Archive for category テーマ

Date: 12月 30th, 2014
Cate: 戻っていく感覚

戻っていく感覚(「風見鶏の示す道を」その8)

「ぼくはどの汽車にのったらいいのでしょう?」といっていた旅人は、車掌とともに汽車にのる。
目的地である駅をめざす。

どこかの駅に向う。
目的地につくには、ある時間を要する。
その駅がどこにあるかで、その時間が長くなることだってある。
しかも、その駅は目的地であるけれど、最終目的地とはいえない。

おそらく目的地(駅)についた旅人は、またいつの日か、次なる目的地をさがすことになる。
そのときトランクの中のレコードは、最初の旅立ちと同じではないはず。
様変りしているかもしれない。

旅人は、また車掌にたずねるのだろうか、「ぼくはどの汽車にのったらいいのでしょう?」と。

いま「風見鶏の示す道を」を読み返すと、あれこれ考えてしまう。

「風見鶏の示す道を」はオーディオ誌に書かれたものだ。
旅人は誰なのか、車掌もそうだ、誰なのか。
駅はなんなのか、なぜ汽車なのか。

これらが示唆するもの。
書く必要はないだろう。
オーディオマニアならば、そうやって生きてきた(いる)からだ。

旅人はいくつかの駅にたどり着く。
いくつの駅だったのかは、わからない。
最終目的地と思える駅に、彼はたどり着けるのだろうか。

Date: 12月 29th, 2014
Cate: 書く

毎日書くということ(思い出す感触・その2)

芯を削ると、削りカスが付着している。これを削り器についているスポンジに刺すか、
編集部の先輩がやっていたのをまねして、金属製ゴミ箱の縁にコンコンと当てて落とす。

ステッドラーの芯ホルダーの書き味はいまではそれほどはっきりとは憶えていない。
憶えているのは、必ずコツンとした感触があること。

スムーズに書いていると、芯一本につき一回コツンと、それまでとは違う感触がする。
最初はバラつきかと思った。
けれど芯を交換しても、また同じようにどこかでコツンとした感触がある。

あっ、来た、と思うようになってくる。
この感触が味わいたくて芯ホルダーを使っていた。

ワープロが来て、記事本文はワープロに完全に移行しても、
写真のネーム(説明文)書きは、芯ホルダーを使っていた。

ネームを書いたら紙焼き写真に原稿用紙をクリップでとめる。
ワープロだと印刷の時間がよけいにかかるため、私はネームだけはずっと手書きにしていた。

芯ホルダーもいつからか三菱鉛筆の水性ペンに変った。
ステレオサウンドの原稿用紙と相性がいいとでもいったらいいのか、なめからに書けた。

こんな感触があったことも、ひさしく忘れていたのに、
数年前から、これらの感触がなつかしくなっている。

とはいえブログには手書きがはいりこむ隙はない。

Date: 12月 29th, 2014
Cate: 書く

毎日書くということ(思い出す感触・その1)

書くということは、いまの私には親指シフトキーボードによる入力をさす。
ステレオサウンドに富士通のワープロOASYSが導入されてから、
私にとって日本語入力のためのキーボードは親指シフトである。
だからもう30年くらいになる。

ステレオサウンドにはいったばかりのころは、まだワープロはなかった。
原稿といえば手書きだった。

たいていの出版社がそうであるように、
ステレオサウンドにはステレオサウンド仕様の原稿用紙が用意されていた。
筆記具はステッドラーの芯ホルダーだった。

それまで筆記具といえば、鉛筆、シャープペンシル、ボールペン、サインペン、万年筆ぐらいしか知らなかった。
芯ホルダーを、ステレオサウンドではじめて見た。

シャープペンシルと同じように、芯ホルダーは鉛筆の芯と同じような専用の芯を交換して使うもの。
シャープペンシルが芯を削る必要がないのに対して、
芯ホルダーは鉛筆と同じように先が丸くなったら削らなければならない。
専用の削り器もあった。

編集部の先輩に連れられて、ステレオサウンドの向いにあった文具店に行き、
私用の芯ホルダーと削り器を購入した。

はじめて使う筆記具。
この芯ホルダーで書いた時よりも、はじめて専用の削り器を使った時のほうが、
ほんのすこしだけ一人前の編集者に近づけたように感じられた。

Date: 12月 28th, 2014
Cate: 戻っていく感覚

戻っていく感覚(「風見鶏の示す道を」その7)

38年前、レコード(録音物)といえば、LP(アナログディスク)をさしていた。
いまはさしずめCDになる。

LPかCDか、ということはさほど、ここで語ることに関しては大きな違いとはいえない。
38年前と大きく違っていて、そのことがここで語ることに大きく関係してくるのは、
メディア(録音物)の売られ方である。

38年前、LPは決して安いとはいえなかった。
新譜であっても旧譜であっても、たやすく買えるものではなかった。
CDが登場しても、そのことは大きくは変らなかった。

けれどいま、CDはボックスだと、昔の感覚では信じられないほど安くなってしまった。
30枚セット、50枚セット、60枚セット、
LP全盛時代には考えられなかったボックスの枚数であり、いくつものそういうボックスが矢継ぎ早に出てくる。
しかも相当に安い。

ボックスCDを買うことで、それまで避けていた、あまり関心の持てなかった音楽もきくことになる。
ボックスCDを、だから否定したくはないが、それでも旅人がトランクから取り出したのが、
すべてボックスCDであったら、そこに一本の筋はみえてきただろうか。
車掌は目的地を読みとることができただろうか……。

こんな現実的なことも、考えてしまう。

Date: 12月 28th, 2014
Cate: 戻っていく感覚

戻っていく感覚(「風見鶏の示す道を」その6)

乗客(旅人)のトランクにはレコードがいっぱいだった。
ただ、これらのレコードは、乗客がこれまできいてきたレコードだったのか。
それとも、これからききたいと思っているレコードだったのか。

38年前の13歳のときには考えなかったことを、いまは考えている。

トランクいっぱいのレコードが愛聴盤ばかりのときの目的地と、
未聴のレコードばかりのときの目的地、
愛聴盤と未聴盤がまざりあっての目的地とでは、
めざす方向は同じになるのかもしれないが、
目的地となる駅は必ずしも同じになるとはかぎらないのではないか。

ただいえるのは、どの場合であっても、
旅人という《ひとつの個性でえらばれた》レコードであることにはかわりはない。

黒田先生は書かれている。
     *
ひとつの個性でえらばれた数枚のレコードには、おのずと一本の筋がみえてくる。そのみえてきた筋が示すのは、そこでレコードを示した人間の音楽の好みであり、敢えていえば音楽のきき方である。
     *
みえてきた筋が示すところに、目的地となる駅はある。
レコードの持主である旅人が汽車に乗れたのは、
汽車の車掌を自称する男が、旅人がとり出したレコードから、筋が示す先を読みとることができたからである。

Date: 12月 27th, 2014
Cate: 戻っていく感覚

戻っていく感覚(「風見鶏の示す道を」その5)

人は蒐集する。
なにかを蒐集する。なにかとはモノであり、モノはレコードであったり本であったり、他のモノであったりする。

音楽をきくためにレコードを買う。
あの音楽もききたいからと、別のレコードを買う。
そうやってレコードの枚数は少しずつであっても確実にふえていく。
10枚くらいたったレコードがすぐに100枚をこえ、
さらには一千枚をこえることも、そうめずらしいことではない。
世の中には、もっと多くの枚数のレコードをもつ人もいる。

昔からいわれていたことだが、一枚のレコードをきくのに小一時間ほど必要となる。
365枚のレコードを所有していたら、一日一枚のレコードをきくとして、
次に同じレコードをきくのは一年後となる。

一日一枚のレコードをきく人、もっと多くの枚数のきく人もいる。
それでも枚数がふえれば、次にそのレコードをきく日はいつになるのか。

もちろんレコードだから、同じレコードをたてつづけてにきいてもかまわない。
毎日ききたい曲があるし、一年に一度きければいい、という曲もある。
そうなれば、きかないレコードは次にきかれる日が延びていく。

それでも人は蒐集する。
冷静になれば、そんなに集めることが音楽をきくことになるのか、とも思うこともある。
けれど、いくつもの点が集まることで一枚の写真となり、そこでなにかがはっきりと浮び上ってくる。

レコード一枚一枚はひとつの点である、と書いた。
蒐集とは、自身の目的地を知るための行為なのだとおもう。

Date: 12月 27th, 2014
Cate: Reference

リファレンス考(その8)

リファレンス用のアンプに求められるのは安定動作であり、この優先順位はかなり高い。
そして安定動作に大きく関係してくることに温度がある。

試聴室はエアコンがはいってくるから室内温度に関してはコントロールできるが、
アンプの内部温度はコントロールできるわけではない。
もちろん、きちんと設計されたアンプならば長時間の使用でも、
まわりに十分な空間を確保していれば動作に影響が出ることはない、とは一応いえる。

けれど音に関しては、温度はかなり影響してくる場合がある。
1970年代後半からアンプのウォームアップがさかんにいわれるようになった。
電源を入れて保護回路が解除されればすぐに音は出せる。
けれど、そのアンプの実力が発揮されるには早いモノでも30分から1時間ほど、
遅いアンプでは数時間電源を入れておき、さらには鳴らしておく必要があった。

前者は寝起きが早いアンプ、後者は寝起きが遅い(悪い)アンプ、というふうにいわれるようになった。

では十分にウォームアップをすませたあとは問題はないのかというと、
必ずしもそうではない。

ステレオサウンドの試聴は、ときにはかなり長時間に及ぶこともある(いまはどうなのか知らない)。
アンプやCDプレーヤーはウォームアップをかねて、
試聴が始まる数時間前から電源をいれて音を出している。
これに試聴の実際の時間が加わると、10時間以上電源がいれられていることもある。

試聴では熱を発する機器をラックの中に押し込んだりはせずに、
放熱にはなんら問題のない置き方をしていても、機器によっては暖まりすぎて音が変化してくるモノがある。

電源をいれてしばらくしての変化は、ほとんどの場合がよい方向への変化であるが、
かなりの時間を使用しての変化は、悪い方向への変化である。

Date: 12月 26th, 2014
Cate: 広告

広告の変遷(ポスターをめざしているのか・その1)

10年以上前からか、それとももっと前からなのか。
とにかくはっきりとした時期についてはなんともいえないが、
いつのころからかオーディオの広告から文字が少なくなっていった(消えつつある)。

広告は時代を反映しているのであろうから変化していくものとしても、
ステレオサウンドに掲載されている、おもに海外の高額なオーディオ機器の広告を眺めていると、
きれいな写真(あえて美しい写真とは書かない)と最少限のコピー──、
これらの広告はポスターをめざしているのか、と思ったりする。

想像でポスターといえる大きさに拡大してみる。
私の想像力が足りないせいなのか、ポスターとは思えない。
この広告のサイズを拡大してもポスターになるとは思えないのだ。

それでもポスターをめざしているのか、という感じがどうしてもしてくる。

ポスターもまた広告である。

Date: 12月 26th, 2014
Cate: 戻っていく感覚

戻っていく感覚(「風見鶏の示す道を」その4)

乗客は、どの汽車にのったらいいのかわからなかった。
けれど、彼はききたいレコードははっきりとわかっていた。
だから駅員に「ぼくは、このレコードが、ききたいんですよ。」といい、
トランクをあけ、一枚のレコードをとりだす。

ピアノのレコードであった。

「風見鶏の示す道を」でははっきりと書かれていないが、
乗客の手荷物はレコードでいっぱいになったトランクだけのようである。

乗客が「ぼくは、このレコードが、ききたいんですよ。」と示したレコードを、
駅員は手に取り懐しげな表情をして、さらに乗客にたずねる。
「ききたいのは、このレコードだけですか?」

乗客はトランクの中いっぱいのレコードを駅員にみせる。
駅員はますます懐しげな表情をして、こういう。
「そうでしたか。あなたのいらっしゃりたいところは、あそこだったんですか。よくわかりました。さあ、まいりましょう。ぼくは、あなたがいこうとしているところにむけて出発,仕様としている汽車の車掌なんですよ。間もなく汽車の出発の時間です。」

乗客がどこをめざすのかがはっきりしたのは、一枚のレコードでは無理だった。
トランクいっぱいのレコードゆえに、駅員は理解できた。

黒田先生は、一枚一枚のレコードを新聞にのっている写真の、ひとつひとつのドットにたとえられている。
いまの新聞の写真はカラーがずいぶんきれいになったけれど、
「風見鶏の示す道を」のころの新聞の写真はずいぶんと粗いものだった。

モノクロの写真は、点(ドット)の集合したものでしかなかった。
ドットを凝視しても虫めがねでみようと点は点にかわりない。
ところが、ある距離をおくと、人の顔であったり、風景であったりするのがわかる。
人の顔の表情までわかる。

一枚のレコードは点であり、
トランクいっぱいのレコードによって一枚の写真になり、
行き先のわからない乗客にかわり、何かを駅員に語っている。

Date: 12月 25th, 2014
Cate: 戻っていく感覚

戻っていく感覚(「風見鶏の示す道を」その3)

「風見鶏の示す道を」での駅員と乗客(旅人)の会話と会話のあいだに、
レコード(録音)について、レコードをきくという行為についての記述がある。
     *
 ともかく、ここに、一枚のレコードがある。あらためていうまでもなく、ピアニストの演奏をおさめたレコードだ。
 そのレコードを、今まさにきき終ったききてが、ここにいる。彼はそのレコードを、きいたと思っている。そのレコードをきいたのは自分だと思いこんでいる。たしかに、彼は、きいた。きいたのは、まさに、彼だった。それは、一面でいえる。しかし、少し視点をかえていうと、彼はきかされたのだった。なぜなら、そのレコードは、そのレコードを録音したレコーディング・エンジニアの「きき方」、つまり耳で、もともとはつくられたレコードだったからだ。
 しかし、きかされたことを、くやしがる必要はない。音楽とは、きかされるものだからだ。たとえ実際の演奏会に出かけてきいたとしても、結局きかされている。きのうベートーヴェンのピアノ・ソナタをきいてね──という。そういって、いっこうにかまわない。しかしその言葉は、もう少し正確にいうなら、きのうベートーヴェンのピアノ・ソナタを誰某の演奏できいてね──というべきだ。誰かがひかなくては、ベートーヴェンのソナタはきくことができないからだ。
 楽譜を読むことはできる。楽譜を読んで作品を理解することも、不可能ではない。だが、むろんそれは、音楽をきいたことにならない。音楽をきこうとしたら、誰かによって音にされたものをきかざるをえない。つまり、ききては、いつだって演奏家にきかされている──ということになる。
 それがレコードになった時、もうひとり別の人間が、ききてと音楽の間に介在する。介在するのは、ひとりの人間というより、ひとつの(つまり一対の)耳といった方が、より正確だろう。
 ここでひとこと、余計なことかも思うが、つけ加えておきたい。きかされることを原則とせざるをえないききては、きかされるという、受身の、受動的な態度しかとりえないのかというと、そうではない。きくというのは、きわめて積極的なおこないだ。ただ、そのおこないが、積極的で、且つクリエイティヴなものとなりうるのは、自分がきかされているということを正しく意識した時にかぎられるだろう。
     *
汽車はレールの上を走る。
音楽をきかされている、というたとえでいいかえれば、レールの上を走らされている。

汽車の乗客は乗っているだけである。
車を運転するのと違う。
スピードの自由度は乗客にはまったくない。寄り道の自由もない。

汽車の乗客は、
車での旅人よりも受身、受動的な態度の旅人なのだろうか。

駅員と乗客の会話(対話)はつづいていく。

Date: 12月 25th, 2014
Cate: 戻っていく感覚

戻っていく感覚(「風見鶏の示す道を」その2)

駅員と乗客の会話はもう少し続く。
そして、中ほどに、こう書かれてある。
     *
目的地がわからない旅人──、そんな馬鹿なこと、ありうるはずがないと、思われがちだ。本当にそれは、馬鹿げたことか、ありえないことか。
     *
乗客は旅人である。
どこかの駅から、どこかの駅に行こうとしている。
だが旅人は、どこに行きたいのか、自分でも掴めずにいる。

駅にいけば、それも旅に出ようとしているわけだから、
通勤のための最寄りの駅ではなく、もっと大きな駅であるはずだ。

大きな駅にはいくつもの汽車がいる。
乗客を待っている。
目的地が決っていなければ、どの汽車にのっていいのかすらわからない。

《旅は、なにものかに呼ばれて、はじめて可能だ。》

「風見鶏の示す道を」の中ほどに、こう書いてある。

目的地とは、なにものかに呼ばれているところでもあるのかもしれない。
なにものが呼ぶのか。

レコードである。
聴きたい音楽である。

Date: 12月 24th, 2014
Cate: 戻っていく感覚

戻っていく感覚(「風見鶏の示す道を」その1)

私が初めて読んだ黒田先生の文章は、
ステレオサウンド別冊「コンポーネントステレオの世界 ’77」巻頭の「風見鶏の示す道を」である。
サブタイトルとして、音楽が呼ぶ夢の顕在としてのコンポーネント、とある。

《汽車がいる。汽車は、いるのであって、あるのではない。りんごは、いるとはいわずに、あるという。りんごはものだからだ。》

ここから「風見鶏の示す道を」をはじまる。

駅が登場してくる。
幻想の駅である。

駅だから人がいる。
駅員と乗客がいる。

しばらく読んでいくと、こんな会話が出てくる。
     *
「ぼくはどの汽車にのったらいいのでしょう?」
「どの汽車って、どちらにいらっしゃるんですか?」
「どちらといわれても……」
     *
不思議な会話である。
駅でなされる会話とはおもえぬ会話があった。

38年前に、この文章を読んでいた。
ちょうどいまの季節である。
二度三度読み返した。

13歳の中学生には、わかったようで、この人(黒田先生)が何を書きたいのか、
ほんとうのところはつかめずにいた。
それでもなにかしら惹かれるところがあって、そのあとも何度か読み返している。

Date: 12月 23rd, 2014
Cate: ロングラン(ロングライフ)

ロングランであるために(オタリ MX5050・その2)

オタリの存在を知ったのは、当時出版されていたサウンドメイトという雑誌だったはず。
カラーグラビアページで紹介されていた、と記憶している。

誰の文章だったのかも憶えていない。
どの機種だったのかもさだかではない。
ただ日本のオープンリールデッキでもっとも信頼性が高いのはオタリだ、と、
その記事は中学生の私に植え付けてくれた。

1981年春に上京して最初に住んだのは三鷹だった。
三鷹から国鉄で一駅、隣の吉祥寺駅で井の頭線にのりかえて、
永福町あたりで山水電気の社屋があらわれたときは、ここがサンスイなんだ、と驚いた。

当時オタリは荻窪にあった(いまも本社である)。
環状八号線沿いにあった。
なにかの用事で荻窪に行った時に、偶然オタリのビルの前を通った。

荻窪にあることは知っていたけれど、住所まで憶えていたわけではなかったので、
山水電気同様、いきなり、目の前にあらわれた、という感じだった。

山水電気のあとだっただけに、意外に小さな会社なんだ、と思ったのを憶えている。
録音機器専門メーカーだから、総合メーカーの山水電気とは規模が違って当然である。

山水電気はなくなり、オタリは健在である。

Date: 12月 23rd, 2014
Cate: ロングラン(ロングライフ)

ロングランであるために(オタリ MX5050・その1)

長野県の松本・安曇野・塩尻・木曽の地元紙の市民タイムスに、
「録音機 40年の生産に幕」という見出しで、
オタリのオープンリールデッキMX5050の最後の一台が生産され、
近くアメリカに出荷されるという記事が載っている。

この記事の写真が、twitterでリツィートされていたのを見た。
正直、寂しい気持になるというより驚いていた。
まだ生産していたことにである。

私のもうひとつのブログ、the re:View (in the past)で、
1960年代後半からのオーディオ機器の広告をスキャンしたものを公開している。
いまやっと1970年分を作業中である。

このころの広告に、カセットデッキはほとんど登場してこない。
テープデッキ関係の約九割はオープンリールデッキである。
数年後にはカセットデッキ、カセットテープに家庭用デッキの主役を奪われるし、
私がオーディオに興味をもちはじめたころはカセットの時代だっただけに、作業しながら、少し意外な気もしている。

オタリは業務用メーカーである。
プロフェッショナル機器のブランドとしては、アメリカのアンペックス、スイスのスチューダーに憧れていた。
同時に日本のメーカーのオープンリールデッキならば、オタリに憧れていた。
特に理由はなかった。

というよりも、オタリの名を知ったころは、それほど詳しかったわけではなく、
なんとなくの憧れであった。

ステレオサウンド別冊のHI-FI STEREO GUIDE ’75-’76をみると、
オタリの製品は、MX5000S、MX5050、MX7000-2Sが載っている。

Date: 12月 23rd, 2014
Cate: Reference

リファレンス考(その7)

ステレオサウンドの試聴室でのことではないが、知人のリスニングルームでも同じことがあった。
彼もまた東京タワーが窓から見える都心に住んでいた。
(スカイツリーが完成する前の話である)

彼が使っていたアンプはマッキントッシュのアンプと国産メーカーのアンプだった。
国産アンプは、価格こそ非常に高価というわけではなかったが、
いわゆるハイエンドオーディオと呼ばれるところに属するアンプで、規模の小さなところが作っていた。

彼のリスニングルームではマッキントッシュのアンプでは何の問題も発生しないのに、
国産アンプではバズッたりして、音を満足に聴くことができなかった。

アンプが故障していたわけではない。
取り扱い元に送り返してチェックしてもらうと正常とのこと。
けれど、彼のリスニングルームに戻ってくると、使い物にならない。

よくマッキントッシュのアンプのことを古いとか、安物だとかいう人がある一定数いるように感じている。
マッキントッシュのアンプは最先端のアンプというイメージはない。
けれど、他のアンプが問題なく使えて、
マッキントッシュのアンプが使えなかった、動作がおかしくなったという話はこれまで聞いたことがない。

上の例のようにマッキントッシュのアンプは使えても、他のアンプはダメだという例はある。
(ただし最近のマッキントッシュに関しては未確認なのはつけ加えておく)

音質優先がほかのなによりも優先される事項であるよういわれることがある。
けれど使用環境は、同じ東京にいても大きく違う。
電源の状態、オーディオ機器を取り巻く環境は、場所によっても時間によっても違う。

個人が自分のためにつくったアンプならば、使用環境がその人の部屋ということで限定されるから、
やりたいようにやればいい。
けれどメーカー製のアンプとなると、そうもいかない。

知人にしても、間違った使い方をしていたわけではない。
メーカーが想定している使い方をしても、メーカーが想定していない環境であったから、
小規模の国産メーカーのアンプは使い物にならなかった。