Archive for category テーマ

Date: 1月 20th, 2013
Cate: ケーブル

ケーブルはいつごろから、なぜ太くなっていったのか(その10)

もっともJBLのスピーカー端子のみが、
ユニット全体の規模からしてみるとしょぼく感じていたわけではなかった。
アメリカ製のパワーアンプの多くも、1980年代までは同じであった。

マークレビンソンのML2(ML3は専用のコネクターを使用するタイプ)、
スレッショルド、クレルなど、物量投入型の規模の大きなモデルであっても、
スピーカー端子は、太いスピーカーケーブルを末端処理なしではそのまま接続することは無理だった。

だからステレオサウンドの試聴室で使うスピーカーケーブルには、
なんらかの末端処理が必要となる。
できれば末端処理はしないほうが音の面では有利とはいえ、
当時のクレル、スレッショルドなどに採用されていたスピーカー端子(メーカーは失念してしまった)は、
バナナプラグでの接続も可能としていて、そのためもあってプラスとマイナスの端子は接近した状態だった。

末端処理なしでは芯線がどうしてもばらけてしまう。
しかもプラスとマイナス側の端子が近いため、
気をつけないとばらけた芯線がショートしてしまう危険性もある。

このころパワーアンプの試聴でもっとも気をつかったのが、この点だった。
試聴ではすばやく次の機種に交換しなければならないわけだが、
スピーカーケーブルをショートさせてしまうわけにはいかない。
しかもしっかりとケーブルが端子に接続されていなければならない。

いったいいつ太いスピーカーケーブルをしっかりと接続できる端子が、
スピーカー側にもパワーアンプ側にもついてくるようになるのか、
早く、スピーカーケーブルを楽に接続できるようになってほしい、と思っていた時期もある。

パイオニアのExclusive M5の登場は、だから嬉しかった。
ケーブルの挿込み口3.8×14mmと大きかった。
しかも万力式にがっちりとケーブルをくわえこむ。圧着されている、という感じのするものだった。

Date: 1月 18th, 2013
Cate: 数字

数字からの解放(その1)

マーク・レヴィンソンは1977年にパワーアンプのML2を発表したときに、
実際の使用にあたって必要となる基本的な項目──、
入力インピーダンス、電源電圧と消費電力、外形寸法と重量、こういった項目以外の、
たとえば周波数特性、混変調歪率、高調波歪率、S/N比などの表示を行わない、と明言している。

このことはステレオサウンド 47号に掲載されている、
当時のマークレビンソンの輸入元であったR.F.エンタープライゼスの広告が詳しい。

レヴィンソンは、その理由として、
「10年も20年も前に作られた製品の中に、現在のすばらしい〝特性〟を誇る優秀製品のあるものに比べても、
音楽をきいたとき、ずっと楽しめるものがすくなくない」ことをまず挙げ、
「こうした測定によって得られた数値から、われわれはいったい何を知ることができるのだろうか」
と続けている。

さらに
「最も重要な問題は、これらの〝特性〟のうち何が、肝心の音の良し悪しを明確に示してくれるか、ということだ。
答えは、『どれも、それを示すものはない』である。これはまことに、いらだたしくもあり、
厄介千万なことだけれども、しかし、これが事の真相だ。」
と語っている。

47号は1978年6月に出ているから、47号を読んだ時、私は15歳。
素直に、マーク・レヴィンソンが語る言葉を信じていた……。

Date: 1月 16th, 2013
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その2)

スピーカーは音は出しても、何も語らない。
こういうふうに、ほんとうに鳴らしてほしい、とか、
こういうふうに調整してくれれば、もっともっと能力を発揮できるのに……、
などと語ってくれるわけではない。

もしスピーカーが、そんなことを語ってくれたら、
スピーカーのいままでの、いい音を出すための苦労の何割かはなくなってしまうかもしれない。
スピーカーは、なにひとつ具体的なことは語らない。

けれど、そのスピーカーが鳴らす音、音楽を聴くことで、
聴き手が、具体的なことをそこから感じとることは決して不可能なことではない。

私は、オーディオはスピーカーとの協同作業だと思っている。
協同作業だからこそ、スピーカーから学ぶことがある。
学ぶことがあれば、考えることも生じてくる。
だから、これまでもいろいろと考えてきたし、いまもあれこれ考えている。
これから先も考えるのは、スピーカーとの協同作業において、スピーカーが語ることができないから、ともいえる。

ステレオサウンド 72号に掲載されている上弦(シーメンス音響機器調進所)の広告は、
伊藤先生が書かれている。
「スピーカーを選ぶなどとは思い上りでした。良否は別として実はスピーカーの方が選ぶ人を試していたのです。」

スピーカーはそんなことはもちろんいわない。
おくびにも出さない。

協同作業であるからこそ、試されている、といえるのではないのか。

Date: 1月 15th, 2013
Cate: ケーブル

ケーブルはいつごろから、なぜ太くなっていったのか(その9)

ベルデンの、オレンジと黒の撚り線タイプのスピーカーケーブルの太さは、
細いわけでもないし太いというわけでもなく、
JBLのユニット、スピーカーシステムに長らく採用されてきたバネ式のスピーカー端子に、そのまま挿入できる。

いまでこそJBLもスピーカー端子を、より太いケーブルを確実に接続できるタイプに変更されているけれど、
1980年代まではコンシュマー用、プロフェッショナル用ともに、バネ式のスピーカー端子だった。

この端子に不満をもつ方は少なくないと思う。
実際、ときどききかれる、「なぜ、こんなショボイ端子なのか」と。

でも、考えてみてほしい。
ランシングが、このバネ式の端子を採用したのはD130からである。
D130の出力音圧レベルは高い。1Wの入力で100dB以上の音圧がとれる。
しかも、この時代のスピーカーユニットだからインピーダンスは16Ωである。

1Wで100dBの音圧ということは、実際の過程における聴取レベルでは、
アンプの出力はもっともっと低くなる。

オームの法則では電力は電流の二乗と負荷インピーダンスの積である。
つまり8Ωよりも16Ωのほうが電流は少なくてすむ。
D130を過程で常識的な音量で鳴らす分には、
それにD130が登場したころの同時代のパワーアンプの出力もそれほど大きいわけではない。

そうするとオームの法則から求められるD130が必要とする電流は、意外にも低い値である。
その電流を充分に流せるケーブルの太さと、その太さのケーブルをそのまま接続できる端子があればいい、
こういう合理的なところからみれば、あの貧弱にみえるバネ式の端子も、
それ以上は必要としない、ということの裏返しでもある、と受け取ることもできよう。

Date: 1月 14th, 2013
Cate: ケーブル

ケーブルはいつごろから、なぜ太くなっていったのか(その8)

この理屈からいけば、スピーカーケーブルは短いほうがいい、ということになる。
けれど実際には、必ずしもそうではない、と菅原氏はいわれた。

全体の長さからすると、ほんのわずかとはいえ短くすることで音は良くなる。
さらに短くするともう少し良くなる。もっと短くすると……、
これをくり返していくと、あるところでよい方向への変化が頭打ちになって、
そこから先は短くすることによって音が悪い方向へと変化していく。
それでもさらに短くしていくと、これまた悪い方向への変化も底打ちになって、
そこからは一転よい方向への変化になっていく……。

ちょうどサインウェーヴのようにプラスとマイナスが交互にやってくるような音の変化をする、という。

中野氏と本田氏による、30mのスピーカーケーブルの、10cm単位での長さの調整は、
ベイシーの菅原氏が経験的に感じられていたことを、
意図的に調整に利用された、ともいえるだろう。

ベイシーにて菅原氏が使われているスピーカーケーブルの銘柄・品種はなにか知らない。
でも極端に太く、高価すぎるケーブルではないはず。
おそらくベルデンのスピーカーケーブルなのだと思う。

Date: 1月 14th, 2013
Cate: ケーブル

ケーブルはいつごろから、なぜ太くなっていったのか(その7)

話は前後するが、トリオの会長だった中野氏と本田氏によるヴァイタヴォックスCN191の調整で注目したいのは、
30mのスピーカーケーブルを10cm単位で調整していった、ということ。

30mは3000cmだから、10cmは割合からいえばほんのわずかでしかない。
にも関わらず、両氏は30mのスピーカーケーブルの長さを10cm単位で調整されている。
1mの長さのスピーカーケーブルを10cm単位で調整するのならばまだしも、
30mのうちの10cmで、そんなわずかなことで音は変らない、という人は常にいる。

けれどオーディオの調整とは、そういうところにも存在しているのは、
そのオーディオ歴の長さではなく、ほんとうに真剣にやってきた人であれば、理解されることのはず。

このことに関係して思い出すのは、
一ノ関のベイシーの菅原正二氏が、やはりスピーカーケーブルについて語られたことである。
ベイシーのスピーカーケーブルが実際にどれだけの長さなのか、私は知らないけれど、
かなりの長さであることはきいている。

菅原氏は定期的に接点のクリーニングを兼ねて、スピーカーケーブルの末端を切り、
新たに被覆を剥いて新しく芯線の露出をやられている。
とうぜん、この作業によってスピーカーケーブルはスピーカー側とパワーアンプ側の両方をやることで、
数cmずつ短くなっていく。

スピーカーケーブルは原則として0mが理想として語られている。
つまりどんなに優れたスピーカーケーブルであってもどんどん短くしていけば、
究極的には(もちろん実際に不可能なことだけど)0(ゼロ)にできれば、
スピーカーケーブルの影響からは逃れられることになる。

Date: 1月 14th, 2013
Cate: 手がかり

手がかり(その7)

オーディオの経験を積んできたから、
グラシェラ・スサーナの歌を最初の手がかりとしたことは間違っていなかったし、
むしろ、そのことがもたらしてくれたものが確実なステップとなっていった、と明言できるのだが、
オーディオをやり始めたときは、迷いに近いものがあったし、
それこそ若者特有の背伸びしたい(そうみせたい)気持もあって、
グラシェラ・スサーナの歌よりもクラシックやジャズが上位にあって、
そういう音楽で音を判断していかなければならないのではないか、と思わないではなかった。

1977年秋、ステレオサウンドから別冊として「HIGH-TECHNIC SERIES-1」が出た。
マルチアンプのまる一冊特集した本である。

この本におさめられている瀬川先生の文章のある一節を読んで、なくなった。
     *
 EMTのプレーヤー、マーク・レビンソンとSAEのアンプ、それにパラゴンという組合せで音楽を楽しんでいる知人がある。この人はクラシックを聴かない。歌謡曲とポップスが大半を占める。
 はじめのころ、クラシックをかけてみるとこの装置はとてもひどいバランスで鳴った。むろんポップスでもかなりくせの強い音がした。しかし彼はここ二年あまりのあいだ、あの重いパラゴンを数ミリ刻みで前後に動かし、仰角を調整し、トゥイーターのレベルコントロールをまるでこわれものを扱うようなデリケートさで調整し、スピーカーコードを変え、アンプやプレーヤーをこまかく調整しこみ……ともかくありとあらゆる最新のコントロールを加えて、いまや、最新のDGG(ドイツ・グラモフォン)のクラシックさえも、絶妙の響きで鳴らしてわたくしを驚かせた。この調整のあいだじゅう、彼の使ったテストレコードは、ポップスと歌謡曲だけだ。小椋佳が、グラシェラ・スサーナが、山口百恵が松尾和子が、越路吹雪が、いかに情感をこめて唱うか、バックの伴奏との音の溶け合いや遠近差や立体感が、いかに自然に響くかを、あきれるほどの根気で聴き分け、調整し、それらのレコードから人の心を打つような音楽を抽き出すと共に、その状態のままで突然クラシックのレコードをかけても少しもおかしくないどころか、思わず聴き惚れるほどの美しいバランスで鳴るのだ。
     *
グラシェラ・スサーナという固有名詞が出ているのも嬉しかったのだが、
それ以上に、日本語の歌で調整しても、それが「人の心を打つような音楽」として鳴ってくれるのならば、
最新のクラシックの録音も美しいバランスで鳴る、瀬川先生が聴き惚れるほどの音で響いてくれる──、
グラシェラ・スサーナの歌を、私にとっての最初の手がかりとしても、なんら問題がないどころか、
結局、ジャンルに関係なく、素晴らしい音楽がその素晴らしさに見合った音で鳴らなければ、
他のジャンルの音楽を鳴らしたとしても、聴き惚れるような音は出ない。

もちろん瀬川先生の知人の、パラゴンを鳴らされている方ように、
オーディオに関心をもち始めて1年ちょっとの私が同じ聴き方ができるわけがない。
けれど、ひとつだけできることがあった。
「いかに情感をこめて唱うか」──、
このことに関しては間違えようがない。

だから、グラシェラ・スサーナの歌がいかに情感がこめられて鳴ってくれるか、が、
私にとって、最初の重要な判断基準となっていた。

Date: 1月 12th, 2013
Cate: 正しいもの

正しいもの(その15)

いまオーディオ評論家と呼ばれている人の文章を読んでいると、
バックボーンの厚みがほとんど感じられないことがある。
すべての人がそういうわけではないもちろんないけれど、
読んでいて、薄っぺらな文章だと、その文章のつまらなさよりも、
これを書いた人のバックボーンの薄さ(ときには「なさ」でもある)を感じるのは、なぜだろうと思う。

しかも、そういう人にかぎって情報収集に熱心なように、私には見える。
読者に有益な情報を伝えることも書き手の務めだとすれば、
これはこれで評価すべきことなのだろうが、
どんなに情報収集に熱心であっても、どれだけ情報を集めたとしても、
それだけではバックボーンが築かれることはない。

情報収集そのものは悪いわけではない。
集めた情報はいつしかその人の知識になり、それが体系化されていけばバックボーンの一部となっていく。
けれど集めることだけに汲々としていては、または集めただけで満足していたら、
いまつまでたってもその人のバックボーンの一部となっていくことはないはず。

ではなぜ情報を集めただけで終ってしまう人がいるか。
そこまでひどくなくても、
いまオーディオ評論家と呼ばれている人たちと、
私がステレオサウンドの全盛期とおもっているころに書いていたオーディオ評論家の人たちとのバックボーンには、
根本的な違いがあると感じてしまうのは、いかなることなのかと考えていくうちに思いあたるのは、
理想の有無ということである。

Date: 1月 12th, 2013
Cate: 「本」

オーディオの「本」(読者のこと・その2)

そのころのステレオサウンドに初心者用の記事があったわけではない。
そういう基礎的な知識に関しては、他の雑誌なり技術書を読めばいいわけで、
そういうことをステレオサウンドに求めようとは思っていなかった。

ステレオサウンド 41号の特集は「世界の一流品」である。
誌面に登場しているオーディオ機器は、いくつかは比較的安価なものもあったけれど、
多くは高価なものが占めていた。
マークレビンソンのLNP2もあった、JBLの4343も取り上げられていた(表紙でもあった)。
EMTの930st、ヴァイタヴォックスのCN191など、13歳の私にはまったく手の出ない価格のモノばかりであっても、
いつかはLNP2、4343……、そんなことを夢想しながら読んでいた。

これらのモノをいつ買えるようになるかなんて、
13歳の私には見当もつかなかった。
漠然と10年後くらいには買えるのかな……、とおもいながらステレオサウンドに夢中になっていた。

オーディオに関心をもち始めるときも人によって違う。
私と同じように10代前半で、という人もいれば、
もっと早い時期からという人も20代になってから、という人もいる。

私がそうだったからだけど、
ステレオサウンドに関係している人ならば、
編集者も筆者も、やはり10代のころからオーディオにのめり込んでいたのではないだろうか。

そうだとしよう。
そして、問いたいのは、いま10代の自分がいたとして、
果して、いまのステレオサウンドをわくわくしながら読んでいる、といえるのかということだ。

私は「五味オーディオ教室」からオーディオにはいってきた10代だったから、
いまのステレオサウンドには、あのころのステレオサウンドと同じような面白さは感じない、とおもう。

いま私はステレオサウンドとは関係のない人間だから、
それはそれでいい。
でもいまステレオサウンドに書いている筆者、編集者の人たちは、
オーディオに興味をもち始めた自分を振り返って読者として想定してみてほしい。

そのころの自分をわくわくさせる「本」をつくっているのか、と。

Date: 1月 12th, 2013
Cate: 「本」

オーディオの「本」(読者のこと・その1)

毎日ブログを書いている。
ある読み手を想定して書いている。
その読み手とは、10代の私である。

オーディオに興味をもち始めたころの私に対してのブログでもあるわけだ。
それ以外の読み手のことは想定していない。

読み手の想定など、ということは実際には無理である。
私は最初に手にしたステレオサウンドは41号だったのだが、
創刊号から読んでいる人もいれば、10号ぐらいからの人、20号ぐらいからの人、30号ぐらいからの人といたわけで、
創刊号から読んでいた人にしても、皆が同じ年齢というわけでもなく、
オーディオのキャリアも異る。

41号といえば創刊から10年、
いまステレオサウンドは創刊から46年が経過している。
いま書店に並んでいる185号が最初のステレオサウンドという人もいることだろう。
創刊号からずっと買い続けている人もいる。
つまりさまざまな読み手がいる。

そのすべての読み手を満足させる本をつくることができるのか、といえば、無理であろう。
だから、どうするのか。

同じことはブログについてもいえる。
テーマによって、想定する読者を変える、というのもひとつの手ではある。
けれど、私は、もういちど書くけれど、10代のころの、オーディオに興味をもち始めた私、
もうすこし具体的に書けば「五味オーディオ教室」を読んでオーディオの世界にはいってきた私に対して、
ブログを書き続けている。

13歳の私は、「五味オーディオ教室」を読んだ数ヵ月後にステレオサウンド 41号と、
別冊の「コンポーネントステレオの世界 ’77」を読んだ。
わくわくしながら読んだ。

そこに書いてあることすべてを理解できていたわけではないが、
読むのが楽しかったし、少しでも多くのことを理解しようとくり返し読んだ。

Date: 1月 11th, 2013
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その4)

五味先生は書かれている。
     *
電気エネルギーを、スピーカーの紙(コーン)の振動で音にして聴き馴れたわれわれは、音に肉体の復活を錯覚できる。すくなくともステージ上の演奏者を虚像としてではなく実像として想像できる。これがレコードで音楽を聴くという行為だろう。
     *
ここに、答のすべてがある、と初めて読んだときも、
いま(もうどれだけくり返し読んだことか)読んでも、そうおもう。

五味先生にとって肉体を復活を錯覚できる音とは、どういう音なのか。
具体的に書かれているところがある。
そこには「肉体」ということばは出てこないけれど、
そこに書かれている音こそが肉体の復活を錯覚できる音ととらえて、間違いないといえる。

それは20箇条「スピーカーとは音を出す器械ではなく、音を響かせる器械である。」にある。
     *
たとえば『ジークフリート』(ショルティ盤)を聴いてみる。「剣の動機」のトランペットで前奏曲が「ニーベルングの動機」を奏しつつおわると、森の洞窟の『第一場』があらわれる。小人のミーメに扮したストルツのテナーが小槌で剣を鍛えている。鍛えながらブツクサ勝手なごたくをならべている。そこへジークフリートがやってくる。舞台上手の洞窟の入口からだ。ジークフリートは粗末な山男の服をまとい、大きな熊をつれているが、どんな粗雑な装置でかけても多分、ミーメとジークフリートのやりとりはきこえるだろう。ミーメを罵り、彼の鍛えた剣を叩き折るのが、ヴィントガッセン扮するジークフリートの声だともわかるはずだ。しかし、洞窟の仄暗い雰囲気や、舞台中央の溶鉱炉にもえている焰、そういったステージ全体に漂う雰囲気は再生してくれない。
 私は断言するが、優秀ならざる再生装置では、出演者の一人ひとりがマイクの前に現われて歌う。つまりスピーカー一杯に、出番になった男や女が現われ出ては消えるのである。彼らの足は舞台についていない。スピーカーという額縁に登場して、譜にあるとおりを歌い、つぎの出番のものと交替するだけだ。どうかすると(再生装置の音量によって)河馬のように大口を開けて歌うひどいのもある。
 わがオートグラフでは、絶対さようなことがない。ステージの大きさに比例して、そこに登場した人間の口が歌うのだ。どれほど肺活量の大きい声でも、彼女や彼の足はステージに立っている。広いステージに立つ人の声が歌う。つまらぬ再生装置だと、スピーカーが歌う。
     *
ここで大事なことは、「ステージ」である。
ステージがあり、演奏者の足がステージに立っていること、こそ、
肉体の復活を錯覚させてくれる音であり、
どんなに精緻な音像を、現代のスピーカーシステムがふたつのスピーカー間に再現しようとも、
そこにステージはなく、
歌っている、演奏している者の足もなければ、
いくらスピーカーの存在がなくなったように感じられる音だとしても、
それは肉体のない音であり、言葉の上では同じような音とおもえても、まったく別物であるということに、
意外と気がついていない人がいるように感じられてならない。

Date: 1月 11th, 2013
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その3)

生の音(原音)にはあって、再生音には存在しないもの。
まっさきに浮ぶのは、肉体である。

私が聴くのは、その多くがクラシックで、あとジャズが少し、
それ以外の音楽ももちろん聴くけれど、
私が聴く音楽のほとんどに共通しているのは、
演奏者の肉体があって、ある空間に音が発せられているということである。

この演奏者の肉体は、再生音にはない。
再生系のメカニズムのどこにも肉体の介在する余地はないのだから、
再生音に肉体がないのは、至極当然のことである。

それに録音の過程においても、
マイクロフォンがとらえているのは演奏者が己の肉体を駆使して発した音であり、
録音系のメカニズムのどこにも肉体を記録できる箇所はない。

再生音には肉体がない──、
こう書きながら思い出しているのは、
これもまた「五味オーディオ教室」の最初に出てくることである。

私にとってのオーディオの出発点に、また戻ってしまうことになる。

Date: 1月 10th, 2013
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その2)

このブログを書き始めの最初のころ「再生音に存在しないもの」を書いている。

これも、13歳のときに「五味オーディオ教室」を読んだときから、ずっと頭のどこかにありつづけている。

「生の音(原音)は存在、再生音は現象」と考えるのも、
再生音には存在しないものがあるから、である。
けれど、それがなんなのか、がいまひとつはっきりとしてこない。
もしすこしでつかめそう、というより、指がそこに届きそうな感じはしているものの、
まだまだ、はっきりと把握するにはそうすこし時間はかかりそうである。

「再生音に存在しないもの」では五味先生の文章を引用した。
そこにはルノアールの言葉を、五味先生は引用されている。
「画布が光を生み出せるわけはないので、他のものを借りてこれを現わさねばならない」とある

「光は存在しない」ことは、再生音でいえばいったいなんなのか。
これがわからなければ、「他のもの」を借りてくることもできない、といえる。
何を借りてきていいのかもわからず、やみくもになにもかも借りてきたところで、なんになろうか。

何がいったいないのか、
借りてくる「他のもの」とはなんのなのか──、
このことについて考えていくときに、ずっと以前の大型スピーカーシステムにあって、
いまのハイエンドと呼ばれているスピーカーシステムにないものが、たしかにある──、
そんなふうにも思えてくる。

Date: 1月 8th, 2013
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その1)

スピーカーはアンプからの電気信号を振動板の動きに変え音を発するメカニズムである。
でも、といおうか、当然、といおうか、スピーカーはしゃべらない。

スピーカーが音にするのは、あくまでもアンプから送られてきた電気信号である。
もしスピーカーが意志があったとしても、その意志を電気信号に変え、
スピーカーにとって前段といえるアンプにフィードバックでもしないかぎり、スピーカーはなにひとつ語らない。

いま、1970年代のオーディオ雑誌を中心に、
レコード会社の広告、オーディオメーカーの広告、輸入商社の広告をもういちど見直している。

オーディオの広告のありかたもずいぶん変ってきた、と感じる。
オーディオ雑誌におけるオーディオの広告とは、
広告というポジションだけに、昔はとどまっていなかったところがある。

すべてとはいわないけれど、一部の広告は、ひとつの記事として読める内容を持っていた。
だから私は、オーディオ雑誌を手にした最初のころは記事はもちろんなのだが、
広告も熱心に読んでいた。広告から学べることもあった。

1970年代の広告といえばいまから40年ほど前のものだ。
いまのオーディオ雑誌に載っている広告を、40年後に見直すとしたら、
どういう感想をもてるだろうか、とつい比較しながらおもってしまう。

そんなことを年末から集中的にやっていた。
ある広告の、あるキャッチコピーが、数多くの広告を集中的に見たなかでひっかかった。

Lo-Dのスピーカーシステムの広告に、こうあった。
あるスピーカーの述懐

これを目にしたとき、ブログのテーマにしよう、と思った。
どういう内容にするのかは何も浮ばなかったけれど、
何も語ることのできないスピーカーが、
そのスピーカーの使い手(鳴らし手)のかける音楽を、どう鳴らすかによって、
スピーカーは間接的に語っている──、
そうとらえれば、「あるスピーカーの述懐」というタイトルとテーマで書いていけることは、
きっといくつも出てくるであろう。

Date: 1月 8th, 2013
Cate: 平面バッフル

「言葉」にとらわれて(その18)

話は変わりますが、皆さんは、本物の低音というものを聴いたことがあるでしょうか。僕はないんじゃないかと思うんです。本物の低音というのは、フーっという風みたいなもので、そういうものはもう音じゃないんですよね。耳で音として感じるんじゃないし、何か雰囲気で感じるというものでもない。振動にすらならないようなフーっとした、空気の動きというような低音を、そういう低音を出すユニットというのは、今なくなって来ています。
     *
音楽之友社発行の「ステレオのすべて ’77」において、
岩崎先生が「海外スピーカーユニット紳士録」で述べられていることである。

これは1976年終りごろの発言であり、
このときまでに岩崎先生はエレクトロボイスのパトリシアン、
JBLのパラゴンにハーツフィールドといった、
1950年代から60年代にかけてのアメリカの大型スピーカーシステムを相次いで導入されたあとの発言でもある。

これらはスピーカーシステムと呼ぶよりも、ラッパといったほうがより的確な表現である構造のものばかりで、
どれもウーファーを直接見ることができない。
中高域のみだけでなく低域までホーンを採用したシステムである。
しかもパトリシアン、ハーツフィールド、パラゴン、いずれもホーンもストレートではなく折曲げ型である。

これらのラッパ以前に岩崎先生のメインであったのはD130をおさめたハークネス。
これもまたバックロードホーンであり、いうまでも折曲げ型である。

こういうラッパをいくつも鳴らされていた岩崎先生が、
「本物の低音というのは、フーっという風みたいなもの」といわれている。

岩崎先生がヤマハのAST1を聴かれたら、長島先生、原田編集長と同じように喜ばれたように思う。