Archive for 1月, 2017

Date: 1月 25th, 2017
Cate: ステレオサウンド特集

「いい音を身近に」(その22)

瀬川先生はパイオニアのExclusive M4のあとに、
SAEのMark2500に、パワーアンプを交換されている。

Mark2500は、ウォームアップに時間のかかるアンプでもあった。
電源をいれておくだけではだめで、信号をいれて鳴らしはじめて三時間ほどすると、
本領発揮といえる音を聴かせる。

Exclusive M4は、そのへんはどうだったのだろうか。
Exclusive M4を聴いたことはある。
オーディオ店で、瀬川先生が来られた時で、
アンプの電源はすでに入れられていて、そういうことを確かめることはできなかった。

Exclusive M4はステレオサウンドの試聴室で聴くことはなかった。
すでにExclusive M4aになっていた。

Exclusive M4aは、回路的にはM4と同じで、
他社製アンプがDCアンプ化される中で、ACアンプのままだった。
改良点は、使用部品の変更だけのはすだ。

Exclusive M4aがウォームアップに時間のかかるアンプという印象はない。
特別に早いという印象もないが、遅くもなかったはずだ。

Exclusive M4も同じのはずだ。
そういうExclusive M4だったから、
《どんなに多忙な日でも、家にいるかぎりほんの十数分でもこの音を聴くことが、毎日楽しくてしかたない》
と書かれたのかもしれない。

レコード芸術1976年1月号の時点で、SAEのMark2500になっていたら……。
どうだったろうか。

あまり時間がとれない。
それでも音を聴きたい。
そうまでして聴きたい音だから、いい音でなくては困る。

なのに鳴らしはじめて三時間経たなければ……、というアンプでは、どうだろうか。
ほんの十数分のために、三時間ほど鳴らしておかなければならないのだとしたら、
《どんなに多忙な日でも、家にいるかぎりほんの十数分でもこの音を聴くことが、毎日楽しくてしかたない》、
この部分はなかったかもしれない。

Date: 1月 25th, 2017
Cate: 岩崎千明

想像つかないこともある、ということ(その9)

井上先生も2000年12月に亡くなられているから、もう確かめようはないが、
1977年以降のステレオサウンド別冊での組合せ例は、
岩崎先生の不在によって、大きくあいてしまった「空間」を、なんとかしようとされていたようにも、
いまになって思うのだ。

もっと早くに気づいていれば、直接井上先生に訊けたけれど、
でも井上先生のことだから、そうであったとしても、「そうだよ」とは言われなかっただろう。

若いうちは、こんなことはまったく想像できなかった。
けれど、いまはそうかもしれない、と気づく。

だから、あとどのくらいなのかはわからないが、
生きていれば、岩崎先生の音量についても、想像できるようになるかもしれない。

ステレオサウンド 130号の「レコード演奏家訪問」で、
菅野先生は上杉先生のリスニングルームを訪問されている。
記事の終りにある「訪問を終えて」に、こうある。
     *
たとえば、いまは亡き岩崎千明君の音に、僕はうまれてはじめて目から火が出る体験をいたしました。しかし、あの凄まじい大音量再生の攻撃的世界からも、デリカシーとしなやかさはじゅうぶんに感じとれたわけですね。世界には、森も草原も砂漠も海もあります。上杉さんは、おだやかな草原に、岩崎君は、嵐の海に生きられても、それぞれの世界に、優しさもあれば荒々しさもあることを汲み取っていただき、訪問記を読んでほしいものだと思います。
     *
「訪問を終えて」は菅野先生の書き原稿ではなく、話されたことを編集部の誰かかがまとめたものだろう。
些細なことだが、ひっかるところがある。
岩崎千明君、となっているところだ。

上杉先生のことはさん付けで呼ばれている。
なのに岩崎先生のことは君付けである。

菅野先生より上杉先生は若い。
岩崎先生は菅野先生よりも四つ上である。

菅野先生から岩崎先生の話は何度か聞いている。
菅野先生は岩崎さん、とたいていはそう呼ばれていたし、
時折、千明さん、でもあった。

千明さんは、ちあきさん、ではなく、せんめいさんである。

補足しておく。
岩崎千明は「いわさきちあき」である。
千明を「せんめい」と読んでいたのは、
岩崎先生と親しかった方たちである。

Date: 1月 24th, 2017
Cate: サイズ
1 msg

サイズ考(LPとCD・その3)

私にとって、大口径といえる(思える)サイズといえば、
なんといっても38cm(15インチ)以上のウーファーになる。

30cmだと大口径とは感じないのは、
それはLPと同じサイズだからのような気がする。

いいかえれば38cm以上を大口径と認識してしまうのは、
LPよりも明らかに大きいからである。

少なくとも私にとって、オーディオのサイズに関しては、
LPの直径が深く関係しているようだ。

仮に他の人もそうだとしよう。
私と同世代、上の世代はLPが基準となるが、
その下の世代で、音楽を自発的に聴きはじめたころはすでにCDだった、という人たちにとっては、
CDの直径、12cmが基準となるであろう。

とすればその世代の人たちにとっては、
15cm口径のウーファーから大口径となるのかもしれない。

38cm口径からを大口径と感じる世代と、
15cm口径からを大口径と感じる世代とでは、サイズ感は大きく違ってくる。

CDよりも小さな記録媒体。
ミニディスクではなくて、iPodやiPhoneが記録媒体、
さらにはインターネット上のクラウドともなると、もうサイズという概念はなくなる。
容量という概念すら消えてしまうだろう。

そうなってくると、もう10cm口径ですら大口径ということになるのだろうか。

人間のサイズに対しての感覚の形成について、
専門的なことは何も知らないし、何も調べていない。
ただ自分の感覚で書いているだけだから、まったく見当違いかもしれないとは思いつつも、
ヘッドフォンからスピーカーへと、オーディオの世界を拡げていく人が意外に少ないのは、
このあたりのことも関係しているのではないだろうか。

Date: 1月 24th, 2017
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(映画性というだろうか・その9)

液晶ディスプレイの大きなサイズが困難だった時代には、
複数の液晶ディスプレイを複数配置して、ひとつの大画面にしていた。

いまでは70インチ、80インチの液晶ディスプレイが製品化されているし、
100インチ超のサイズでも製造は可能になっている。

以前は100インチといえば、スクリーンに頼るしかなかったのが、
いまでは液晶ディスプレイでカバーできるサイズとなってしまった。

100インチのスクリーンと100インチの液晶ディスプレイ。
家庭で映画を観るのに適しているのは、どちらだろうか。

昔、東京には多くの名画座があった。
けっこう大きなスクリーンの名画座もあれば、かなり小さなスクリーンのところもあった。
もう記憶があやふやだが、こんなに小さいの? と思った映画館もあって、
それこそ100インチくらいのサイズだったろうか。

仮に100インチ程度の表示だったとしたら、
液晶ディスプレイの100インチの方が、部屋を暗くしないでも見られるし、
暗くしても見られるのだから、便利で手軽ということになる。

100インチのサイズで家庭で映画を観るのに、
価格を無視した場合、どちらを選ぶのか、液晶ディスプレイかスクリーンか。

この選択は、オーディオに通ずる。

Date: 1月 24th, 2017
Cate: サイズ

サイズ考(LPとCD・その2)

ステレオサウンドにいた時に、富士通のワープロが導入された。
OASIS 100Fというモデルだった。
5インチのフロッピーディスクがシステムディスクであり、記録メディアだった。
ずいぶん昔の話だ。

Macを使ったDTPの仕事を一時期していた時、
光磁気ディスクはバックアップ用にもデータの受け渡し用にも必要だった。
受け渡し用には3.5インチだったが、バックアップ用には容量の関係で5.25インチだった。

3.5インチのディスクも、私が使っていたころの容量は128MBだった。
その後、容量は増えていっている。

情報密度は増していき、記録媒体のサイズは小さくなる。

LPとCDは直径では半分以下であり、
面積的には1/4以下である。

その後、ミニディスクが登場し、音質面はともかくとして、サイズはさらに小さくなった。

プログラムソースといえばLPという時代にオーディオの世界に踏み込んだ者のサイズ感と、
CD以降の世代のサイズ感とでは、ずいぶんと違うのかもしれない。

LPでは直径30cmのディスクだったから、
アナログプレーヤーの大きさはそれなりのサイズになり、
アンプもスピーカーも、それなりの大きさであっても、バランスがとれていた。

けれどCDは12cmの直径である。
LPとCDのサイズの違いだけからすれば、
それまでの感覚でバランスがとれていたと感じていたアンプやスピーカーは、
すでに大きすぎなのかもしれない──。
そう考える世代がいても不思議ではないのかもしれない。

そう考えると、ヘッドフォンのみで、スピーカーで音楽を聴かない、
もしくは大型スピーカーを毛嫌いする人たちが増えていると聞くのも、
むしろ当り前なことなのかもしれない。

CD、ミニディスク……、いまではもっとサイズは小さくなっているといえるのだから。

Date: 1月 24th, 2017
Cate: ESL, QUAD

QUAD・ESLについて(その3・その後)

その3)を書いたのは2008年11月だから、八年ほど前。
いまも押入れで、QUADのESL63Proが眠ったままだ。

ダイアフラムの全交換が必要な状態であるからだ。
このESL63Proは、小林悟朗さんが鳴らされていたモノだ。
いつか修理して……、と思いながらも、けっこう経ってしまった。

(その3)で書いているように、
振動板(膜)をチタンの薄膜に交換したいと考えている。

しなやかな金属箔があれば、可能性はある。
ジャーマン・フィジックスのDDD型ユニットを見た時(触れた時)から、
純チタンの薄膜ならば、コンデンサー型スピーカーの振動板に使えるという確信があった。

けれどインターネットであれこれ検索してみても、
使えそうなチタンは見つけられなかった。

でも時間はずいぶん経っている。
ひさしぶりに検索してみると、使えそうなチタン箔がいくつかある。

ESL63Proの修理(改造)が現実味を帯びてきた。

Date: 1月 23rd, 2017
Cate: オーディオのプロフェッショナル

オーディオのプロフェッショナルの条件(その1)

オーディオのプロフェッショナルの条件として挙げられるのは、
資本主義の日本だから、オーディオで稼いでいる、ということがいえる。

オーディオ業界で仕事をしている人ならば、オーディオのプロフェッショナルといえる。
メーカーに勤務している人、輸入商社に勤めている人、
オーディオ店の店員、オーディオ雑誌の編集者、
それにオーディオ雑誌に書いている人たちは、オーディオのプロフェッショナルということになる。

個人でブログを公開していて、
アフィリエイトで何らかの収入を得ている人も、オーディオのプロフェッショナルといえるだろう。
ジャズ喫茶、名曲喫茶の店主も、その意味ではオーディオのプロフェッショナルということになる。

こう考えると、日本だけでも、けっこうな数のオーディオのプロフェッショナルがいるということになる。
少なからぬオーディオのプロフェッショナルがいるわけだが、
これがオーディオのプロフェッショナルの条件とは、まったく思っていない。

オーディオ店のスタッフで、売上げをどんなにあげていようと、
それはモノを売ることに長けているのであって、
オーディオのプロフェッショナルであるかというのと、別の話である。

オーディオ業界にいて、収入を得ている。
それはオーディオで稼いでいるわけだが、
オーディオのプロフェッショナルとして稼いでいるとは限らない。

売ることに長けているのと同じように、別のことが得意であれば、
オーディオで稼ぐことはできる。

Date: 1月 22nd, 2017
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その12)

ほとんどのオーディオマニアが、使いこなしが大事だ、という。
だが、この使いこなしとは、どういうことなのか。

私は、オーディオには三つのingがある、といっている。
セッティング(setting)、チューニング(tuning)、エージング(aging)の三つであり、
私は使いこなしという言葉には、この三つを含めての意味で使っている。

使いこなしをどう定義するのかは人それぞれであっていいわけだが、
ただぼんやりと使いこなしという言葉だけを使っている人もいる。

そういう人は、セッティングとチューニングを一緒くたに考えがちのようだし、
さらにはエージングに関しても、どこか的を外しているとしか思えないこともある。

それでも多くのオーディオマニアが、使いこなしが大事、という。
いまはこういうことを書いている私も、
もしステレオサウンドで働くことがなかったら、使いこなしをどう考えていただろうか、と思う。

私が前回、恵まれていた、と書いたのは、ここである。
私はステレオサウンドの試聴室で、使いこなしを学ぶことができた。

特に井上先生は、はっきりと言葉にされたわけではないが、
セッティングとチューニングについて、学ぶ機会を与えてくれた。
考えるきっかけを与えてくれた、ともいえる。

教えてくれた、とは書かない。
あくまでも学ぶ機会を与えてくれたのであって、
そこで学べるかどうかは、こちら側の問題である。

井上先生の使いこなしは、いくつもの亜流を生んだ。
その亜流に接した人はそこそこいよう。

でも、それはあくまでも亜流であって、井上先生の使いこなしではない。
にも関わらず、一時期、井上メソッドなる言葉まで一部では流行っていた。

どこが流行元というか発信元なのかは知っている。
それが亜流なのも知っている。

でも、井上先生の使いこなしを見て聴いている人であっても、
亜流を亜流とは思っていないのだから、
まして見たことも聴いたこともない人は、亜流を井上先生の使いこなしと信じてしまうようだ。

Date: 1月 21st, 2017
Cate: 基本, 音楽の理解

それぞれのインテリジェンス(その3)

ベートーヴェンの音楽を理解したいがためのオーディオという行為。
これが私にとっての、40年目のオーディオである。

その2)を書いて気づいたことがある。
ステレオサウンド 56号に、安岡章太郎氏による「オーディオ巡礼」の書評がある。
最後に、こうある。
     *
 しかし、五味は、最後には再生装置のことなどに心を患わすこともなくなったらしい。五味の良き友人であるS君はいっている。死ぬ半年まえから、五味さんは本当に音楽だけを愉しんでましたよ。ベッドに寝たままヘッド・フォンで、『マタイ受難曲』や『平均律』や、モーツァルトの『レクイエム』をきいて心から幸せそうでしたよ」
     *
ステレオサウンド 55号の原田勲氏の編集後記には、こうある。
     *
 オーディオの〝美〟について多くの愛好家に示唆を与えつづけられた先生が、最後にお聴きになったレコードは、ケンプの弾くベートーヴェンの一一一番だった。
     *
このときの入院では、テクニクスのアナログプレーヤーSL10とカシーバーSA-C02、
それにAKGのヘッドフォンを病室に持ち込まれていた。

EMTの930st、マッキントッシュのC22とMC275、
それにタンノイのオートグラフ。
五味先生の、このシステムからすれば、ずっと小型なシステムで最後は聴かれていた。

五味先生は
《私は多分、五十八歳まで寿命があるはずと、自分の観相学で判じているが、こればかりはあてにならない。》
と書かれていた。
58歳で肺ガンのため死去されている。

病状はひどくなる入院生活で、死期を悟られていたからこそ、
再生装置のことなどに心を患わすことなく音楽を愉しまれた──、
そう受けとめていた。

でも、そればかりではないような気が、ここにきて、している。
ベートーヴェンの音楽への理解にたどりつかれていたからではないだろうか、とも思えるのだ。

ベートーヴェンの音楽だけにとどまらない。
五味先生が生涯を通じて聴き続けてこられ、
聴き込むことで名盤としてこられた音楽、
マタイ受難曲、平均律クラヴィーア、レクイエムなどの深い理解にたどりつかれたからこそ、
再生装置に心を患わすことなく、というところに行かれたのだとすれば、
それは五味先生のネクスト・インテリジェンスなのだろうか。

Date: 1月 21st, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(It’s a Sony・その3)

お詫びと訂正。

その1)でIt’s a Sony展でのH型テープレコーダーのリールの取りつけ方が間違っている、と書いた。
けれど現在の展示は正しい取りつけ方だということがわかった。

通常のオープンリールデッキのリールの回転は反時計回りである。
このことが頭にあったので、取りつけ方が間違っていると思ってしまった。
けれどH型テープレコーダーは、左側のリールは通常と同じ反時計回り、
右側のリールは時計回りという設計だそうだ。

つまり右側(巻き取り)側のリールには、
磁性粉が塗布されている面が外側にくるようにテープが巻かれる。
実はもしかすると時計回り? と一瞬思ったが、そうすると通常とは反対の巻き方になる。
そのままでは次の再生には使えない。
だから時計回りという可能性を、何も確認せずに排除して(その1)を書いてしまった。

ここにお詫びと訂正をしておく。

ただ11月にIt’s a Sony展が始まった時点では、
左右のリールともテープが巻かれている状態で、間違った状態での展示だったことも確認できた。
誰からの指摘があったのだろう、いまは正しい展示になっている。

それにしてもH型テープレコーダーは、なぜ右側のリールを通商とは逆の回転にしたのだろうか。
H型テープレコーダーで再生したら、巻き戻さなければならない。
使い手にそういう手間をかけさせても、技術的な、何からのメリットがあったからこそ、
ソニーは右側のリールを逆に回転させたのだろう。

結果として(その1)で間違ったことを書いてしまい、
その点は反省しているが、
でも書いたことによってH型テープレコーダーの特徴を知ることができた、ともいえる。

同時に(その1)を書いた二日後にKK適塾の三回目があったこともあり、
「安」という漢字と、ここでのテーマで世代について考えることもできた。

Date: 1月 20th, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(It’s a Sony・その2)

きくところによるとIt’s a Sony展でのH型テープレコーダーの展示は、
いまはまだいいほうらしい。
It’s a Sony展が始まったばかりのころは、
巻き取り側リールにもテープがいっぱいに巻かれていたそうだ。

つまり左右ふたつのリールともテープがいっぱいに巻かれていた状態だったらしい。
これはあくまでもきいた話で確認をしたわけではない。
もしかした間違っているかもしれない。

でも仮にそんな展示をしていたとしたら、いまの展示は誰かからの指摘があって、
あるところまでは正した、ということだろう。
それでも、あの状態なのか。

こんなことをねちねちと書いているのは、ソニーが憾みがあってことではない。
今回はたまたまソニーだった、というだけのことだ。

他のオーディオメーカーが、It’s a Sony展のようなことをやったとき、
似たようなミスをやらかさないと自信をもっていえるだろうか。

十年ほど前か、あるオーディオ関係者から聞いている。
古くからのオーディオ・ブランドが、いわゆる投資会社に買収された。
海外のメーカーで、誰もが知っているブランドである。

それまでは新製品の発表や、日本でのオーディオショウの際に来日するスタッフは、
自社製品のことを、そして自社の歴史のこともきちんとわかっている人ばかりだった。
だから古いモデルの、こまかなことを質問してもきちんとした答えが返ってきたそうだ。

それが買収されてからは、来日するのは買収先から派遣されている人ばかりで、
彼らは会社の規模や業績といった、
経済誌が記事にするようなことはことこまかに説明してくれても、
こちらが訊きたいこと、つまりオーディオ詩が記事にしたいことはまったく知らないそうだ。
製品のこと、歴史のことは知らない。せいぜいが新製品についてだけだそうだ。

どこかに買収されたからといって、すべてがこうなるとは限らない。
でもそうなる可能性はある。
買収されなくとも、世代が変っていくごとに失われていく何かがあるのだろう。

今日のKK適塾の三回目で、川崎先生が「安」という漢字について話された。
だから、これを書いた。

Date: 1月 20th, 2017
Cate: 川崎和男

KK適塾(三回目)

KK適塾三回目の講師は、太刀川瑛弼氏と村田智明氏。

前回に続いて今回も二人の講師。
時間の経つのを早く感じる。

太刀川瑛弼氏の話に源流に還るということがあった。
ここ数年、実感していることだけに首肯ける。
デザインもオーディオも同じである。

村田智明氏の話に出たskillとwill。
学校教育に関する話である。

これだけでは何のことかわからないだろう。
話をきいていれば納得できる。
確かにそうである。

このことに関することで関西で登校拒否の子供たちをあつめた学校の話もあった。
それから太刀川瑛弼氏が、寝屋子制度の話をされた。

寝屋子(ねやこ)は、はじめて聞く言葉だった。
三重県鳥羽市の答志島答志町での古くからの風習とのこと。

直接デザインに関係してなさそうなことであっても、決してそうではない、ということ。
オーディオでも同じだ。
直接関係してなさそうなことでも、決してそうではないことが実のところ数多く在る。

いくつかのキーワードがあった。
それらを書き出していこうかと思ったが、ひとつだけにしておく。

川崎先生が最後に話された「倫理」である。

この倫理がオーディオでは、正しい音につながっていき、
倫理を持たぬ人は、低い次元の好きな音に留まっている。

Date: 1月 20th, 2017
Cate: 基本, 音楽の理解

それぞれのインテリジェンス(その2)

好きな音楽を少しでもいい音で聴きたい、
オーディオマニアなら誰もがそうおもって、オーディオの世界に足を踏み入れたであろう。

「五味オーディオ教室」で出逢って40年。
いまもそうかといえば、そうだと答えながらも、もうそればかりではないことに気づく。

いまもオーディオに、こうも取り組んでいるのかを改めて考えてみると、
私にとっては、ベートーヴェンの音楽を理解したいがためである、ということにたどりつく。

そして「それぞれのネクスト・インテリジェンス」とはいうことについて考えはじめている。

Date: 1月 19th, 2017
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その11)

19時から開始して23時近くまでやっていた。
「能×現代音楽 Noh×Contemporary Music」の七曲目でのチューニングを経て、
最後に最初にかけたディスクをもう一度鳴らした。

①から⑧までの音で使ったディスクである。
⑧の音から「能×現代音楽 Noh×Contemporary Music」でのチューニングを経た音。
それを聴いてもらった。

①から⑧までの音では聴いてもらったのは時間の都合もあるし、
あまり長く聴いても、場合によっては違いがわからなくなることもあるため、
冒頭の数分だけを聴いてもらっていた。

最後は、通して聴いてもらった。

常連のHさんが、こういってくれた。
「AさんとKさんが来られた時に、もう一度やるべきです」と。
AさんとKさんも常連の方たちだ。
今回は先約があって来られなかった。

まだまだやりたいことはあるし、
こういう内容のことは一度やったから終り、というものでもない。

一度体験したからといって、すくに身につくものではない。
私がやったことをすべて記憶して帰ったとしても、
同じことを自分のリスニングルームで再現できるとは限らない。
うまくいくこともあれば、そうでないこともある。

それにたいてはすべて記憶して、というのはまず無理である。
記憶しているつもりでも、気づいていないところがあるものだ。

見て聴いているだけでは、そうなりがちだ。
やはり自分の手でやってみないと、すべてを記憶するところまではいけない。

私が恵まれていたと感じるのは、この点である。

Date: 1月 19th, 2017
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その10)

あとやったことといえば、
セッティング、チューニングの過程でディスクを決めて、
一度もCDプレーヤーの中から取り出さない理由も、音で確かめてもらった。

特別なことではない。
トレイにディスクをセットして再生する。
再生をストップしてトレイを出す。
ディスクには手を触れずに、もう一度再生する。

CD登場後、しばらくして話題になったことである。
そんなことで音は変らない、と言い張る人もいた。
実際に音を聴かせても、変らないじゃないか、という人もいた。

インターネットでも、そんなことで音は変らない、という人はいる。
変らないのと聴き分けられないのとは、同じではない。

そしてセッティングが不備があれば、この違いは確かに出にくい性質ではある。
もちろんCDプレーヤーによっても、差の出方は違うし、
必ずしも二回目が音が良くなるとは限らない。

一回目と二回目で差が出るということは事実である。
だからといって常にそうやって聴いているわけではない。
慣れれば、うまく鳴っていないということはすぐにわかる。
そういう時だけトレイの出し入れをやるくらいだ。

とはいえ、この音の違いは、こまかなセッティング、チューニングにおいては無視できない。
ディスクを何枚も聴いてやるのもいいけれど、そうすることで、
変えているつもりはないところが変っている可能性があることを常に意識しておくべきである。

ラックスのD38uは、一回目と二回目の音の差はあるほうだといえよう。
参加された方が、こんなに違うんだ、と驚かれていた。