Archive for 12月, 2012

Date: 12月 13th, 2012
Cate: ジャーナリズム

「言いたいこと」を書く(さらにはっきりと)

2009年11月25日、同じタイトルで書いている。
その記事は1001本目であり、
1000本目で1クールが終り、1001本目から2クールがはじまる、といったことを書いた。

そのとき、

これまでの1000本は、すこし遠慮して書いてきたところもある。
これからの1000本は、「言いたいこと」をはっきりと書いていく。

こう結んでいる。

2日前の2012年12月11日の「続・ちいさな結論(その6)」が3000本目だった。
これで3クールが終り、4クールがはじまっている。

2000本目を書いたときも、これからの1000本は、はっきりと書いていく、と決めていた。
それでも、まだ遠慮して書いてきたところがある。
過激にならないようにおさえて書きながらも、はっきりと書いていくようつとめていた。

3000本目を書いた。すでに3001本目も書いた、3006本目まで書いている。
3001本目からは、「言いたいこと」をさらにはっきりと書いていこう、と決めている。

1000本ごとに少しずつ抑えているものを外しながら書いていけそうな気がしている。

Date: 12月 13th, 2012
Cate: ジャーナリズム

あったもの、なくなったもの(その8)

30年以上前のステレオサウンドにあって、
最近(といってもここ数年ではなくて、もっと期間は長いのだが)のステレオサウンドに「なくなったもの」が、
なんなのか、もったいぶらずに書けばいいじゃないか、といわれるかもしれない。

ここでそれについて書くのは簡単であるし、時間もかからない。
なのに書かないのは、関係のない者から指摘されて、
そのことについてステレオサウンド編集部が納得したとしても、
自分たちで気がついたことでないことだから、いずれまた忘れてしまう。
大切なことから人はみな忘れてしまう──、
そのことをいくつもみてきているし、世の中にもいくつも、数えきれないほどある。

だからこそ自分たちで気がつかなければならないことである。
それができなければ、ステレオサウンドの誌面は良くすることはできても、さらにつまらなくなっていく。

ステレオサウンドのライバル誌として、一時期のスイングジャーナルがあった。
ジャズ・オーディオということに関してはステレオサウンドのライバルであったし、
ジャズ・オーディオに限れば、ステレオサウンドよりも影響力のあった雑誌だった。

そのスイングジャーナル、スイングジャーナルという会社とともに消えてしまった。
私には、このこともステレオサウンドがつまらなくなったことも同じ理由によるものだととらえている。
スイングジャーナルが熱を帯びていたときには「あったもの」が、
いつしか薄れ消えてしまっていた。
だから「つまらなくなった」という声が出はじめ、なくなった……。

Date: 12月 12th, 2012
Cate: ジャーナリズム

あったもの、なくなったもの(その7)

編集者は、良くしていこう、と考えている。
記事を良くしていくことを考えている。
このことはいまのステレオサウンドの編集者も私が編集という仕事をやっていたときも同じはず。

けれど、これが時として雑誌をつまらなくさせていることに関係していることを、
編集という仕事を離れて、それもある程度の月日が経ってから気がついた。

ほんとうは編集という仕事をやっているときに気がつかなければならないことを、
私はそうではなかった。
だからこそ、いまの編集部の人たちも、
この「良くしていこう」という陥し穴にとらわれているようにみえる。

しかも「良くしていこう」とした成果は、あらわれている。
誤植が減ってきたのもそのひとつだし、発売日が守られているのももちろんそうである。

「良くしていこう」というのは決して間違いではないからこそ、
「良くしていこう」という陥し穴には、編集の現場にいるとよけいに気がつきにくいではないだろうか。

なぜなのかについて書くことも考えた。
けれど、これは編集の現場にいる人たちが自ら気がつかなければならないことである。

あったもの、なくなったもの──、
このふたつのことを考えていけば、きっと答にたどりつける。
たどりついてほしい、と思っている。

この項の(その4)に書いた「なくなったもの」ではない、違う何かがなくなっている、からである。

Date: 12月 12th, 2012
Cate: ジャーナリズム

あったもの、なくなったもの(その6)

関係のない者が好き勝手なことを書いている──、
そう関係者は思うかもしれない、とそんなことは承知のうえで書いている。
それに「つまらなくなった……」と思っているのは、おまえのまわりの人間だけだろう、ともいわれることだろう。
類は友を呼ぶ、というから、私のまわりには「つまらなくなった……」という人が集まるのかもしれない。

それでも、あえてこんなことを書くのは、ステレオサウンド編集部にいたときには気づかなかったことが、
離れてみると、ふしぎなことによく見えてくる。
見えてくると、あったもの、なくなったものがはっきりとしてくる。
そうなると当然、なぜそうなってしまったのか、と考える、からである。

ステレオサウンドの185号が先日発売された。
新しい編集長になってまる二年、八冊のステレオサウンドが出た。

まだ読んでいない。
川崎先生の連載が載っていたころは、発売日に書店に行き購入していたけれど、
川崎先生の連載が終了してからは、購入をすっぱりとやめた。
それでも発売日には書店に行き、とりあえず手にとることはあったが、
もうそれもしなくなってしまった。
オーディオに対する情熱が失せたわけではない。

ステレオサウンドがもう必要なくなった、ということもある。
けれど、そうなったとしても、オーディオ雑誌としておもしろいものであれば、買うに決っている。
だから違うところに、
買わなくなった、すぐには手にすることもなくなってきたことに関係している何かがあるわけだ。

Date: 12月 12th, 2012
Cate: ジャーナリズム

あったもの、なくなったもの(その5)

ながくステレオサウンドを読んできた人たちからよく聞くのは、
いまのステレオサウンドはつまらなくなってきた……、といったようなことだ。

ながく、といっても、それは人によって違う。
10年をながく、ととらえる人もいる。たしかに10年同じ雑誌を読んできたら、
それはながく読んできた、といえなくもない。
でも、ここで私がいっている「ながく」は20年でも足りない。
最低でも30年以上前からステレオサウンドを読んできたうえでの、「ながく」である。

私ですら、最初に買ったステレオサウンドから、もう36年になる。

だから10年をながく感じる読者、
たいていは30代前半か20代後半ぐらいの方が多いだろう。
そういう読者の人たちにとって、
ステレオサウンドは、いま出版されているオーディオ雑誌では圧倒的に面白く感じていても不思議ではない。
そういう若い読者からは、私くらいの読者、それよりながい読者の「つまらなくなった……」は、
単に昔を懐かしんでいるだけだろう、と思われている、とも思う。

いまのステレオサウンドの誌面のほうが、
昔のステレオサウンドよりもスマートだし、それに誤植も少ない、などといわれるかもしれない。
たしかに、それらの指摘を否定はしない。
誤植は、私がいたときよりも、私が読みはじめたときよりも、それ以前よりも、確実に減ってきている。
これは認める一方で、変な記述がときどき登場してくるのは、わずかとはいえ増えてきている気もする。

誌面構成はよくなっていると感じるところもあるけれど、そうでないとかんじるところもある。
それでも、ずっとずっと以前、私が読みはじめる前よりもずっと以前のステレオサウンドと比較すれば、
大きな違いである。

でも「つまらなくなった……」は、
そういう良くなったこととか、悪くなったこととは、それほど関係のないことである。

Date: 12月 11th, 2012
Cate: 手がかり

手がかり(その5)

われわれオーディオマニアの大先輩のひとりである池田圭氏は、美空ひばりを聴け、といわれていた。
このことは瀬川先生が「聴感だけを頼りに……」(虚構世界の狩人・所収)が書かれている。
     *
「きみ、美空ひばりを聴きたまえ。難しい音楽ばかり聴いていたって音はわからないよ。美空ひばりを聴いた方が、ずっと音のよしあしがよくわかるよ」
 当時の私には、美空ひばりは鳥肌の立つほど嫌いな存在で、音楽の方はバロック以前と現代と、若さのポーズもあってひねったところばかり聴いていた時期だから歌謡曲そのものさえバカにしていて、池田圭氏の言われる真意が汲みとれなかった。池田氏は若いころ、外国の文学や音楽に深く親しんだ方である。その氏が言われる日本の歌謡曲説が、私にもどうやら、いまごろわかりかけてきたようだ。別に歌謡曲でなくたってかまわない。要は、人それぞれ、最も深く理解できる、身体で理解できる音楽を、スピーカーから鳴る音の良否の判断や音の調整の素材にしなくては、結局、本ものの良い音が出せないことを言いたいので、むろんそれがクラシックであってもロックやフォークであっても、ソウルやジャズであってもハワイアンやウエスタンであっても、一向にさしつかえないわけだ。わからない音楽を一所けんめい鳴らして耳を傾けたところで、音のよしあしなどわかりっこない。
     *
音楽は、すこしばかりの背伸びをしながら聴いていくことで、
音楽の世界はひろがり、音楽の奥深さを知っていくこともある。
背伸びしてきく聴くことを最初から放棄してしまっていては、
世の中には、ひとりの人間が生涯をすべてを音楽を聴くことのみに費やしても、
聴き尽くせぬほど多くの音楽が生まれてきている。

どんな音楽好きといわれる人でも、これまで生れてきた音楽の一割も聴けていないのかもしれない。
それだけ多種多様な音楽があるからこそ、聴き手は背伸びして聴くことがあるし、それが求められることもある。

けれど音の良し悪しを判断するときに背伸びしていたら、足下が覚束なくなる。
そんな状態で確かな音の判断ができるわけがない。

ここでも、自分の音の世界を拡充していくために背伸びしていくことは当然必要である。
でも、それは音の良し悪しを判断することとは異ることだ。

瀬川先生の「聴感だけを頼りに……」から、もうすこし引用しておきたい。
     *
 良い音を聴き分けるにはどうしたらいいか、と質問されたとき、私は、良い音を探す努力をする前にまず、これは音楽の音とは違う、この音は違うという、そう言えるような訓練をすることをすすめる。ある水準以上の良い音を再生して聴かせると、誰でもまず、その音の良いということは容易にわかる。その良さをどこまで深く味わえるかは別として、まず良いということがわかる。ところが反対に、音を少しずつ悪くしていったとき、あ、この音はここが変だ、ここが悪い、とはっきり指摘できる人が案外少ない。この音のここは違う、と欠点を指摘できる耳を作るには、少なくともある一時期だけでも、できれば理屈の先に立たない幼少のころ、頭でなく身体が音楽や音を憶え込むまで徹底的に音楽を叩き込んでしまう方がいい。成人して頭が先に音を聴くようになってからでは、理屈抜きに良い音を身体に染み込ませるには相当の努力が要るのではないかと思う。
     *
大切なことを書かれている。
このことを忘れてしまっている人、気づいていない人が残念なことに少なくない──、
私は最近そう感じることが多くなってきた。

Date: 12月 11th, 2012
Cate: 手がかり

手がかり(その4)

最近は使われていないようだが、
柳沢功力氏はステレオサウンドの試聴にローズマリー・クルーニーのディスクをよく使われていた。

ローズマリー・クルーニーのディスクは、私がステレオサウンドにいたころから試聴用に使われている。
LPでもCDになっても使われている。
柳沢氏だけでなく、菅野先生も使われていた。

試聴用のディスクといえば、その時代の最新録音でもっとも音のよいディスクが使われる、
そう思われている方もいるようである。
そういう人からすると、ローズマリー・クルーニーのディスクを、
長いこと試聴用として使うことは理解できないことのようでもある。

数年前のことになるが、インターネットのある掲示板のところで、
柳沢氏がローズマリー・クルーニーのディスクを試聴に使われることに否定的な意見が書きこまれていた。
それに同意する人もいた。

ローズマリー・クルーニーを聴いて、何がわかるの?
これが、そういう人たちの主張するところである。

インターネットで、特に匿名の掲示板となると、
どんな人が書きこんでいるのかはまったくわからないことのほうが多い。
若い人かと思っていたら、ずっとあとになって年輩の人だったり、
その逆だったすることもある。
それに掲示板では過激なことを発言することで知られていた人は、
実生活では控え目で口数の少ないおとなしい人だということを耳にしたことがある。

だからローズマリー・クルーニーのディスクを使うなんて……的な書込みをする人が、
若い人なのか、年配の人なのか、それすらわからない。
それでもひとついえることがある。

おそらく、こういう人たちは、なんの手がかりももたずに聴いている人だ、ということだ。
そして、こうもいえると思っている。
この人たちは、この項の(その1)の冒頭で引用した黒田先生の文章に登場する人と同じである、と。

Date: 12月 11th, 2012
Cate: ちいさな結論

続・ちいさな結論(その6)

なぜ、このブログを一万本書こう、などと思ったのか、
そのことを自問している。

もしかすると一万本書くことは、
辛(刃物)+口という形象てある「言」という漢字をあつめて、
鍛えなおすことで一本の刀にまとめていくことかもしれない。

そういう意味での「意識」なのだと、いまは思って書いている。

Date: 12月 11th, 2012
Cate: 手がかり

手がかり(その3)

中学生の時、自分の意思で聴きに行きたいと思い、
小遣いをためてはじめてチケットを買って行ったのも、グラシェラ・スサーナのコンサートだった。

それからグラシェラ・スサーナがテレビに出るのを見逃さないように、
新聞のテレビ欄で音楽番組は必ずチェックしていたし、
2時間ドラマの主題歌をグラシェラ・スサーナが歌ったときも、聴き逃していない。

そういえば瀬川先生が熊本のオーディオ販売店に定期的に来られてとき、
一度グラシェラ・スサーナの「アドロ・サバの女王」のレコードを試聴用として持参されたことがあった。
たしかアンプの聴きくらべの時だったはず。

スサーナのレコードをかけられる前に、こういうところが変化しやすい、という話をされた。

こんなふうにグラシェラ・スサーナを、10代のとき聴いていた。
そしていつしかグラシェラ・スサーナの歌(声)が、
私のなかでオーディオ機器の音を判別するうえでの「手がかり」となっていることに気がついた。

そして、これが最初の手がかりでもある。

Date: 12月 11th, 2012
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(デザインのこと・その28)

アナログプレーヤーのデザインについて書いている。
Air Force Oneのデザインがよくないことを書いている。

これを読まれる方の中には、音がいいのだから、
しかもこれだけのアナログプレーヤーの開発は今後望めないともいえる状況で、
Air Force Oneは登場してきたのだから、音に関係のないデザインのことなど、
どうでもいい、些細なことではないか。
欲しいのは音のいいプレーヤーであり、デザインのいいプレーヤーではない、
と思っている人もいても不思議ではない。

でもそうだろうか、ほんとうにプレーヤーのデザインは音に関係ないのか。
そうでないことは、オーディオ機器のサイズが音に与える影響のことを書いている。

スピーカーからの音が金属のかたまりであるAir Force Oneにあたる。
音の波紋のひろがっていくのを、Air Force Oneの大きなサイズが少なからず乱す。
それだけでなく金属のかたまりだから、Air Force Oneにあたった音は、
ほとんど吸音されることなく反射して、
その反射音を含めて聴き手は聴くことになる。

聴感上のS/N比の劣化が起ってしまう。
つまりこれはAir Force Oneの開発の主眼にある「限りない静粛性を求めること」を阻害している。

ただAir Force Oneの、この部分に関しては、
「無限大に近い回転精度と限りない静粛性を求めること」とあるから、
ターンテーブルのプラッターの回転精度と静粛性のことであり、
Air Force Oneの聴感上のS/N比の追求のことではないとも読める。

そうであっても、回転の静粛性は聴感上のS/N比に直接関係していることであり、
Air Force Oneは聴感上のS/N比の高さをも求めているはず。

Air Force Oneの聴感上のS/N比は、おそらく高い、と思われる。
それで充分じゃないか、と思われる人もいるだろうが、
私はAir Force Oneが、本当の意味でのデザインを追求していたら、
さらに聴感上のS/N比を増すことになっていたと考える。

Air Force Oneはこれから先10年、20年と使っていけるプレーヤーであるだろうし、
音に関しては色褪せないことだと思う。
そういうプレーヤーだけに、デザインはより大切なことなのだ。
10年後、20年後、Air Force Oneのデザインはどう思われているか、どう受けとめられているか、
それをAir Force Oneの開発スタッフは一度でも想像したのだろうか。

Air Force Oneが美しいプレーヤーシステムに変貌を遂げたとき、
Air Force Oneは完成する、と思う。

Date: 12月 11th, 2012
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(デザインのこと・その27)

1979年のマイクロのRX5000 + RY5500から始まった、
重量級のターンテーブルプラッターを糸ドライヴで回転させる、という、
もっともプリミティヴな方式は、1981年にエアーベアリング方式を採用したSX8000の登場で、
重量級のターンテーブルプラッターで避け難い欠点で軸受けから発生する機械的ノイズを抑え、
1984年にSX8000IIになり、プレーヤーとしてのまとまりを身につけ、
2012年、この方式としては考えられる最高の性能をAir Force Oneは実現している。
そういえると思う。

この点ではAir Force Oneを高く評価したい。
だから「いまどき、よくぞこういうモノをつくった!」と思ったのだ。

それでもAir Force Oneはマイクロ時代のSX8000IIを凌駕しているといえるだろうか。
Air Force Oneの音は聴いていない。
この時代に、こういう性格の製品だから、じっくり聴く機会はほとんどないかもしれない。
SX8000IIと直接比較試聴できる機会は、さらにないだろう。

それでもAir Force Oneは、すべての点でSX8000IIを凌駕しているとは思えないのだ。

SX8000IIも物量を投入した金属のかたまり的なプレーヤーではあるが、
トーレンスのリファレンスやゴールドムンドのリファレンス、それにAir Force Oneと比較すると、
コンパクトに仕上げられている。

このことが音に与える影響について、Air Force Oneは充分な配慮が為されているとは思えないからだ。
トーレンスのリファレンスが同一空間に、
聴いている時に視覚内にあるだけで音に大きな影響を与えることは、すでに書いているとおりである。
金属のかたまり、それもある程度以上の大きさをもつ機器が、
スピーカーと聴き手の間に存在していれば、音への影響は無視できなくなる。

記憶のなかでの比較になってしまうが、
Air Force OneはSX8000IIよりも大きい。かなり大きく感じる。
このAir Force Oneを部屋のどこに設置するのか、
部屋が狭くなるほどに、この問題は反比例に大きくなっていく。

この点への配慮は、Air Force Oneにはほとんどない、といえる。

オーディオ機器のサイズは、絶対的でもあり相対的でもある。
部屋が充分な広さがあれば、
ただしAir Force Oneクラスの大きさにとって充分な広さは相当なものであるけれど、
それだけのスペースが確保できる層の人たちに対してだけのアナログプレーヤーなのかもしれない。

オーディオ機器のサイズは、デザインの領域である。

Date: 12月 10th, 2012
Cate: Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(その12)

何百回、音について書かれた文章を読もうとも、実際に一回でも音を聴けば、
それによって多くのことが得られる──、
こういったことが昔からいわれ続けてきている。

オーディオにはそういう面が、たしかにある。
だが、ここで聴く音とは、どういう音でもいいわけではない。
すくなくとも音について書いた本人が、ある責任を持って鳴らした音に関して、
音を聴くことによってわかることがある、そのことは私も否定はしない。

だから五味先生がオートグラフをについて、瀬川先生が4343について書かれた文章を読んで、
まったく別のひとが鳴らすオートグラフや4343、
オーディオ販売店でのオートグラフや4343を聴いても、
わかることもある反面、誤解してしまう危険性もまた大きい。

聴けばわかる──、
これはひじょうに危険なことでもある。

まずどんな音を聴くのか、が重要となる。
そして、同じくらいに、それ以上に聴いた人が問題となる。

ここで私が「骨格のしっかり音」について書いていることを、
例えば私が「骨格のしっかりした音」と感じ思っている、その音を聴いても、
まったく理解してくれない人がいることも、また事実である。

これは、音の「大きさ」を表しているのではないだろうか。
念のため書いておくが、ここでの音の「大きさ」は、音量の大きさではない。

だからこそ「音は言をもとめ、言は音をすすめる」のではないだろうか。
オーディオ評論家は、そのためにいるのではないだろうか。

Date: 12月 10th, 2012
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(デザインのこと・その26)

一年ほど前、別項で「オーディオのデザイン論」が、
ステレオサウンドの45年をこえる歴史の中で、ほとんどなかった、ということを書いている。

そこでも書いていることをまたくり返すが、
2008年のステレオサウンド 166号の特集「オーディオコンポーネントの美」も、
「オーディオのデザイン論」ではなかった。

こういうことを書いている私も、ステレオサウンド編集部にいたときに、
「オーディオのデザイン論」といえる記事をつくっていたわけではない。
あの頃の私は、「オーディオのデザイン論」の記事をつくろうとしても、
つくることはできなかった、と思う。
反省もある。

ステレオサウンドに対して、
ときどき否定的、批判的なことを書いている、と受けとめられている人もいる、と思う。
でも、私はステレオサウンドというオーディオ雑誌に人一倍思い入れがある。
ステレオサウンドが、ほんとうに面白いオーディオ雑誌になってほしい、といまでも思っている。
だから書いている。

いまのステレオサウンドに欠けているいくつものことのなかで、
もっとも大きいのが、この「オーディオのデザイン論」だと私は思っている。
またくり返すが「オーディオのデザイン論」は、いまのステレオサウンドだけではなく、
これまでのステレオサウンドについてもいえることなのだが。

国内メーカーから、Air Force Oneのデザイン、マイクロのSZ1のデザインが出てしまうのは、
「オーディオのデザイン論」がステレオサウンドになかったことが遠因になっている──、
とすら私は思っている。

いまの私は「オーディオのデザイン論」といえる記事をつくれる。
けれど私は、ステレオサウンドとは無関係の人間であり、
すでにAir Force Oneは、あのデザインで世に出てしまっている……。

Date: 12月 10th, 2012
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(デザインのこと・その25)

2011年のインターナショナルオーディオショウのステラヴォックスジャパンのブースで、
Air Force Oneを見た時の「なぜ、こんなふうにしてしまった……」は、
Air Force Oneのデザインについて思ったことである。

おそらくAir Force Oneの開発スタッフは、
Air Force Oneの性能、音だけでなく、デザインに関しても誇っていることだろう。
でもAir Force Oneのデザインは、どう贔屓目にみても、これを美しいとは思えない。

私がAir Force Oneを見た瞬間にどう思ったかについては、
それはあまりにもひどいことを書くことになってしまうから、
具体的に書くことはやめておく。
ひとつでも書いてしまうと、次々と書きたくなってしまうから……。

これだけの製品の開発においては、信頼できる外部の人にも試作品を見せて聴いてもらい、
意見をもらっていることだろう。
だとしたら、そこでAir Force Oneのデザインについて、誰も苦言を呈さなかったのか。
それともAir Force Oneのデザインを素晴らしい、とでもいったのだろうか……。

オーディオ評論家を名乗っている人には、書き難いことがあるのはわかる。
だからAir Force Oneについてオーディオ雑誌に書くときに、
あえてAir Force Oneのデザインについて触れない、という書き方もするかもしれない。

並のプレーヤーとはあきらかに異質の、
このAir Force Oneのデザインについて何も書かない、ということは、
つまりはそういうことである。

でも、中にはAir Force Oneのデザインを優れている、とか、美しい、とかいう人も出てくるかもしれない。
たぶん、いると思う。
そういう人が、どうして音の美を判断できようか。

それにしても、
Air Force Oneの開発の主眼に書いてある「使い易さと美しさに最大限にこだわる」ということは、
こういうことなのだろうか。

Date: 12月 10th, 2012
Cate: audio wednesday

第24回audio sharing例会のお知らせ

1月のaudio sharing例会、
毎月第1水曜日ですので、1月2日になります。

年が明けてすぐ、そんな日が誰が来てくれるのだろう、
それにいつも来てくださる方から、できれば違う日にしてほしい、という声もありましたので、
別の日ももちろん考えましたが、
結局、1月2日に行います。

場所はいつものとおり四谷三丁目の喫茶茶会記です。