Archive for 11月, 2014

Date: 11月 22nd, 2014
Cate: コントロールアンプ像

私がコントロールアンプに求めるもの(その16)

コントロールアンプには入力端子がいくつかついている。
Phono入力があり、Line入力、Tape入力がある。
最近ではフォノイコライザーを搭載しないアンプの方が多くなってきたようだし、
テープ関係の入出力端子も省かれる傾向があるから、Line入力のみのモノもある。

Line入力が4系統あったとする。
Line1、Line2、Line3、Line4、
CDプレーヤーだけを接続するのであれば、どのLine入力にするか。

たいていはLine1になる。
私も最初の音出しはLine1を使う。
ただ細かなチェックな意味もかねて、他のLine入力端子にも接続して音を聴く。

アンプによってだが、必ずしもLine1が音がいいとは限らない。
Line4がよかったりすることもある。

これはなにもアナログ入力に限ったことではなく、
D/Aコンバーターデジタル入力端子をもつコントロールアンプでも同じである。

入力端子が複数ついていれば、すべての端子でまったく音が同じということはますありえない。
これは入力端子だけではなく出力端子についてもいえることだ。

入力端子による音の違いが大きなアンプもあれば、気をつけなければあまり感じさせないアンプもある。
けれどすべての端子で全く同じ音がすることはない。

ソニーのTA-ER1は、この点でも見事だった。
どの端子に接ぎかえても音は変化はわずかであった。
こういう配慮がなされたコントロールアンプの先駆け的存在だった。

Date: 11月 22nd, 2014
Cate: 「本」

オーディオの「本」(FMレコパル・その3)

小学館はFMレコパルだけでなくサウンドレコパルも出版していた。
サウンドレコパルは月刊誌。略してサンレコと呼ばれていた。

この10年、いやもっと以前からサンレコといえばサウンドレコパルではなく、
サウンド&レコーディング・マガジンの略称として一般的には通じるようになっていた。

今回のFMレコパルの一号限定の復刊はDIME編集部によるものである。
なぜDIME編集部はサウンドレコパルではなく、FMレコパルにしたのか。

今回のFMレコパルの復刊号に「懐かしい」という気持を抱いた人たちは、
FMレコパルではなくサウンドレコパルの一号限定の復刊だったとしたら、
やはり懐かしいということになるのだろうか。

サウンドレコパルだったら、あまり話題にならなかったかもしれない。

今回のFMレコパルを読んだ人たちの懐かしいという気持は、
学生時代の友人、知人と久しぶりに会った時の懐かしいに近いか同じなのだろうか。

人は10年以上会っていなければ人によっては別人のように変っていることもある。
容貌も変る。
それでも10数年ぶりに会えば懐かしいということになるとすれば、
会った瞬間ではなく、なんらかの会話をしてからではないだろうか。
その会話も昔のことをふり返ってではないだろうか。

私も10年ぶりに会った経験がいくつかある。
最初は、懐かしいではなく、久しぶりだった。
そして話をする。それでも懐かしいという気持をもつことはなかった。

Date: 11月 22nd, 2014
Cate: Glenn Gould, 録音

録音は未来/recoding = studio product(その2)

グレン・グールドはコンサート・アーティスト、スタジオ・アーティストと言っていた。
無論グールドは後者である。

前者がコンサートホールでの演奏を録音したものと、
後者が、studio productを理解しているスタッフと録音したもの。

後者の録音は、デザインであるはずだ。

Date: 11月 21st, 2014
Cate: 「本」

オーディオの「本」(FMレコパル・その2)

FMレコパルの復刊号は売れているようだ。
すべての書店を廻っているわけではなく、近所の書店や大きめの書店を見た感じでは、好評のように感じる。

facebookでも、懐かしい、面白い、という声があった。
そういう人たちは私と同世代かすこし下の世代の人たちが多いようだ。

私には、懐かしいという気持が湧いてこなかった。
手に取った瞬間は、本の厚み、表紙の感じが、以前のFMレコパルの感触を思い出させてくれたけれど、
そこまで留りである。

内容に懐かしいという気持はなかった。

私はこのブログで、古いことも書いている。
ステレオサウンドのバックナンバーから引用することも少なくない。
だからといって、ステレオサウンドのバックナンバーを手にする時、懐かしいという気持は、
まったくないに近い。

われわれはLP、CDによって、古い録音を聴く。
10年前どころか、もっと以前の、モノーラルの録音も聴くし、
親が生まれる前の録音も聴いている。

それらの録音が行なわれたのと同時代に聴いてきたモノもあるし、
そうでなくレコードを聴きはじめる時代よりずっと前の録音も聴いているわけだ。

懐かしいという気持が湧くのは、あくまでもその録音が世に出た時に聴いてきたものに限られるはずだ。
過ぎ去った時に聴いていたものを、いま聴くことで懐かしいと感じることがある。
どんなに古くても初めて聴くものに、懐かしいという気持を抱くことはありえないことである。

古いからといって、どちらに対しても懐かしい、という気持は湧くことはまずない。
そして、少なくとも愛聴盤に関しては、まったくないといえる。

むしろ自分でLPなりCDを持っていない曲、
それも学生時代に耳にしていた曲が、なにかでふいに流れると懐かしいと思うことがある。

けれど、その懐かしいという気持は、ほんの一瞬であることが多い。
懐かしいと感じた曲が、いい曲であるならば、もう懐かしいということはどこへ行ってしまっている。
懐かしいという気持が最後まで残っているのは、そこまでの場合が多い。

古いと懐かしいは、同じではない。

懐かしいと感じるには、その対象に親近感、親密感をもっているかどうかであるのはわかっている。
だが古い録音を聴く、古いステレオサウンドを読むのと、
今回のFMレコパルの復刊号を読むのと同じことではない。

いまは2014年で、今回のFMレコパルは一号限りとはいえ2014年のFMレコパルとして出版されているからだ。

Date: 11月 21st, 2014
Cate: コントロールアンプ像

私がコントロールアンプに求めるもの(その15)

コントロールアンプの試聴では、試聴に必要な最低限の機器しか接続しないことが大半だ。
入力機器としてアナログプレーヤーとCDプレーヤーが、一機種ずつ程度である。

フォノイコライザーを持たないコントロールアンプであれば接続される入力機器は、
CDプレーヤー一台だけということになる。

だが現実にユーザーのリスニングルームではそういう例も少なくないけれど、
そうでないケースもまた多い。

CDプレーヤーにしても二台、三台持っている人もいるし、
チューナー、テープデッキを接続する人もいる。

アナログプレーヤーに関しても、一台のプレーヤーでもトーンアームをダブルにしている人もいるし、
一台のアナログプレーヤー、一本のトーンアームという場合でも、
カートリッジがMC型かMM型、MC型ならば昇圧手段はトランスなのかヘッドアンプなのか、
そういった違いがあり、それによってコントロールアンプは多少なりとも影響を受ける。

接続される機種の数、種類によって音は変化するし、
接続している機種の電源を入れるか入れないかでも音は影響を受ける。

だからコントロールアンプの理想としては入力端子すべてになんらかの機器が接続され、
すべての接続される機器の電源がオンの状態でも、まったく影響を受けないことが挙げられる。

実際にはこれは非常に困難なことであるし、
かなり高価なコントロールアンプでも、そういったことに配慮をはらっていないモデルも少なくない。
そういうモデルは、左右チャンネルのクロストークではなく、
各入力端子間のクロストークのチェックをすると、ボロを出すモノがある。

私がテストする機会があった範囲でいえば、ソニーのTA-ER1は十分な配慮がなされたコントロールアンプだった。

Date: 11月 21st, 2014
Cate: 異相の木

「異相の木」(その11)

カートリッジ専門メーカーであるオルトフォンも、一時期スピーカーを手がけていた。
1970年代なかばごろである。

type 225、type 335、type 445というモデルが輸入されていた。
type 225が2ウェイで48000円,type 335が3ウェイで79000円、
type 445が3ウェイでダブルウーファー仕様で140000円(価格はいずれも一本)。

type 445はフロアー型となっていた。
とはいえ高さ68cmのエンクロージュアだから、
日本の感覚ではブックシェルフに分類されてもおかしくはない。

三機種ともスピーカーユニットはオルトフォン自社製ではなく、
オルトフォンと同じデンマークのスピーカーユニット製造メーカー、Scan Speak製。

オルトフォンのスピーカーシステムは1978年ごろには製造中止になっている。
後継機種も出てこなかった。
type 225はステレオサウンド 36号の特集「スピーカーのすべて」で取り上げられている。

あまり成功しなかったのだろう。
オルトフォンからはアンプも出ていた。
MC20と同時期に登場したヘッドアンプMCA76は、
デンマークの測定器メーカーとして知られるBrüel & Kjærのエンジニアが協力している、と聞いたことがある。
そうかもしれないし違っているかもしれない。

いまも昔もオルトフォンはカートリッジおよびカートリッジ関連以外の製品も作っている。
けれどいまも昔もオルトフォンはカートリッジの専門メーカーである。

だからこそ、もしJBLがカートリッジを手がけていたら……、と想像する時に、
こういうメーカーであるオルトフォンが参考になる気がしている。

それにオルトフォンがハーマン傘下にあった時期、試聴用のスピーカーはJBLの4343であり、
試聴レコードの多くはドイツ・グラモフォンのレコードだったことを、つけ加えておく。

Date: 11月 20th, 2014
Cate: 「本」

オーディオの「本」(FMレコパル・その1)

手にされている方もおられるだろう、FMレコパルが一号限定で復刊した。
一週間前に書店に並んだ。
近所の書店には、取り扱っている店とそうでない店とがあった。
昼過ぎに行ってのことだから、すでに売れ切れだったとは考えにくい。

取り扱っている店は、平積みではなかったけれど、通常の置き方とは少し変え、目立つように並べてあった。
この書店の店主はFMレコパルを読んできた世代なのかもしれない、と思いながら、手に取った。

まず感じたのは本の厚さである。
当時のFMレコパルを手に取っている感じがよみがえってきた。

私のころはFM誌は三誌あった。
FMfan、週刊FM、それにFMレコパルである。
数年後にはさらに増えていき、いまはすべて消えていった。

三誌はどれも同じくらいの厚さだった。
それぞれに特徴のある編集だった。

復刊FMレコパルをめくっていくと、あのころのFMレコパルのテイストがきちんと再現されていると感じる。
このへんは、小学館という大きな出版社の強みかもしれない。

FM誌には必ずついていたFM番組表はついていなかった。
これにページを割くのであれば、他にやりたい企画もあっただろうし、いま番組表をつける意味、
特に一号限定の復刊ということからも番組表はなくて当然なのだろう。

あぁレコパルだな、と思いながらも、それ以上ではなかった。
当時もFMレコパルの読者とはいえなかった。
私が毎号買っていたのはFMfanだったこともある。

でもいま共同通信社がFMfanを一号限定復刊して、FMレコパルと同じレベルでの復刊であったとしても、
同じように感じるような気がする。

facebook、twitterでは今回の復刊を喜んでいる声がいくつもあった。
そういう声があがってくるのはわかるけれど、私はそうなれなかった。

Date: 11月 20th, 2014
Cate: 欲する

何を欲しているのか(兵士の物語)

ストラヴィンスキーの作品に「兵士の物語」があり、
ジャン・コクトーの語り、マルケヴィチ指揮によるフィリップス盤は録音の良さでも知られていた。
私が買ったのは再発盤。21ぐらいのときに買っている。

そのころは短かったけれど、頻繁に聴いていた時期でもあった。
コクトーの声が生々しかったのも、理由のひとつだった。

コクトーが最後の方で語る。

いま持っているものに、昔持っていたものを足し合わそうとしてはいけない。
今の自分と昔の自分、両方もつ権利はないのだ。
すべて持つことはできない。
禁じられている。
選ぶことを学べ。
一つ幸せなことがあればぜんぶ幸せ。
二つの幸せは無かったのと同じ。

このセリフだけがコクトーの声とともに印象に残っている。

幸せはひとつだから幸せなのかもしれない。
ふたつ以上の幸せを求めようとするから、幸せになれないのかもしれない。
そうなんだろうなぁ……、と思いながらも、実感はなかった。

いまも正直なところ、よくわからない、というか、実感していないような気がする。

でもほんとうに大切なレコードは一枚あればいいのかもしれない、とは最近思うようになってきている。
愛聴盤といってしまうレコード(LP、CD)は、決して一枚だけではない。
かなり厳選したとしてもそこそこの数にはなる。

その中に、一枚の大切な愛聴盤はすでにある。
私だけの話ではなく、ながくレコード(オーディオ)によって音楽を聴いてきた人ならば、
かならず、そういう一枚はある。

その存在にいつ気づくか、である。

Date: 11月 19th, 2014
Cate: 夢物語

オーディオ 夢モノがたり(その8)

ナガオカ/ジュエルトーンのリボン型カートリッジの内部構造はサテンのMC型に似ているといっても、
ナガオカ・ブランドで出していたNR1とジュエルトーン・ブランドのJT-RIIIとでは、
リボンの配置と、リボンにカンチレバーの振動を伝えるアーマチュアの形に変更が見られる。

NR1はV字型のアーマチュアがありその両端にリボンが取り付けられている。
リボンはカートリッジの内部の左右両側に前から後に伸びるように配置されている。

リボンとはいうもののNR1では、実際に使われていたのは0.025mmφの銅線である。
乱暴な説明をするとMC型カートリッジのコイルをほどいて一本の銅線にした、ともいえる。
そのため銅線の長さはコイルに比べてかなり短くなる。
ローインピーダンス、低出力にどうしてもなってしまう。

ジュエルトーン・ブランドになると、アーマチュアが基本的にV字型であることに変りはないが、
大小ふたつのV字を組み合わせた形状、
つまり小さなV字に、大きなV字が上下逆に覆い被さるような形状である。

JT-RIIIもNR1同様、リボン型といっても実際には銅線で、
出力電圧を稼ぐために片チャンネルあたり2本になっている。
この銅線は上下逆のV字型アーマチュアに取り付けられている。

NR1とJT-RIIIではリボンの配置が水平か垂直かの違いがあり、磁気回路も異る。
JT-RIIIの出力電圧は0.04mV(5cm/sec, 1kHz)と、やはり低い。
JT-RIIIと同時代で出力電圧が低かったオルトフォンMC30の半分しかない。

Date: 11月 19th, 2014
Cate: 素材

羽二重(HUBTAE)とオーディオ(その10)

羽二重=HUBTAEに、まず右手の人差し指でふれた。
布地の専門の人ならば、もっと違う触り方があるのかもしれないが、私はそうではない。
対象が布であろうと紙であろうと、その他の素材であろうと、
まず感触を確かめるのであれば右手の人差し指でふれる。

それから親指と人差し指で羽二重=HUBTAEの表と裏にふれ、指の腹をこすりあわせるようにする。
次は人差し指、中指、薬指で撫でる、両手の手のひらではさみこんでみる。

こうやって羽二重=HUBTAEの感触を確かめてきた。

羽二重=HUBTAEの上に指を置く。
ひとつ前に書いた映画「舟を編む」での紙のぬめり感についてのシーンでも、指を置く。

指を辞書のページの上に置く、羽二重=HUBTAEの上に置く。
そのことで対象物の、いわば領域に指が入ってきたことになる。

羽二重=HUBTAEの発表会では、羽二重=HUBTAEは平面の台に置かれていたわけではなかったが、
たとえば羽二重=HUBTAEが平面の台に置かれているとする。
きれいに伸ばされた状態で置かれている。

それをじっと見ていても、質感はある程度は伝わってくる。
この状態では、視覚的に羽二重=HUBTAEの上に指はない。
ふれようとして指を近づける。視界に自分の人差し指が入ってくる、
指の侵入なのかもしれない。そしてふれる。

指でふれる、ということは、そういうことだと思うようになってきた。

Date: 11月 18th, 2014
Cate: オーディオマニア

オーディオマニアの覚悟(その1)

オーディオマニアの覚悟にするか、オーディオマニアとしての覚悟にするか、
そこで迷いながら書き始めている。
タイトルを思いついただけで書き始めた。

オーディオマニアに覚悟が求められるのか、必要であるのか──、
オーディオマニアの覚悟、オーディオマニアとしての覚悟、
そんなこと、覚悟なんて考えるのはオーディオを大袈裟に考え過ぎとする人にとっては、
オーディオマニアの覚悟は、どうでもいいことになる。

オーディオマニアの覚悟とは、どういうものなのか。
まだなんともいえない。

まず浮んだのはグレン・グールドがコンサート・ドロップアウトするとき、覚悟があったのかなかったのか。
覚悟がなければ、コンサート・ドロップアウトはできなかったのではないか。

オーディオマニアの覚悟、なんなのだろうか。

Date: 11月 18th, 2014
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(Good Reproduction・その2)

High Fidelity ReproductionとGood Reproduction、
どんなに言葉でことこまかに定義してもすべての人から同意が得られるわけではない。

あるスピーカーシステムについて、ある人はハイ・フィデリティだと感じ、
私はグッドリプロダクションだと感じることだってある。反対のことだってあるだろう。

例えばタンノイのKingdomというスピーカーシステムがある。
現在のKingdom Royalではなく、1996年にタンノイ創業70周年記念モデルとして登場したKingdomのことだ。

30cm口径同軸型ユニットを中心に、低域を46cm口径のウーファーで、高域をドーム型トゥイーターで拡張した、
実に堂々としたフロアー型システムである。

ここまで大型のシステムとなると、
物量投入型システムが多いアメリカの製品であって、これだけの規模のモノとなると数は少ない。
Kingdomがイギリスのスピーカーシステムとして、
ヴァイタヴォックスの業務用のBass Binを除けば最大規模といえよう。

Kingdomの重量は170kg。外形寸法こそBass Binよりも小さいけれど、Bass Binの重量も170kgと発表されている。
このKingdomは、ハイ・フィデリティなのだろうか。

Kingdomをハイ・フィデリティかグッドリプロダクションかでわけるとすれば、
ハイ・フィデリティとする人が多いかもしれない。
私は、それでもKingdomはやはりグッドリプロダクションのスピーカーシステムだと捉えている。

確かにこの時代のタンノイの他のスピーカーシステムと較べればHigh Fidelityである。
ということはHigher Fidelityではないのか。
ならばKingdomはハイ・フィデリティではないのか。

それでもKingdomは、はっきりとグッドリプロダクションと言い切る。

Date: 11月 17th, 2014
Cate: 所有と存在

所有と存在(その2)

できるもの、できないもの」の(その1)で、音は所有できない、と書いた。
二年前に書いた。
いまもその考えは変らない。

音は所有できない。
所有できるのは、あくまでもオーディオ機器とそれを設置し鳴らす環境でしかない。

オーディオとはオーディオ機器とその環境だと定義すれば、オーディオは所有できることになる。
オーディオとは、つまるところ「音」であるとするならば、オーディオは所有できない。

音楽に関しても同じことはいえる。
SP、LPといったアナログディスク、CD、SACDといったデジタルディスク、
これらを所有することはできる。
お金が許すかぎり、置けるスペースがあるかぎり所有できる。

これらのパッケージメディアを音楽と定義するなら、音楽は所有できるといえる。
アナログディスクは溝の刻まれた円盤でしかない、
デジタルディスクは肉眼では見えないほど小さなピットが無数にある円盤でしかない。

これらを再生するシステムを所有していても、音楽を所有できる、といえるだろうか。

所有できるのは、器である。
LPという器、CDという器、
アンプやプレーヤー、スピーカーといったオーディオ機器という器、
リスニングルームという器。

器だけである。

Date: 11月 17th, 2014
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(RIAAカーヴについて・まず大事なのは、フラットをもってものごとの始まりとす)

ステレオサウンド 61号から63号まで、
池田圭氏による「フラットをもってものごとの始まりとす」という記事が載っている。
dbxの20/20の記事である。

61号は1981年に出ている。
いまから33年前のことである。

そんな以前の池田圭氏のタイトルの意味を考えている。
「フラットをもってものごとの始まりとす」、
ほんとうにそうだと思うからだ。

RIAAカーヴについての論議も、「フラットをもってものごとの始まりとす」でなければならないのに、
実際は多くの人がフラットであることに対して無関心・無頓着であったりする。

確かにメーカー製のスピーカーシステムであるなら、
それも名のとおったメーカーのモノであるなら、おかしな周波数特性はしていない。
カタログに載っている周波数特性グラフをみても、多少のピーク・ディップはあっても、
時代が新しいスピーカーであれば、大きく見れば平坦(フラット)ともいえる。

だがそれを鳴らしているから、自分の部屋で自分の耳に届いている「音」がフラットだという保証はどこにもない。
それにカタログに載っている周波数特性は、出力音圧レベルのグラフであり、
いわばスピーカーの振幅特性を表しているにすぎない。

私的イコライザー考」の(その12)で書いたことを、またくり返しておく。
振幅項(amplitude)と位相項(phase)があり、
それぞれを自乗して加算した値の平方根が周波数特性となる。

つまり振幅項と位相項をそれぞれ自乗して加算した値の平方根、
これをフラットにすることから、ものごとは始まる。

Date: 11月 16th, 2014
Cate: オーディオのプロフェッショナル

こんなスピーカーもあった(その5)

ソニーのCDプレーヤー、CDP777ESDを使っていたことがある。
このCDプレーヤーの電源トランスは、デジタルとアナログで独立していて、リアパネルに取り付けある。
電源トランスが外部に露出するような形で取り付けてある。
もちろん剥き出しの電源トランスではなくシールドケースに収められた状態ではある。

この取り付け方も、ソニーのエンジニアがある問題を解決しようとしての結果であるわけだが、
使いこなす側からみれば、別の問題があることをわからせてくれる。

ステレオサウンドの試聴室で、CDP777ESDを使っていた時に、井上先生がある指示を出された。
そのとおりやってみると、驚くほど音が変化する。

ここでこういうことをやると、これだけ音が変化するのか。
自分で使っているCDP777ESDでもさっそく試してみた。
試してるうちに、こういうふうにしたら、もっといい結果が得られるのではないか、とあることを考えた。
CDP777ESDのリアパネルを加工する必要があったため実験することはなかった。

それから半年ぐらい経ったころ、パイオニアからPD3000というCDプレーヤーが登場した。
PD3000もCDP777ESDと同じように電源トランスがリアパネルに、外部に露出するような形で取り付けてある。

けれどPD3000にはCDP777ESDにはなかった工夫があった。
PD3000の方法は、私が考えていたのと、ほとんど同じだった。

外部に露出している電源トランスに専用の脚を用意する。
さらにリアパネルとはなんらかの緩衝材を介することでフローティングする。
PD3000も同じことを考えていたわけである。

PD3000を見て、同じことを考える人は常にいることを知った。
おそらくパイオニアのエンジニア、私以外にも、同じことを考えていた人はいるだろう。

同時代に同じアイディアを思いつく人は三人はいる、らしい。
そうだと思う。
さらに時代を遡れば、三人程度ではなく、もっと多くの、同じ発想をしていた人たちがいると思ったほうがいい。

この項の(その2)で書いているように、
松ぼっくりをスピーカーシステムのエンクロージュア内に入れてみたら……、と思いついた人がいる。
このアイディアはずっと以前に製品になっている。
その3)でのテクニクスのNFBのアイディアも、過去にいくつもの例があった。

それゆえに、「だからこそ」が大事なのにと思う。
それを怠る者が、プロフェッショナルを騙っている。