Archive for 10月, 2008

Date: 10月 30th, 2008
Cate: よもやま

ヘビーローテーション盤

愛聴盤と言う、長年聴き続けてきて、そしてこれから先もずっと聴き続けていくであろうディスク、
なにか大事なときには必ず聴きたくなるディスクのことだが、
愛聴盤というニュアンスではなくて、ある短期間(数カ月だったり1年だったり)、
ことあるごとにかけるディスクもある。
それこそ毎日鳴らすこともあるし、一日のうちに二度三度聴くこともある。
そういうディスクのことをなんと呼んだらいいのか、
と以前、黒田先生がステレオサウンドに書かれていた。

たしかに愛聴盤とは呼べない。限られた期間とはいえ頻繁に聴くディスクにぴったりの呼称がない。

少し前の週刊文春に連載されている近田春夫氏の「考えるヒット」の欄外に、
ヘビーローテーション盤という言葉を見つけた。

愛聴盤と比較するとカタカナがすこし長いし、酷使されている感じもするが、
いまのところ,これがイチバンぴったりの言葉だろう。

いうまでもないが、ヘビーローテーション盤と愛聴盤は違う。
ヘビーローテーション盤を、愛聴盤と混同してはならない。

Date: 10月 30th, 2008
Cate: 真空管アンプ

真空管アンプの存在(その10)

アメリカから現われた真空管アンプはコントロールアンプに集中している。
これらコントロールアンプと同じころ、
イギリスから登場したのがマイケルソン&オースチンのパワーアンプTVA1だ。

マッキントッシュのMC275と同じ、KT88のプッシュプルアンプで、
トランスのカバーがクロームメッキされていることもあってか、MC275の現代版と呼ばれることもあった。

イギリスという、いわば保守的なイメージがある国からの登場ということもあってか、
古典的な真空管パワーアンプのような印象を持たれがちだったが、
当時、マッティ・オタラ博士が発表し、話題になっていたTIM歪に対して、
オーバーオールのNFB量を最少限にとどめることで、改善を図っていることをうたっていた。

TVA1は、ステレオサウンド 55号のベストバイ特集で、
瀬川先生がパワーアンプのマイベスト3に選ばれている。
日本で、TVA1を高く評価されていたのは瀬川先生だった。

亡くなられる数カ月前に出たスイングジャーナルの別冊では、
アルテックの620Bに、このアンプを使われ、組合せをつくられている。

Date: 10月 29th, 2008
Cate: 真空管アンプ

真空管アンプの存在(その9)

アクースタットのAcoustat Xは、3枚のフルレンジのパネルを、角度をつけた構成で、
専用アンプが内蔵されている。

Acoustat Xの輸入元はバブコで、カタカナ表記はアコースタットだが、
輸入元がファンガティにかわり、表記もアクースタットになり、
こちらのほうが認知されているようなのでアクースタットと表記する。

内蔵アンプは、電圧増幅部はトランジスターで、出力段は真空管で構成されている。
コンデンサー型スピーカーの動作上、パワーアンプからの入力信号を、
かなりの高電圧に昇圧しなければならない。
そのためコンデンサー型スピーカーは昇圧用トランスを内蔵している。

真空管アンプでコンデンサー型スピーカーを鳴らす場合、出力トランスが出力管の信号を降圧して、
その信号をスピーカー内蔵のトランスで昇圧するという、いわば無駄なことをやっている。

Acoustat Xは、出力管の出力をそのままコンデンサー・ユニットにつないでいる。
使用真空管は不明だが、かなり高圧が出力できるものだろう。
そうでなければ、昇圧トランスを省くことはできないから。

数年後、ファンガティが輸入をはじめたモデル3は、アンプは省かれ、
昇圧トランスを低音用、高音用とふたつ分け使っている。
もちろんユニットは、フルレンジのコンデンサー型だ。

このファンガティ取扱い時代、推奨アンプはオーディオリサーチの真空管アンプだった。

Date: 10月 29th, 2008
Cate: 五味康祐

音楽をオーディオで聴くということ(その1)

小うるさいことを書いている。
と、ときおり自分でそう思うことがある。
そんな些細なこととオーディオの音は何の関係もないだろう、
いい部屋にいいオーディオ機器、それを使いこなせばいいのであって、
モーツァルトのレクィエム、と略せず書いたからといって、音が良くなるはずなどなかろう。

そう少しでも思っている人は五味先生の「オーディオ巡礼」に所収されている
「芥川賞の時計」を読んで、何を感じるのだろうか。
     *
沢庵とつくだ煮だけの貧しい食膳に妻とふたり、小説は書けず、交通費節約のため出社には池袋から新宿矢来町までいつも歩いた……そんな二年間で、やっとこれだけのレコードを私は持つことが出来た。
 白状すると、マージャンでレコード代を浮かそうと迷ったことがある。牌さえいじらせれば、私にはレコード代を稼ぐくらいは困難ではなかったし、ある三国人がしきりに私に挑戦した。毛布を質に入れる状態で、マージャンの元手があるわけはないが、三国人は当時の金で十万円を先ず、黙って私に渡す。その上でゲームを挑む。ギャンブルならこんな馬鹿な話はない。つまり彼は私とマージャンが打ちたかったのだろう。いちど、とうとうお金ほしさに徹夜マージャンをした。数万円が私の儲けになった。これでカートリッジとレコードが買える、そう思ったとき、こんな金でレコードを買うくらいなら、今までぼくは何を耐えてきたのか……男泣きしたいほど自分が哀れで、居堪れなくなった。音楽は私の場合何らかの倫理感と結びつく芸術である。私は自分のいやらしいところを随分知っている。それを音楽で浄化される。苦悩の日々、失意の日々、だからこそ私はスピーカーの前に坐り、うなだれ、涙をこぼしてバッハやベートーヴェンを聴いた。──三国人の邸からの帰途、こんな金はドブへ捨てろと思った。その日一日、映画を観、夜になると新宿を飲み歩いて泥酔して、ボロ布のような元の無一文になって私は家に帰った。編集者の要求する原稿を書こうという気になったのは、この晩である。
     *
都営住宅の家賃が2700円で、芥川賞の賞金が30000円のころの数万円の儲けは、
当時の五味先生にとっては、そうとうな大金だったはず。

まだ18歳だった、この文章を読んだとき涙がこぼれた。
いま書き写していても、熱いものがこみ上げてくる。

オーディオを通して、音楽を聴くということは、そういうものである。
昔も今も、これからも。ずっとそうであってほしい……。

Date: 10月 29th, 2008
Cate: ショウ雑感

2008年ショウ雑感(その4)

ステサン──ステレオサウンドを、こう略して言う人は少なくない。
なぜ略すのか。

誌面に限りがあり、文字数をぎりぎりまで減らす必要があるならば、略すのもわかる。
しゃべりで、ステサンと言うのとステレオサウンドと言うのと、時間にしたらわずかである。
そんなに言葉を多く話すのがイヤなのか、それとも略すのをカッコいいとでも勘違いしているのか。

個人サイトやブログでも、略語を使う人はいる。
ネットの良さは、誌面の制限を受けないことだと思っている私には、略語を使う意味がわからない。
キーボードを打つのが面倒なら、単語登録しておけばすむこと。
そんなわずかな手間を惜しむのか。
だとしたら、「オーディオに向いていないよ、あなたは」と言いたくなる。
オーディオこそ、手間を惜しまず取り組むことを求められる趣味だから。

もうひとつ言いたいのは、モツレクとかベト7とか、ひどい略語についてである。
モツレクを、個人サイトではじめて見たとき、「えっ?」と、ほんのわずかな時間だが考えた。

モーツァルトのレクィエムのことである。ベト7はベートーヴェンの交響曲第7番のこと。
五味先生の著書を読んできた私は、レクイエムではなく、レクィエムと書く。

しかも、そのサイトの主は、モツレクは大好きな曲で愛聴盤だと書いている。
なのに「モツレク」である。言葉の響きとして、まったく美しくない。

モツレクと平気で言える人、書ける人の美意識──、
そんなのでほんとうにオーディオを追求していけるのか。

そんなことは音とは関係ないと言うだろう、そういう人たちは。
だけど、そんな小さなことにその人なりが表われるし、「音は人なり」である。

Date: 10月 29th, 2008
Cate: ショウ雑感

2008年ショウ雑感(その3)

インターナショナルオーディオショウで見かけた、あることについて書く。

20代か30歳そこそこといった若い感じの人が、あるオーディオ評論家の方に、
ステレオサウンドに書かれていた記事について、質問されていた。

盗み聞きしてはいけないと思いながら、それとなく聞いていたら、
どうも、質問されている人の勘違いのようで、そのオーディオ評論家の方も
「家に帰られたら、もういちど読み返してほしい。そんなふうには書いていないから。
それでも、もしそう受けとめられたら、明日も明後日も私はここ(会場)に来ているから、
また声を掛けてください」と真摯に応えられていた。

それに対して、若い感じの人は
「いやー、ステサンは買ってないんですよ。立ち読みです。
でも重たいから立ち読みも大変なんですよ」と笑いながら自慢気であった。

いいかげんに立ち読みして、勘違いして、そのことで、何の落ち度のない人を煩わせて、
へらへらして平気な顔をしている。

立ち読みを勧めはしないが、真剣に立ち読みをすれば、つまらない勘違いもしない。
情報があふれ返っていることに馴れきってしまったことの不幸なのだろう。

Date: 10月 29th, 2008
Cate: 現代スピーカー

現代スピーカー考(その14)

KEFの#105の資料は、手元に何もない。写真があるぐらいだ。

以前、山中先生が言っておられた。
「ぼくらがオーディオをやりはじめたころは、得られる情報なんてわずかだった。
だからモノクロの写真一枚でも、じーっと見続けていた。
辛抱づよく見ることで、写真から得られるもの意外と多いし、そういう習慣が身についている。」

私がオーディオに関心をもちはじめたころも、山中先生の状況と大きく変わらない。
東京や大阪などに住んでいれば、本だけでなくオーディオ店にいけば、実機に触れられる。
しかも、オーディオ店もいくつも身近にある。
けれど、熊本の片田舎だと、オーディオを扱っているところはあっても、近所にオーディオ専門店はない。
得られる情報といえば、オーディオ誌だけである。
まわりにオーディオを趣味としている先輩も仲間もいなかった。

だから何度もくり返し同じ本を読み、写真を見続けるしかなかった。

いまはどうだろう。
情報量が増えたことで、あるひとつの情報に接している時間は短くなっていないだろうか。

数年前、ある雑誌で、ある人(けっこう年輩の方)が、
「もう、細かなことはいちいち憶えてなくていいんだよ。ネットで検索すればいいんだから」と発言されていた。
それは趣味の分野に関しての発言だった。

ネットに接続できる環境があり、パソコンもしくはPDAで検索すればそのとおりだろう。
仲間内で、音楽やオーディオの話をしているとき、
その人は、つねにネットに接続しながら話すのだろうか。
それで成り立つ会話というのを想像すると、つよい異和感がある。

Date: 10月 29th, 2008
Cate: 105, KEF, 現代スピーカー

現代スピーカー考(その13)

KEFの#105の底にはキャスターが取り付けられていた。

いまのオーディオの常識からすると、なぜそんなものを取り付ける? となるが、
当時は、スペンドールのBCII、BCIIIの専用スタンドもキャスターをがついていた。

ただスペンドールの場合も、このキャスター付きのスタンドのせいで、
上級機の BCIIIはずいぶん損をしている。
日本ではBCIIのほうが評価が高く、BCIIIの評価はむしろ低い。

ステレオサウンド 44号のスピーカーの総テストの中で、瀬川先生が、
BCIIIを、専用スタンドではなく、
他のスタンドにかえたときの音に驚いた、といったことを書かれている。

スペンドールのスタンドは、横から見るとコの字型の、鉄パイプの華奢なつくりで、キャスター付き。
重量は比較的軽いBCIIならまだしも、BCIIのユニット構成に30cmウーファーを追加し
エンクロージュアを大型にしたBCIIIで、スタンドの欠点が、よりはっきりと出たためであろう。

KEFの試聴室の写真を見たことがある。
スピーカーは、105の改良モデルの105.2で、一段高いステージの上に置かれているが、
とうぜんキャスターは付いていない。あのキャスターは、輸入元がつけたのかもしれない。
そして、キャスターを外した105の音はどう変化するのかを確認してみたい。

Date: 10月 29th, 2008
Cate: 105, KEF, 現代スピーカー

現代スピーカー考(その12)

KEFの#105をはじめて聴いたのは1979年、熊本のとあるオーディオ店で、
菅野先生と瀬川先生のおふたりが来られたイベントの時である。

オーディオ相談といえるイベントで、菅野先生、瀬川先生はそれぞれのブースにおられて、
私はほとんど瀬川先生のブースにずっといた。
その時、瀬川先生が調整して聴かせてくれたのが、105である。

いまでこそクラシックが、聴く音楽の主だったものだが、当時、高校二年という少年にとっては、
女性ヴォーカルがうまく鳴ってほしいもので、瀬川先生に、
「この人とこの人のヴォーカルがうまく鳴らしたい」(誰なのかは想像にまかせます)と言ったところ、
「ちょっと待ってて」と言いながら、ブースの片隅においてあった105を自ら移動して、
バルバラのレコードをかけながら、
スピーカー全体の角度、それから中高域ユニットの水平垂直方向の調整を、
手際よくやられたのち、「ここに座って聴いてごらん」と、
バルバラをもういちど鳴らしてくれた。

唇や舌の動きが手にとるようにわかる、という表現が、当時のオーディオ雑誌に載っていたが、
このときの音がまさにそうだった。
誇張なく、バルバラが立っていたとして、ちょうど口あたりのところに、
何もない空間から声が聴こえてくる。

瀬川先生の調整の見事さと早さにも驚いたが、この、一種オーディオ特有の生々しさと、
けっして口が大きくならないのは、強い衝撃だった。
バルバラの口の中の唾液の量までわかるような再現だった。

ヴォーカルの再生は、まず口が小さくなければならない、と当時のオーディオ誌ではよく書いてあった。
それがそのまま音になっていた。

いま思い出すと、それは歌い手のボディを感じられない音といえるけれど、
なにか他のスピーカーとは違う、と感じさせてくれた。

Date: 10月 29th, 2008
Cate: 105, KEF, 現代スピーカー

現代スピーカー考(その11)

KEFのレイモンド・E・クックの
「われわれのスピーカーは、コヒーレントフェイズ(coherent phase)である」 を
もういちど思い出してみる。

このインタビューの詳細を思い出せればいいのだが、さすがに30年前のことになると、
記憶も不鮮明なところがあるし、手元にステレオサウンドもない。
いま手元にあるステレオサウンドは10冊に満たない。
もうすこしあれば、さらに正確なことを書いていけるのだが……。

クックが言いたかったのは、#105は単にユニットの音源合わせを行なっているだけではない。
ネットワークも含めて、位相のつながりもスムーズになるよう配慮して設計している。
そういうことだったように思う。
他社製のスピーカーを測定すると、位相が急激に変化する帯域があるとも言っていたはずだ。

当然、その測定にはインパルスレスポンスによる解析法が使われているからこその発言だろう。

Date: 10月 29th, 2008
Cate: 真空管アンプ

真空管アンプの存在(その8)

ビバリッジが開発したコンデンサー型スピーカーは、他社とは一寸違っていた。

フルレンジ型のユニットを用い、振動膜の前面にスリットを複数設け、
平面波を、上から見れば、半円筒状に広がっていくように工夫されている。
設置方法も、通常のスピーカーとは異り、壁にぴったりくっつけることが指定されていた。
マッキントッシュのスピーカーXRT20と、ある部分、設計思想が似ていると言えるだろう。

しかもXRT20はリスナーの前面の壁に設置する。
これが当然だが、ビバリッジのスピーカーは、リスナーの真横の設置が標準になっていた。

どんな音がしたのか、というよりも、どういう音場感を提示してくれたのか、
ステレオサウンドの新製品紹介の記事で見た時から、ひじょうに興味があったが、
残念ながら実物を見たこともない。

RM1/RM2は、このスピーカーと同時期に出ている。

おそらく、このコンデンサー型スピーカーの能率はかなり低かったのだろう。
RM1/RM2は聴いていないが、同じ設計者によるRM5が、わずかな間で出ていて、
聴いた印象では、おそらくノイズレベルでは大差ないと思われる。

ビバリッジのコンデンサー型スピーカーと前後して、
アクースタットからもコンデンサー型スピーカーが登場している。

Date: 10月 29th, 2008
Cate: 真空管アンプ

真空管アンプの存在(その7)

ミュージック・リファレンスも登場していた。

主宰者のロジャー・モジャスキーによると、同社のコントロールアンプRM5と
カウンターポイントのSA5の回路はそっくりらしい。
ふたつの回路図を見ると、使っている真空管は6DJ8だし、基本回路構成はたしかに似ている。
とはいえ回路定数はもちろん違うし、コンストラクションも大きく違う。
ただミュージック・リファレンスとカウンターポイントに共通していることは、
どちらも真空管でMCカートリッジ用のヘッドアンプを製品化していることである。

ミュージック・リファレンスがRM4、カウンターポイントがSA2が、それぞれの製品だが、
真空管全盛の時からアンプをつくってきたメーカーが考えもしない、
アマチュア的な挑戦を、いい意味で感じさせてくれるところは、
新興メーカーならではの強みかもしれない。

とはいえ、どちらも聴いたことがあるが、誰でもが容易に使えるというレベルには、
残念ながら達していなかった。

思うに、これらのメーカーのエンジニア、主宰者が使っているスピーカーの能率は、
極端に低いものなのかもしれない、
だからこのノイズレベルでも、おそらく問題とならないのだろう、と。

当時、ステレオサウンドの試聴室のスピーカーのJBL 4344はカタログ上は93dBである。
真空管アンプ全盛のころのスピーカーと比べるとけっして高くはないが、
それでもアメリカから登場した真空管アンプにとっては、能率の高いスピーカーなんだろうと思える。

ミュージック・リファレンスのRM4、RM5の型番から気がつかれているだろうが、
ビバリッジのRM1RM2の設計もロジャー・モジャスキーである。
そしてビバリッジはコンデンサー型スピーカーのメーカーでもあった。

Date: 10月 28th, 2008
Cate: 真空管アンプ

真空管アンプの存在(その6)

伊藤アンプに魅了されているころ、海外から真空管アンプがぽつぽつと現われはじめていた。

まず登場したのがコンラッド・ジョンソンのPreAmplifier(たしかこういう型番だった)で、
そっけないパネルでアマチュアの手作りの雰囲気を残していたが、
井上、山中両氏の新製品紹介の記事では、新鮮な音の印象といったことが書かれていたと記憶している。
このあたりから、新しい──音も回路技術も──真空管アンプが登場してくることになる。

順不同だが、プレシジョン・フィデリティ(Precision Fidelity》から、
金色のフロントパネルのコントロールアンプはC4が登場した。
プレシジョン・フィデリティは、スレッショルドのネルソン・パスのプライベート・ブランドだときいている。

それからビバリッジのRM1/RM2。外部電源採用のコントロールアンプで、
アンプ本体と電源部のシャーシは同じサイズで、たしかアンプ部がRM1、電源部がRM2だった。
多少不安定さがありながらも、調子が良いときの音は格別だったと聞いている。
山中先生が、組合せの特集で、このビバリッジとSUMOのThe Goldを、最高のペアだと言われていた。

カウンターポイントのSA1も登場している。
このころのカウンターポイントは、マイケル・エリオットではなく、
創立者エドワード・フマンコフの設計である。
エリオット設計のSA5から安定していったが、SA1は気難しい面を持っていた。

SA1はステレオサウンドの試聴室で聴いている。
上に挙げた機種とくらべてまずパネルフェイスがこなれていた。
もうすこし安定してくれたら、欲しいのに……と思ったほど、ソノリティの良さは見事だった。

こうやって書いていくと気がつくが、アメリカから登場した真空管アンプはコントロールアンプばかりである。

パワーアンプは、と言うと、イギリスのマイケルソン&オースチンのTVA1が挙げられる。

Date: 10月 28th, 2008
Cate: 型番

型番について(その2)

マッキントッシュのパワーアンプの型番の意味するところは、
モノーラル機かステレオ機か、と、出力の大きさである。

真空管アンプのころ、MC275、MC240のモノーラル仕様のMC75、MC40が存在からわかるように、
MCの後につづく数字の最初が「2」であればステレオ仕様であり、そのあとの数字が出力を示す。
「2」がない場合はモノーラルで、MCの後すぐの数字が出力である。
これはトランジスター化されても基本的には続いている。

過去の製品を含めると同じ出力のアンプも存在すると、
型番の末尾に出力とは関係のない数字がつくこともあったし、
出力250W+250Wだが、MC252という型番も出てきた。

モノーラルで「2」がつくのは、超弩級のMC2kWである。
これは出力が2000Wなので、このように例外的な型番となったのだろう。
とはいえ「2」のあとに数字ではなくkWと続くので、それほど例外とも言えない。
あと真空管アンプのMC3500は、350Wのモノーラル仕様なのに、「0」がひとつ多かったりする。

だから原則的にマッキントッシュのパワーアンプの型番のつけ方に大きな変化はないと思っていた。

けれど、MC2301は違った。
型番から判断すると、300W+300Wのステレオ仕様なのに実際は300Wのモノーラルである。
メーターがひとつだから、モノーラルということは実物、写真を見ればすぐにわかることとはいえ、
なぜ、このアンプだけ型番のつけ方が異るのか、ちょっと気になる。

Date: 10月 28th, 2008
Cate: 伊藤喜多男, 真空管アンプ

真空管アンプの存在(その5)

伊藤先生のアンプは、他の筆者の方の自作アンプとは、たたずまいがまるっきり異っていた。
それは、まだ自作の経験のない中学生にもはっきりとわかるくらいの違いであった。

真空管アンプを自分の手で作るなら、これだ、これしかない、と瞬間的に思い込んでしまった。

次に伊藤先生のアンプを見たのは、
ステレオサウンドで連載が始まった「スーパーマニア」という記事の1回目だった。
その方は、シーメンスのオイロダインとEMTの927Dstを使われていて、
アンプは伊藤先生製作のの300Bシングルアンプとコントロールアンプの純正の組合せ。
カラーではじめて見る伊藤アンプに、またも魅了された。

3回目は、ステレオサウンドの弟分にあたるサウンドボーイ誌に載った、
EL34のプッシュプルアンプの製作記事だ。
この記事がありがたかったのは、製作過程をカラー写真で細部まで明らかにしてくれたことだ。
この記事の写真をよく見るとわかるが、登場するEL34のアンプは1台ではない。
少なくとも2台のアンプを撮影しているのがわかる。
そんなことに気づくほど、写真を何度も見つづけた。