嬉しい知らせ
昨夜、嬉しい知らせが届いた。
ここに、そのことについて書きたいのだけれど、
まだ告知してはいけない、ということなので、これ以上は何も書けない。
それでも、そのニュースをきいて、ほんとうに嬉しかった。
その嬉しさだけは、書いておきたかった。
私が嬉しがっているほどには、喜ばない人もいるだろう。
それでもいい、私にとっては、とても嬉しい知らせだし、
私と同じように、むしろそれ以上に喜んでいる人がいることを知っている。
それで充分である。
昨夜、嬉しい知らせが届いた。
ここに、そのことについて書きたいのだけれど、
まだ告知してはいけない、ということなので、これ以上は何も書けない。
それでも、そのニュースをきいて、ほんとうに嬉しかった。
その嬉しさだけは、書いておきたかった。
私が嬉しがっているほどには、喜ばない人もいるだろう。
それでもいい、私にとっては、とても嬉しい知らせだし、
私と同じように、むしろそれ以上に喜んでいる人がいることを知っている。
それで充分である。
オーディオメーカー、輸入代理店の広告にオーディオ評論家が登場することを、
どう思うのかは、人によって異っているだろう。
私は、というと、その広告が面白いならば、結構なことだと思っている。
なにしろ名前を出して、ときには顔写真も載せて、広告に出るということは、
そこで登場しているオーディオ機器、そのブランドを高く評価しているからであり、
そこにギャラが発生しているとはいえ、
まったく評価していないオーディオ機器、ブランドの広告に登場する人は、ほとんどいないはず。
それに、オーディオ評論家が登場する広告から、
そのオーディオ評論家の素顔に近い面も見ることができることだってある。
それもあって、私は、あの時代の広告は面白く、興味深いものと捉えている。
そんな私だけど、問題にしたいことがある。
それは広告の紹介文をオーディオ評論家が書いていることである。
もちろん、その紹介文を名乗っているのであれば、なんら問題とはしない。
けれど、すくなくとも1980年代から、私の知るかぎり割と最近まで、そういうことが続いていた。
オーディオ評論家の方すべてがそういうことをしているわけではない。
依頼があっても、そういうことはオーディオ評論家がやるべきことではない、とことわっている方を知っている。
だが中には、たやすく仕事として引き受けているオーディオ評論家(と呼べるのだろうか)が、
数人いる。
どの人が、どこの広告の紹介文を書いていたのかは、1990年代あたりまでは知っている。
それについて、こまかなことは書かないけれど、
この人たちは、恥を知っているのだろうか、と問いたい。
ずっと以前、オーディオの広告は、読み物でもあった。
それがいつしか文字が少なくなり、いまでは見るものへとなってしまったのが大半である。
どちらの広告が優れているとかではなく、広告の形態もずいぶん変化してきていることを改めて実感する。
ステレオサウンドの1970年代から80年代にかけての広告も読み物としての面白いものがあった。
私としてはステレオサウンドで育ってきたから、
ステレオサウンドを贔屓にしたい気持は人一倍強いけれど、
読み物としての広告ということに関しては、
1970年代のスイングジャーナルに掲載されたオーディオの広告のほうが読みごたえがある、と認めざるをえない。
とくに毎月出版されるスイングジャーナル本誌よりも、
別冊として出ていたモダン・ジャズ読本での国産メーカーの広告のいくつかは、
よくこれだけの広告(というよりもメーカーがページを買い取ってつくった記事)を出していたな、と感心する。
モダン・ジャズ読本のためだけにつくった広告である。
これらの広告にもオーディオ評論家が登場されている。
これらの広告がどういうふうにつくられていったのか、その詳細については何も知らない。
メーカーの広告の担当者が、オーディオ評論家との打合せを行いつくっていったのか、
それともどこかの編集プロダクションにまかせていたのか、
そのへんのことはわからないけれど、それらの広告は、広告であるわけだが、
広告で終ってしまっているわけではなく、そういうところに時代のもつ熱気を感じるといえないだろうか。
マーラーが見てきた景色は、マーラーの目を通した景色である。
マーラーが見ていた景色を、同じところから見ることが仮にできたとしても、
マーラーが生きていた時代と、いま私が生きている時代とでは、いろいろ違うことがある。
暗騒音にしてもマーラーの時代といまとではずいぶん違うことだろう。
空気も違うことだろう。
街を歩く人びとの服装も、マーラーの時代といまとではもちろん違う。
街並も、いまも現存している建物もあるだろうが、やはり変ってきている。
そうなるとマーラーが見ていたものと私がそこに立って見ているものが、必ずしも完全に一致することはない。
マーラーというフィルターを通して、マーラーだからこそ感じとれたものを含めて、
その風景を、ときにマーラーの音楽の聴き手であるわれわれは、感じとれることもある。
マーラーが生きてきた時代、マーラーの人生がどうだったのかは、
マーラーに関する書籍が、世界でいちばん多く出版されている、といわれている日本に住んでいるわけだから、
関心のある方は、すべてではないにしても、マーラーの聴き手であれば何冊かは読まれているだろう。
だから、それについてここでは書かない。
マーラーの音楽の中に入っている「景色」とは、いわゆる景色だけではない。
マーラーが、その人生で見てきたものがみな入っている、と解釈できると思う。
だから交響曲第一番の第一楽章が夜明けを描いていることは、
なんというアイロニーなであり、象徴的であろうか、とおもってしまう。
私の知る範囲ではコントロールアンプで逆相(反転アンプ)になっているモノは、
大半がラインアンプが反転(逆相アンプ)になっているのが大半である。
つまりフォノイコライザーは正相であることが多いから、
フォノ入力もライン入力も逆相となって出力されるわけである。
仮にフォノイコライザーが反転アンプであって、ラインアンプが正相だとしたら、
この場合、フォノ入力のみが逆相出力となり、ライン入力は正相出力となる。
フォノイコライザーもラインアンプも、どちらも反転アンプだとしたら、
フォノ入力は正相、ライン入力は逆相ということになり、システム全体の極性の管理がめんどうになってくる。
とにかくカートリッジからコントロールアンプ、パワーアンプ、スピーカーシステムまで、
ほぼすべてのコンポーネントに正相タイプと逆相タイプが混在していて、
しかもカタログや取扱い説明書に、この製品は正相(もしくは逆相)と謳っているわけではない。
どれが正相で逆相なのかは、
オーディオ雑誌やネットなどの情報であらかじめはっきりしていることもあるが、
トーレンスのカートリッジのように製造時期により、正相と逆相が混在しているから、
この問題は少しばかりやっかいでもある。
世の中には、左右チャンネルの極性さえあっていれば、
システム全体の極性が正相であろうと逆相であろうと、音はまったく変化しない。
だから、そんなことは気にする必要はない、と発言される方もいる。
聴く音楽(録音)によっては、たしかに判別しにくいことがあるのは事実ではある。
それでも、あくまでも判別しにくい、のであって、まったく音が変化しないわけではない。
MM型カートリッジでもMC型カートリッジと同様にシェルリードのところ、
もしくはトーンアームの出力ケーブルのところで極性を反転させればいいんじゃないか、
そう思われる方もいるだろう。
けれどMM型カートリッジでは、原則としてここでの極性の反転は行えない。
MM型カートリッジはボディがアース側に接続されているからである。
MM型カートリッジは、一部の特殊なモデルを除き、
ヘッドアンプや昇圧トランスは必要としないから、この部分での反転も行えない。
アンプが正相アンプであるならば、そしてスピーカーシステムも正相であるならば、
システムの中に逆相のモノはひとつ(奇数)しか存在しないので、
システム全体の極性は逆相になってしまう。
アンプではどうかというと、意外にも反転アンプはいくつか存在してきている。
1980年代にアメリカから登場してきた真空管アンプの中には、
回路構成を極力単純化するために、真空管1段による増幅回路を採用したモデルがある。
有名なところではカウンターポイントのSA5、SA3、
それからミュージックリファレンスのRM5がそうなっている。
これらのフォノイコライザーは正相アンプなのだが、
ラインアンプが反転アンプなので、フォノ入力もライン入力も逆相となって出力される。
QUADの44も、実は反転アンプとなっている。
1970年代の広告の特徴といえるのは、
評論家が広告に登場していたことが、ひとつあげられる。
このころはオーディオ雑誌にもレコード会社の広告がわりと掲載されていた。
レコード雑誌に載るレコード会社の広告もそうであったのだが、
そのレコードにおさめられている演奏を高く評価する音楽評論家、
そのレコードの音質を高く評価するオーディオ評論家の推薦文といえる、短い文章があった。
これだけの評論家に高く評価されているレコードであることを前面に打ち出していた。
そういうレコード会社の広告に較べると、
オーディオ関係の広告でそういった構成のものはどちらかといえば少なめであったけれど、
1970年代には、それでも目につくほど多かった、ともいえる。
有名なところではサンスイの「私とジム・ラン」という広告があった。
JBLのスピーカーを使われているオーディオ評論家が左ページ一面にリスニングルームでの写真が載り、
右ページには「私とジム・ラン」というタイトルの文章が載っていた。
岩崎先生、瀬川先生、菅野先生らが登場されていたし、
古いマニアの方ならご存知なことだが、当時はパラゴンを鳴らされていた江川三郎氏も登場されている。
このサンスイによる「私とジム・ラン」は広告には違いないけれど、
読者からすれば、記事として読める。
ページをただ埋めるためだけの記事なんかよりも、ずっと読み物として面白い記事ともいえる広告であった。
こういう広告を毎号入れられたとなると、編集者も気合がはいってくるのではなかろうか。
広告が、時に記事を挑発する時代が以前はあった。
オーディオ雑誌には、記事と広告がある。
広告のまったく載らないオーディオ雑誌は、いまのところない。
その広告を必要悪だと捉えている人もいる。
雑誌は広告がある程度のページ数掲載されることによって、
その分だけの広告収入があるからこそ、雑誌の値段は抑えられている。
広告がまたく入らずに雑誌をつくれば、いまのような価格では到底無理になるから、
広告は必要悪だ、という考え方である。
たしかに広告の存在が雑誌の値段をある程度抑えているのは事実である。
でも必要悪ではない、と私は思っている。
ごく一部の広告は、必要悪という意味をこえて、
なぜ、こんな広告を、このオーディオ雑誌は載せるのだろうか、と、
その出版社の広告営業部の見識を疑いたくなることがないわけではないが、
それでも良質の広告は、雑誌にとって必要なものである。
広告を必要悪、さらに値段は高くなってもいいから広告なんていらない、とまで考えている人にとっては、
オーディオ的に表現すれば、記事は信号(情報量)であり、広告はノイズということになろう。
雑誌における記事と広告の比率は、つまりS/N比ということになる。
広告の占める割合が多くなれば、それはノイズが増えることであり、S/N比は低下する。
広告が少なくなればなるほどS/N比は高くなっていく。
こんな捉え方もできるわけなのだが、
果して広告は雑誌においてのノイズなのだろうか。
たとえばEMTのカートリッジをEMTのプレーヤー内蔵のイコライザーアンプを通さずに、
単体のカートリッジとして使い、スピーカーがJBLであれば、
逆相と逆相がシステムの中にふたつあるため、結果としてトータルの極性は正相となる。
これだけだったらシステム全体の極性に神経質になることはない。
けれど実際には、MC型カートリッジに必要となる昇圧トランス、ヘッドアンプの中にも反転型、
つまり入力と出力の位相が反転(つまり逆相)となるモノが、少なくない。
そうなると逆相がシステム内に3つ(奇数)存在するとなると、トータルでは逆相となる。
この場合、MC型カートリッジなので、EMTのカートリッジのようにシェル一体型でなければ、
シェルリードの接続のところで極性を反転させればいい。
ただ逆相カートリッジと思われているモノでも、
ロットにより正相であったり逆相であったりすることもある。
EMTのコンシューマー版といえるトーレンスのMCHが、そうだった。
こうなると、正相なのか逆相なのかは製品知識で判断するのではなく、
耳で判断するしかない。
EMTもトーレンスのシェル一体型なのでシェルリードで極性を反転させることはかなり困難だが、
トーンアームの出力ケーブルのところで反転させることは可能だ。
ハンダ付けをやりなおす手間は必要となるけれども。
MC型カートリッジであれば、このように極性を反転させて正相とすることが可能だが、
MM型カートリッジとなると、そうはいかない。
逆相型のカートリッジはMC型だけではなく、MM型、MI型などにも存在する。
JBLの、以前のスピーカーのように逆相仕様になっているスピーカーを鳴らす際に、
システム全体を正相として鳴らすには、どこかで位相反転を行うことになる。
よく、この正相・逆相の話をすると、
どうも左右チャンネルで位相が異っていることと勘違いされる方もまれにいる。
左右チャンネルのどちらか片チャンネルの極性を逆にする。
そうすれば左右チャンネルの極性は揃わなくなる。
仮に左チャンネルが正相だとすれば、右チャンネルが逆相になり、
こうなればまともなステレオ再生は無理である。
このことと、いまここで書いている正相・逆相とは話が違う。
あくまでもここでは、左右チャンネルの極性は揃っていて、
システム全体が正相なのか逆相なのか、ということである。
アナログディスク再生の場合、
針先が外周方向に振れたときにプラス側の信号がカートリッジで生じ、
そのときスピーカーの振動板が前に出れば、システム全体は正相ということになる。
JBLの以前のスピーカーでは、カートリッジの針先が外周に振れたとき、
つまり正面から見て針先が右方向に動いたとき、スピーカーの振動板は後にひっこむわけである。
JBLのスピーカーは逆相ということは広く知られていたけれど、
実はカートリッジの中にも、意外なほど逆相仕様のモノはある。
有名なところではEMTのカートリッジがそうである。
「松下秀雄氏のこと」のところで、
松下氏のことを、それまでなかった「土」という喩えで書いた。
そして、ステレオサウンド創刊当時からのオーディオ評論家の人たちを、
その「土」があったからこそ芽吹き育っていった、それまでなかった「木」になっていった、と書いた。
その「木」はそれまでなかった「実」をつけた。
残念なことに、それまでなかった「木」にも寿命があった。
けれど、それらの、それまでなかった「木」は寿命を迎えて、
何も残さなかったわけではない。
それまでなかった「木」は「土」に還っていった。
その「土」のうえに、さらにそれまでなかった「木」が芽吹き育っていくはずだった……。
ステレオサウンド 43号のベストバイ・コンポーネントの特集では、
選者2人以上のモノについては、それぞれの選者によるコメントがついている。
140字程度のコメントである(twitterとほぼ同じ文字数)。
ひとつひとつはそれほど長くはなくとも、
その本数はけっこうな数にのぼり、読みごたえは充分にある。
それらのコメントをすべて読んだ後で、
もう一度特集冒頭の「私はベストバイをこう考える」を読み返せば、
そこに書かれていることを、最初に読んだ時よりも理解できたように感じたものだ。
ベストバイ・コンポーネントをどう考え、どう選んだか、
その具体的な答が、それぞれの選者によるベストバイ・コンポーネントとそのコメントであるからだ。
井上先生は「私はベストバイをこう考える」に書かれているように、
あえて高価なモノは選ばれていない。
井上先生と対照的にみえるのは菅野先生といえよう。
菅野先生は「私はベストバイをこう考える」の冒頭に書かれている。
*
ベスト・バイは、一般的な邦訳ではお買得ということになる。言葉の意味はその通りなのだが、ニュアンスとしては、ここでの、この言葉の使われ方とは違いがある。日本語のお買得という言葉には、どこかいじましさがあって気に入らない。これは私だけだろうか。そこで、ベスト・バイを直訳に近い形で言ってみることにした。〝最上の買物〟である。これだと、意味は意図を伝えるようだ。つまり、ここでいうベスト・バイとは、その金額よりも、価値に重きをおいている。
*
たしかに菅野先生は、そうとうに高価なモノも選ばれている。
スピーカーシステムでは、シーメンスのオイロダインがもっとも高価(1本140万円)なのだが、
菅野先生は、上杉先生、山中先生ともにオイロダインをベストバイ・コンポーネントとして選ばれている。
その意味で菅野先生と井上先生は、ベストバイ・コンポーネントの選び方は対照的といえようが、
じつのところ、対照的ではなく対称的である(もしくは対称的なところもある)のではないだろうか。
ステレオサウンド 48号、146ページのグラフは、
フォルテシモからピアニシモに変化していく様を描いている。
フォルテシモからピアニシモへの移る途中で、いくつかの小さな山が発生しているのだが、
この部分がEMT・930stとローコストのダイレクトドライヴ型プレーヤーとでは顕著に違っている。
山の数がまず違う。930stの方が多い。
ローコストのダイレクトドライヴ型プレーヤーが何なのかはわからない。
そのプレーヤーの音を聴いたことがあるのかどうかもわからないから、
音の比較ではなにもいいようがないけれど、
これだけ山の数がローコストのダイレクトドライヴ型プレーヤーで減っている(消失している)のをみると、
音楽のディテールの再現においては、930stの方が優れている、といってよいだろう。
それに山の形も同じとはいえない。
930stでは小さな山となっているのに、
ローコストのダイレクトドライヴ型では山になりきれずに平坦に近かったりする。
どちらのプレーヤーで聴いても、同じ「熱情」であることには違いない。
けれど、これほど異る形を描くグラフを見比べていると、
実際の音は、視覚の差以上に大きいものとしてあらわれるように思えてくる。
長島先生も指摘されているように、
これらのグラフはペンレコーダーによるもので、
ペンの自重の影響その他に若干の問題が残っている。
そのためあくまでも参考データとして掲載されていて、
48号で測定した全機種についての発表は控えられている。
けれど「レコードの音楽波形レベル記録」として5分ちょっとグラフを圧縮した形で掲載されている。
146ページのグラフのように拡大されていないから、
ぱっと見た感じではどれも同じレベル記録のように見えなくもないが、
細かく見ていけば、それぞれのプレーヤーによって違いが出ていることがわかる。
辻村寿三郎氏が、ある対談でこんなことを語られている。
*
部屋に「目があるものがない」恐ろしさっていうのが、わからない方が多いですね。ものを創る人間というのは、できるだけ自己顕示欲を消す作業をするから、部屋に「目がない」方が怖かったりするんだけど。
(吉野朔実「いたいけな瞳」文庫版より)
*
辻村氏がいわれる「目があるもの」とは、ここでは人形のことである。
つづけて、こういわれている。
*
辻村 本当は自己顕示欲が無くなるなんてことはありえないんだけど、それが無くなったら死んでしまうようなものなんだけど。
吉野 でも、消したいという欲求が、生きるということでもある。
辻村 そうそう、消したいっていう欲求があってこそもの創りだし、創造の仕事でしょう。どうしても自分をあまやかすことが嫌なんですよね。だから厳しいものが部屋にないと落ち着かない。お人形の目が「見ているぞ」っていう感じであると安心する。
*
人形作家の辻村氏が人形をつくる部屋に、「目があるもの」として人形をおき、
人形の目が「見ているぞ」という感じで安心される。
オーディオマニアの部屋、つまりリスニングルームに「目があるものがない」恐ろしさというのは、
「耳があるものがない」恐ろしさということになろう。
リスニングルームになにかをおいて、
それが「聴いているぞ」という感じになるものはなにか。
録音の世界では耳の代りとなるのはマイクロフォンであるけれど、
だからといってリスニングルームにマイクロフォンを置くことが、
ここでの人形の目にかわる意味での「耳があるもの」を置くことになるとはいえない。
では「耳があるもの」とは──。
それは、やはりスピーカーなのだとおもう。
ステレオサウンド誌選定《’77ベストバイ・コンポーネント》は、
テープデッキを除く、スピーカーシステム、アンプ、プレーヤー関係では、
6人の選者(井上、上杉、岡、菅野、瀬川、山中)のうち5人が選出したものに与えられている。
たとえばスピーカーシステムでは、
セレッションのUL6(6人)、ダイヤトーン(DS25B(5人)、ビクターSX3III(5人)、B&W DM4/II(5人)、
テクニクスSB7000(5人)、ヤマハNS1000M(5人)、スペンドールBCII(5人)、QUAD ESL(5人)、
タンノイArden(5人)、アルテック620A(5人)が選ばれている(括弧内は選出した人数)。
プリメインアンプでは、
ヤマハCA2000(6人)、サンスイAU607(5人)、サンスイAU707(5人)、ラックスSQ38FD/II(5人)、
コントロールアンプでは、
ビクターP3030(5人)、ラックスCL32(5人)、ヤマハC2(5人)、
パワーアンプでは、
ダイヤトーンDA-A15(5人)、QUAD 405(5人)、パイオニアM25(5人)、パイオニアExclusive M4(5人)。
チューナーは、トリオのKT9700(5人)のみ。
プレーヤーシステムでは、
ビクターQL7R(6人)、テクニクスSL01(6人)、
カートリッジでは、
オルトフォンMC20(6人)、グレースF8L’10(5人)、デンオンDL103S(5人)、
エレクトロアクースティック(エラック)STS455E(5人)、フィデリティ・リサーチFR1MK3(5人)、
エンパイア4000D/III(5人)、
ターンテーブルはビクターのTT101(5人)、
トーンアームはビクターUA7045(6人)となっている。
これらステレオサウンド誌選定ベストバイコンポーネントに、
ひじょうに高価なモノはなにもない。
スピーカーシステムで620Aが最も高価だが、1本358500円するが、
評論家の選ぶ’77ベストバイ・コンポーネント(つまり選者が4人以下のモノ)には、
もっと高価なモノがいくつも登場している。
アンプで高価なのはExclusive M4の350000円だが、
これも評論家の選ぶ’77ベストバイ・コンポーネントには、倍以上の価格のモノがいくつも選ばれている。