Archive for category テーマ

Date: 5月 29th, 2013
Cate: 調整

オーディオ機器の調整のこと(その6)

SMEのトーンアームのラテラルバランスの調整がうまく行われていない例が、
意外にも多いことはずっと以前からいわれていたことである。

瀬川先生はSMEのラテラルバランスの調整について、何度か書かれている。
SMEにしても、1980年に復活させた3012-R Specialでラテラルバランスの調整機構を見直し、
オリジナルの3012のラテラルバランス調整とは異り、スムーズで精度の高い調整が行なえるようになっている。

私が最初に自分のモノとしたSMEのトーンアームは、その3012-R Specialだったから、
特にラテラルバランスの調整を面倒なものとは感じなかった。
その後、オリジナルの3012のラテラルバランスをみて、
これだと調整は面倒かも、と思ったものの、
型番の末尾にRが付くようになっからのモデルでは、
ラテラルバランスの調整は、一度身体感覚として身につけてしまえば、面倒なことではなくなっている。

3012-R Specialは復刻モデルではなく、はっきりとした改良モデルであり、
このラテラルバランスの調整機構の他にも、ゼロバランスをとるためのメインウェイとの移動も、
後端のノブを回すヘリコイド式にするなど、使い勝手がよくなっている(調整がやりやすくなっている)。

こういった改良点は、どういうい意味をもつのか、
そしてユニバーサル・トーンアームの代名詞のように語られるSMEのトーンアーム、
そしてオーディオ機器の「調整」のことについて、もう少し考えていきたい。

Date: 5月 29th, 2013
Cate: 調整

オーディオ機器の調整のこと(その5)

SMEのトーンアームのラテラルバランスの調整にしても、
プレーヤーの水平が出ていれば音にさほど影響はない、という人がいるわけだから、
マッキントッシュのMC275の出力管KT88の差し替えによる音の違いなんて、
KT88の製造メーカーが同じならば、そんなものは気のせい、と片づけてしまう人もいておかしくない。

結局、こういう「調整」は、音の違いがわからない人には、やる意味のないことになる。
けれど、そこには微妙な差異がある。
そこに気づくか気づかないのか、そこに違いがある。

気づいてしまうと、調整をすることになる。
最初は気がつきにくいことだってあるだろう。
それでも、多くの人が調整が必要といっていることには、それだけの意味がある。

気がつこうともせず、気がつかないままに、
ラテラルバランスをやる必要はない、と思い込んでしまうのも、その人次第であり、その人の自由でもある。

そういう人に対して、ラテラルバランスをとったほうがいいですよ、とはもういわないようにしている。
本人が気がつかないかぎり、すこしでも調整の必要性があるのか、と思わないかぎり、
他人の声は届かないのだから。

でも、そういう人にひとつだけいいたいのは、
だからといって、SMEのラテラルバランスはとる必要がない、などと、いわないでもらいたい。
それだけである。

Date: 5月 29th, 2013
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏のこと・その3)

長岡鉄男氏の考え方の基本は(すくなくとも1978年の時点では)、
こうである。

スピーカーの振動板、カートリッジの振動系などの、
いわゆる動く部分に関しては丈夫で軽い方がいい。
これらの振動系を支える部分、
スピーカーではスピーカーユニットのフレーム、
カートリッジではカートリッジ本体のボディなどは丈夫で重い方がいい。

とはいってもカートリッジ自体はトーンアームの先端に取り付けられていて、
カートリッジ本体もまた、トーンアームからみれば動く部分であるから、
カートリッジをむやみに重くするわけにもいかない。
つまり、ここにトータルバランスの考え方が出てくる、というものである。

別冊FMfan 17号の記事はアナログプレーヤーに関することだから、
トーンアーム、プレーヤーのベース、ターンテーブルプラッターなどについても長岡鉄男氏は触れられているが、
そこでもトータルバランスということが出てくる。

そして、こうも書かれている。
     *
アームは動くものだが、これを支えるサポート回り、ベース、キャビネットは丈夫で重くなければならないし、理想的には無限大の重さがほしいが、ある程度の重さがあれば、それ以上は少々重くしても、トータルの音質に変化はないというところまでくる。
     *
長岡鉄男氏の求められいてる音の世界に賛同できるどうかは別として、
別冊FMfan 17号に書かれていることは、反論しようとは思わない。

だから、よけいに、その数年後の長岡鉄男氏の行動、
スピーカーユニットやアンプのツマミの重さを量られたことに対して、
トータルバランスは、どこにいってしまったのか、と思ってしまう。

そして「オーディオA級ライセンス」に「重量は、筆者の製品選びの最重要ポイント」と書かれていたということ、
これについても、どういう変化が長岡鉄男氏にあったのだろうか、
もしくはどういう考えがあってのことなのか、と思うわけだ。

Date: 5月 28th, 2013
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏のこと・その2)

別冊FMfan 17号の記事を、長岡鉄男氏はこんな書き出しで始められている。
     *
プレイヤー・システムについての考え方も、プレイヤーそのものも、この十年間あまり変わってはいない。基本的には、動くものは丈夫で軽く、それを支えるものは丈夫で重く、そしてトータルバランスを重視するということである。
     *
これが1978年のことである。

facebookでのコメントには、こうあった。
     *
氏の著書『オーディオA級ライセンス』には「重量は、筆者の製品選びの最重要ポイント」と記述されていたことを申し添えます。
     *
「オーディオA級ライセンス」が出ていたことは私だって知っている。
読んだことはない。いつ出たのかは知らないけれど、1978年よりも後のことのはずだ。

読んでいないし持ってもいないから「重量は、筆者の製品選びの最重要ポイント」の前後の文章は不明である。
だから、この「重量は、筆者の製品選びの最重要ポイント」に絞って、書いていく。

1978年の時点でも、重量を重視されていたことはわかる。
けれど「トータルバランスを重視する」とつけ加えられている。
「オーディオA級ライセンス」では、この点についてはどう書かれているのであろうか。

1978年の長岡鉄男氏は、2ページ見開きの記事の中に「トータルバランス」を四回使われている。

Date: 5月 28th, 2013
Cate: 「オーディオ」考

「音は変らない」を考えてみる(その7)

音は一時たりとも静止しはしない。
つねに表情を変えている。
その表情の変化を、いいスピーカーならば敏感に音として感じさせてくれる。

ほんのわずかな表情の差に、はっとすることだってある。
案外、こういうところに音楽の美は隠れていることだってある。

結局、そういう音の表情の違い、差を明瞭に聴き分けようとしている人ならば、
明瞭に、そういう音の表彰の違い、差がスピーカーから出てくるようにシステム全体をチューニングしていく。

そういう過程でケーブルを変えてみたり、インシュレーターなどのアクセサリーを試してみたり、
そんなこまごまとしたことをやっては、その音の違いに気づいていく。

すべてはスピーカーから少しでも表情豊かな音を出したいがため、ともいえよう。

システムの「顔」といえる音を支配しているのは、スピーカーであり、
「顔」を変えるにはスピーカーを替えるしかないとも、いおうとおもえばいえなくもない。
だからといって、スピーカーを替えない限り、音は変らないわけではない。

くり返しになるけれど、音の表情の豊かさを求める人にとっては、音は変っている。
そのことに気づくわけであり、「顔」は変らないから……、と決めつけている人の耳には、
表情の違い、差は届いていないのか、届いていたとしても感知していないのかもしれない。

はじめのころは、そんな人のシステムも音の違いを出していたであろう。
けれど、そのシステムの持主は、表情に目(耳)を向けることなく、
単なる「顔」の美醜・容姿しか聴かないのであれば、いつしかそのシステムの音も表情の乏しい音になっていく……。

「音は人なり」であるのだから。
「顔」もまた一瞬たりとも静止しはしないのだから。

Date: 5月 27th, 2013
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏のこと・その1)

「598のスピーカーという存在」で長岡鉄男氏がスピーカーユニットの重さを量られていたことについて書いた。
私は、長岡鉄男氏のこの行為を、長岡鉄男氏なりのアイロニーでありギャグである、と解釈している。
そのことも書いている。

ここであえてこんなことを書いているのは、
私が「アイロニーでありギャグであり」と解釈したのは、
あくまでもスピーカーユニットやアンプのツマミの重さを量ったことについて、であり、
長岡鉄男氏の、これ以外の活動についてのことではない、ということである。

私は重さを量ることをそう捉えたわけだが、
私以外の人は、そんなことはない、と思われる方もいるだろうと予想はしていた。
facebookグループの「audio sharing」で、そのことについてコメントをいくつかもらった。
(twitterでは間接的に意見をもらった。)

読み返事を書いた。それに対して、また書き込みがあった。
その方とは面識はないけれど、私よりも少し年上の方だと思う。
といっても世代が違うほどの歳の差ではなく、同年代といえなくもない(はず)。

その方は、熱心な長岡鉄男氏の読者であり、かなりの量を読まれているようである。
一方の私はというと、長岡鉄男氏の著書は一冊も持っていないし、
かなりの数の著書がでていることは知っていても、あくまでも知っているというところにとどまっている。

ここ数日、オーディオ雑誌の整理を集中して行っている。
別冊FMfanの17号が出てきた。
1978年3月に発行された17号の特集は長岡鉄男氏によるカートリッジのテスト。
これと連動する形で、巻頭記事には「マイ・プレイヤーを語る」というタイトルがつけられ、
江川三郎、大木恵嗣、高城重躬、山中敬三、瀬川冬樹、飯島徹、長岡鉄男、石田善之、
八氏の愛用されているアナログプレーヤーが紹介されている。

ここでの私の興味は、当然瀬川先生と山中先生にあったわけで、
他の方々の記事は読んでいなかった。
でも、今回のこともあったので、長岡鉄男氏の「マイ・プレイヤーを語る」を読んでみた。

「?」と思うことが出てきて、いまこれを書いている。

Date: 5月 27th, 2013
Cate: 広告

広告の変遷(ソニーのこと・その3)

今日、一冊の本がゆうパックで届いた。
金曜日の夜おそく、日本の古本屋というサイトを通して注文した本である。

1975年に出た本で、「ヴァイオリン」という。著者は無量塔藏六(むらたぞうろく)氏。
岩波新書(青版)921である。
すでに絶版になっている。

この本を知ったのも、ソニーのSS-G7の広告である。
中島平太郎氏が椅子に腰かけている写真とともに中島氏による文章が載っている。
このパターンで、SS-G7の広告はいくつかある。
それだけこのころのソニーにとってSS-G7の存在は、自信作であり大きかったのだろう。
私が見た、そのうちのひとつに「ヴァイオリン」のことが書かれてあった。

そういえば、この広告、読んだ記憶がある。
本が紹介されていたことだけはなんとなく憶えていて、
当時、読もうと思っていたのに、いつしか忘れてしまっていた。

もうずいぶん忘れていたわけだ。
それを金曜日に、ある作業をしていて、偶然、SS-G7の、その広告を見つけ注文した次第である。

あの頃の広告には、ときどきではあったけれど、こんなふうに本やレコードについて書かれていることもあった。
例えばパイオニアのExclusiveの広告で、
ガーシュインの自演ピアノロールによるラプソディ・イン・ブルーのレコードのこともを知った。

マゼールとクリーヴランド管弦楽団による、この録音は1976年に行われている。
ガーシュインは1937年に世を去っているから、残されたピアノロールとの共演による。

広告で自社製品の良さをアピールするのは当然であっても、
こんなふうに本やレコードもいっしょに紹介されていると、ずいぶん印象も変るし、
なにより記憶に残る。少なくとも私はそうだ。

Date: 5月 26th, 2013
Cate: 調整

オーディオ機器の調整のこと(その4)

マランツの管球式パワーアンプで出力管(EL34)を交換したら、
ACバランス、DCバランスとともに出力管それぞれのバイアスの調整が必要となる。

マッキントッシュの管球式パワーアンプで出力管(MC275ならばKT88)を交換しても、
ACバランス、DCバランス、出力管のバイアスの調整は不必要である。
なのだが、私は五味先生の、この文章をおもいだす。
     *
 もちろん、真空管にも泣き所はある。寿命の短いことなどその筆頭だろうと思う。さらに悪いことに、一度、真空管を挿し替えればかならず音は変わるものだ。出力管の場合、とくにこの憾みは深い。どんなに、真空管を替えることで私は泣いてきたか。いま聴いているMC二七五にしても、茄子と私たちが呼んでいるあの真空管——KT88を新品と挿し替えるたびに音は変わっている。したがって、より満足な音を取戻すため——あるいは新しい魅力を引出すために——スペアの茄子を十六本、つぎつぎ挿し替えたことがあった。ヒアリング・テストの場合と同じで、ペアで挿し替えては数枚のレコードをかけなおし、試聴するわけになる。大変な手間である。愚妻など、しまいには呆れ果てて笑っているが、音の美はこういう手間と夥しい時間を私たちから奪うのだ。ついでに無駄も要求する。
 挿し替えてようやく気に入った四本を決定したとき、残る十二本の茄子は新品とはいえ、スペアとは名のみのもので二度と使う気にはならない。したがって納屋にほうり込んだままとなる。KT88、今一本、いくらするだろう。
 思えば、馬鹿にならない無駄遣いで、恐らくトランジスターならこういうことはない。挿し替えても別に音は変わらないじゃありませんか、などと愚妻はホザいていたが、変わらないのを誰よりも願っているのは当の私だ。
 だが違う。
 倍音のふくらみが違う。どうかすれば低音がまるで違う。少々神経過敏とは自分でも思いながら、そういう茄子をつぎつぎ挿し替えて耳を澄まし、オーディオの醍醐味とは、ついにこうした倍音の微妙な差異を聴き分ける瞬間にあるのではなかろうかと想い到った。数年前のことである。
     *
KT88を買ってきて差し替えれば、MC275は何の問題もなく動作する。
けれど音が、それまでとまったく同じかというと、そんなことはありえない。

音が変らなければ、五味先生だってKT88を必要な本数(四本)だけ購入すればすむ。
なのにその四倍の本数を買ってきて、差し替えては音を聴かれていたわけだ。

十六本のKT88の中から四本を選び音を聴くわけだが、
同じ四本でも、どのKT88をLチャンネルの上側にもってきて、どれをペアにするのか。
Rチャンネルの上側にはどれを選ぶのか。そしてペアにするのはどのKT88なのか。

十六本のKT88の組合せの数を計算してみたらいい。
その音を聴いて判断していく作業──、これも「調整」である。

Date: 5月 26th, 2013
Cate: 調整

オーディオ機器の調整のこと(その3)

マランツの管球式パワーアンプには、出力管のバイアス調整用の半固定抵抗があり、
そのためのメーターもつけられている。
Model 2では出力管のバイアスだけでなく、ACバランス、DCバランスの調整用にメーターの切替スイッチがあり、
メーターのまわりに三つの半固定抵抗用のシャフトが配置されている。
スイッチを切り替え、メーターの針の振れを見ながら、
マイナスドライバーで半固定抵抗をまわしていく。

この設計方針を親切という人もいれば、
なまじメーターで簡単にバイアス、ACバランス、DCバランスが確認できるだけに、
神経質になってしまい、常に調整したくなる……。
だから、ないほうが精神衛生上はいい、とおもう人もいる。

マッキントッシュの管球式パワーアンプは、というと、
別格的存在のMC3500の除けば、MC30、MC60、MC225、MC240、MC275のどれにもメーターはついていない。
MC30とMC60はハムバランサーがついているが、それ以降のモデルはハムバランサーも省かれている。

出力管のバイアス調整もACバランス、DCバランスの調整機構もない。
マランツの管球式パワーアンプ同様、固定バイアスのプッシュプルという回路構成にも関わらず、
マッキントッシュのアンプ(MC3500を除く)には、ユーザーに調整させることを要求していない。

これはマッキントッシュ独自のユニティカップルド回路ということも関係しているが、
それだけではなく、マッキントッシュとマランツというふたつの会社の、
アンプという製品にたいする考え方の違いによるものが大きいといえよう。

だからといって、いわゆる「調整」が、
マッキントッシュの管球式パワーアンプではまったくいらないといえるわけではない。

Date: 5月 26th, 2013
Cate: 調整

オーディオ機器の調整のこと(その2)

SMEのトーンアームをつかっている人すべてが、ラテラルバランスをしっかりとっているとは限らない。
ラテラルバランスなんて、プレーヤー自体の水平がとれていれば音には関係ない、という人がいる、
SMEのトーンアームはラテラルバランスをしっかりとらなければならない、という人もいる。

どちらが正しいことをいっているのだろうか、と思う人もいることだろう。

私は、SMEのトーンアーム(ナイフエッジのモノ)はラテラルバランスをとる必要がある、とする。

ラテラルバランスの調整の必要性に疑問を持っている人は、
あえてラテラルバランスを大きく崩した状態にして、その音を聴いてみればいい。

あまり音が変らない、ほとんど変らない、まったくといっていいほど音は変らない、
というのであれば、それはラテラルバランスの調整が不必要ということではなく、
その人にとって、ラテラルバランスの調整以前に調整しなければならないことがいくつもある、
ということである。

つまりほかの部分の調整不備、システム全体がうまく鳴っていないため、
ラテラルバランスによる音の差がはっきりと音として現れていないということである。
まず、このことを自覚すべきである。

Date: 5月 25th, 2013
Cate: 調整

オーディオ機器の調整のこと(その1)

オーディオ機器の中には、使い手に調整することを求めるモノがある。
たとえば真空管アンプで出力管のバイアス調整、それからトーンアームの調整などがある。

トーンアームのゼロバランスをまずとって、それから針圧を印加する。
ここまでは音を聴くためにどうしても必要なことであるから、誰しもがやること。

けれど、真空管アンプのバイアス調整は、メーカー出荷時に合せてあるというものの、
使っているうちにずれてくることもあるし、出力管が切れて新品と交換したならば調整する必要がある。
出力管の本数が多ければそれだけ手間となるし、
アンプの設計次第ではうまくバイアスを合せることが難しい場合もある。

オーディオマニアとしては、精神衛生上的にもできるだけぴたっとバイアス電流の値を合せておきたい。
少しでもずれていると、人にもよるけれど、一度気になると捕われてしまうことにもなる。

些細なことといえば些細なことでもある。
それがいったい音にどれだけ影響しているのか、を冷静に考えれば、吹っ切れそうな気もしなくはない……。

トーンアームの例でいえば、これと似たことにSMEのラテラルバランスがある。
Series V登場以降、SMEのトーンアームすべてがナイフエッジというわけではなくなったが、
SMEのトーンアームといえばナイフエッジであり、このナイフエッジゆえにラテラルバランスをとる必要がある。

Date: 5月 24th, 2013
Cate: 素朴

素朴な音、素朴な組合せ(その23)

フィリップスのスピーカーの輸入元は、1970年代はオルトフォンの輸入元でもあったオーディオニックスである。
そのオーディオニックスが1971年ごろにオーディオ雑誌に伍していた広告に、
「ヨーロッパ・サウンドの歴史を築きあげてきた」というキャッチコピーとともに、
フィリップスのスピーカーが、イタリアのスカラ座、パリの王室劇場、ニューヨークのアメリカンホール、
日本の日生劇場で使われている、とも書かれていた。

フィリップスの、どのスピーカーシステムが使われていたのか、詳細までは書いてなかった。
広告からは、それぞれのホールでモニター用として使われていたとあるから、
オーディオニックスが当時輸入していたコンシューマー用のシステムではなく、
プロ用のスピーカーシステムが別に存在していたのかもしれない。

何がどう使われていたのかよりも私が興味を惹かれたのは、
「ヨーロッパ・サウンドの歴史を築きあげてきた」というキャッチコピーだった。

オーディオニックスの広告のとおり、
フィリップスのスピーカーが「ヨーロッパ・サウンドを築きあげてきた」のかどうかはなんともいえない。
けれど、素朴の「素」という漢字には、
より糸にする前のもとの繊維、つまり蚕から引き出した絹の原糸、というところからきており、
人の手によって何かを後から加えたり結合させたりする前の素(もと)となるもの、という意味がある。

「ヨーロッパ・サウンドを築きあげてきた」──、
オーディオニックスがこのキャッチコピーとともに紹介していたのは、
フィリップスのフルレンジユニットだけを搭載したシステムだった。

この広告に携わった人が、どこまで深く考えていたのかはわからないし、
広告だから、こんなふうに書いていることもわかっていながらも、
たしかにそうだな、と納得していた。

Date: 5月 23rd, 2013
Cate: 「オーディオ」考

オーディオとは……(その1)

感覚の再現だとおもっている。
すくなくともこれまでずっとオーディオを通して音楽を聴く行為についてあれこれおもい考えてきて、
いまはそうおもっている。

感覚の再現の「感覚」は、
作曲家の、演奏家の、録音に携わった人たちのそれである。

Date: 5月 22nd, 2013
Cate: 日本の音

日本のオーディオ、日本の音(その25)

ある時「SIDE by SIDE」のことを話題にしたことがある。
A面のベーゼンドルファーとB面のスタインウェイの音色が、うまくその違いが出てくれるのかどうか、
そんなことを喋っていたら「そんなこと気にします?」といわれてしまった。

私は「気にする」と答え、楽器の音色の再現性は重視している。
けれど、一方にはそれほど重視しない、気にかけない聴き方をしている人もいることになる。

もうどこで読んだのか、いつごろ読んだのかも定かではないから、
細部に関しても曖昧なところがあるけれど、ある楽器演奏者がこんなことをいっていたのを憶えている。
「ぼくには絶対音感はないけれど、絶対音色感は、絶対音感を持っている人よりも高いものをもっている」と。
これだけを自信をもっていえる、とも。

昨年1月、「ピアノマニア」という映画について書いた。
この映画は全国上映はやらなかった。先月やっとDVDとして発売された。

この映画の主役はスタインウェイの調律師、シュテファン・クニュップファー。
著名なピアニストも何人か登場する。
そのなかのひとり、ピエール=ロラン・エマールの「フーガの技法」の録音が焦点となり映画は進んでいく。
ピエール=ロラン・エマールが「フーガの技法」でシュテファン・クニュップファーに要求することは、
かなり厳しいものだった。
「ピアノマニア」を観ていて、そこまで要求するのか、それに応えるのか、とおもっていたほどだ。

それがどういうものだったのかは、ぜひDVDを購入して確認していただきたいのだが、
この「ピアノマニア」から伝わってくることのひとつは、ピアノの音色に対する要求の厳しさである。
ピエール=ロラン・エマールが求めた「音色」が「フーガの技法」でどれだけ実現されているのか、
それは、ドイツ・グラモフォンから出ているCDを聴いて確認してほしい。
ピエール=ロラン・エマールが求めた「音色」はひとつではない。

「絶対音色感」というものが、録音の「場」においてだけでなく、
再生の「場」においても、非常に高いレベルで要求されているわけで、
それは「SIDE by SIDE」におけるA面とB面の、ベーゼンドルファーとスタインウェイの音色の違いよりも、
同じピアノでのことだけに、もっとシビアともいえる。

Date: 5月 22nd, 2013
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これから(その6)

LS3/5Aに使われているスピーカーユニットは、ウーファー、トゥイーターともにKEF製で、
型番はB110とT27である。

KEFがいつごろ、これらのユニットの製造をやめたのかは知らない。
でも少なからぬ時間が経過している。

LS3/5Aの復刻にあたって、まっさきに問題となったのはスピーカーユニットをどうするかであったろう。
エンクロージュアやネットワークは、LS3/5AはBBCモニターであるから、厳密に規格が定められている。
これをクリアーするのも、意外に大変らしいのだが、
それでもスピーカーユニットの問題に比べれば、比較的小さなことである。

かなりの数のLS3/5Aをつくることになり、スペア分も含めて、
KEFにB110とT27の再生産を、仮に依頼したとしよう。
KEFが製造を引き受けてくれるかどうかもなんともいえないし、
仮に再生産してくれたとしても、当時のクォリティそのままで、ということになるのかどうかは、
正直なんともいえない。

設計図面は残っているはずだから、それを元に再生産されても、
製造中止になって少なからぬ時間があるわけで、
その間に工場も変化していても不思議ではない。
当時のユニットを生産していたラインがそのままあると限らないし、
そのころの製造スタッフも入れ替わっていることだろう。

これがドイツだったすると、再生産にも期待がもてるのだが、
イギリスとなると、そのへんなんともいえない。

再生産することで、以前のモノよりも質が悪くなることもあるし、良くなることもある。
良くなればそれはそれでいいことなのだが、
あくまでもLS3/5Aの復刻ということに関しては、良くなることを素直に歓迎できない面もある。