Archive for 8月, 2013

Date: 8月 15th, 2013
Cate: よもやま

ただ、ぼんやりと……(なぜ、オーディオだったのか)

ぼんやりと、そんなことを思いながら、
ある時、なぜ、オーディオだったのか……、という疑問が湧いてきたことがある。

割と飽きっぽいところがある。
そんな性格の私がずっとやってきている、このオーディオという趣味は、
私にとってなんなのか、より、なぜ、オーディオだったのかが重要な意味をもつ。

これについては、あっさりと答が出た。

くわしいことはあえて書かないが、オーディオをやらなければならなかった、ということだし、
オーディオでやらなければならないことがあったし、これからもやらなければならないことがあるからだ。

ひとつだけ書けば、
オーディオのおかげでつよくなれた、という実感はある。

Date: 8月 15th, 2013
Cate: 現代スピーカー

現代スピーカー考(その30)

スピーカーにおけるピストニックモーションの追求は、はっきりと剛の世界である。

その剛の世界からみれば、
ジャーマン・フィジックスのスピーカーシステムに搭載されているDDD型ユニットのチタンの振動板は、
理屈的に納得のいくものではない。

DDD型のチタンの振動板は、何度か書いているように振動板というよりも振動膜という感覚にちかい。
剛性を確保することは考慮されていない。
かといって、コンデンサー型やリボン型のように全面駆動型でもない。

スピーかーを剛の世界(ピストニックモーションの追求)からのみ捉えていれば、
ジャーマン・フィジックスの音は不正確で聴くに耐えぬクォリティの低いものということになる。

けれど実際にDDD型ユニットから鳴ってくる音は、素晴らしい。

ジャーマン・フィジックスのDDD型ユニットは、
1970年代にはウォルッシュ型、ウェーヴ・トランスミッションライン方式と呼ばれていた。
インフィニティの2000AXT、2000IIに採用されていた。
2000AXTは3ウェイで5Hz以上に、2000IIは4ウェイで、10kHz以上にウォルッシュ型を使っていた。

1980年代にはオームから、より大型のウォルッシュ・ドライバーを搭載したシステムが登場した。
私がステレオサウンドにいたころ、伊藤忠が輸入元で、新製品の試聴で聴いている。
白状すれば、このとき、このスピーカー方式のもつ可能性を正しく評価できなかった。

ジャーマン・フィジックスのDDD型ほどに完成度が高くなかった、ということもあるが、
まだ剛の世界にとらわれていたからかもしれない。

Date: 8月 15th, 2013
Cate: オリジナル

オリジナルとは(続×二十三・チャートウェルのLS3/5A)

アルテックの612Aをマランツの真空管アンプ、Model 7とmodel 9でもし鳴らされていたら、
「滑らかに澄んで、ふっくらとやわらかなあの美しい歌声」でエリカ・ケートのモーツァルトは鳴らなかった、
と断言できる。

おそらく、ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ」のMcINTOSH号での記事での発言ようになっていたはずだ。
この項でも以前引用していることを、ここでもう一度引用しておく。
     *
マランツで聴くと、マッキントッシュで意識しなかった音、このスピーカーはホーントゥイーターなんだぞみたいな、ホーンホーンした音がカンカン出てくる。プライベートな話なんですが、今日は少し歯がはれてまして、その歯のはれているところをマランツは刺激するんですよ。(笑)マッキントッシュはちっともそこのところを刺激しないで、大変いたわって鳴ってくれるわけです。
     *
瀬川先生の発言である。
612Aをマランツの組合せで鳴らしたら、
瀬川先生にとってアルテックのスピーカーの気になるところが、ストレートに出て来てしまったはず。

エリカ・ケートのモーツァルトが、「初夏のすがすがしいある日の午後に聴いた」ように鳴ったのは、
アルテックの612Aというスピーカーシステムのもつ毒と、
マッキントッシュのC22とMc275というアンプのもつ毒、
どちらも瀬川先生の音の好みからすると体質的に受け入れ難い毒同士が化学反応を起して、
非常に魅力的な、それはある種の麻薬のような音を生み出したからこそ、
瀬川先生の「耳の底に焼きついて」、
「この一曲のためにこのアンプを欲しい」と思わせるだけの力を持ったといえる。

これがオーディオ的音色のもつ魅力が、音楽とうまく結びついて開花した例であり、
こういう音を、一度でもいいから聴いたことのある聴き手と、そういう体験をもたない聴き手では、
オーディオへののめり込み方、取り組み方に、はっきりとした違いをもたらす。

同じくらい、オーディオを通して音楽を聴くことに強い関心をもっていたとしても、
こういう体験の有無がもたらす違いは、オーディオ機器の評価においても、
時としてはっきりとした違いを生む場合がある。

そのことを抜きにして、実はオーディオ評論は語れないはずだ。

Date: 8月 14th, 2013
Cate: スピーカーとのつきあい

複数のスピーカーシステムを鳴らすということ(その14)

ダイヤトーンのDS1000は面白いスピーカーシステムであったし、
きわめて冷静なスピーカーシステムでもあった。

ステレオサウンドで働いていたから、井上先生の鳴らすDS1000の音が聴けた、
聴けたからDS1000の面白さを知ることができたわけだから、
こんなことを書くのは矛盾がなきにしもあらずなのはわかっているが、
ステレオサウンドで働いていなければDS1000を買っていたかもしれない。

ステレオサウンドでDS1000は聴ける──、
それがあったから買わなかったわけで、つまりDS1000に愛着、思い入れ的な感情はもてなかった。

もっともステレオサウンドにいなければ井上先生が鳴らすDS1000の音は聴けなかったわけだから、
結局買わなかった……、のかもしれない。

当時住んでいた部屋が、それでも倍くらいの広さがあれば買っていたと思う。
物理的にDS1000をサブスピーカーとして置けるだけの余裕がなかったことも、理由として大きい。
DS1000の、ずっと小型版がでないものか、と思っていた。

DS9Zが出た。
小型の2ウェイで、正面からみれば台形のエンクロージュアである。
これならばサイズ的にも置ける。
買おうかな、と考えていたら、先に編集部のO君に買われてしまった。

O君は、私が買おうとしていたのを知っていたから、こっそり買っていた。
彼が購入後、しばらくして編集部のS君とふたりでO君の部屋に押しかけたときに、知った。

彼はマッキントッシュのMC2500(ブラックパネル)で、鳴らしていた。
愛着を持って鳴らしていたのを聴いて、私はDS9Zの購入をやめた。

先を越されたということも多少はあったけれど、
私はDS9Zを愛着をもって鳴らそうとはしていなかったことに気づかされたからである。

Date: 8月 14th, 2013
Cate: スピーカーとのつきあい

複数のスピーカーシステムを鳴らすということ(その13)

ダイヤトーンのDS1000に関しては、擬人化で語ろうという気はなかったことに、
しばらくして気がついた。

DS1000の一般的な評価は、
私がステレオサウンドの試聴室で井上先生によって鳴らされた音で高く評価していたのとは少し様相が違っていた。
井上先生によって鳴らされるDS1000の音に驚いていたけれど、
オーディオ店での決していいとはいえない環境ではどう鳴るのかは容易に想像できたし、
DS1000を最低限鳴らせるだけの使いこなしのテクニックを持っている人も、そう多くはなかったのだから、
当然とはいえ、DS1000の真価を伝えられないもどかしれも感じていた。

どんなスピーカーであっても、それを鳴らすという行為は、
鳴らす人間が試されていることであるわけだが、その点において、DS1000は特にシビアだった。
その意味では、若いスピーカーシステムといえる。

スピーカーシステムが、鳴らし手よりも年上であれば、
鳴らし手の未熟さも、まあ大目にみてやろう的なふところの深さみたいなものに助けられる、
そういった面も確かにあるけれど、
DS1000には、それがまったくなかった。
だから、よけいに鳴らし方がシビアだった。

でも、そのシビアさは人によっては、快感につながっていく。
これだけやれば、それが間違っていない方向であれば、音は確実にいい方向へと向っていく。

いろいろなもの・ことを吸収していく年齢のころに、DS1000が登場した。
だからこそ、DS1000は、よりつよく面白いスピーカーシステムだと感じていた。

自分のレベルを容赦なく見せつけるDS1000に対しては、擬人化で捉えようという意識はまったくなかった。
こういうスピーカーシステムが、若いときにあったことを幸運だと思っている。

Date: 8月 14th, 2013
Cate: オーディオマニア

ただ、ぼんやりと……選ばなかった途をおもう(その1)

心地よい温度の湯につかっていると、ぼんやりできる。
ぼんやりしているのが好きだから、風呂にはいっているのかもしれない。
電車に乗っていても、iPhoneを見ているときもあるが、ぼんやりしている時間のほうが長い。

ひとりで風呂につかっているとき、ひとりで電車に乗っているときぐらいは、
ぼんやりしていてもいいじゃないか、と思うほどに、ぼんやりしている時間が好きである。

ぼんやりしていると、考えることよりもなんとなく思ってしまう。
二年に一度くらい、そのぼんやりした時間におもうことのひとつに、
オーディオに興味を持たなかったら……、ということがある。

中学二年のときに「五味オーディオ教室」を読んだ。
もし「五味オーディオ教室」と出逢っていなければ、教師になっていたと思う。

父は、中学の英語の教師をやっていた。
母は口に出していわなかったけれど、長男の私には、教師になってほしかったようだ。
なんとなくだけど、母の気持はわかっていたし、
中学のころは本気で理科の教師になたたい、と思っていた。

理科の授業がおもしろかったし、中学のときの理科の先生もいい先生だったことも影響している。
単に教室で生徒に授業をするだけが教師の仕事ではないことは、
父を見ていてわかっていた。

いろいろ大変なこともあるのはわかっていた。
それでも、教師という仕事は面白いだろうな、と思っていた。

それが「五味オーディオ教室」と出逢い、オーディオに急速にのめり込んでいく。
それでも中学三年くらいまでは、教師を目指そうとしていた。
でも高校に入り、ますますオーディオの熱は高くなるばかり。
結局、教師になることはどこかへと消えてしまっていた。

「五味オーディオ教室」に出逢わない人生ではなかったわけだから、こうなってしまったわけだが、
それでも教師になっていたら、生れ故郷の熊本から離れることなく暮らしていた、はず。

音楽は聴いていただろう。
多少はいい音で聴いているのかもしれない。
でも、audio sharingをつくることもなかったはず。
twitterもやっていないと思う。
facebookは、twitter以上にやらない、といえる。

ましてfacebookにaudio sharingという非公開のグループをつくるなんてことは、絶対にやらなかった。
このブログにしても、そうだ。
オーディオをやっていなければ、やっていない。

ぼんやりしていたい男なのだから。

湯につかりながらぼんやりしているときに、そんなことを思っている。

何をやっているんだろうな……、とも思う。
でも、facebookグループのaudio sharingに参加している人同士で知合いになられているのをみると、
少しは人様のお役に立っているんだな、ともおもっている。

Date: 8月 14th, 2013
Cate: 山中敬三

深く頷いたこと(山中敬三氏の場合)

ステレオサウンド 50号に
岡先生と黒田先生の対談による「ステレオサウンドに登場したクラシック名盤を語る」が載っている。

そこにこうある。
     *
黒田 第17号にセル指揮のウィーン・フィルのベートーヴェンの「エグモント付帯音楽」(ロンドン盤)がのっていますが、これも印象にのこっている一枚です。いつでしたかオーディオ評論家の方々のリスニングルーム訪問をやったときに、山中さんがこれをかけてくださったんですけれど、そのときの音というのは、いまでも忘れられませんね。
 山中さんの装置だと、このレコードはとくにいい音になるでしょうね。
     *
残念ながら、私は山中先生のリスニングルームでセルの「エグモント」は聴いていない。
でも、黒田先生の話されたことは、よくわかる。

きっとそうだ、とおもう。

Date: 8月 14th, 2013
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(その7)

プリメインアンプとしてのデザイン、
コントロールアンプとしてのデザインについて考えるのに、
この時代(1970年代後半)をとりあげるのにはわけがある。

オーディオに興味を持ち始めたばかりの私だったから、
とにかく世の中にどういう製品、どれだけの製品があるのかを知りたかった、知り尽したかった。
ひたすら吸収するときでもあった。

この時代のオーディオに関心のある人ならば、そうだったな、と思い出されるはずのことがある。
マランツのプリメインアンプModel 1150MKIIとコントロールアンプModel 3600、
ラックスのプリメインアンプSQ38FD/IIとCL35/IIIの存在である。

1150MKIIと3600は同じパネルをもつ、
SQ38FD/IIとCL35/IIIも同じパネルをもっている。

プリメインアンプとコントロールアンプが、まったく同じといっていいパネルデザインなのだ。
こういう例はほかのメーカーにもある。
ソニー、サンスイ、テクニクスなどもそうである。

ちょうどオーディオに興味を持ち始めたころだったから、
意外な感じがしたのを憶えているとともに、
その中でもマランツとラックスのプリメインアンプとコントロールアンプのデザインの共通は、
他のメーカー以上に強いものであり、やや不思議な存在だった。

そして、このふたつのメーカーのアンプには、ある共通項がある。
マランツのコントロールアンプModel 7の存在だ。

Date: 8月 14th, 2013
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(その6)

SA600のシャーシーにSG520の内容を収納しても、
SA600のデザインをコントロールアンプとして認識することができないであろう、ということは、
AGIの511のシャーシーに、QUADの405を中身を収納してプリメインアンプとしたところで、
511のデザインをプリメインアンプとして認識できるかどうか、というところは同じことである。

私は、プリメインアンプとコントロールアンプの違いを、
デザインのどこにその差異を感じて、判断しているのだろうか。

私がオーディオに興味を持ち始めた1976年、
このころのコントロールアンプは薄型が流行っていた。
ヤマハのC2があり、ラックスからも管球式ながら薄型のCL32が出ていたし、
他のメーカーの新型コントロールアンプは薄型が多かった。

その流行をつくったのは、マークレビンソンのJC2だといわれているし、
薄型の流行以前に登場していたコントロールアンプの中には、かなり大型のモノもいくつかあった。
サイズ的には、そのままプリメインアンプのシャーシーとして使える大きさであった。

例えばヤマハのCI、パイオニアのExclusive C3などがあった。
他にもいくつかあった。

とにかく、これらのモノを見ながら、プリメインアンプとしてのデザイン、
コントロールアンプとしてのデザインを感じとっていたのだろうか。

この時代、それに続く時代があっても、
私の感覚は、プリメインアンプとしてのデザイン、コントロールアンプとしてのデザインを、
いつまにか判断するようになっていったのだろうか。

Date: 8月 13th, 2013
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(その5)

あるとき、SA600のデザインでコントロールアンプだったら、ということを考えたことがある。
シャーシーのスペース的にはまったく問題ない。
SG520の内容をそのまま移植することは無理ではない。

SG520のデザインよりもSA600のデザインに魅かれる私は、そんなことを考えた。
考えたものの、どうしてもSA600はプリメインアンプという認識を消し去ることができないのに気づいた。

なぜなのだろうか。

SA600がプリメインアンプだということを既に知っているからなのだろうか。
どうもそういう問題ではない気がする。

SA600は、やはりプリメインアンプのデザインなのだ、という答が自分の中から返ってくる。

プリメインアンプのデザインといっても、
SA600のパネルレイアウトはそのままコントロールアンプとして流用できるものだ。
にも関わらず、なぜSA600をいつまでプリメインアンプとして認識してしまうのか。

仮にSG520をSA600に移植したとして、
プリメインアンプという認識を書き換えることができるのだろうか。
どうも無理なような気がする。

とすると、私はSA600のどこにプリメインアンプということを感じているのだろうか。
それを問いかけることになる。

Date: 8月 13th, 2013
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(その4)

SG520の内部は、非常にこみいっているところと、余白とでもいいたくなるところがある。
これはマランツのModel 7も似ている。
内部は均等な密度に構成されているわけではない。

パネルレイアウトから考えれば、これも仕方ないことだと理解できるが、
メンテナンスを面倒にしている、のも事実である。

JBLのプリメインアンプのSA600の内部は、そういったところはない。
余白といえるところはない。
SG520よりも小さなシャーシーに、SG520とSE400Sと同等の内容をつめこんでいるのだから、
そうなって当然である。

40W+40Wの出力のプリメインアンプがこのサイズで、
コントロールアンプが、あの大きさということが、
頭では納得いっても心情的に納得できないところが、どうしても残る。

SA600の内部に余白はないけれど、SA600のパネルには余白といえるところがあって、
このところが、私はまた気に入っている。

ベイシーの菅原昭二氏さんが、C40 Harkness、
それも右チャンネルのHarknessの左上にSA600を置いてジャズを聴く──、これでよい、
といったことを書かれていたと記憶している。

その気持はわかる。
でも個人的にはSA600との組合せはデザインの面でも魅力的ではあっても、
SA600だけで満足できないという欲の深さもある。

菅原氏はベイシーという場所において、これだけのシステムを鳴らされているから、
自宅ではHarknessの上に置いたSA600で、という心境になるのかしれない。

HarknessにSA600、
この組合せについては私も以前考えていた。
誰もが考える組合せだろう。
菅原氏のように、もっと具体的に、
右チャンネルのHarknessの左上に、といったことまでは考える人は少ないだろうが。

Date: 8月 13th, 2013
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(その3)

1960年代のJBLのアンプに、
プリメインアンプのSA600とコントロールアンプのSG520がある。

SG520はスライドボリュウムとボタンスイッチによるパネルデザイン、
SA600は丸ツマミとレバースイッチによるパネルデザイン、
どちらが好きかといえば、私はためらわずSA600をとる。

SG520は短い期間ではあったけれど使っていた。
SG520が登場した1960年代なかばは、まだまだ管球式ンプが現役といえた時代である。
トランジスターアンプに対する評価は、
そういった管球式アンプとの比較で欠点を指摘されることが多かった時代、ときいている。

そういう時代にJBLは、
トランジスターアンプならではの、それまでの管球式アンプでは聴けなかった新鮮な音を出したアンプとして、
そのことを視覚的に打ち出したことが、あのパネルデザインなんだろう、とは理解できる。

けれど、その後のコントロールアンプを見てきていた目には、
SG520が、もう少し薄型であったなら、もっとスマートな印象になるのではないか、といつも思っていた。

もっともシャーシーの高さは、使用されているスライドボリュウムのストロークから決ったものであろうから、
あれ以上薄くすることは無理なのも理解している。

それでも、もう少しだけ薄くあったら……、と思ってしまうのは、SA600の存在があるからだ。

Date: 8月 13th, 2013
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(その2)

10代、20代のころは、とにかく物量を投入したモノに強い魅力を感じていた。
QUADもいい、と感じていた。
けれどそのころの私にとってのQUADに感じる良さは、メインのシステムとして見ていたわけではなく、
物量をおしみなく投入したメインのシステムを所有していたうえでの、
別のシステムとしてのQUADの存在が魅力であった。

DBシステムズのアンプのように、コンパクトで、外観にほとんど気を使わず、
コストを抑えるよう設計されたモノにも感じながらも、
もしDBシステムズのアンプを自分のモノとしたら、
外付けの電源を物量投入のものに改造したりする自分が見えてもいた。

物量が投入されていればいい、というわけではない。
それでいて凝縮されていなければならなかった。

そのころ妄想していたことがある。
私がオーディオに関心をもち始めた1976年には、
AGIのコントロールアンプ511とQUADのパワーアンプ405の組合せが話題になっていた。
そのときは、ただそうなんだぁ、という感じで記事を読んでいた。
数年が経ち、ステレオサウンドに入り、511、405に触れ、中を見ることができるようになると、
以前相性のいいといわれた、このふたつのアンプを、ひとつの筐体にまとめることはできないものだろうか、と。

具体的にいえば、511のシャーシーの中に、405の中身を追加する、ということだ。
スペース的に、決して不可能なことではない。
基板の配置やシールドには配慮が必要になるだろうが、おさめようと思えばできる気がしてくる。

実際にやりはしなかったけど、511の中に511と405を組み込めれば、
なかなか魅力的なプリメインアンプとなるわけだが、
そこで思ったことがある。

そうやって改造した511を、私はプリメインアンプとして認識できるのだろうか、と。
511のデザインを、プリメインアンプのデザインとして認識し直すことができるのだろうか。

Date: 8月 12th, 2013
Cate: アナログディスク再生

一枚のレコード

レコード会社からマスターテープを借り出してきて、
通常のLPよりも厚手のプレスを行ったり、リマスターをすることで高音質を謳うLPが、
複数の会社から登場し始めたのは1980年代からだ。

オーディオマニアとして、高音質盤というのを無視できない。
当時はステレオサウンドにいたこともあって、こういったレコードを聴く機会はめぐまれていた。

すべてのディスクを、
オリジナル盤もしくはレコード会社からその時点で入手できる盤との直接比較を行ったわけではない。
そういったことを行わずとも、首を傾げたくなるレコードが少なからずあった。

あるレーベルの、ブラームスの交響曲のディスクは、全体的に乳白色の膜が張り付いたような、
聴いていてもどかしさを感じる。
この指揮者が、こんな気の抜けたような演奏をするわけがないのに……、
そう感じてしまうほど、変質していた。
でも、アメリカでは、そのレーベルのリマスターは高く評価されていた。

ひどい例は他にもあったけれど、
上記のレコードは、私が好きな指揮者の、好きな作曲家のレコードであっただけに、
悪い印象が、他の盤よりも強く刻まれてしまっている。

このときから10数年後、あるところで偶然、このLPを聴くことがあった。
変っていないのだから、当然なことなのだが、音の印象はそのままだった。
これを高く評価するということは、
そこに刻まれている音楽と完全に乖離したところでの音だけの評価ということになる。

そういう楽しみ方がオーディオにはあることはわかっていても、
少なくとも私は、この盤を出していたレーベルを信じることは絶対にない。

悪い盤ばかりではなかった。
いいな、と思うものもあった。
その中で、いまも強烈に記憶に刻まれているのは、1987年ごろリンから出ていた盤だ。
エーリッヒ・クライバーによるコンセルトヘボウ管弦楽団を指揮したベートーヴェンの第五番だ。
1949年のライヴ録音。

この録音を聴くのも初めてだった。
1949年のライヴ録音だから、優秀録音なわけはないのだが、
そこに刻まれている音楽と一体になった音は、良い録音というべきだろう。

そしてカルロス・クライバーの前には、エーリッヒという父がいたことを意識せざるを得ない、
そういうすごい演奏だった。

リンによるLPから鳴ってきた音も見事だった。
こういうレコードをつくれる会社なんだ、と、それからはリンを信用できるようになった。

口幅ったい言い方になってしまうが、
この会社、すくなくともレコードをつくっている部門は、音楽をわかっている──、
そう感じさせてくれたからこそ、いまも強烈な印象のままなのだ。

Date: 8月 12th, 2013
Cate: 楽しみ方

オーディオの楽しみ方(キースモンクスのトーンアーム・その5)

トーンアームは、トーンアームというオーディオ・コンポーネントである。
そうはいっても、トーンアームを、
ほかのコンポーネント、たとえばスピーカーシステム、アンプ、チューナーとまったく同一視できるかといえば、
そうとはいえない性格も持ち合わせている。

トーンアームは、スピーカーユニットに近い。
スピーカーユニットは、フルレンジユニットであれば、
それ単体を床に転がして状態でも鳴らそうとすれば、音は鳴ってくれる。
けれどトゥイーターだと、すくなくともローカットフィルターは最低必要になる。

スピーカーユニットは、他のユニット、ネットワーク、エンクロージュアと組み合わせて、
ひとつのスピーカーシステムを構成する上での部品(パーツ)でもある。

トーンアームも、ターンテーブル、キャビネット、カートリッジと組み合わせて、
アナログプレーヤーシステムを構成する部品(パーツ)である。

その意味でトーンアームはスピーカーユニットに近いといえ、
トーンアームはそれでも半完成品の性格も、さらに持っている。

スピーカーユニットは購入してきて箱から取り出せば、
それでスピーカーユニットとしては完成された製品といえる。

トーンアームは、箱から取り出しただけではトーンアームの形になっていないモノがほとんどだ。
メインウェイトを取り付け、モノによっては針圧調整用のサブウェイトも取り付ける。
SMEならばインサイドフォースキャンセラー用の糸吊りの重りのためのステーを取り付ける。
その上で、重りをセットする。

トーンアームがほかのモノだと、このへんは少し変ってくるけれど、
購入したユーザーがいくつかのパーツを自らの手で取り付けることで、
トーンアームはトーンアームとしての形をとることができる。

その意味で、トーンアームには半完成品の魅力を感じるし、
その半完成品の魅力が、あれこれを考えさせることにも、私の中ではつながっている。