Date: 3月 13th, 2015
Cate: 快感か幸福か
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オーディオレコード的という意味でのオーディオ機器(その4)

ステレオサウンド別冊HIGH-TECHNIC SERIES 1で、瀬川先生が書かれていることが、
この項を書いてみようと思ったきっかけになっている。
     *
音を聴き分ける……と書いたが、現実の問題として、スピーカーから出る「音」は、多くの場合「音楽」だ。その音楽の鳴り方の変化を聴き分ける、ということは、屁理屈を言うようだが「音」そのものの鳴り方の聴き分けではなく、その音で構成されている「音楽」の鳴り方がどう変化したか、を聴き分けることだ。
 もう何年も前の話になるが、ある大きなメーカーの研究所を訪問したときの話をさせて頂く。そこの所長から、音質の判断の方法についての説明を我々は聞いていた。専門の学術用語で「官能評価法」というが、ヒアリングテストの方法として、訓練された耳を持つ何人かの音質評価のクルーを養成して、その耳で機器のテストをくり返し、音質の向上と物理データとの関連を掴もうという話であった。その中で、彼(所長)がおどろくべき発言をした。
「いま、たとえばベートーヴェンの『運命』を鳴らしているとします。曲を突然とめて、クルーの一人に、いまの曲は何か? と質問する。彼がもし曲名を答えられたらそれは失格です。なぜかといえば、音質の変化を判断している最中には、音楽そのものを聴いてはいけない。音そのものを聴き分けているあいだは、それが何の曲かなど気づかないのが本ものです。曲を突然とめて、いまの曲は? と質問されてキョトンとする、そういうクルーが本ものなんですナ」
 なるほど、と感心する人もあったが、私はあまりのショックでしばしぼう然としていた。音を判断するということは、その音楽がどういう鳴り方をするかを判断することだ。その音楽が、心にどう響き、どう訴えかけてくるかを判断することだ、と信じているわたくしにとっては、その話はまるで宇宙人の言葉のように遠く冷たく響いた。
 たしかに、ひとつの研究機関としての組織的な研究の目的によっては、人間の耳を一種の測定器のように──というより測定装置の一部のように──使うことも必要かもしれない。いま紹介した某研究所長の発言は、そういう条件での話、であるのだろう。あるいはまた、もしかするとあれはひどく強烈な逆説あるいは皮肉だったのかもしれないと今にして思うが、ともかく研究者は別として私たちアマチュアは、せめて自分の装置の音の判断ぐらいは、血の通った人間として、音楽に心を躍らせながら、胸をときめかしながら、調整してゆきたいものだ。
 そのためには、いま音質判定の対象としている音楽の内容を、よく理解していることが必要になる。少なくともテストに使っている音楽のその部分が、どういう音で、どう鳴り、どう響き、どう聴こえるか、についてひとつの確信を持っていることが必要だ。
     *
まったくそのとおりであり、
音の聴き分けの判断で大事なのは、音楽の鳴り方がどう変化したのかを聴き分けることである。

けれど50をこえて思うのは、音楽をまったく聴き手に感じさせない音もあってもいいじゃないか、だ。
以前から、そしていまもオーディオマニアは音楽ではなく音を聴いている、といわれる。

そういう人もいるけれど、そういう人でさえ、
100%音だけを聴いているとはいえないはずだ。
どこかで音楽を聴いているのではないか。

純粋に音を聴くという行為は、オーディオマニアとはいえ、可能なのだろか。

もちろん、それは音楽をおさめたLPなりCDを再生してのことである。
戦車やジェット機、蒸気機関車などの音をおさめたディスクを再生してのことではない。

「音楽は聴いていない」と言い切れるのだろうか。
そうでなければ、音楽を聴いている、ともいえないのではないか。

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