Archive for 3月, 2015

Date: 3月 15th, 2015
Cate: サイズ

サイズ考(トールボーイ型スピーカー・その1)

セレッションのSL6、続いて登場したSL600、
以降、小型スピーカー、それもサブスピーカー的な小型スピーカーではなく、
メインスピーカーとしての小型スピーカーが数多く登場するようになった。

それ以前の小型スピーカーとの違いはいくつかあって、
そのひとつとして挙げられるのは専用スタンドが用意されることが増えてきたことでもある。

サブスピーカーとして小型スピーカーであれば、
本棚におさめたり、テーブルの上に置いたり、と、
メインスピーカーとしての設置とは違っているのが普通であった。

けれどメインスピーカーとしての小型スピーカーの設置となれば、
専用スタンドに乗せ、できるだけ左右に拡げ、左右の壁、後の壁からもできるだけ距離を確保する。
そういう設置が一般的になってきた。

つまり小型スピーカーとはいえ占有する空間は大型スピーカーの設置とあまり変らなくなる。
スペースファクターはサイズの割には良くない。

ならば多くの人がエンクロージュアを縦に長くしたらどうか、と考える。
いわゆるトールボーイのスタイルである。

専用スタンドとの組合せが前提なら、
スタンドの分もエンクロージュアにしてしまえば、占有床面積はほぼ同じままで、
内容積は二倍、三倍、もしくはそれ以上に増やせる。

ウーファーの数もダブルにしようと思えば可能である。
そうすれば低域再生に、小型エンクロージュアのままよりも余裕が生れる。

トールボーイは、小型スピーカーの行き着く形態のように思えた。
きっと誰もがそう思ったのかもしれない。
トールボーイのスピーカーシステムがいくつも出て来た時期があった。

だが小型スピーカーに傑作は少なくないが、
トールボーイ型となるとそうではなくなる。

Date: 3月 15th, 2015
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(続々・認識の違い)

使いこなしは、音を良くしていくための作業であるならば、
使いこなしはまた技でもあるといえる。

使いこなしには、だからさまざまな技がある。
自己流の技もあれば、多くの人がやる技もある。
そして、それらの技は同じように見えても、技なのだから技倆の差がある。

技倆の差があるから、使いこなしの名人・達人と呼ばれる人もいる(自称の人も多いけれど)。

使いこなしは技ならば、
その技はどんな技なのか、と考えてしまう。

音を良くする技ではある。
けれど、そこだけではないような気がするからだ。

使いこなしは、自己を認識する技とも思っている。

Date: 3月 14th, 2015
Cate: 挑発

スピーカーは鳴らし手を挑発するのか(その2)

「いわば偏執狂的なステレオ・コンポーネント」に、瀬川先生が書かれている。
     *
むかしたった一度聴いただけで、もう再び聴けないかと思っていたJBLのハーツフィールドを、最近になって聴くことができた。このスピーカーは、永いあいだわたくしのイメージの中での終着駅であった。求める音の最高の理想を、鳴らしてくれる筈のスピーカーであった。そして、完全な形とは言えないながら、この〝理想〟のスピーカーの音を聴き、いまにして、残酷にもハーツフィールドは、わたくしの求める音でないことを教えてくれた。どういう状態で聴こうが、自分の求めるものかそうでないかは、直感が嗅ぎ分ける。いままで何度もそうしてわたくしは自分のスピーカーを選んできた。そういうスピーカーの一部には惚れ込みながら、どうしても満たされない何かを、ほとんど記憶に残っていない──それだけに理想を託しやすい──ハーツフィールドに望んだのは、まあ自然の成行きだったろう。いま、しょせんこのスピーカーの音は自分とは無縁のものだったと悟らされたわたくしの心中は複雑である。ここまで来てみて、ようやく、自分の体質がイギリスの音、しかし古いそれではなく、BBCのモニター・スピーカー以降の新しいゼネレイションの方向に合っていることが確認できた。
     *
ハーツフィールドの当て字のペンネーム、芳津翻人(よしづはると)を使われていたことでも、
瀬川先生のハーツフィールドへの憧れはわかるというもの。

なぜ瀬川先生はハーツフィールドに、「イメージの中での終着駅」を見いだされていたのだろうか。
ハーツフィールドは、JBLのスピーカーシステムの中でも、ひときわ光を放っている。
どんなスピーカーなのかわからずハーツフィールドの写真を初めてみた瞬間、
私の中にも憧れは生れていた。

ハーツフィールドを置けるだけのしっかりしたコーナーを用意できれば、
それはつまりそれだけの財力があるということでもあるわけだから、
ハーツフィールドが似合うコーナー、そういう部屋で音楽を聴く、ということは、
一般的な日本住宅で生れ育った私にとっては、リッチなアメリカという異文化への憧れでもあった。

でも私にとっては〝理想〟のスピーカーではなかった。
強い憧れを抱くスピーカーではあってもだ。

けれど瀬川先生は、〝理想〟のスピーカーと表現されている。
その〝理想〟のスピーカーの音を聴き、求める音でないことを気づかれる。

《それだけに理想を託しやすい──》と瀬川先生は書かれている。
ハーツフィールドを〝理想〟のスピーカーとされたのは、なんだったのだろうか。

「スピーカーを選ぶ」とは、瀬川先生にとってはどういうことだったのだろうか。

Date: 3月 14th, 2015
Cate: JBL

JBL PROFESSIONALの現在(その5)

ハイルドライバーは示唆に富む動作原理のようにも思えてきた。
そうなると、他の動作方式のスピーカーにもハイルドライバーの考えを応用できないものか、となる。

たとえばホーン型のコンプレッションドライバー。
ハイルドライバ(AMT)の振動板(膜)をそのままもってくるのではなく、
コンプレッションドライバーのダイアフラムを二枚にしたら、
つまりデュアルにしたらどうなのか、と思いついた。

ただあくまでも思いついた、というレベルに留まっていた。
従来と同じドーム型のダイアフラムを二枚向い合わせに配置する。
これだけでもかなり奥行きの長いドライバーになってしまう。

でもこれだけではハイルドライバー的コンプレッションドライバーにはならない。
コンプレッションドライバーで重要なフェイズプラグをどうしたらいいのか。
フェイズプラグのデザインが、すべてを決めるといってもいいのかもしれない。

私は答を出せなかった。
JBL PROFESSIONALの技術陣は答をはっきりと出している。
その答を、だから私は見事だと思ったし、こうすればよかったのか、と少し口惜しさもあった。

ダイアフラムをドーム状にはせずに、いわゆるリングラジエーター状にする。
そしてフェイズプラグのデザイン。

D2 Dual Driverの構造図を見れば見るほど、唸るしかない。
見事な答(デザイン)ではないか。

Dual Driverは、JBLではなくハーマンインターナショナルの特許である。

Date: 3月 14th, 2015
Cate: JBL

JBL PROFESSIONALの現在(その4)

ハイルドライバーはかなり以前からあった。
ステレオサウンド別冊HIGH-TECHNIC SERIES 3、トゥイーターの総テストには登場してなかったものの、
巻末のトゥイーターの技術解説のページには、動作原理が構造図とともに載っていた。

ハイルドライバーの動作原理はなんとなく理解できたものの、
ハイルドライバーを搭載したスピーカーシステムはというと、
残念なことにメジャーなモノではなく、当時はアメリカのESSのスピーカーシステムだけだったはずだ。

ESSのスピーカーシステムを聴く機会は一度もなかった。
ハイルドライバーのトゥイーターは単売されていたと記憶しているが、これも聴く機会はなかった。

そんなわけで、私が最初に聴いたハイルドライバー搭載のスピーカーシステムは、
エラックの310ということになる。

ハイルドライバーとはもう呼ばれておらず、AMTという名称に変っていたし、
磁気回路の構造も変化がみられるが、動作原理はハイルドライバーそのものである。

ハイルドライバーに対するそれまでの印象は、
ステレオサウンドの記事によってのものだった。
ステレオサウンド 60号に、ESSのフラッグシップモデルTRANSARIIが登場している。

この記事を読む限りでは、ハイルドライバーの音はトランジェントは優れていることがわかる。

ESSはアメリカのスピーカーメーカーだけれども、音量を上げないで聴くスピーカーだと思う、
と瀬川先生が語られている。
音慮を上げない限り、切り紙細工の人形が並ぶような定位感ではまったくない音場を聴かせる、
と岡先生が語られている。

こんな印象があったから、エラックの310から鳴ってきた音には、驚かされた。
それからハイルドライバー(AMT)に対する認識が完全に変ってしまった。

Date: 3月 13th, 2015
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(続・認識の違い)

みな、使いこなしは大事だというし、使いこなしに気をつかっている、ともいう。
「何を変えたんですか」といきなりいってきた人も、常日頃そういっていた。
にも関わらず「何を変えたんですか」である。

この「何を変えたんですか」は、
念のため書いておくが、スピーカーの位置、向き、その他の使いこなしに関係することではなく、
システムの一部、もしくはすべて、つまりオーディオ機器を何か買い替えたんですか、という意味である。

「何を変えたんですか」と口にした人を紹介したのは私だった。
彼に悪いことしたな、とも思ったし、そういう人だったのか、とも思っていた。

システムのどこかを買い替えれば音は確実に変る。
良くなるかどうかの保証はないけれど、音は変る。

スピーカーの位置・向きを変えても、音は変る。
買い替えのような派手さはない、地味な作業ではあるが、音は変る。

どちらも使いこなしといえないわけではない。
とことん買い替えずに使いこなしていっても、
いつかは使っているオーディオ機器の限界が感じられてくる時期が来るであろう。
そういうときの買い替えは、使いこなしのうちに含まれる。

だが買い替えが、必ずしも使いこなしといえるわけではない。
そんなことは、オーディオマニアならばみなわかっていることのはずだ。

私が二度三度、同じ人の音を聴きたいと思う理由のひとつは、
その人がどう音と向き合い、使いこなしていくのをみたい(聴きたい)からだ。

スピーカーの力量に対して、明らかにアンプが力不足であるならば、
「アンプを買い替えたので、聴きに来ませんか」と誘われれば、もちろん行く。

けれど力不足とはいえないアンプを持っているにも関わらず、
使いこなしが不十分でスピーカーがうまく鳴っていないのであれば、
その人から聞きたいのは「きちんと調整したので聴きに来ませんか」である。
「アンプを買い替えたから、聴きに来ませんか」ではない。

Date: 3月 13th, 2015
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(認識の違い)

もう十年くらい前のことだ。
ある人のリスニングルームで音を聴かせてもらった。
ちょっと意外な感じがした。
口には出さなかったけれど、聴かせてくれた人はそのことを感じとっていたのかもしれない。

数ヵ月後、連絡があった。
「聴きに来ませんか」だった。
自信ありげな口調のような気がした。

数ヵ月前に感じていた意外な感じは見事に消えていた。
いい音になっていた。

システムのどこかが変っていたわけではない。
CDプレーヤー、アンプ、スピーカーも同じままだ。
ラック、ケーブルの類も前回と同じだった。

変ったのは、スピーカーの位置と角度だけだった。
だから感心した。

彼は私だけでなく、もうひとりにも連絡していた。
そのもうひとりとは、私といっしょに聴きに行った人である。

彼が連絡した時に、もうひとりはこういった。
「何を変えたんですか」と。

彼はがっかりした、と私にいった。
そうだ、と思う。

音が良くなった、だからその喜びを誰かと共有したい。
できれば音、オーディオのわかっている人と。

システムはいっさい変更せずに、使いこなしだけでそうした場合にはよけいに、そう思う。

なのに「何を変えたんですか」である。
結局、もうひとりを誘うのを彼はやめてしまった。

Date: 3月 13th, 2015
Cate: 快感か幸福か

オーディオレコード的という意味でのオーディオ機器(その4)

ステレオサウンド別冊HIGH-TECHNIC SERIES 1で、瀬川先生が書かれていることが、
この項を書いてみようと思ったきっかけになっている。
     *
音を聴き分ける……と書いたが、現実の問題として、スピーカーから出る「音」は、多くの場合「音楽」だ。その音楽の鳴り方の変化を聴き分ける、ということは、屁理屈を言うようだが「音」そのものの鳴り方の聴き分けではなく、その音で構成されている「音楽」の鳴り方がどう変化したか、を聴き分けることだ。
 もう何年も前の話になるが、ある大きなメーカーの研究所を訪問したときの話をさせて頂く。そこの所長から、音質の判断の方法についての説明を我々は聞いていた。専門の学術用語で「官能評価法」というが、ヒアリングテストの方法として、訓練された耳を持つ何人かの音質評価のクルーを養成して、その耳で機器のテストをくり返し、音質の向上と物理データとの関連を掴もうという話であった。その中で、彼(所長)がおどろくべき発言をした。
「いま、たとえばベートーヴェンの『運命』を鳴らしているとします。曲を突然とめて、クルーの一人に、いまの曲は何か? と質問する。彼がもし曲名を答えられたらそれは失格です。なぜかといえば、音質の変化を判断している最中には、音楽そのものを聴いてはいけない。音そのものを聴き分けているあいだは、それが何の曲かなど気づかないのが本ものです。曲を突然とめて、いまの曲は? と質問されてキョトンとする、そういうクルーが本ものなんですナ」
 なるほど、と感心する人もあったが、私はあまりのショックでしばしぼう然としていた。音を判断するということは、その音楽がどういう鳴り方をするかを判断することだ。その音楽が、心にどう響き、どう訴えかけてくるかを判断することだ、と信じているわたくしにとっては、その話はまるで宇宙人の言葉のように遠く冷たく響いた。
 たしかに、ひとつの研究機関としての組織的な研究の目的によっては、人間の耳を一種の測定器のように──というより測定装置の一部のように──使うことも必要かもしれない。いま紹介した某研究所長の発言は、そういう条件での話、であるのだろう。あるいはまた、もしかするとあれはひどく強烈な逆説あるいは皮肉だったのかもしれないと今にして思うが、ともかく研究者は別として私たちアマチュアは、せめて自分の装置の音の判断ぐらいは、血の通った人間として、音楽に心を躍らせながら、胸をときめかしながら、調整してゆきたいものだ。
 そのためには、いま音質判定の対象としている音楽の内容を、よく理解していることが必要になる。少なくともテストに使っている音楽のその部分が、どういう音で、どう鳴り、どう響き、どう聴こえるか、についてひとつの確信を持っていることが必要だ。
     *
まったくそのとおりであり、
音の聴き分けの判断で大事なのは、音楽の鳴り方がどう変化したのかを聴き分けることである。

けれど50をこえて思うのは、音楽をまったく聴き手に感じさせない音もあってもいいじゃないか、だ。
以前から、そしていまもオーディオマニアは音楽ではなく音を聴いている、といわれる。

そういう人もいるけれど、そういう人でさえ、
100%音だけを聴いているとはいえないはずだ。
どこかで音楽を聴いているのではないか。

純粋に音を聴くという行為は、オーディオマニアとはいえ、可能なのだろか。

もちろん、それは音楽をおさめたLPなりCDを再生してのことである。
戦車やジェット機、蒸気機関車などの音をおさめたディスクを再生してのことではない。

「音楽は聴いていない」と言い切れるのだろうか。
そうでなければ、音楽を聴いている、ともいえないのではないか。

Date: 3月 12th, 2015
Cate: オプティマムレンジ

オプティマムレンジ考(その8)

オーディオは、ほんのささいなことによっても音は変ってしまう。
こんなことで変ってほしくない、という気持ももちながら聴いても、
どこかを変えれば、音はわずかであったり、ときにはかなりの変化量であったりするけれど、
必ず音は変化する。

何をやっても音の変らない装置を開発できれば、
これは皮肉ではなく、素晴らしいことだと思う。
(ただし、ひどい音ではなくて、いい音の装置という前提はつくけれど)

なぜ、こんなにも音は変化するのか。
無数に、その理由はあるはずだろうが、ひとつはっきりと大きい理由としてあげられるのは、
オーディオの帯域幅が広いから、だと考えている。

人間の可聴帯域といわれている20Hzから20kHzまでは、10オクターヴである。
この10オクターヴにわたる帯域幅こそが、オーディオの難しさの根本的な原因のような気がする。

いま話題になることが多いハイレゾリューション(ハイレゾとは書きたくない)。
高域は20kHzよりも上まで延びるようになった。
40kHz以上でも、プログラムソースに信号として記録できるようになっている。
もっともっとも高域の限界は延びていく。

低域はハイレゾリューション以前から、かなり低いところまで記録できている。
アナログディスクでは8Hzまでカッティングが可能だし、
CDでは理論的には0Hzまで可能である。

低域は仮に10Hzだとすると、高域が20kHzまでであれば、11オクターヴに拡大する。
高域が40kHzまでになれば12オクターヴになる。80kHzで13オクターヴ。
帯域幅は広くなっていく。

帯域幅が広くなっていくことは技術の進歩ではある。
けれど、そこに懸念はないと言い切れるだろうか。

Date: 3月 12th, 2015
Cate: ケーブル

ケーブル考(その4)

中学、高校のころはケーブルは人の体にあてはめれば、
血管、神経というふうに考えていた。

たしかに血管でもあり神経でもある。
電源ケーブル、アンプ、チューナー、CDプレーヤーなどの内部配線における電源ラインは、
血管にたとえたほうがいいと思う。
信号ラインは、だから神経にあてはまる。

でも、ここで考えたいケーブルは、あくまでもオーディオ機器同士を接続するためのケーブルである。
アンプなどの内部配線ではなく、
その外側にあるケーブルであり、これらのケーブルの両端にはコネクターが存在する。
このコネクターは接点と言いなおしてもいい。

CDプレーヤーとアンプを接続するケーブルは、神経ともいえる。
アンプとスピーカーを接続するケーブルは、神経でもあり血管ともいえる。

そういうことは承知のうえで、ケーブルとは何かを考えるようになると、
あえて人の体にあてはめるのであれば、関節ということに行き着く。

Date: 3月 12th, 2015
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その3)

オーディオの想像力の欠如が生むのは、硬直化であり、
硬直した企画・規格であり、ここから何が生じるのかははっきりとしている。

Date: 3月 11th, 2015
Cate: 「本」

オーディオの「本」(読まれるからこそ「本」・その1)

古書店に、きれいなステレオサウンドのバックナンバーが並んでいるのを見つける。
きれいであることは嬉しい。
けれど、きれいであるということは、そのステレオサウンドはほとんど読まれていないということでもある。

これは、元とはいえ編集者だった者には悲しくみじめな気持になる。

そういえば、定期購読しているけれど、ここ十年くらいほとんど読んでいない、という声もきく。
別にステレオサウンドに限ったことではない。
他の雑誌・書籍についても同じことがあり、同じことがいえる。

私のところには、ステレオサウンド 38号が二冊ある。
一冊は岩崎先生が読まれていた38号である。
かなりボロボロになっている。

この38号は39号、40号などといっしょに私のところにある。
38号だけがボロボロになっている。

岩崎先生にしっかりと読まれたことで、38号は「本」としての役目を果したといえる。
岩崎先生によって「本」になったといえる。

書店に並んでいるのは、たしかに本である。雑誌であり書籍である。
けれど購入されても、禄に読まれなければ、紙の束でしかない。
しかも何も書かれていない紙の束は他の用途に使えるが、
印刷されている紙の束は、あまり他のことには使えない。

出版社にとっては、読まれようが読まれまいが、売れればそれでいい、ともいえる。
発行部数が多ければ広告は多くはいってくるし、広告料も強気でいられる。
それでもいいのが資本主義(商業主義)なのかもしれない。

どれだけの人が読み、どれだけの人が読まないのかはわからないが、
読んでいない人がいることは事実である。
そういう「本」になりそこね紙の束のままで終えてしまうものに、
文章を書いていくことに、まったく疑問を持たずにいられるのだろうか。

疑問を持っている人、いない人がいると思う。
疑問をもたずに書いている人は、商業主義的書き手といえるのか。

そして編集者は……、とおもう。

Date: 3月 11th, 2015
Cate: バスレフ(bass reflex)

バスレフ考(調整の仕方)

バスレフ型の音(低音)を極端に嫌う人がいる。
そういう人の中には、バスレフ型のスピーカーで聴く場合、
曲ごとにバスレフポートのチューニングをするという人もいる。

ポートになにもつめない状態。つまりメーカーの意図通りの使い方。
ポートに吸音材をつめていく。
吸音材の種類を変えたり、量を変えたりしてチューニングしていく。

バスレフ型のスピーカーを使った経験のある人ならば、
一度は試したことのある人も多いと思う。
いい悪いではなく、かなりの変化があるのは確かで、
でも、曲ごと(レコードごとに)ポートのチューニングを変えるというのは、
やっている本人にしてみれば最適のチューニングポイントを見つけ出して、
それに合わせる行為と思っているだろうが、
実のところ、最適のポイントから少しズレているからこそ、極端なことに走ってしまうともいえなくもない。

もちろんすべての曲(レコード)に対して、最適のポイントが必ずしもあるとはいえない。
けれど、そんな極端なことをやっている(やらざるをえない)のは、
どこか間違っているのではないか、と疑うことも必要ではないのか。

バスレフのチューニングは手軽にやれる。
しかもすぐに元に戻せる。

音に不満がある場合、
それは必ずしもバスレフポートに原因があるとは限らないのだが、
それでもバスレフポートのチューニングをすることを否定はしない。

あれこれやってみて経験を増やしていくことは大事だからだ。

そういえば、井上先生が以前、バスレフ型の簡単なチューニング方法を書かれている。
ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ」パイオニア号に載っている「音づくりチャレンジプラン」。

ここにこんなことを書かれている。
     *
①アンプの入力端子のプラス側にシールドされていないコードをさし込み、ハム音を出す。このときの出力はできるだけ小さくしておき、だんだん必要な音量にあげること、最初からボリュウムを上げておくとアンプやスピーカーを破損する場合もある。このハム音によって低域のバスレフチューニングをとる。角型ダクトの場合には、ある程度の厚さをもつ板を入れることによりダクトの容積が可変できるので便利だ。このハム音によって低域のレスポンスの変化を聴きとる。
②乾電池の使い古したものを使う方法もある。電池の両端にスピーカー端子をつけたときは、電池の内部抵抗だけでアンプの実装状態に近くなり、放した瞬間は、オープンになったときと同じで、音の消え方が大体判断できるわけだ。こうして電池によって音の立上りや立下りが、とくに低域についてよくわかるので、バスレフチューニングをとる場合などには役立つ方法だ。
     *
試されるのであれば、井上先生が書かれている注意点を守ることである。

Date: 3月 11th, 2015
Cate: JBL, ステレオサウンド

JBL DD77000とステレオサウンド 200号

JBL PROFESSIONALのスタジオモニターM2の存在を二年遅れで知り、
発表当時から知っていた人からすれば、いまさら……、と思われていようと、
M2というスタジオモニターは非常に興味深いだけでなく、
なぜM2に採用された技術がコンシューマー用スピーカーに採り入れられていないのかについて、
つい考えてしまう。

少なくともデュアルダイアフラムのD2ドライバーは、
すぐにもコンシューマー用に採用されても不思議でないのに……、である。

なぜか、という答はすぐに思いつく。
来年(2016年)は、JBL創立70周年である。
ということは、60周年記念モデルのDD66000に代るモデルとしてDD77000が開発中と考えられる。

JBLに関心のある人ならば、多くの人がDD77000の登場を予測しているだろう。
どういうシステム構成になるのか、DD66000と何が同じで何が違ってくるのか。

その最大のヒントとなるのが、D2ドライバーの存在といって間違いはないはず。
DD77000にはデュアルダイアフラムのコンプレッションドライバーが搭載されるはず。

ウーファーはM2と同じシングルなのか、DD66000と同じダブルなのかはわからない。
ホーンの形状もM2のホーンに多少変更が加えられるのか。
少なくとも材質は変更されるように思う。

それからM2はマルチアンプ駆動なのに対して、DD77000はネットワーク内蔵となることは間違いないだろう。
M2は単なるマルチアンプ駆動ではない。
そのへんをネットワークでどう対応するのか、もしかするとオプションでマルチアンプ駆動、
それも専用アンプとデジタル信号プロセッサーによるものが用意されるのだろうか。

M2はクラウン(アムクロン)のアンプがそうであるから、
DD77000では同じハーマングループのマークレビンソンのアンプが専用アンプとなるのか。

こんなことをM2の存在を知ってからの数日、考えていた。
この予測がどこまで当るのかは来年になればはっきりする。

仮にDD77000が登場するとして、それはいったいいつになるのか。
これに関してはけっこう自信がある。
おそらく9月になるはずだ。

2016年9月に出るステレオサウンドは200号、つまり創刊50周年記念号である。
ここに合わせてくるし、200号の表紙はDD77000のような気がしている。

つまりステレオサウンド 200号でDD77000はお目見えとなるはずだ。
発表は9月よりも少し早いかもしれない。
それでも情報解禁はステレオサウンド 200号の発売日になるのではないか。

あと一年と六ヵ月である。

Date: 3月 10th, 2015
Cate: 4345, JBL

JBL 4345(その6)

私がステレオサウンドにいたころ、JBLの4344はリファレンススピーカーであったから、
長いこと聴いていたことになる。
4343も入ったばかりのころは、まだ試聴室に置いてあったから、何度か聴くことができた。
ステレオサウンドの試聴室以外でも、4343は聴く機会はけっこうあった。

けれど4345は、ステレオサウンド試聴室で聴く機会は一度もなかった。
1982年、4345は現行製品ではあったけれど、ステレオサウンド試聴室では聴けなかった。

4345は、4343、4344と比較試聴したこともないし、
聴いた回数もごくわずか。それも販売店での試聴とオーディオフェアで、くらいでしかない。

もっと聴いておきたかったスピーカーなのに、縁がなかったのか……。
でも、同年代のオーディオマニアと話をしても、4345を聴いている人はやはり少ない。
話題になっていたスピーカーなのに、不思議なことである。

やはり大きすぎたのだろうか。

4345はステレオサウンド 58号に登場し、60号の特集「サウンド・オブ・アメリカ」にも登場している。
この60号で、瀬川先生が興味深いことを発言されている。
     *
 ただ、ぼくは今聴いているとちょっと不思議な感じを抱いたのだけれど、鳴っている音のディテールを論じたら違うんですが、全体的なエネルギーバランスでいうと、いまぼくがうちで鳴らしているJBL4345のバランスに近いんです。非常におもしろいことだと思う。もちろん細かいところは違います。けれども、トータルなごく大づかみな意味ではずいぶんバランス的に似通っている。ですから、やはり現在ぼくが鳴らしたい音の範疇に飛び込んできているわけです。飛び込んできているからこそ、あえて気になる点を言ってみると、菅野さんのところで鳴っている極上の音を聴いても、マッキントッシュのサウンドって、ぼくには、何かが足りないんですね。かなりよい音だから、そしてぼくの抱いている音のイメージの幅の中に入ってきているから、よけいに気になるのだけれども……。何が足りないのか? ぼくはマッキントッシュのアンプについてかなり具体的に自分にとって足りない部分を言えるつもりなんですけれども、スピーカーの音だとまだよくわからないです。
     *
マッキントッシュのXRT20の試聴を終えての発言である。
アメリカ西海岸のJBLの4345と東海岸のマッキントッシュのXRT20の、
全体的なエネルギーバランスが近いということ。

瀬川先生も「非常におもしろいことだと思う」といわれているように、
これは非常におもしろく、興味深いことであり、
4345の音がどうであったのかを、
もっといえば瀬川先生が4345をどういう音で聴かれていたのかを、
正確にさぐっていくうえで非常に重要なことだと思っている。