Archive for 12月, 2012

Date: 12月 17th, 2012
Cate: D130, JBL

D130とアンプのこと(その27)

JBLのD130は60年以上前に開発・設計されたスピーカーユニットであり、
その、いわば大昔のユニットを、これまた昔の主流であったバックロードホーンにいれる──、
いまどきのスピーカーシステムを志向される人からみれば、
いまさら、なにを……とあきれられることをやろうとしている。

D130とバックロードホーンの組合せで聴いている人は、
日本においては少数派ではないかもしれない。意外に多いようにも思っている。

でも、ずっと以前から、この組合せで聴いてきた人たちと、
いまごろD130とバックロードホーンの組合せで聴こう、とする私とでは、同じに語れないところもある。

このことは私だけのことでもないし、D130だけにあてはまることではない。
他のスピーカーでも、ほかの人の場合にでも、同じに語れないところがあるからこそ、
スピーカー選ぶことの難しさを感じ、それを面白い、とも思うわけだ。

ずっとずっとD130を鳴らしてきている人に対し、
私は「いいスピーカーを鳴らされていますね」と本音でいう。
そんな人はいないと思うけれど、私が書いたものを読んで、
JBLのD130に興味をもち、鳴らしてみようという人がいたら、
「やめたほうがいいかもしれません」と、やはりこちらも本音でいう。

スピーカーの真の価値は、そういうことによっても変化するものである。

つまり私にD130を鳴らしてきた、いわば歴史がない。
しかも、もう若くはない。
そういう歳になって、こういうスピーカーを鳴らそうとしているわけだから、
D130を鳴らすことにおいて、徹底してフリーでありたい、と思う。
特にパワーアンプの選択に関しては、それを貫きたい。

だからといって、なにも数多くの既製品のパワーアンプをD130で聴きたい、ということではない。

Date: 12月 17th, 2012
Cate: ジャーナリズム

あったもの、なくなったもの(その9)

「なくなったもの」がなんであるのかに気がついた、として、
それで即面白いオーディオ雑誌がつくれるようになるわけではない。

気づくことで、面白いオーディオ雑誌をつくっていくための方向に目を向けた、ということである。

「なくなったもの」に気づけば、
これから先、何を考えていかなければならないのか、何をしていかなければならないのか、
そのためには何が必要になるのか、が見えてくるようになる。

何が必要になるのか──、
これだけはあえて書いておく。
別項「オーディオにおけるジャーナリズム(編集者の存在とは)」でもふれている”strange blood”である。

もうひとつ書いておくと、「なくなったもの」と書いているのだから、
ずっとずっと以前のステレオサウンドには「あったもの」である。
ずっと「ないもの」ではないということである。

「なくなったもの」がわかれば、
そのころのステレオサウンドにとっての”strange blood”とは、ということもはっきりと見えてくるはずだ。

Date: 12月 17th, 2012
Cate: ジャーナリズム,

賞からの離脱(その3)

ラジオ技術のコンポ・グランプリの審査員は、最初のころはどうだったのかは知らない。
けれど私がオーディオに関心をもちはじめたころから、石田善之氏が途中から加わっただけで、
高島誠氏、岡俊雄氏、長岡鉄男氏ほか、亡くなられた人がいて、減っていくだけであった。

ずっとそういう状態だったから、いつかはコンポ・グランプリも終りをむかえる日が来るのだろう……、
とは思っていたけれど、ふいに訪れた、という感じである。

私は個人的にラジオ技術からコンポ・グランプリが消え、喜んでいる。
コンポ・グランプリによって毎年1月号は、そこそこの頁が割かれてしまう。
私がラジオ技術に求めている記事が、その分減ってしまう。

まぁ、それでもラジオ技術は月刊誌だから年に12冊出る。
そのうちの1冊がコンポ・グランプリ、それも大半の頁がそうとはいうわけではないから、
12分の1であれば(実際にページ数で換算すれば、もっと小さくなる)、
これはこれで楽しみかな、という部分もあった。

ステレオサウンドも賞をやっている。
そのステレオサウンドの賞とコンポ・グランプリでは、以前は岡先生と菅野先生が審査委員としてだぶっていた。
ステレオサウンドは、選ばれた各機種について最初のころは、筆者ひとりによる書き原稿だった。
それが座談会になってしまい、そのままずっと続いてきている。
今年も座談会での紹介である。

ラジオ技術も座談会でなのだが、
ここでステレオサウンドとラジオ技術の違いが出てくる。
岡先生、菅野先生がどちらの賞にも共通しているけれど、座談会での発言を読み比べるという楽しみがあった。

ステレオサウンドもラジオ技術も選考日は11月の上旬である。
日が近い。
選ばれる機種も重なることも多い。だからこそ読み比べるわけである。

Date: 12月 17th, 2012
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(聴かない、という選択・その6)

「欠陥」スピーカーとは、具体的にはどういうスピーカーのことになるのか。

たとえばアナログプレーヤーの場合、
33 1/3回転と45回転、この2つの回転数をどうやって実現できないプレーヤーがもしあったとしたら、
そのプレーヤーは欠陥プレーヤーということになる。
これは誰もが欠陥と判断する。

規定の回転数で再生されることが、まず大前提にあるからだ。

でもモーターが安定するに時間がかかり、
安定すればきちんと決められた回転数を維持できるプレーヤーならば、どうだろうか。
安定するのに1時間も2時間もかかるのであれば、それは欠陥といいたくもなるけれど、
10分ぐらいであれば、欠陥とまでは呼びにくい。
欠点ではあっても、欠陥ではない。そういうことになる。

またモーターのトルクが弱いプレーヤーもある。
以前の製品ではトーレンスのTD125がそうだった。
気の短い人だと、すこしいらっとするくらいターンテープルプラッターの立上りは遅い。
それにレコードクリーナーを強く押し当てると回転が止りそうになるくらい、
モーターのトルクは弱い。

けれど、このモーターのトルクのなさがTD125の音の良さに関係しているのであれば、
モーターのトルクの弱さは欠点であっても、欠陥とは呼べない。
使い手がTD125を気に入っていて、このくらいの欠点ならば使い方の工夫でどうにかすることにおいては、
欠点ではあっても、使い手はそれほど気にしないことになる。

欠点と欠陥は似ているようで、はっきりと違うものである。
ならばスピーカーの欠陥とは、どういうことなのか。
プレーヤーにおける規定の回転数を出せない、のと同じ意味での欠陥はあるのだろうか。

Date: 12月 16th, 2012
Cate: Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(その13)

骨格のしっかりした音、骨格のある音がうまく説明できないのであれば、
骨格のばらばらな音、骨格のない音をその対比としてうまく説明できればいいのだが、
これもまた難しい……、と、書きあぐねていたら、
別項「ちいさな結論(その3)」にて引用した丸山健二氏の「新・作庭記」が、
まさにそうだということに、さきほど気づいた。

こういう文章は書けない。
いつか書ける日が、ただ一回でもいいから来てほしいのだが……。

ここで、もういちど丸山氏の文章を引用しておく。
     *
ひとたび真の文化や芸術から離れてしまった心は、虚栄の空間を果てしなくさまようことになり、結実の方向へ突き進むことはけっしてなく、常にそれらしい雰囲気のみで集結し、作品に接する者たちの汚れきった魂を優しさを装って肯定してくれるという、その場限りの癒しの効果はあっても、明日を力強く、前向きに、おのれの力を頼みにして行きようと決意させてくれるために腐った性根をきれいに浄化し、本物のエネルギーを注入してくれるということは絶対にない。
     *
「ひとたび真の文化や芸術から離れてしまった心」を「ひとたび真の文化や芸術から離れてしまった音」とすれば、
それこそが骨格のばらばらになってしまった音であり、骨格のない音でもある。

そして、そういう音を出すスピーカーこそが、
私が幾度となく、しつこく書いている「欠陥」スピーカーの音でもある。

Date: 12月 16th, 2012
Cate: ジャーナリズム,

賞からの離脱(その2)

いまでは、どのオーディオ雑誌も暮に出る号で、それぞれの賞を決めて発表する。
この賞をオーディオの世界に最初に持ち込んだのが、ラジオ技術である。

ラジオ技術のコンポ・グランプリは、記憶違いでなければ1970年に始まっている。
コンポ・グランプリは通称であり、正確にはベスト・ステレオ・コンポ・グランプリなのだが、
ちょっと長いのでコンポ・グランプリと略させてもらう。

なぜラジオ技術はコンポ・グランプリを始めたのか。
その理由は、古くからオーディオで仕事をしていた人から聞いて知っている。
それをここで書くのは控えたい。

とにかく、ある理由からラジオ技術のコンポ・グランプリが始まった。
その理由を知る者からすると、ここまで続いたのが不思議に思えるけれど、
それだけ続けてきたということは、コンポ・グランプリのもつ影響力があったからだろうし、
おそらくコンポ・グランプリが発表される号は、他の号よりも売れたのだろう。

とにかく続いてきた。
40年以上続いてきたわけだ。

そのコンポ・グランプリを、今年ラジオ技術は行わなかった。
その理由は、ラジオ技術1月号に載っている。
未読だから外れているかもしれないが、
いくつかのあるであろう理由のなかで最も大きいのは審査委員に関係することのはず。

Date: 12月 16th, 2012
Cate: ジャーナリズム,

賞からの離脱(その1)

ラジオ技術が書店売りをやめてから数年が経つ。
秋葉原の書店に行けば店頭売りされているけれど、
その秋葉原の書店も、ラジオデパートの2階にあった電波堂書店も今夏閉店してしまい、
ラジオ技術を置く書店が、ひとつ減っている。

ラジオ技術は面白いオーディオ雑誌である。
洗練はされていない。だから、あんな雑誌、という人もいることは知っている。
ラジオ技術の執筆者の方々を素人集団と呼ぶ人も知っている。
そう呼ぶ人が実のところ、ご本人はクロウトだと思い込んでいるのだろうけど、はなはだあやしかったりする。

たしかにアマチュア(素人とはあえて書かない)の方々の発表の場になりつつあるラジオ技術。
だからこそ、私はラジオ技術が面白いと感じている。
こんなアイディアもあるのか、と感心する例が、決して少なくない。

最近ではネルソン・パスの記事の翻訳が不定期で載っている。
パスの記事は英文でならインターネットで読めるけれど、
やはり日本語で読めるのは、正直助かる。

ステレオサウンドは完全に買うのはやめてしまったけれど、
ラジオ技術だけは、不定期ではあるけれど秋葉原に行った際に購入している。
まだまだ続いてほしいからである(できれば定期購読したいところなのだが)。

今号(1月号)は、例年通りならば、ラジオ技術の巻頭をかざる記事は、コンポ・グランプリである。
けれど今号に、コンポ・グランプリは載っていない、らしい。
らしい、と書くのは自分の目でまだ確かめていないからなのだが、
コンポ・グランプリは昨年で最後になった、ということだ。

今号には4ページほどの、なぜそうなったのかについての記事が載っている、とのこと。

Date: 12月 16th, 2012
Cate: 言葉

読み返してほしい、と思うもの

気が向いたときに、以前書いたことを思い出しては読み返すことがある。
書くことにつまってしまったときもそうしてるし、
書いていることをすこし整理しようと思ったときもそうしている。

今晩も書き始めたころ、つまり2008年に書いたことを読み返していた。
読み返して、これはもういちど読んでほしい、と思うのがいくつか出てくる。

そう思っても、あえてそれをここで書いたりはしてこなかったが、
今回はあえて書いておく。

どちらも2008年11月に書いたものだ。
ひとつは「石井幹子氏の言葉」、もうひとつは「かわさきひろこ氏の言葉」である。

光、あかり、照明について、ふたりの方が語られている言葉を引用して書いたものだ。

Date: 12月 15th, 2012
Cate: ワイドレンジ

ワイドレンジ考(ジャズにとって、クラシックにとって・その8)

JBLやアルテックがジャズに向いているスピーカーとして、
タンノイやヨーロッパ系のスピーカーがクラシックに向いているスピーカーとしてとらえられていた、
ずっと昔には、クラシックの録音は自然であり、ジャズの録音は強調されたもの、としても受けとめられていた。

クラシックの録音には、マイクロフォンを一対だけ使ったワンポイント録音があり、
完全なワンポイントではなくともワンポイントを主として、補助マイクロフォンをたてるという手法がある。
そうやって録られた(もちろんうまく録られた)ものを優秀録音、好録音ということになり、
自然な録音という言葉でも表現されることがあった。

ワンポイントでオーケストラを全体の音・響きをとらえようとするわけだから、
当然マイクロフォンの位置は楽器(奏者)の位置からはある程度の距離をおくことになる。

一方、そのころのジャズの録音では、マイクロフォンは楽器のすぐ近くに置かれることが多かった。
耳をそんなところにおいて楽器のエネルギーをもろに聴いてしまったらたえられない、
そういう位置にマイクロフォンをおいて録る。

その位置のマイクロフォンが拾えるのは、楽器からの直接音がほほすべてであり、
間接音はほとんど収音されることはない。
だから、そういうジャズの録音を強調されたもの、としてとらえるわけで、
それは、いわば不自然な録音ということになる。

マイクロフォンの位置を耳の位置として考えれば、
クラシックは自然な録音、ジャズは不自然な録音、といえなくはない。

けれど、録音は録音だけで完結するものではなく、
再生側の都合というものが、密接にからんでくるものである。
そうなってくると、クラシックの方がむしろ不自然なところがあって、
ジャズの方が自然な録音といえるようにもなってくる。

Date: 12月 15th, 2012
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(聴かない、という選択・その5)

「欠陥」スピーカーの存在をまるごと否定しようとは思っていない。
なぜなら、「欠陥」スピーカーが数は少ないながらも、
しかもずっと昔の欠陥スピーカーとは違い、一聴、まともな音を鳴らしながらも、
音楽を変質・変容させてしまうスピーカーがあるということは、
スピーカーの欠点とはなにか、そして音楽を鳴らす、ということについて考えていくうえで、
比較対象としての存在価値は認めている。

音は音楽の構成要素だとされている。
否定しようのない、この事実は、再生音という現象においてもはたしてそうなのだろうか。

いまは答を出せないでいる、この問いのために、
いちどは「欠陥」スピーカーを自分のモノとして鳴らしてみることが、
ほんとうは必要なのかもしれない。
それも、私が認める、音楽を聴くスピーカーとして信頼できる他のスピーカーと併用せずに、
「欠陥」スピーカーだけで、たとえば1年間を過ごしてみたら、どういう答にたどり着くだろうか。

そんなことを考えないわけではないが、
そういうことを試してみるには、「欠陥」スピーカーはあまりにも高価すぎる。
それに愛聴盤を、私は失ってしまうかもしれない……。

いま別項で書いている「手がかり」を私は持っている。
だから、愛聴盤を失ってしまうことはない、ともいえる反面、
その「手がかり」が変質・変容してしまったら、やはり愛聴盤を失うのかもしれない。

これは、おそろしいことなのかもしれない。

すくなくとも私は、「欠陥」スピーカーに対して、「手がかり」のおかげで敏感に反応できている。
けれどまだ自分の裡に「手がかり」を持っていない聴き手が、
これらの「欠陥」スピーカーを、世の中の評判を信じて聴いてしまったら──、と思ってしまう。

別項で書いた「聴くことの怖さ」が、別の意味でここにもある。

Date: 12月 15th, 2012
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(聴かない、という選択・その4)

ヘブラーの演奏を多く変質させてしまうスピーカーというのは、
なにもいまの時代だけでなく、ずっと以前から、いつの時代にもいくつか存在していた。
だから菅野先生はステレオサウンド 54号でのスピーカー特集号での座談会で発言されているわけだ。

ただ、そういうスピーカーと、私がいま「欠陥」スピーカーと呼んでいるスピーカーとの大きな違いは、
まず価格にある。
いまの「欠陥」スピーカーは、おかしなことに非常に高価なモノに偏っている。
しかも、それらのスピーカーを高く評価しているオーディオ評論家と呼ばれる人たちが、またいる。

そういう人たちが高く評価するのも理解できないわけではない。
そういう人たちの音の聴き方であれば、確かに高い評価となるだろう。
そういう人たちの耳が悪い、といいたいのではない。

そういう人たちと私とでは、聴きたい音楽が違う、ということ、
一部の音楽は重なっていても、その音楽の聴き方がまったく違うことによって、
そういう人たちは高く評価して、私は「欠陥」スピーカーとして拒絶する。

もちろんオーディオ機器の音は、それを使う人、鳴らす人によって、
時には大きく変容することがあるのはわかっている。
そのスピーカーに惚れ込むことで、より使いこなしに励み、いい音を出している例もあるのではないか──、
そう思われる方もいるはず。

だが使い手によって、使い手の愛情によってどうにかなるのはスピーカーの欠点であり、
欠陥ではない、ということをはっきりさせておきたい。

Date: 12月 15th, 2012
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(聴かない、という選択・その3)

「欠陥」スピーカーと心の中で呼んでいる、
いくつかのスピーカーシステムを私は毛嫌いしている。

くれる、といわれても即座に断ってしまうくらいに、これらの「欠陥」スピーカーを認めていない。
なぜ、そこまで「欠陥」と感じてしまうのかといえば、
これらのスピーカーは欠点を持っているスピーカーではなく、欠陥であるから、である。

スピーカーというものは不完全な、だからこそ非常に興味深く魅かれるからくりであるから、
どのスピーカーにも欠点は存在している。
いくつも欠点をもつスピーカーもある。比較的欠点の少ないスピーカーもあるが、
まったく欠点をもたないスピーカーは、此の世にひとつとして存在していないし、
これからどんなに技術が進歩しようとも、欠点が少なくなることはあってもなくなることはない。

欠点を指摘するのは簡単である。
「欠陥」スピーカーにも、もちろん欠点はある。
「欠陥」スピーカーの中には、欠点が比較的少ないスピーカーも、ある。

私は、欠点があるから、とか、欠点が多いから、
いくつかのスピーカーを「欠陥」スピーカーと心の中で呼んでいるわけではない。

別項の、「音楽性」とは(その10)でも引用した菅野先生の発言を、
またここで引用しておこう。
     *
特に私が使ったレコードの、シェリングとヘブラーによるモーツァルトのヴァイオリン・ソナタは、ヘブラーのピアノがスピーカーによって全然違って聴こえた。だいたいヘブラーという人はダメなピアニスト的な要素が強いのですが(笑い)、下手なお嬢様芸に毛の生えた程度のピアノにしか聴こえないスピーカーと、非常に優美に歌って素晴らしく鳴るスピーカーとがありました。そして日本のスピーカーは、概して下手なピアニストに聴こえましたね。ひどいのは、本当におさらい会じゃないかと思うようなピアノの鳴り方をしたスピーカーがあった。バランスとか、解像力、力に対する対応というようなもの以前というか、以外というか、音楽の響かせ方、歌わせ方に、何か根本的な違いがあるような気がします。
     *
こういうことが実際にスピーカーによって起る。
それだけではない、やはり別項で書いているように、
あるスピーカーでグレン・グールドのゴールドベルグ変奏曲が鳴っていたとき、
いつもならすぐにグールドの演奏だとわかるのに、
そのときは「もしかしてグールド?」という感じになってしまった。
しかもそこで鳴っているピアノは、
どう聴いてもヤマハのCFではなく、どこか得体のしれないアップライトピアノでしかなかった。

こういう体験は、他でもいくつかある。
だから、ある特性のスピーカーを、私は「欠陥」スピーカーと呼ぶ。

それらのスピーカーが、
どんなに音場感をきれいに出そう(ほんとうに音場の再現性において精確かどうかは、別の機会に書く)とも、
歪の少ない音であっても、位相特性が優れている、
聴感上のS/N比が優れていようとも(ただ、これらはすべて世評であって私は必ずしも同意しない)、
ヘブラーの演奏をお嬢様芸よりもひどく聴かせられたら、
グールドの演奏を別人のようなに聴かせられたら、たまったものではない。

そういうスピーカーは、音楽を聴くスピーカーとして私は信頼できない。

Date: 12月 14th, 2012
Cate: 手がかり

手がかり(その6)

上杉先生は、沢たまきの「ベッドで煙草を吸わないで」を、
試聴レコードとして使われていたことは、よく知られている。

といっても私がいたときにはすでに、このレコードは使われていなかったし、
私がステレオサウンドを読みはじめたときにもすでに使われていなかったけれど、
それでも何かで読んで、私も知っていたくらいであるから、そうとうに知られている話である。

池田圭氏の美空ひばり、上杉先生の沢たまきの「ベッドで煙草を吸わないで」、
柳沢功力氏のローズマリー・クルーニー、私のグラシェラ・スサーナ、
これらは(私の勝手な想像ではあるが)、すべて共通している、それぞれの人にとってのそれぞれの歌手である。

前回、この項で引用した瀬川先生の文章を、もう一度思い出してほしい。

そこには、「この音のここは違う、と欠点を指摘できる耳」を作ることについて書かれている。
そのためには「理屈の先に立たない幼少のころ」に、
「頭でなく身体が音楽や音を憶え込むまで徹底的に音楽を叩き込んでしまう」ことを説かれている。

「音を少しずつ悪くしていったとき、あ、この音はここが変だ、ここが悪いと、とはっきり指摘」する、
これは音を良くしていったときに気づくことよりも難しい。

なぜなのか。
結局、音を聴く人の中に、はっきりとした音を判断する手がかりがないためだと思う。

私にとってグラシェラ・スサーナは、いわば最初の「手がかり」でもあった。
はっりきとした手応えのある「手がかり」であったからこそ、
このグラシェラ・スサーナという手がかりをもとに、次の手がかりを自分の中につくっていき、
グラシェラ・スサーナという手がかりを、次の段階では足がかりにして、
次の手がかりに手をかけて上に登っていけたように、いまは思っている。

Date: 12月 13th, 2012
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(聴かない、という選択・その2)

そうとうな数の音を聴くことではっきりとしてくることがあるのだから、
その意味でも、少しでも数多く聴いたほうがいい、と私も思う。

そう思いながらも、最近では、あえて聴かないという選択もあるということ、
そして聴かないという選択が聴くという選択よりも、時としていい結果をもたらすこともある、
と、そうも思っている。

別項の、「音楽性」とは、のところで「欠陥」スピーカーのことについてふれた。

どこのスピーカーを「欠陥」スピーカーと思っているのか、
それについては具体的なブランド名、型番は出さない。
けれど、これらのスピーカーシステムにはどうしても納得できない音楽の鳴り方がしてくる。
もっといえば音楽を歪めて、それもきわめて歪めて聴かせてくれる。

もっとも、これらのスピーカーシステムで歪められると感じるのは、私が聴きたい音楽であって、
それが私にとって音楽が歪められている、と感じからこそ、「欠陥」スピーカーととらえているわけである。
けれど、聴く音楽が違えば、このスピーカーのどこが欠陥なの? と思う人もいる。

私が「欠陥」スピーカーと思うだけであって、
これらのスピーカーのオーディオ雑誌での評価は割と高い。
一部の人はかなり高く評価している。

でも、その人と私とでは聴く音楽が違いすぎるから、
私が優れたスピーカーと思っているモノを、その人は「欠陥」スピーカーと思っているかもしれない。

それはそれでいいじゃないか──、
と私にいう人もいる。
でも、そんなことはわかったうえで、それらのスピーカーを「欠陥」だと書くのは、
これらのスピーカーシステムによって音楽を聴くことによって、音楽が歪められるだけでなく、
聴き手もときとして歪められることもあるからだ。

Date: 12月 13th, 2012
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(聴かない、という選択・その1)

オーディオは、聴くことからはじまる。
だから、少しでも数多く聴いたほうが、原則としてはいい、といえる。

たとえばいまはあまりいわれなくなっていことに、
アメリカンサウンド、ブリティッシュサウンドといったことがあり、
アメリカンサウンドもウェストコーストとイーストコーストとに分類されていた。

実はそのころから、たとえばブリティッシュサウンドといっても、
タンノイとQUADのESLとではずいぶん音の傾向は異るし、
同じダイナミック型のスピーカーシステムでも、タンノイとBBCモニター系のモノとでは、やはり異る。
BBCモニター系と呼ばれるスピーカーシステムでも、
スペンドールとロジャース、それにハーベスでは、それぞれに独自の音をもっている。
だからブリティッシュサウンドなんて呼ばれるものは、
オーディオ評論家が勝手に作り出したものだ──、
という意見があったのも事実である。

こういう意見も間違っているわけではない。
確かにブリティッシュサウンドといっても、メーカーによって音は異っていて当然であるし、
それはアメリカンサウンドについても同じことがいえる。

けれど、おそらくブリティッシュサウンドなんて、アメリカンサウンドなんて、といわれる方は、
それほど多くのスピーカーシステムを、それもまとめて聴く機会がなかった方ではないだろうか。

いや、そんなことはない。
新製品はできるだけオーディオ店に行き聴くようにつとめているし、
友人・知人の音も聴いているし、
どこかにいい音で鳴らしている人がいると耳にすれば、つてをたよって聴きにいく。
だから、そこそこの数の音を聴いている──、
そう反論されるだろうが、
どんなに個人で積極的にさまざまな音を聴いたとしても、
それはオーディオ評論家とオーディオ評論家と名乗っている人たちが聴いている多さからすると、
かなり少ない、ということになる。

そして大事なのは、たとえばスピーカーシステムの試聴があるとしたら、
短期間に集中的にかなりの数のスピーカーシステムを聴くことになる。
日本のスピーカー、アメリカのスピーカー、イギリスのスピーカー、その他の国のスピーカーなど。
こうやって聴くことによって見えてくることがらがあり、
だからこそアメリカンサウンド、ブリティッシュサウンドがあるということに気がつくのである。