になっていることだが、
「次はこのディスクを鳴らしたいと思います」「かけたいと思います」という人がいる。

なぜ「このディスクを鳴らします」「かけます」ではないのか。
「思います」とつけるのか。

「思います」とつける担当者がいるところの音は冴えない。