Archive for 11月, 2011

Date: 11月 19th, 2011
Cate: iPod

ある写真とおもったこと(その4)

スティーブ・ジョブズはオーディオマニアだった。
つまりは再生するオーディオ機器によって、同じレコードが違う鳴り方をすることは当然知っていたわけで、
また同じ再生装置でも調整次第で音が変化することも知っていた、と思っていいだろう。

日本でいわれている「音は人なり」という意識があったのかどうかはわからないが、
少なくともジョブズもオーディオマニアであるのだから、
自分が鳴らしている音は世界にひとつだけ、
似たような音は他にもあるかもしれないが同じ音はない、ということは意識にあったはず。

そういうジョブズがiPodをつくった、ということが、
オーディオマニアとしてiPodを捉えたときに、ひじょうに考えさせられることがある。

つまりiPodは、基本的に同じ音を聴くモノだ、ということ。
iPodが登場したばかりの頃、搭載しているハードディスクの容量はそれほど大きくはなかった。
だから必然的にCDにおさめられている音楽を圧縮することになる。
MacでiTunesを使って圧縮してiPodへコピーする。

iTunesの環境設定で、圧縮の変換レートは変更できるものの、
初期設定のまま変換して、iPodに付属している白いイヤフォンで聴くかぎりにおいては、
同じCDをリッピングしていれば、iPodを通じて聴く音は同じである。

いまはどうなのか知らないが、初期のころのiTunesはヴァージョンによって圧縮の仕方に多少の違いがあって、
リッピングを行ったiTunesのヴァージョンによって多少は音の違いが生じていたけれど、
ヴァージョンが同じ、変換レートが同じであれば、それにiPodも同じ世代のものであれば、
音は原則として変りようがない。

ソニーが開発したウォークマンとAppleのiPodはアナログとデジタルという違いはあっても、
音楽を片手で持てるモノにおさめて、
ヘッドフォン(イヤフォン)で聴くことを前提としているところは共通している。

けれどウォークマンはカセットテープにレコードをダビングして、それをソースとして聴く。
同じレコードをダビングしても、レコードを再生するプレーヤーの違いによる音の違い、
たとえ同じプレーヤーでも設置場所をふくめた使いこなしの差による音の違い、
アンプに違いによる音の違い、カセットデッキによる……、使用テープによる……、
さらにデッキやテープが同じでも録音レベル調整によっても音は確実に変ってきて、
同じレコードのダビングだとしても、ダビングする人が違えばそれだけ音は違ってくる。

そういうところがiPodには、ない。

Date: 11月 18th, 2011
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役目」、そして「役割」(批評と評論・その3)

オーディオにおける批評と評論と、いったいどう違うのか、とときどき親しい人と話していて話題になるものの、
なかなか、はっきりとしたことは出てこない。
なんとなくではあっても、批評と評論の違いを感じてはいても、
いざ言葉にして、その違いを述べるとなると、けっこうたいへんな作業である。

批評と評論の境界線といったものは、はっりきとあるのかどうか。
そんなことも考えてしまう。

いまはっきりといえるのは、すくなくとも評論は、それ自体がリファレンスである、ということだ。
参考・参照、それにひとつの基準として存在できるのが評論であって、
そうでないものは批評にとどまっている、ということ。

そして評論家とは、評論をする人のことである。
つまりは、そういうことである。

Date: 11月 18th, 2011
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役目」、そして「役割」(批評と評論・その2)

どんなにいい音がするオーディオ機器でも、
日によって、音がころころ変るモノならば、試聴室という状況・条件ではリファレンス機器としては使えない。

試聴室は、個人のリスニングルームとは違い、ほぼ毎日、そこで音が鳴っているわけではない。
試聴がないときには使われていない。
ときには実験で使うときもあるが、編集作業が〆切間際では試聴室は使われることはない。

そして試聴が始まると、朝から始まることもあるし、長引けば夜中までということもある。
鳴らしているとき、そうでないときの差はどうしても大きくなる。

そういう使われ方であっても、
しばらく鳴らしていれば、安定した性能・音を発揮してくれるオーディオ機器でなければ、
リファレンス機器として使いにくい、ということになる。

それに丈夫である、ということもけっこう重要な要素でもある。
名の通ったメーカーのアンプならば問題はないけれど、
試聴室に持ち込まれるアンプの全てが、なんら問題がないわけではない。
とくに私がいたころのステレオサウンドは外苑東通りに面したビルにあった。
窓から顔を出せば東京タワーがくっきりと見える。

井上先生がステレオサウンドの誌面でたびたび書かれているように、
オーディオ機器をとりまく環境としてはよくないどころか、かなり厳しいものといえる。
電源もきれいで高周波ノイズもないところでは問題を発生しないアンプでも、
このころのステレオサウンド試聴室では問題を発生するモノ、
もしくは発生寸前の、やや怪しい状態に陥るモノがないとはいえなかった。

そういうアンプが接がれても、壊れないことはリファレンス用スピーカーとして意外と重要なことである。

それからパワーアンプならば、どんなに音がよくても、
たとえばマークレビンソンのML2のように出力が25Wしかないモノは、リファレンスとしては使いにくい。
試聴するスピーカーシステムの能率が、すべて93dB(この数字は4343のスペック)以上あれば、
25Wでもなんとか使えるけれど、
それ以下の出力音圧レベルのスピーカーシステムとなると、25Wではあきらかに不足する。

それにCDが登場してきて、さらにパワーは求められるようになってきたから、
リファレンス用パワーアンプには、ある一定以上の出力が要求されるし、
ある程度の低負荷でも安定していることが必要となる。
それにバランス伝送が当り前となってきたため、アンバランス入力、バランス入力の両方を備えていること。

スピーカーシステムについてもパワーアンプについても、
リファレンス機器に要求されることとはどういうことなのか、まだまだある。
それにコントロールアンプ、CDプレーヤー、アナログプレーヤーについてもふれておきたいが、
ここではこれが本題ではないのでこのへんにしておくが、
結局なにがいいたいのか──、
それは批評と評論の違いについて、である。

Date: 11月 18th, 2011
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(批評と評論・その1)

ステレオサウンドの試聴室には、リファレンス機器と呼ばれるモノがつねに置いてある。
私がいたときはそうだったし、おそらくいまもそのはずだ。

私がいたころ、1980年代のステレオサウンドのリファレンス機器は、
スピーカーシステムはJBLの4343、そして4344だった。
アナログプレーヤーはパイオニアのExclusive P3aで、
そのあとマイクロのSX8000IIとSMEの3012-R Proの組合せだった。
カートリッジはオルトフォンのMC20MKIIだったころもあるし、SPU-Goldを使っていたときもある。
また試聴さる方によってもカートリッジは随時変っていた。

アンプはマッキントッシュのC29とMC2255の組合せから、アキュフェーズの組合せへ変っていった。
私がステレオサウンドに入る前は、マークレビンソンのLNP2がリファレンスだった。

一度、読者の方からの電話があった。
「誌面ではかなり高価な製品を高く評価しているのに、なぜそれらの製品をリファレンス機器として使わないのか」
こういった内容の問合せだった。

1980年にトーレンスのリファレンスが登場して以来、
そのメーカーの旗艦モデルの型番に、Reference とつける例がいくつかあった。
そういう製品のイメージからすれば、リファレンスというものは、その時点で最高のモノという捉え方もしたくなる。

けれどreferenceの意味は、参考・参照。
そこには最高、最優秀という意味はない。

試聴における、ひとつの基準としての存在がリファレンス機器である。
もちろん、ひどい音であっては困るし、できるだけいい音であってほしい。
それに性能的にも優れていなければならないけれど、その時点での最高の性能でなければならない、
ということはリファレンス機器にはそれほど求められていない。

それよりもあるレベルの性能(音をふくめて)の高さを、
つねに安定してい維持できるか、ということが優先される。

Date: 11月 17th, 2011
Cate: ベートーヴェン, 正しいもの

正しいもの(その5)

シャルランのことば、
「あなた方は何故ベートーヴェンやシューベルトのレコードなんか作るのですか」は、
あくまでも、この本「音楽 オーディオ 人々」の著者、中野氏が書かれたことばである。

つまりシャルランが直接言ったことそのままではない。
シャルランはフランス人だし、とうぜんそこではフランス語で話したであろうし、
中野氏はその現場にはおられず、若林氏から伝え聞かれたことを、中野氏のことばで日本語にされているわけだから、
この「あなた方は何故ベートーヴェンやシューベルトのレコードなんか作るのですか」という表現を、
細部にとりあげて論じることは、逆にシャルランの意図を曲解してしまうことにもなると思う。

「あなた方は何故ベートーヴェンやシューベルトのレコードなんか作るのですか」

このことばが伝えたがっていることは、直感で受けとめるしかない、と思う。
そしてこのことばは、ききてにとっても、そのまま投げかけられることだとも思っている。

シャルランが、レコードを再生することをどう捉えていたのかは、はっきりとはわからない。
レコード演奏という観念は、シャルランにあったのかなかったのかは、わからない。
それは、まあどうでもいい。

オーディオを介して音楽を聴く行為を、レコード演奏として捉えている人にとっては、
「あなた方は何故ベートーヴェンやシューベルトのレコードなんか作るのですか」は
重いことばとなってのしかかってくる。

レコード演奏という観念をもたずに、
オーディオにも関心をもたずにレコードから流れてくる音楽を鑑賞するという立場にとどまっている分には、
シャルランのことばは、関係がない、といえる。

けれど、より積極的に、能動的にレコードにおさめられている音楽を聴く行為を臨むのであれば、
シャルランの真意をはっきりと感じとる必要がある。

Date: 11月 16th, 2011
Cate: 組合せ

妄想組合せの楽しみ(番外・その12)

この組合せで、コントロールアンプの第一候補に考えていたのは、
ゴールドムンドのユニバーサル・プリアンプと呼ばれている、
いわゆるデジタル入出力を備えるコントロールアンプだった。

ただ、こういう商品の性格上、聴く機会がまったくなかった。
ステレオサウンドをはじめオーディオ雑誌でもあまり積極的に採り上げられなかったようで、
信頼できる人による試聴記を読んだ記憶がない。

いったいどんな音をするのか。
それにゴールドムンドのサイトには、新型の情報が公開されていた。
日本にもこれがもうすぐ入ってくるのか、
入ってきたらインターナショナルオーディオショウで聴けるかもしれない……と思っていたら、
今年、ショウ初日に耳にしたことは、
ステラヴォックスジャパンがゴールドムンドの取扱いをやめる、ということとその理由について、だった。

そういわれてみると、ステラヴォックスジャパンのブースに、
ゴールドムンドの製品はMETISシリーズだけが飾られていただけだった。

なので、この組合せは少し変更しなければならなくなった。

どこか他の輸入商社が取り扱うようになるかもしれないが、
そうなったとしても、ゴールドムンドのデジタル・コントロールアンプを聴く機会は、ほとんどないかもしれない。

ゴールドムンドの製品の中で、私がいちばん聴いてみたいと発表されたときから思っていたのが、
デジタル・コントロールアンプの2機種だった。
たしかに特殊な製品といえばそういうことになるだろうが、
果して、ほんとうに特殊な製品なのだろうか、とも思う。

いまデジタル信号処理による音場補整イコライザーの興味深い製品がいくつか登場してきている。
これらを積極的に活用するとなると、デジタル・コントロールアンプの存在はひじょうに魅力的にくる。
D/A変換は、パワーアンプの直前で行なえばいい。
ゴールドムンドのパワーアンプはD/Aコンバーターを内蔵していたり、
搭載できたりできる仕様なのは当然としても、
一般的な従来のパワーアンプでも、D/Aコンバーターをパワーアンプの間近に置けばいい。

いまは、こういう性格のアンプを組み込もうとしたら、まだまだ過渡期ということになって、
それがまだまだ過渡期のまま続いていくような気がしないでもない。

Date: 11月 16th, 2011
Cate: 挑発

挑発するディスク(余談・その2)

期待はしていた。
だから、すこしどきどきしながらCDをCDプレーヤーのトレイにセットして、
プレイ・ボタンを押したことを思い出している。。

それが1年半以上前のこと。
マタイ受難曲という音楽の性格からして、そう何度も何度もくり返す聴くことはないのだが、
それでもこのあいだに、数回通してくり返して聴いてきた。

シャイー/ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団によるマタイ受難曲は、
これはこれで挑発的なディスクとなっていた。

こちらの勝手な思いこみで、
シャイーに対する興味をまったくといっていいほど失ってしまっていたことを後悔している。
なぜ、こんな思いこみをしてしまったのか、いまでは思い出せないのだが、
それでも、ありがたいのは録音は、いまでも手に入れることができる。

シャイーのこれまでの軌跡をいまさらながらではなるが、追いかけてみたい、と思いつつも、
シャイーは、今年また、聴ける日が待ち遠しく感じられたディスクを出した。
やはりゲヴァントハウス管弦楽団を指揮してのもので、ベートーヴェンの交響曲全集である。

録音は2007年からはじまり2009年に終っているものが、今年全集として登場した。
5枚組の、このディスクは、いわゆる他の5枚組とはつくりが違う。
一冊の本のように仕上げられていて、その中に5枚のCDがおさめられている。

シャイーに関心を失っていたから気がつかなかったけれど、
シャイーにとってこの全集がはじめてのベートーヴェンの録音だという。

こういうのを満を持して、というのだろうか……。
そんなことを思ったりするようなディスク全体のつくりである。

昨年春、シャイーのマタイ受難曲を聴こうとしていたときよりも、
今回の方が期待は大きくなっていた。

Date: 11月 16th, 2011
Cate: iPod

ある写真とおもったこと(その3)

スティーブ・ジョブズがアクースタットのModel 3の前に
どんなスピーカーシステムを使っていたのかはまったくわからない。
ジョブズがいつごろからオーディオに興味をもっていたのかも知らない。

それでもジョブズが最初に使っていたスピーカーシステムは、
おそらくは一般的なエンクロージュアにおさめられたモノであっただろう。

アクースタットのModel 3は、
通常のエンクロージュア・タイプのスピーカーシステムを「箱のスピーカー」とすれば、
「板のスピーカー」ということになる。

「そう、板なんだ」とおもった。
次におもったのは、
この「板のスピーカー」がそれまでの「箱のスピーカー」とは違う音の世界を展いたように、
「板のコンピューター」が新しい世界を展いていくことを、ジョブズは予感していたのかもしれない……、
そんななんら根拠のない妄想に近いこと。

それでもジョブズがアクースタットのModel 3を使っていたことと、
その20年数後にiPadやiPhoneを生み出したことは、そこにまったく関連性がないとは思えない。

Date: 11月 15th, 2011
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(その16)

ドラムスの収録を例にあげて、そこに分岐がある、と書いた。
けれど収録すべてが分岐というわけではないことも事実である。

ドラムスは「ひとつ」の楽器として見た場合にそこに分岐が生じるわけだが、
ほとんどの音楽の収録では複数の演奏者がいる。
つまりは「集中」させることも生じてくる。

2チャンネルにおいては、
必ずしも再生時の音像定位通りに収録時に演奏者がそのとおりに並んで演奏しているとは限らない。
そこでの音楽の種類や楽器編成の違いなどによってはマイクロフォンを中心に立て、
そのマイクロフォンを囲むように演奏者が位置し演奏が行われることもある。
だからといって、そうやって収録したものを再生したときに、
左右のスピーカーの中心を軸に演奏者が円をつくっているように聴こえるわけではない。

いわば、これはマイクロフォンに向って音を集めているわけだ。

ひとつひとつの音を鮮明に収録するために分岐する一方で、
音をそうやって意識して集めていくのも録音である。

オーケストラにしても小編成のものにしても、マイクロフォンをうまい位置をみつけそこに立てることで、
音を集め録音されたものを、われわれ聴き手は再生時に、それを展げていく。

録音系と再生系には、ネットワークとしてとらえたときに共通する要素がある一方で、
録音(集める)系と再生(展げる)系というところに、矛盾するようではあるが対称性を感じる。

Date: 11月 14th, 2011
Cate: ショウ雑感

2011年ショウ雑感(その5)

S/N比が高い、ということは、それが物理的であれ聴感上であれ、
音楽のピアニッシモ、音楽の間における静寂感に秀でている、ということである。
音楽が消えてゆくとき、どこまでもどこまでも、
その消えてゆく音を耳で追いかけていけそうな気にさせてくれる。

このとき、消えてゆく音が、
心の奥底に、心のひだにしみこんでくるように音を聴かせてくれるオーディオ機器がある。
そうでないオーディオ機器もある。
どこまでこまかい音を聴かせながらも、それがこちらの心にまでしみこんでこない場合(機器)がある。

このふたつの違いは、もう物理的な、聴感上のS/N比とはすこし違うところに起因することだと思う。
これを、聴感上のS/N比よりも、さらに心理的なS/N比、とでもいおうか、
それとも心情的なS/N比とでもいおうか、とにかく、聴感上のS/N比という言葉が表すものよりも、
ずっとずっとパーソナルなところでのS/N比の良さ(ここまでくると高低ではないはずだ)、
そういった次元のものが存在しているように思えてくるし、そう思わせてくれるオーディオ機器がある。

そういうオーディオ機器は、昔からあった。
数は少ない。しかもそれは私がそう感じるオーディオ機器が、ほかの人もそう感じるのかはなんともいえないし、
そう感じてきたオーディオ機器が、必ずしも聴感上のS/N比において、
現在の優れたオーディオ機器よりも優れているわけではない。
にもかかわらず、現在の聴感上のS/N比の高いオーディオ機器よりも、
ずっと心理的・心情的なS/N比の良さをもつオーディオ機器が存在してきている。

すこし具体例をあげれば、スピーカーシステムでは、
イギリスのそれもBBCモニター系列のモノがすぐに頭に浮かぶ。
スペンドールのBCII、ロジャースのLS3/5A、PM510、KEFのModel 104などである。

このことがどういったことに関係しているのか、正直、いまのところはよくわからないところがまだまだある。
それでも、聴感上のS/N比ではなく、心理的・心情的、さらに情緒的とでもいったらいいのだろうか、
まだまだどういう表現をするのか決めかねているような段階ではあるけれど、
そういうS/N比の良さは、私にとってオーディオ機器を選択するうえで重要なことである。

Date: 11月 14th, 2011
Cate: ショウ雑感

2011年ショウ雑感(その4)

聴感上のS/N比ということを最初に使われたのは、おそらく井上先生だろう、ということは以前書いた。
1980年代、井上先生は、この聴感上のS/N比をよく口にされ、試聴の時にも重視されていた。

10年ぐらい前からだろうか、
聴感上のS/N比は頻繁に目にするし、聞くことが多くなった。
一般的な評価の基準として認められ広まってきたためであろう。
もっとも井上先生が定義されていた聴感上のS/N比とは、ややずれたところで使われているんじゃないか、
と思いたくなることも少なからずあるけれど、
聴感上のS/N比をどう定義するのかは、人によってどうも微妙に異るところがあるようで、
必ずしも物理的なS/N比のように、高低がはっきりするわけでもない面もある。
つまり人によって、聴感上のS/N比が高いと感じる音が別の人には、
それほど高くない、低いということもありうるわけだ。
また2つのオーディオ機器を聴き比べて、Aという機器を聴感上のS/N比が高い、という人もいれば、
いやBの方が高い、ということも起っている。

聴感上のS/N比は数値で示すことのできるものではないし、
何を持って聴感上のS/N比が高いのかは、まだまだ共通認識といえるところまではいっていないようだ。
おそらくこれからさきも、聴感上のS/N比に関しては、人によって違ったままだろう。

それはともかくとして、聴感上のS/N比は向上してきている、といえる。
そうでないオーディオ機器もあるにはあるけれど、全体的な傾向としては向上してきているし、
聴感上のS/N比は高いにこしたことはない。

いま聴感上のS/N比を確保する手法がかなり確立されてきている、といえるし、
聴感上のS/N比を向上させてきているメーカーは、
聴感上のS/N比を、どういうところに着目して聴いて判断すればいいのかを掴んでいるのではないだろうか。
そうなってくると聴感上のS/N比という、いわば感覚量が物理的な量に近づきつつあるような気もしなくもない。
少なくとも、つくり手側のなかには、聴感上のS/N比を、
そんな感じでとりあつかっているところがあるような気もする。

実は、こんなこともADAMのColuman Mk3を聴いた後で思っていた。
そして、聴感上のS/N比よりも、もっと感覚的な、
さらにいえばもっと個人的なS/N比の高さ(というよりも良さ)を感じさせてくれたような気がしている。

Date: 11月 13th, 2011
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(その15)

録音系はネットワークである、と私は捉えている。
そしてレコードやミュージックテープなどのパッケージメディアがつくられていく。
それが流通ネットワークにのり、そのパッケージメディアの聴き手であるわれわれのところに届く。

放送局ではパッケージメディアを音源として音楽を放送することが多いけれど、
放送局独自でコンサートを収録して放送することもある。
ライヴ放送だと、電波というネットワークを通じて、音楽の聴き手があるわれわれのところに届く。

これらの、収録された音楽を届けるネットワークもまた、ある種のフィルターともいえる。
アナログディスクにしてもCDにしても、
マスターテープに収録されているものすべてをそこに収録できるわけではない。
何かが抜け落ち、何かが附加される。
何かがなくなることは、そのパッケージメディアそのものがフィルターということになる。

マスターテープから直に一対一でダビングしたとしても、
それもマスターデッキと同じデッキを使って慎重に行ったとしても、
テープ間のダビングは、アナログであれば必ず劣化が生じる。
マスターテープと同じ形態、環境を揃えたとしても劣化は生じ、これもまたフィルターといえる。
FM放送もまた然りである。

ではデジタルで収録されたものをデジタルでコピーすれば、
そこに、ここでいっているフィルターは存在しなくなるのかといえば、そうでもない。
デジタル録音といってもサンプリング周波数、ビット数がパッケージメディアと違うことがある。
同じことも多い。
CDと同じ44.1kHz、16ビットで録音されたマスターであれば、それをそのままCDにコピーできるといえばできる。
データとしては同じものがCDにコピーされる。
でもマスターはテープという形態、CDはディスクという形態。
この形態の違いによる条件の違いが、結果としては音の違いを生むことになる。

そういう一種のフィルター的なパッケージメディアにおさめられている音楽を受け取るには、
アナログディスクにはアナログディスクプレーヤーが、
CDにはCDプレーヤーが、ミュージックテープであればカセットデッキ、オープンリールデッキ、
FM放送にはチューナー、というそれぞれ専用に設計製造されたハードウェアが必要となる。

これらの入力機器もけっして完全・完璧なモノは存在しないから、
ここでもそれぞれの機器がフィルターということになる。

これらの入力機器がつながれる先が、再生系においてはコントロールアンプということになる。
録音系の現場におけるミキサーと同じように、
再生系ではコントロールアンプが、そのネットワークの要的存在といえよう。

Date: 11月 12th, 2011
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(その14)

ドラムスという複数形の名称が示しているように、ドラムスは数種類の打楽器の集合体であり、
これをひとつの楽器としてみた場合、その収録にもっともマイクロフォンの数が多く使われる楽器でもある。

楽器としての規模はグランドピアノのほうがドラムスよりも大きくても、
ピアノの録音に使われるマイクロフォンの数は、それがオンマイクで収録される場合でも、
ドラムスの収録に使われる数には及ばないだろう。

そしてドラムスの録音ではオンマイクでの収録も多い。
マイクロフォンの数が多いのだから、
逆にオフマイクで収録してはマイクロフォンの数を増やした意味も薄れるので、
マイクロフォンの数が増えるということは必然的にオンマイクになっていく傾向はある。

マイクロフォンの数が多く、距離も近い(オンマイクである)ということは、
マイクロフォンをフィルターとしてとらえれば、その遮断特性がより急峻なものとして使い方といえる。

たとえばシンバルを鮮明に録りたいから、シンバル用にマイクロフォンを選択し、設置する。
そのマイクロフォンにはできるだけシンバルの音だけをいれたい。
他の楽器の音は極力いれたくないわけだから、
これはマイクロフォンをシンバル用のフィルターをかけたような使い方ともいえる。

これは分岐とフィルターであり、
この分岐とフィルターの設定をうまくやらなければドラムスの音をうまく録ることはできないはず。

ドラムスという楽器のために複数のマイクロフォンが立てられる。
つまりそのマイクロフォンの数だけ分岐点とフィルターが存在している、ということでもある。
これをどう録音するのか。
マルチマイクロフォン・マルチトラック録音であるならば、
マイクロフォン1本に対し、テープレコーダーの1トラックを割り当てることができる。
いきなり2チャンネルのステレオ録音にするのであれば、ミキサーを通すことになる。
もちろんマルチマイクロフォン・マルチトラック録音でも、
最終的に2チャンネルにするためにミキサーを通す。

ドラムスの収録に10本のマイクロフォンに仮に使用したとすれば、
ミキサーを通すことで2チャンネルに統合されることになる。

ひとつの楽器を録音するのに、複数の分岐点とフィルターを設定して、
分岐点の数だけのラインがあり、それをミキサーによって2チャンネルに統合する。
これを図に描けば、ネットワークそのものである。

つまり、録音の現場にも、分岐点(dividing)と統合点(combining)、それにフィルターがある、というわけだ。

Date: 11月 11th, 2011
Cate: ショウ雑感

2011年ショウ雑感(続々続々・余談)

現在市販されている、
そしてこれまでに市販されてきたスピーカーのほぼすべてはピストニックモーションによっている、といえる。
それはホーン型であろうとコーン型、ドーム型であろうと、さらにリボン型、コンデンサー型であっても、
ピストニックモーションによって音を出している。
つまり振動板が前後にできるだけ正確に、余分な動きをせずに振動することである。
その実現のためにコンデンサー型やリボン型は振動板全体に駆動力がかかるようにしているし、
振動板全体に駆動力がかからないコーン型やドーム型では、
振動板の素材に、できるだけ軽く硬く、内部音速が速いものを採用している。

けれどスピーカーの動作としてピストニックモーションだけがすべてではなく、
何度か書いているようにドイツではかなり以前からベンディングウェーヴによるスピーカーがつくられてきている。
私はAMT型はピストニックモーションでないことは明らかだし、
その意味でベンディングウェーヴの一種だと認識している。

AMT型ではリボン・フィルムをひだ(プリーツ)状にしている。
この振動板が前後に振動して音を出しているのであれば、AMT型もリボン型の変形・一種といえることになるが、
ADAM社のサイトにある説明図をみても、
それにスピーカーの技術書に載っているハイル・ドライバーの説明図をみてもわかるように、
プリーツ状の振動板が前後に動いて音を出しているわけではない。
ピストニックモーションはしていない。

ここで理解しにくいところなのかもしれない。
私もハイル・ドライバーの説明図を最初みたとき(10代なかばのころ)、
世の中にはピストニックモーションしかないと思っていたため、
すぐにはなぜ音が出るのかすぐには理解できなかった。
ピストニックモーションのほかにベンディングウェーヴがあるということがわかっていれば、
すぐに理解はできたのかもしれないが、
でもおそらく、そのころはベンディングウェーヴを理解することが難しかっただろうかから、
結局は同じことで、すぐには理解できなかったかもしれない。

私がハイル・ドライバーの動作を理解できたのは、入浴中のときだった。
なにげなく左右の手を組んで水鉄砲をやっていて気がついた。
ハイル・ドライバー、つまりAMT型はプリーツ状の振動板をアコーディオンのように伸縮させることで、
プリーツの間にある空気を押し出す。
それは両手の間にある水を押し出すのと同じことである。
これに対してピストニックモーションは手のひらを広げて前に押し出すようなもの。

これは正確な例えではないけれど、AMT型の動作を理解するに好適な例だと思う。
風呂場やプールで手による水鉄砲をやってみれば、
ADAMがAMt型のユニットにX-ART、Accelaratingとつけた理由が理解できるはずだ。

ADAM社のサイトの説明図には矢印がいくつかある。
そのなかの細い矢印は、フレミング左手の法則の、磁界の方向(赤の矢印)、電流の方向(紫の矢印)、
力の働く方向(緑の矢印)をあらわしている。
ピストニックモーションのスピーカーでは力の働く方向がそのまま音の出ていく方向であるのに対して、
X-ART型はそうなっていない。音の出ていく方向と直交している。

ピストニックモーションとベンディングウェーヴについては、まだまだ書きたいことがあるけれど、
別項で書いていくことになると思うので、ここではこのくらいにしておく。
すこし長くなってしまったが、ADAMのX-ARTはあくまでもAMT型ユニットであり、
リボン型、もしくはその変形、一種ではないことはご理解いただけたのではないだろうか。

Date: 11月 11th, 2011
Cate: ショウ雑感

2011年ショウ雑感(続々続・余談)

テクニクスの10TH1000は、リボン型とは、だから厳密には呼べない。
とはいうものの、リボン型の定義をどうするかによっては、リボン型の変形とも考えられる。
リボン型ユニットが存在し、そこに非常に低いインピーダンスになってしまうという実用上の欠点があったからこそ、
その欠点を解消しようとしてリーフ型トゥイーターは生れてきた、といえなくもない。

けれどADAMのX-ARTドライバー、エラックのJETドライバー、ハイル・ドライバーは、
リボン型の変形とは呼べない。
これらはすべて、いまではAir Motion Transformer型と呼ばれる。略してAMT型である。
ここが、リボン型やリーフ型とは決定的に異る点である。

こう書くと、ADAMのX-ARTは”eXtended Accelerating Ribbon Technology”の略だから、
リボン型ではないのか、という反論される方もおられるかもしれない。
X-ARTのRはたしかにリボンのRであるが、このことが動作方式を表しているわけではない。
そのことに注意してほしい。

ADAM社のサイトには、X-ARTについてふれたページがある。
ここに表示されているFig. 4と本文を読んでいけば、リボン型でないことはすぐに理解できる。

X-ARTのRibbonは、リボン型を表しているわけではなく、振動板(膜)がリボンであることを表していて、
このユニットの方式は、Ribbonの前にあるAcceleratingが表しているし、
本文には、Dr. Oskar HeilとAir Motion Transformerと書かれている。

リボン型ユニットとAMT型ユニットの決定的な違いは、ピストニックモーションであるかどうか、である。
AMT型をピストニックモーションのスピーカーユニットと捉えることが間違いであり、
そう捉えてしまうからこそ、リボン型の一種、もしくは変形だと誤解してしまうことになる。