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Date: 11月 16th, 2012
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(迷うからこそ)

私が改めていうまでもなく、オーディオは奥が深い。そして広い。
このことを別の表現では、オーディオは泥沼だ、と昔はよくいわれていた。
     *
私はタンノイ・オートグラフに四六時中満足しているわけではけっしてない。いいレコードを──つまり曲も演奏もいい、録音も悪くない一枚を聴いているとき私たちは装置のよし悪しなどは考えないものだ。すんなり音楽的感動・その美しさ・味わいにひたっていられる。家庭でレコード音楽を鑑賞するこれはもっとも正常な、かつ大切な状態であって、本来はつねにそうあるべきなのである。
 ──が、理屈ではわかっていても、そうスンナリゆかぬところにオーディオ・マニアのかなしさや宿命があり、やっぱり、気にくわぬ音が出てくる。私も例外ではない。言うなら、永遠に迷えるおろかな羊だ。これは知っておいてほしいと思うのだ。
     *
これは五味先生のことばだ。五味オーディオ教室で、私は13歳のとき読んだ。
永遠に迷える羊──、それこそがオーディオマニアだということを、
そんな苦労はまったくしていない13のときに、とにかく文字の力によって刻まれた。

オーディオには迷うことが無数にある。
迷うことがいっさいなく、パッパッとすべてを判断していけたら、
オーディオは泥沼ではない、きれいな湖になるのかもしれない。

迷ったり苦労なんてしたくない、ただ好きな音楽をいい音で聴きたい、という人がいる。
それで、チューニングを生業としている人に依頼して、自分の装置の調整をまかせてしまう。
それもひとつのありかたであり、そういうやり方を否定はしたくない。

でも、こういう人たちは、どんなに高額な機器を所有していようと、オーディオマニアではない。
オーディオマニアでなくても、好きな音楽をいい音で聴きたい人はいて、
そういう人たちが、誰かに調整を依頼するのは当然のことだろう。

でもオーディオマニアと自覚している人であれば、どんなに迷うことだらけでも、
人に調整を任せてしまってはいけない。
世の中には迷うことが無数にあるのと同じように、迷うことで発見できることが、無数にある。

実際の道でもそうだろう。
目的地への最短のルートを、あらかじめ地図で調べて、それ以外の道はいっさい通らない。
寄り道は無駄なことである、と考え、それを実行している人もいるだろう。

道は無数にある。
それぞれの道は同じではない。
違う道を歩くことで見つけられるものが世の中にはある。
道に迷うことで見つけられるものがある。

チューニングを生業としている人の中には、
「最短距離でいい音にたどりつけます」などという人がきっといると思う。
そんな人に自分の装置をまかせてしまったら、最後、自分の目、耳で発見することができなくなってしまう。

その発見を放棄してしまうことを、自ら選択してはいけない。

Date: 11月 15th, 2012
Cate: オリジナル

オリジナルとは(続×二十二・チャートウェルのLS3/5A)

マッキントッシュの音やデザインの魅力については、いまさら私が、ましてこの特集号で改めて書くことはあるまい。要するにそれほど感心したマッキントッシュを、しかし私は一度も自家用にしようと思ったことがない。私は、欲しいと思ったら待つことのできない人間だ。そして、かつてはマランツやJBLのアンプを、今ではマーク・レヴィンソンとSAEを、借金しながら買ってしまった。それなのにマッキントッシュだけは、自分で買わない。それでいて、実物を眺めるたびに、なんて美しい製品だろうと感心し、その音の豊潤で深い味わいに感心させられる。でも買わない。なぜなのだろう。おそらく、マッキントッシュの製品のどこかに、自分と体質の合わない何か、を感じているからだ。どうも私自身の中に、豊かさとかゴージャスな感じを、素直に受け入れにくい体質があるかららしい。この贅を尽した、物量を惜しまず最上のものを作るアメリカの製品の中に、私はどこか成金趣味的な要素を臭ぎとってしまうのだ。そしてもうひとつ、新しもの好きの私は、マッキントッシュの音の中に、ひとつの完成された世界、もうこれ以上発展の余地のない保守の世界を聴きとってしまうのだ。これから十年、二十年を経ても、この音はおそらく、ある時期に完結したもの凄い世界ということで立派に評価されるにちがいない。時の経過に負けることのない完結した世界が、マッキントッシュの音だと思う。
     *
「自分の体質と合わない何か」を、瀬川先生はマッキントッシュのアンプの音のうちに感じられている。
この文章は、ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ」のマッキントッシュの号に書かれたもの。
1976年のことである。
このころのマッキントッシュのアンプは、コントロールアンプはC26、C28、
パワーアンプはMC2105、MC2300の時代である。

このころのマッキントッシュのアンプについては、ステレオサウンド 52号で書かれている。
     *
かつてC22とMC275の組合せの時代にしびれるほどの思いを体験したにもかかわらず、マッキントッシュの音は、ついにわたくしの装置の中に入ってこなかった。その理由はいまも書いたように、永いあいだ、音の豊かさという面にわたくしが重点を置かなかったからだ。そしてマッキントッシュはトランジスター化され、C26、C28やMC2105の時代に入ってみると、マッキントッシュの音質に本質的に共感を持てないわたくしにさえ、マッキントッシュの音は管球時代のほうがいっそ徹底していてよかったように思われて、すますま自家用として考える機会を持たないまま、やがてレビンソンやSAEの出現以後は、トランジスター式のマッキントッシュの音がよけいに古めかしく思われて、ありていにいえば積極的に敬遠する音、のほうに入ってしまった。
MC2205が発売されるころのマッキントッシュは、外観のデザインにさえ、かつてのあの豊潤そのもののようなリッチな線からむしろ、メーターまわりやツマミのエッジを強いフチで囲んだ、アクの強い形になって、やがてC32が発売されるに及んで、その音もまたひどくアクの強いこってりした味わいに思えて、とうていわたくしと縁のない音だと決めつけてしまった。
     *
このころのマッキントッシュのアンプの音ほどではないにせよ、
マッキントッシュのアンプの音は、瀬川先生の体質とは合わない「何か」を特徴としていた。

そういうマッキントッシュのアンプで、
これまた瀬川先生の耳を聴くに耐えないほど圧迫したアルテックの612Aを鳴らして、
とても好きなエリカ・ケートの歌声の美しさが、瀬川先生の耳の底に焼きついている、ということは、
どういうことなのか。

もしマランツのModel 7とModel 8BもしくはModel 9で612Aを鳴らされていたら……、
そう考えてみることで、浮びあがってくることがある。

Date: 11月 15th, 2012
Cate: オリジナル

オリジナルとは(続×二十一・チャートウェルのLS3/5A)

瀬川先生がマッキントッシュのC22とMC275のペアをはじめて聴かれたのは、
ステレオサウンド 3号の特集記事でアンプの試聴テストにおいてであり、
このときステレオサウンドはまだ試聴室を持っておらず、
試聴は瀬川先生のリスニングルームで行われている。

だから試聴テストが終ったあと、瀬川先生は自身のリスニングルームで、
アルテックの604Eをおさめた612Aでエリカ・ケートを聴き、
「この一曲のためにこのアンプを欲しい」と思われたわけだ。

ここで見逃してはならないのは、
アルテックの612Aで聴かれて、「滑らかに澄んで、ふっくらとやわらかなあの美しい歌声」が、
瀬川先生の耳の底に焼きついた、ということ。

612Aについては、ステレオサウンド 46号のモニタースピーカーの試聴テストで、こんなことを語られている。
     *
私は研究のつもりで、アルテックの612Aのオリジナル・エンクロージュアを自宅に買いこんで鳴らしていた。その音は、身銭を切って購入したにもかかわらず好きになれなかった。ただ、録音スタジオでのひとつの標準的なプレイバックスピーカーの音を、参考までに身辺に置いておく必要があるといった、義務感というか意気込みとでもいったかなり不自然な動機にすぎなかった。モニタールームでさえアルテックの中域のおそすしく張り出した音は耳にきつく感じられたが、デッドな八畳和室では、この音は音量を上げると聴くに耐えないほど耳を圧迫した。私の耳が、とくにこの中域の張り出しに弱いせいもあるが、なにしろこの音はたまらなかった。
     *
瀬川先生にとって、エリカ・ケートの歌曲集がどういう存在であったのかは、次の文章を読んでほしい。
     *
エリカ・ケートというソプラノを私はとても好きで、中でもキング/セブン・シーズから出て、いまは廃盤になったドイツ・リート集を大切にしている。決してスケールの大きさや身ぶりや容姿の美しさで評判になる人ではなく、しかし近ごろ話題のエリー・アメリンクよりも洗練されている。清潔で、畑中良輔氏の評を借りれば、チラリと見せる色っぽさがなんとも言えない魅惑である。どういうわけかドイツのオイロディスク原盤でもカタログから落ちてしまってこれ一枚しか手もとになく,もうすりきれてジャリジャリして、それでもときおりくりかえして聴く。彼女のレコードは、その後オイロディスク盤で何枚か入手したが、それでもこの一枚が抜群のできだと思う。(人生音盤模様より)
     *
瀬川先生は、すり減ってしまうのがこわくて、テープにコピーされていたくらいである。
そのエリカ・ケートの歌うモーツァルトの歌曲 Abendempfindung を、
テストの終った初夏のすがすがしいある日の午後に聴かれている。
マッキントッシュのC22、MC275、アルテックの604Eで。

Date: 11月 15th, 2012
Cate: オリジナル

オリジナルとは(続×二十・チャートウェルのLS3/5A)

瀬川先生がModel 7の音に衝撃をうけられたことが伝わってくる。

瀬川先生はマッキントッシュのC22は購入されていない。
その理由はなんとなくではあるけれど想像できないわけではない。

ここにModel 7とC22の違いがあり、
その違いをもっとも強く感じるのは、C22とMC275について書かれた次の文章である。
     *
しかしその試聴で、もうひとつの魅力ある製品を発見したというのが、これもまた前述したマッキントッシュのC22とMC275の組合せで、アルテックの604Eを鳴らした音であった。ことに、テストの終った初夏のすがすがしいある日の午後に聴いた、エリカ・ケートの歌うモーツァルトの歌曲 Abendempfindung(夕暮の情緒)の、滑らかに澄んで、ふっくらとやわらかなあの美しい歌声は、いまでも耳の底に焼きついているほどで、この一曲のためにこのアンプを欲しい、とさえ、思ったものだ。
     *
ここには一枚のレコードが登場している。エリカ・ケートのモーツァルト歌曲集である。

けれど私が読んだかぎりにおいて、Model 7の音について書かれるとき、
そこになにかのレコードが登場することはない。

私にとって、この一点こそが、
マランツの音とマッキントッシュの音の違いをもっとも的確に語ってくれている。

Date: 11月 14th, 2012
Cate: オリジナル

オリジナルとは(続×十九・チャートウェルのLS3/5A)

瀬川先生はマランツのModel 7に、びっくりした、ということを何度か書かれている。

ステレオサウンド 52号でも、1981年のセパレートアンプの別冊においても書かれている。
そのマランツModel 7を瀬川先生は、音を聴かずに買われている。

あるオーディオ雑誌で、新忠篤氏がこんなことを発言されているが、新氏の勘違いである。
     *
そのころ瀬川氏は、何か他のものを買おうと思い、貯金をされていたらしいのです。しかし、あるときこのアンプと出会って、あまりの音の良さに驚いて買ってしまったというんです。その記事が、いまも目に焼きついているんですね。(管球王国 vol.36より)
     *
ステレオサウンド 52号に、瀬川先生は書かれている。
     *
昭和36年以降、本格的に独立してインダストリアルデザインの道を進みはじめると、そろそろ、アンプの設計や製作のための時間を作ることが困難なほど多忙になりはじめた。一日の仕事を終って家に帰ると、もうアンプの回路のことを考えたり、ハンダごてを握るよりも、好きな一枚のレコードで、何も考えずにただ疲れを癒したい、という気分になってくる。そんな次第から、もうこの辺で自作から足を洗って、何かひとつ、完成度の高いアンプを購入したい、というように考えが変ってきた。
 もうその頃になると、国内の専業メーカーからも、数少ないとはいえ各種のアンプが市販されるようになってはいたが、なにしろ十数年間、自分で設計し改造しながら、コンストラクションやデザインといった外観仕上げにまで、へたなメーカー製品など何ものともしない程度のアンプは作ってきた目で眺めると、なみたいていの製品では、これを買って成仏しようという気を起こさせない。迷いながらも選択はどんどんエスカレートして、結局、マランツのモデル7を買うことに決心してしまった。
 などと書くといとも容易に買ってしまったみたいだが、そんなことはない。当時の価格で十六万円弱、といえば、なにしろ大卒の初任給が三万円に達したかどうかという時代だから、まあ相当に思い切った買物だ。それで貯金の大半をはたいてしまうと、パワーアンプはマランツには手が出なくなって、QUADのII型(KT66PP)を買った。このことからもわたくしがプリアンプのほうに重きを置く人間であることがいえる。
 ともかく、マランツ7+QUAD/II(×2)という、わたくしとしては初めて買うメーカー製のアンプが我が家で鳴りはじめた。
 いや、こういうありきたりの書きかたは、スイッチを入れて初めて鳴った音のおどろきをとても説明できていない。
 何度も書いたように、アンプの回路設計はふつうにできた。デザインや仕上げにも人一倍うるさいことを自認していた。そういう面から選択を重ねて、最後に、マランツの回路にも仕上げにも、まあ一応の納得をして購入した。さんざん自作をくりかえしてきて、およそ考えうるかぎりパーツにぜいたくし、製作や調整に手を尽くしたプリアンプの鳴らす音というものは、ほとんどわかっていたつもりであった。
 マランツ7が最初に鳴らした音質は、そういうわたくしの予想を大幅に上廻る、というよりそれまで全く知らなかったアンプの世界のもうひとつ別の次元の音を、聴かせ、わたくしは一瞬、気が遠くなるほどの驚きを味わった。
     *
わかるのは、Model 7を買ってから音を聴かれ、びっくりされた、ということである。

Date: 11月 14th, 2012
Cate: オリジナル

オリジナルとは(続×十八・チャートウェルのLS3/5A)

マッキントッシュのC22、MC275も、適切に手を加えることで、
マッキントッシュの世界(よさ)を崩すことなく、音をよくしていけることを、
五味先生の文章によって、私は確信している。

これはあくまでも私にとっての、私だけの確信であって、
C22、MC275をお使いの方でも、五味先生の書かれたものに対して否定的な方にとっては、
そんなものは確信とはいわない、となって当然である。

五味先生はマランツのModel 7とModel 8Bも所有されていた。
けれどタンノイのオートグラフを鳴らしていたマッキントッシュのC22とMC275のペアであり、
晩年にはマークレビンソンのJC2とカンノアンプの300Bシングルのペアもある。

オートグラフというスピーカーに惚れ込んだ五味先生にとって、C22とMC275は、
あくまでもオートグラフをもっともよく鳴らしてくれるアンプとしての存在であったのだと思う。
オートグラフへの惚れ込み方と、C22、MC275への愛着は違うような気もする。

五味先生にとって、岩竹氏による銀線への交換がなされたMC275は、
あくまでもオートグラフを五味先生のリスニングルームにおいて鳴らしての、
元のMC275よりも、高域も低域も伸び、冴え冴えと美しかったわけである。

別のひとのところへ、別のスピーカーで鳴らしてみれば、
元のMC275と音は違うけれど、必ずしも良くはなっていない、という結果になることだって考えられる。

でも、私にはそれは、どうでもいい、といってはいいすぎになってしまうが、
それでも五味先生が、五味先生のリスニングルームで五味先生のオートグラフを鳴らして音が良くなっていれば、
それは私にとっても試してみる価値のあることである。

そう考える私は、マッキントッシュのC22のコンデンサーをもし交換するようなことになったら、
Black Beautyに多少の未練を残しながら、ASCのコンデンサーにすると思う。

Black Beautyの信頼性を、私は信用していないからである。

Date: 11月 14th, 2012
Cate: ケーブル

期待したいこと

東京新聞のウェブサイトで公開されている記事のなかに、
「ニット技術で絹製血管 細さ1ミリ 血栓防ぐ」というタイトルがあった。

記事によれば、福井の繊維メーカー、福井経網興業が、東京農工大の朝倉哲郎教授と共同で、
絹製人工血管を研究していて、直径1mmの絹製の人工血管の量産に成功した、とある。

特殊な絹を筒状に加工し、その周囲を別の絹でコーティングし血液が漏れない構造で、
それまでのポリエステルなどの人工化合物による人工血管とくらべて伸縮性があり、
血栓ができにくいため極細にでき、さらに蛋白質成分が体内の組織と同化し成長する、とある。

この記事を読んでいて、オーディオマニアの私は、
この絹製の人工血管はそのままオーディオケーブルの被膜に使える、と思っていた。

ケーブルの音は、いうまでもなく芯線の材質、太さ、撚り方などによって変化していくわけだが、
被覆が音に与える影響もまた大きい。

だからいろいな材質が使われてきている。
絶縁特性が優れているから、といって、音がいいとはかぎらない。
絹が使われている例もある。
でも主流は、人工血管と同じく人工化合物である。

被覆も自然素材が音がいい、とは昔からいわれてはいた。
でも使われることはそう多くはない。

けれど、福井経編興業の絹製人工血管が予定どおりの2年後に実用化されれば、
ケーブルの被覆として、すぐにでも採用してほしい、と思う。

実物を目にしたわけでは、もちろんない。
東京新聞の記事を読んだだけである。

それでも、この絹製人工血管がケーブルの被覆として、そうとうに理想的なモノであると確信している。
実用化まであと2年、オーディオのケーブルに採用されるのにはさらにもう少し先のことになることだろう。

オーディオにとって待ち遠しい技術が登場してくれた。

Date: 11月 14th, 2012
Cate: 世代

世代とオーディオ(その1)

あれは私が10代のころだったのか、それとももうすこしあとのことだったのか、
ジェネレーションギャップという言葉が、よく使われていた(耳にすることの多かった)時代があった。

あのころにくらべると、いまはジェネレーションギャップを使う人は、
すくなくとも私のまわりにはほとんどいなくなった。
だからといって、ジェネレーションギャップ(世代の違い)がなくなってしまったわけでもなかろう。

オーディオのことだけにおいても、こんなに価値観が違うのかと思うことがある。
Twitterやfacebookをみていると、私より一世代以上若い人たちが、
アナログプレーヤーについて書いているのを読んでいると、よくそう思うことが多い。

もう少し具体的に書くと、あるアナログプレーヤーがネットオークションに出品されている。
これらのアナログプレーヤーの大半は、私がステレオサウンドで働いていたときの現役の製品であって、
ほぼすべてといっていいくらいステレオサウンドの試聴室で実際にふれ、音を聴いている。

私の中には、それらがベースになって、そういったアナログプレーヤーに対する評価軸ができあがっている。

私より一世代若い人たちにとって、それらのアナログプレーヤーは、彼らがそれらの製品、
正確に書けば、それらの製品と同じような価格のオーディオ機器を購入できるようになったとき、
そういったアナログプレーヤーは現役の製品ではなくなっていた。
実物を見る機会も聴く機会も、ずっと少なかったはず。

彼らには彼らの評価軸がある。
その彼らの評価軸と私の評価軸は重なるところもあれば、そうでないところも当然ある。

私だったら、このアナログプレーヤーには、この値段は適正だなと思っていても、
彼らは、とても安い、いいモノを見つけた、という感覚なのだということを、
Twitter、facebookを通じて知る。

そんなときに、これが世代の違いなのかも、と思う。

Date: 11月 13th, 2012
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(余談・編集者の存在とは)

こんなことがあったな、と思い出すことがある。

ずいぶん前のこと、おそらく書いた人も忘れているであろう。
そんな昔の話である。

あるオーディオ雑誌の特集記事にシェーンベルクのことが書かれていた。
シェーンベルクとその作品と、オーディオ機器とを関連づけた記事であった。

シェーンベルクだから、その文章にも12音技法のことが出てきて、
12音技法を中心に話が進んでいく。
そこにはある演奏家の録音が登場する。そして話は具体的になっていくわけだが……。

この文章を書いた筆者がとりあげていたシェーンベルクの作品は、12音技法以前の作品だった。
これは筆者の致命的なミスである。

私は、その特集記事が載った時期には、そのオーディオ雑誌には携わっていなかった。
一読者として、そのオーディオ雑誌を読んで、「あーっ」と思った。

これは、誰も気がつかないわけがない。
誰かは気づいていたはず。なのに……。

それから1年以上経ってからだったか、
どうして、その文章が訂正されることなく載ったのかを当事者(編集者)に聞くことができた。

やはり、すぐには気づいていた、とのこと。
でも原稿があがってきたのが時間的にギリギリで、
編集部による手直しでは訂正できない内容であり(ほとんどすべて書き直す必要があるため)、
といって筆者に書き直してもらう時間的余裕はまったくない。
ページを真っ白のまま発売するわけにはいかない。

だから、そのまま掲載した、と。

編集者は気づいていた。読者も気づいた。
筆者は気づいていない。

そういうことだってある(本来あってはならないことだけど)。

Date: 11月 12th, 2012
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」(その14)

アメリカでは、JBLやタンノイのスピーカーはほとんど売れていない、
JBLやタンノイが売れているのは日本ぐらいなものであり、だから日本のオーディオは……、
こんなことは私がステレオサウンドにいた1980年代からいわれている。

いまも、そういうことをいう人はいる。
インターネットという匿名で好き勝手なことを発言できる場が形成されてきたためか、
そういうことをいう人の数は増えてきているようにも感じる。

ほんとうのところ増えていくのかどうかははっきりとしない。
同じ人が、何度も同じことを発言していることだって考えられるから。

でも、実際にJBLやタンノイが日本だけでしか売れていないのかというと、
そんなことはない。

アメリカは日本よりもずっと広い。
国土が広いだけではなく、いくつかの意味で広い。

たしかにアメリカにはアブソリュートサウンドというオーディオ雑誌が以前からあり、
その流れとしてハイエンドオーディオと称されるものがあり、
それがアメリカで高い支持を得ているのは事実であろう。
日本でも、アブソリュートサウンド的ハイエンド志向の人はいる。

だからといって、日本もアメリカも、そういうアブソリュートサウンド的ハイエンドの人たちばかりではない。

日本のオーディオマニアもたったひとつでなく、
人によってオーディオの取組み方は違う。

スピーカーの選択ひとつとっても、その人の考えによってさまざまなスピーカーがそこでは選ばれている。
ウェスターン・エレクトリック時代のスピーカーを探しだしてきて使う人もいる、
JBL、アルテックのホーン型スピーカーによるウェストコーストサウンド、
ボザーク、マッキントッシュ、ハートレーのように
ダイレクトラジェーターを並列使用するイーストコーストサウンド、
1970年代に登場したインフィニティ、マグネパンなどの流れを汲むスピーカー、
などなどアメリカのオーディオマニアのあいだでも日本のオーディオマニアのあいだでも、
じつにさまざまなスピーカーが鳴らされている。

人間だから、新しいスピーカーが登場し、その音が自分にとって好ましいものであれば、
そのスピーカーに惹かれがちになるものだ。
惹かれるのは悪いことではない。

でも、だからといって、それまであったものが色褪せてしまい古くなってしまうわけではない。
新しいスピーカーに魅かれてしまった人には、そうなってしまうこともあるだろうが、
それはあくまでも、その人に限ってことであって、
自分以外の人たちが使っている・鳴らしているスピーカーが色褪せたり古くなるわけでは、絶対にない。

なぜ、この大事なことを混同してしまうのだろうか。
その混同が、その人の中にとどまっていればなんの問題もないことなのだが、
不思議とそういう人にかぎって、「JBLやタンノイは……」という……。

Date: 11月 12th, 2012
Cate: オーディオ評論, 五味康祐, 言葉

オーディオ評論家の「役目」、そして「役割」(続・おもい、について)

五味先生はオーディオにおいて何者であったか──、
私は、オーディオ思想家だと思っている。

2年前、この項の(その13)で、そう書いた。

あえて書くまでもなく、思想ということばは、思う・想うと思い・想いからなる。

五味先生の、音楽、オーディオについてのことばは重たい。

そう感じない人もいよう。
それでも私には読みはじめたときから、ずっと、まちがいなく死ぬまで「おもい」。

(その13)の最後には、こう書いた。

五味先生の、そのオーディオの「思想」が、瀬川先生が生み出したオーディオ「評論」へと受け継がれている。

だから私には瀬川先生の文章も、また「おもい」と感じる。

Date: 11月 12th, 2012
Cate: オーディオ評論, 言葉

オーディオ評論家の「役目」、そして「役割」(おもい、について)

「おもい」とキーボードで入力すると、変換候補として、思い、想い、懷のほかに、重いも表示される。

思い、想い、懷、これら三つには、心があり、
重いには心はないから、「おもい」のなかで重いだけは、まったく別の言葉でもあるように思える。

けれど心は身体に宿っているもの、と捉えれば(心身という言葉もあるのだから)、
心+身(み)を「おもみ」とすれば、重みにつながっているようにも思えてくる。

思い、想い、懷は、けっして重いと無関係ではない。
「おもい」のない言葉には重みがない。

Date: 11月 10th, 2012
Cate: 平面バッフル

「言葉」にとらわれて(その16)

JBLのハーツフィールド、エレクトロボイスのパトリシアン、
タンノイのオートグラフといったスピーカーシステムが登場していた時代には、
まだエドガー・M・ヴィルチュアによるアクースティックサスペンション方式のスピーカーは生れてなかった。

低音再生のために必要なユニットは大口径のウーファーが必然という時代だった。
いまのように小口径ウーファーで、モノーラル時代では考えられなかったストロークを実現し、
振動板の小ささをそのストロークで補う(大出力パワーをそれだけ必要とする)ということはできなかった。

もしかするとそんなことを考えていた人はいたのかもしれない。
けれど、それだけのパワーをもつアンプが一般用としては存在していなかった。

低音再生は、難しい。
そのアプローチにしても、大口径ウーファーを使うのか、小口径のウーファーにするのか。
大口径派の言い分、小口径派の言い分、どちらにも一理あって、
どちらが完全に正しくて、他方が完全に間違っているわけではない。

どちらにも良さと悪さがあり、どちらも長所を認め、どちらの欠点をうまく使いこなしで補えるかによっても、
大口径なのか小口径なのか、その選択は変ってくる。

私は、というと、基本的には大口径派である。
それでも良質な低音再生ということでいえば、
20cm口径くらいまでの良質なウーファーが出す低音は魅力的であり、
こういう質感は大口径ウーファーでは正直難しいところがいまでもあるようには感じている。

大口径ウーファーには、大口径ウーファー特有の質感が、どこかの帯域に残っているようにも感じる。
f0を低くとったウーファーとf0は高めのウーファーとでは、
同じ38cm口径のウーファーであっても、特有の質感を感じさせる帯域に違いが出てくる。

この特有の質感は、いわゆるオーディオ的低音の質感、スピーカー的低音の質感ともいっていいだろう。
大口径否定派の人はおそらくひどく嫌うのであろう。
わからなくはない。けれど、この特有の質感を完全に消し去ることはできないまでも、
うまく鳴らすことで、そのスピーカーならではの演出にも変えていくことはできる。

私は思うのだ。
モノーラル時代の大型スピーカーシステムが、いわゆる折曲げホーンを好んで採用した理由のひとつには、
大口径ウーファーの、この特有の質感をそのまま出すことを避けたかったためではないだろうか、と。

Date: 11月 10th, 2012
Cate: 平面バッフル

「言葉」にとらわれて(その15)

ホーン型と呼ばれていても低音ホーンに関しては、いくつかの種類がある。
フロントロードホーン、バックロードホーン、クリプシュホーンなど、といったように。

これらのホーンも大きくふたつに分けられる。
ひとつはフロントロードホーンであり、
もうひとつはバックロードホーン、クリップシュホーンなどの折曲げ型、とにである。

このふたつのウーファーから放射された音がフロントロードホーンではそのまま聴き手を目指して直進してくる。
折曲げホーンの場合には、ホーン内部での折返しが生じる。

このふたつのホーンの違いは、
エレクトロボイスの30Wを、正面を向けて鳴らすのと、
壁に向けて(後向きにして)鳴らすのと、共通する違いかある。

フロントロードホーンではウーファーがピストニックモーションによってつくり出した疎密波は、
いわばそのまま出てくる。ピストニックモーションのままである。

一方クリプシュホーン、バックロードホーンでは、そうはいかない。
ホーンの構造からして、ウーファーがどれだけ正確にピストニックモーションをしていようと、
ホーンの開口部から放射される音はピストニックモーションとは呼べない状態になっているはずだ。

低音ホーンの採用は、低音の能率をすこしでも向上させるためである、というふうにいわれてきた。
たしかにモノーラル時代の、これらの大型スピーカーシステムが生れてきたときのアンプの出力は少なかった。
それでも十分な低音での音響出力を得るにはホーンの力を借りる必要があった。

それは理解できた。でもその理解だけに、そのときはとどまってしまった。
それ以上の理由を考えることはしなかった。

でもいま改めて考えてみると、あえて非ピストニックモーションの低音を得るためではなかったのか、
そんな気がしてならない。

Date: 11月 9th, 2012
Cate: 正しいもの

正しいもの(その14)

バックボーンはひとりひとり違う。
同じ時代を同じ長さだけ生きてきたふたりがいたとしても、その人なりのバックボーンがあって、
同時に共通するバックボーンもそこには生れているはず、と思う。

1ヵ月ほど前だったか、Twitterで、
オーディオ評論家は60すぎても若手と呼ばれる特殊な世界、
といった書込みがあった。
そういうところはたしかにある。

けれど、ふりかえってみれば、これはやはりおかしなことであって、
瀬川先生は46で、岩崎先生は48で、
オーディオ評論家ではないけれど五味先生は58で亡くなられている。

瀬川先生も岩崎先生も、私がステレオサウンドを読みはじめた1970年代後半、
若手のオーディオ評論家ではなかった。

オーディオの世界には、岩崎先生、瀬川先生よりも上の世代の方々はおられた。
オーディオ評論家と呼んでいいのかは措いとくとして、
伊藤先生、池田圭氏、淺野勇氏、青木周三氏、加藤秀夫氏、今西嶺三郎氏、岡原勝氏といった、
オーディオの専門家の方々の存在があったし、この人たちからみれば、
岩崎先生も瀬川先生も若手ということになる。

けれど、もう一度書いておくが、岩崎先生も瀬川先生も、
このふたりだけに限らず菅野先生、山中先生たちも若手とは呼ばれていなかった。
読み手であった私も、そういう意識はまったくなく読んでいた。

なのに、なぜいまのオーディオ評論家と呼ばれている人たちは、
すでに岩崎先生、瀬川先生の年齢をこえ、さらには五味先生の年齢をこえている方も多いのに、
若手という認識から離れられないのだろうか、と考えたとき、
バックボーンの違いから、そういうことになっているのだと思っている。