何を欲しているのか(その19)
ステレオサウンド 85号の、「ぼくのディスク日記」のなかで、
黒田先生はグルダの3組のディスクについて書かれている、そのなかにこうある。
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グルダのディスクをきく喜びは、きいていて、非常にしばしば、ああ、グルダ! と思える瞬間があることである。演奏がうまいとか、そういうたぐいのことではない。自作をひいた場合のみならず、大作曲家のすでにさまざまなピアニストの演奏できいている作品をひいた場合でも、ぼくはグルダの素顔というか、独白というか、つまりグルダそのものにふれたように感じ、どきりとすることがある。そのような思いをさせてくれる音楽家は、すくなくともぼくにとっては、グルダだけである。
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黒田先生がこの文章を書かれた1987年の私は、黒田先生のようにはグルダを聴くことができなかった。
グルダによって演奏された音楽を聴いて、「ああ、グルダ!」と思えたことはあった。
でも、それは、たとえばグールドによって演奏された音楽を聴いて、「あ、グールド!」と思えたのと、
そう変らなかった。
黒田先生の「ああ、グルダ!」と私の「ああ、グルダ!」とのあいだには、開きがあった。
いまも、黒田先生の「ああ、グルダ!」と同じに聴けている、という確証はどこにもない。
それでも30代後半あたりから、「ああ、グルダ!」と思える瞬間がはっきりと増えてきた。
いま40代後半になって、「ああ、グルダ!」と思えたとき、口元がほころぶときもある。
黒田先生が「そのような思いをさせてくれる音楽家は、すくなくともぼくにとっては、グルダだけである。」、
そう書かれた心境がわかるようになってきた、ということか。
あれだけ多くの音楽を聴いてこられた黒田先生が、「グルダだけである」と書かれたことに、
「ほんとうにそうですね!」と返したい気持が、
いまの私にはあるし、これから先もっと強くなっていくようにも思う。
黒田先生はマガジンハウスから出された「音楽への礼状」では、こうも書かれている。
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音楽は、徹底的に抽象的ですから、非常にしばしば、未消化の四角いことばに凌辱されがちです。この日本でも例外ではありません。音楽をきくというおこないに求められる謙虚さを忘れたあげく、ことばを玩ぶだけにとどまった音楽談義がさかんです。
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これは、フリードリヒ・グルダへの礼状として書かれたものだ。