使いこなしのこと(なぜ迷うのか・その2)
基本を理解してないと基礎は築けないし、基準を持つこともできない。
基準が持てないのだから迷う。
基本を理解してないと基礎は築けないし、基準を持つこともできない。
基準が持てないのだから迷う。
8月18日まで、渋谷のギャラリー・ルデコで、
野上眞宏さんの写真展「METROSCAPE2 New York City 2001-2005」が開催されている。
8×10で撮られた2001年から2005年のニューヨークの風景。
2023年「METROSCAPE」は、ニューヨーク市のマンハッタンの写真、
今年の「METROSCAPE2」はブルックリン、クイーンズ、ブロンクスの写真。
昨日、作品の入れ替えが一部あったとのことで、今日も行ってきた。
一度目(8月1日)のときも今回も、野上さんの作品を見て、瀬川先生のことをおもっていた。
*
二ヶ月ほど前から、都内のある高層マンションの10階に部屋を借りて住んでいる。すぐ下には公園があって、テニスコートやプールがある。いまはまだ水の季節ではないが、桜の花が満開の暖い日には、テニスコートは若い人たちでいっぱいになる。10階から見下したのでは、人の顔はマッチ棒の頭よりも小さくみえて、表情などはとてもわからないが、思い思いのテニスウェアに身を包んだ若い女性が集まったりしていると、つい、覗き趣味が頭をもたげて、ニコンの8×24の双眼鏡を持出して、美人かな? などと眺めてみたりする。
公園の向うの河の水は澱んでいて、暖かさの急に増したこのところ、そばを歩くとぷうんと溝泥の匂いが鼻をつくが、10階まではさすがに上ってこない。河の向うはビル街になり、車の往来の音は四六時中にぎやかだ。
そうした街のあちこちに、双眼鏡を向けていると、そのたびに、あんな建物があったのだろうか。見馴れたビルのあんなところに、あんな看板がついていたのだっけ……。仕事の手を休めた折に、何となく街を眺め、眺めるたびに何か発見して、私は少しも飽きない。
高いところから街を眺めるのは昔から好きだった。そして私は都会のゴミゴミした街並みを眺めるのが好きだ。ビルとビルの谷間を歩いてくる人の姿。立話をしている人と人。あんなところを犬が歩いてゆく。とんかつ屋の看板を双眼鏡で拡大してみると電話番号が読める。あの電話にかけたら、出前をしてくれるのだろうか、などと考える。考えながら、このゴミゴミした街が、それを全体としてみればどことなくやはりこの街自体のひとつの色に統一されて、いわば不協和音で作られた交響曲のような魅力をさえ感じる。そうした全体を感じながら、再び私の双眼鏡は、目についた何かを拡大し、ディテールを発見しにゆく。
高いところから風景を眺望する楽しさは、なにも私ひとりの趣味ではないと思うが、しかし、全体を見通しながらそれと同じ比重で、あるいはときとして全体以上に、部分の、ディテールの一層細かく鮮明に見えることを求めるのは、もしかすると私個人の特性のひとつであるかもしれない。
*
この楽しさが味わえるからだ。
1970年代のオーディオを、それも若い時に体験してきた者にとって、
狂気は、あの時代のオーディオを語るキーワードになるだろうし、
狂気を感じさせる音というのに、ある種憧れがあってもおかしくない。
もちろん全員がそうだとはいわないが、
何割かは確実にそうであるはず、と私は思っているし、
だからこそ話が合うということも、もちろんある。
狂気を感じさせる音といっても、それは人によって違ってきて当然でもある。
本人はそう思って出している音が、別の人にとってはなんでもない音であったり、
もしかすると反対の場合もあるだろう。
それでも最近聴いた音で感じたことは、
劣情をむき出しにした音は、狂気を感じさせる音とは、
まったく違うということ。
それは恥ずかしい、愚かしい音でしかないと私は思うけれど、
そういう音を恥ずかしげもなく人に聴かせることができるというなのは、
どこか頭のネジが外れてしまっているわけで、
その意味では、狂気を感じさせる音といえなくもない──、そんな考え方もできるけど、やはり本質的に違う。
耳の記憶の集積こそが、オーディオだと(その1)で書いている。
別項で、自己模倣でしかオーディオをやれていない人がいることを書いている。
この二つのことは深く関係しているのか。
自己模倣でしかオーディオをやれていない人は、耳の記憶の集積がないのか。
上書きしかできないから、自己模倣という罠に囚われるのか。
こんなことを考えるのは、最近、いくつかのことがあったからだ。
8月7日のaudio wednesdayで試してみたかったことがあった。
クロスオーバーネットワークの交換である。
757Aレプリカには12dBスロープのネットワークがついている。
コイルはウェスターン・エレクトリック風で、ウーファー用にはオイルコンデンサー、
トゥイーター用にはフィルムコンデンサーが使われている。
このネットワークを見た時から、作り替えたいと考えていた。
5月の会では、このネットワークを使って鳴らしたわけだが、
JBLの2420をトゥイーターとした2ウェイでは、
かける曲によっては、どうしても専用のトゥイーターが欲しくなる。
私の手元に、一つネットワークがある。
六年ほど預かっているモノで、JBLのN800である。
といっても正確にはJimlansing/AMPEXのN800で、
かなりの大型のつくりで、重量もけっこうある。
このN800も少なくとも十年程度は鳴らされていなかった。
古い上にそうなのだから、期待半分というところ。
それでも16Ω仕様だし、すでにあるネットワークの交換(比較)用としては、
試してみる価値はあるはず、と思っていた。
音が出ないということはないはず──、
そうは思っていても、やはり事前にチェックしておきたい。
当日、会が始まる少し前に試しに交換してみた。
これが、なかなかいい感じで鳴ってくれた。
8月7日のaudio wednesdayで行ったことは、
ステレオサウンド 76号に掲載されている井上先生の使いこなしの記事、
「読者参加による人気実力派スピーカーの使いこなしテスト」を再現したものといっていい。
76号は1985年秋発売の号だから、三十九年前になる。
なので、8月のaudio wednesdayでやったことに、
最新の使いこなしといえる面はほぼない。
なんだ、その程度のことか、と思われるかもしれないが、
その、なんだ、その程度のことは、意外にきちんとできてなかったりする。
基本中の基本といえることを、きちんとやっていく。
特別なオーディオ・アクセサリーの類いは使っていない。
そして今回は、私の音の判断は極力加えなかった。
二つの音を聴いてもらい、どちらが良かった(好かった)か、挙手してもらい、多数決で進めていった。
屋上屋を架したような音を出していた人と、
その音を聴いて私が思い出した人には、どんな共通するところがあるのか。
何もなければ、その人のことを思い出したりはしなかったはず。
まず浮かんだのは、低音の鳴り方だ。
誰かの音を聴いて、音は人なりと感じるところは、
時として低音だったりする。
低音の鳴り方(鳴らし方)に、その人となりの全てがあらわれる──、
とまではもちろん言わないけれど、
それでも低音からはかなり色濃くその人となりが聴こえてくる、と言っても、大きく外れはしない。
屋上屋を架した人と、その人の音を聴いて思い出した人の低音は、
よく似ていた。これを書きながら、確かにそうだとひとり頷くほどに似ている、
というよりと本質的に同じとまで言いたくなる。
この二人は、どうして、こういう低音を鳴らすのか、
こういう低音にしてしまうのか。
そのことを考えていると、
別項のテーマである「複雑な幼稚性」に思い至る。
audio wednesday (next decade) – 第七夜は、9月4日である。
時間、場所はこれまでと同じ。
すでに告知しているとおり、今回と同じく757Aレプリカを鳴らす。
今日のaudio wednesdayでは2ウェイのまま鳴らした。
5月の会ではエラックのリボン型トゥイーターを足しての3ウェイだったが、
今回はあえて2ウェイのまま。
9月の会で、トゥイーターを足して3ウェイとする。
候補は、JBLの2405とデッカのリボン型である。
どちらも野口晴哉氏のコレクションだ。
デッカは四本のストックがある。
試してみたいことがある。
明日(8月7日)のaudio wednesdayは、これまでとは少し趣向を変えて行う。
オーディオ寄りに振った、いわば試聴会とも言える。
四谷三丁目の喫茶茶会記でやってきたことを、今回はやってみる。
これまでに鳴らしてきたスピーカーの一つ、ウェスターン・エレクトリックの757A、
そのレプリカを仕上げていこうというのが、8月と9月の会のテーマとなる。
5月の会ではセッティングし終えた音を聴いてもらったが、
今回はレプリカという自作スピーカーだからこそできるあれこれを試して、
その音の変化によって音楽表現がどう変化していくのか、そのことを聴いてもらいたい。
オーディオはどんな細かいことであっても、何かを変えれば音は変っていく。
だから、そのことに拘泥してしまうと、
泥沼に知らず知らずのうちに入っていくことにもなる。
その泥沼を楽しむ人もいるが、
オーディオの本当の楽しさは、そういうところにはない。
そのことを少しでも感じ取ってもらえたら、と考えている。
今回は、久しぶりにTIDALではなくCDを鳴らす。
あと二年で五味先生の「五味オーディオ教室」と出逢って五十年になる。
長いと思うだけでなく、
出逢った日のことを鮮明におもい出せるから、
あっという間だったとも感じているところもある。
なにに呼ばれてここまで来たのか、そしてどこまで行くのか。
そんなことを考えるようになってきたのは、齢をとってきたからなのか。
そうなのだろうか。
私と同じくらい、もっと長くオーディオをやってきた人は、多くいる。
その人たちは、なにに呼ばれてきたのか──、
考えてもいないし、感じてもいないのかもしれない。
いまの私の感覚では、そんなふうに感じも考えもしないことは、オーディオにおける老いではなく、
老いによる劣化なのではないだろうか。
これから、そういう劣化していく人を見ていくことになるのか。
(その11)で書いているように、六階の端から順番にだったから、
最初に入ったのは太陽インターナショナルで、
土方久明氏の時間帯だった。
ヘッドフォン祭では、若い来場者数人に囲まれて談笑している土方久明氏を見かけたことはあるが、
土方久明氏が話しているのを聞くのは初めてだった。
ここでも小さな驚きがあった。
土方久明氏の話はそつがないというか、
うまいな、と感心しながら聞いていた。
土方久明氏は、いま売れっ子といっていいだろう。
オーディオ雑誌、ウェブ記事、どちらでもその名前を目にする。
インターナショナルオーディオショウでの話し方を聞いていると、
その売れっ子ぶりに納得がいく。
ヘッドフォン祭での囲まれているところからも、
若い人たちからの支持もけっこうあるのだろう。
別項で、オーディオ評論家(職能家)、オーディオ評論家(商売屋)について書いている。
土方久明氏をオーディオ評論家(職能家)とは思わないし言わないが、
オーディオ評論家(商売屋)とも言わない。
オーディオ評論家(仕事人)という感じを受けた。
私がナスペックのブースに入った時は、
ちょうどジブリの音楽というテーマの時間帯だった。
ジブリの音楽を続けて聴くのは、初めてだった。
「風の谷のナウシカ」までは映画館で観ていたけれど、
それ以降は映画館でも、それ以外でも観ていない。
なので初めて聴く曲ばかり。
それで去年の音とどう比較するのか、と言われそうだが、
音楽の表情が、歌の濃やかな表情が、さりげなくだが、よく出ていた。
耳を澄まして聴けば、こんなふうに歌っているのか、と、おっと思ったりしたし、
歌のあるところでは歌手の力量もはっきり出していたので、
おやっお感じたりもした。
少なくとも去年の音は、そんなふうには感じなかったから、
やはり今年の音は、
プレイバックデザインズのパワーアンプがあってのものといえよう。
「大男総身に知恵が回りかね」、
プレイバックデザインズのパワーアンプを初めて見た人は、
そう思うかもしれないが、
少なくとも今回聴いた印象では、そんなふうにはまったく感じなかったし、
だからといってスピーカーを手玉に取って鳴らすという感じもなく、
好印象だけが残った。
そのこともあって、今年のインターナショナルオーディオショウで、
ナスペックのブースはいい印象だけが残っている。
数ヵ月前に、ある人がセッティング、チューニングした音を聴いた。
屋上屋を架すとしか言いようのないセッティングだった。
肝心なのは音である。
そういうセッティングでも、出てきた音が素晴らしいのであれば、
または説得力に満ちた音であれば、
そのために必要だったことと受け止めるしかないわけだが、
その時の音は、お世辞にもそうとは言えなかったから、
屋上屋を架した、としか言いようがなかった。
どこかいびつで異様な感じが常に付き纏っていた。
そういう音を迫力があると評価するする人がいるかもしれないが、
私の耳には、どんなディスク(録音)をかけても、ずっと同じ感じ(一本調子)でしか鳴らない音、
そんなふうにしか、感じられなかった。
これも、ある意味、音は人なりだな、思うとともに、
別の人が出していた音を思い出してもいた。
一週間前はインターナショナルオーディオショウだった。
ブースをまわっていろんな音を聴いていると、ふと、思い出す音もある。
もう一度、聴きたいな、と思う音だったりもする。
今回思い出していたのは、けっこう前にノアのブースでの音だった。
スピーカーはソナス・ファベールのCremonaだった。
アンプは、当時のノアが扱っていたVTLの管球式だった。
無骨な外観の、このアンプはソナス・ファベールのスピーカーの仕上げに相応しいとは言えない。
それでも鳴っていた音は、相応しかった。
私の耳には、それまで聴いたソナス・ファベールの音よりも、
ずっとずっと魅力的だった。
また聴きたいと思ったけれど、聴く機会はなかったし、
VTLの取り扱いをノアはやめてしまった。
VTLのアンプは、あまり売れなかったのか。
正直、私もこの時の音を聴くまでは、
VTLの音を聴いてみたいとは思ってなかった。
偶然のタイミングで聴けたことを、いまでも好運だったと思うほどだ。
VTLを、その後、どこも取り扱っていない。
VTLは健在だ。
ずっとこのままなのだろうか。
今日、ある人とLANケーブルについて話していた。
共通の意見としてあがったのが、
LANケーブルは細い方が全般的に好ましい傾向がある、だった。
市販されている全てのLANケーブルを試聴したわけではないから、
あくまでも傾向としてではあるが、少なくとも癖は少ないといえると感じている。
LANケーブルはコネクターの形状で、挿せる向きが決まってしまう。
ケーブルの長さ、機器の設置条件によっては、ケーブルに余計なテンションが加わることがままある。
そういう場合、細い方が影響は受けにくいようだし、
そのこととも好ましい傾向があることは関係しているのだろう。
太いLANケーブルはすべて癖がある、といいたいわけではなく、
あくまでも細い方が癖が少ない傾向がある、ということ。