Archive for category テーマ

Date: 1月 25th, 2015
Cate: 測定

FLEXUS FX100(その3)

イギリスのスピーカーメーカーは、小さな規模の会社が少なくなかった。
スペンドールにしてもハーベスにしても、小さな会社である。

いまは違うだろうが、創立当時、無響室はどちらの会社ももっていなかった。
ではどうしていたのかというと、BBCが無響室を貸し出していた、ときいたことがある。

無響室が必要になればBBCの無響室まで出向く。
そういう協力関係があったから、
無響室を持たなくとも優れたスピーカーシステムをつくり出していた、ともいえよう。

日本はどうなんだろう。
たとえばNHKが新興スピーカーメーカーに無響室の利用を許しているのだろうか。

仮にそうだとしても、これはBBCでも同じことがいえるのだが、
これらの無響室を使いたいメーカーは、近郊になければ不便である。時間も限られる。
そういう制約がどうしても生じる。

無響室がなくともスピーカー開発は行える。
たしかにそうではある。だからといって、無響室は不必要といえるものではない。

それに測定のためだけの無響室ではない。
無響室に一度でも入ったことのある人ならば、
壁、天井、床からの反射がなくなることで、どれだけ音が変化するのかを体験できる。
自分の声さえも変化する。

だから無響室の音はぜひとも体験してほしい。

Date: 1月 25th, 2015
Cate: 測定

FLEXUS FX100(その2)

音を出すために必要な意味でのオーディオ機器ではないが、
NTi AUDIOFLEXUS FX100は、私にとってオーディオ機器と呼びたくなる測定器である。

その1)を書いたのが2013年10月、
一年以上ほったらかしにしていたが、(その2)を書くために、NTi AUDIOのサイトを見ていた。

FLEXUS FX100は知れば知るほど、欲しくなる一台である。

私がFLEXUS FX100について書こうと思ったのは、
無響測定機能を装備したことを知ったからである。

アンプ、CDプレーヤーなどの電子機器は、測定器を揃え扱える人がいれば測定は可能になる。
けれどスピーカー、それにマイクロフォンとなると、
測定器と人だけでは満足とはいえず、無響室も要求される。

無響室を備えて、測定環境が整う。
オーディオブームだったころは、各メーカーに無響室があった。
大きな会社であれば無響室を用意できた。
けれど小さな規模の会社となると、無響室は用意できない。

無響室に入ったことのある人ならば、
無響室が、いかに一般の部屋と異る環境であるかを実感している。
奇妙な空間ともいっていい。

スピーカーシステムを鳴らすのは、そういった空間ではなく、
一般のリスニングルームであるのだから、必ずしも無響室は必要ではない──、
はたしてそう言い切れるだろうか。

Date: 1月 25th, 2015
Cate: 単純(simple)

シンプルであるために(ミニマルなシステム・その12)

D/A変換を行うLSIは、電流出力型が多い。
そのためアナログ回路はI/Vコンバーターと呼ばれる電流入力型となっている。
Iは電流、Vは電圧を意味している。

出力で電流であるならば、その出力に抵抗を一本おくだけでも電圧変換はできる。
電流×抵抗=電圧だからである。
この抵抗にコンデンサーを並列に接続すれば高域においてインピーダンスが低下していくため、
ハイカットフィルターを形成することもできる。

D/Aコンバーターの自作例にも抵抗によるI/V変換は見られるし、
いまはどうなのかわからないが、昔はメーカー製にもそういう仕様のモノがあった。

一般的にI/V変換は、反転アンプで行う。
それも入力抵抗を省いた反転アンプである。
I/V変換というくらいなので、この回路は電圧増幅である。

ワディアのPower DACはこのI/V変換を、いわばI/W変換といえる回路構成にしている。
Iは電流、Wは電力となる。

こうすることでデジタルだけの再生であればシステム全体の構成を簡略化できる。
ずいぶんな簡略化である。

ただこのままではレベルコントロールができないため、
デジタル信号処理によるレベルコントロールを行う必要があり、そのための回路もいる。

とはいえ、システム全体の簡略化ははかれる。
そうすれば、ミニマムなシステム展開をワディアはやろうと思えばやれた。

だがワディアは、それを目指していたように感じられない。
別項で書いているLINNがEXAKTで提示してきたところを、ワディアも目指していたのではない。

いまのワディアに関してはわからないが、
少なくともPower DACを開発していたころのワディアは、
LINNとは違うところをPower DACで目指していたはずだ。

Date: 1月 24th, 2015
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その9)

ずっと以前からの私にとっての課題であり、
このブログを始めてからは、よりはっきりとさせなければと考えている課題が、
私自身は、何によってどう影響されてきたのか、である。

オーディオに関することで、何かに対してある考えを持つ。
その考えは、これまでのどういうことに影響されて導き出されてきたのか。

そのことが、こうやって書いていると、以前にもましてはっきりさせたいと思うようになってくる。

それをはっきりさせる意味もあって、私はたびたび引用している。

世の中には、すべて自分自身の独自の考えだ、みたいな顏をしている人がいる。
彼は、誰の影響も受けなかったようにふるまう。
ほんとうにそうであれば、それはそれでいい。
けれど、ほんとうに誰の影響も受けていない、と言い切れるのか。

その精神に疑問を抱く。
私はいろんな人の影響を受けている。
それを明らかにしていくよう努めている。

誰の影響も受けずに、これは自分自身の考えだ、みたいな書き方をしようと思えば、たやすくできる。
でも、それだけは絶対にしたくない。
それは恥知らずではないか、と思うからだ。

誰とはいわない、どの文章がとはいわない。
オーディオ雑誌に書かれたものを読んでいると、
これはずっと以前に、あの人が書いていたこと、と気づく。

それをどうして、この人はさも自分自身の考えのように書いているのだろうか、とも思う。

もちろん、その人は以前に書かれていたことを知らずに書いている可能性はある。
けれど、その人はオーディオ雑誌に原稿料をもらって書いている、
いわばプロの書き手である。アマチュアではない。

アマチュアであれば、そのことにとやかくいわない。
だがプロの書き手であれば、少なくとも自分が書いているオーディオ雑誌のバックナンバーすべてに、
目を通して、誰がどのようなことを書いているのかについて把握しておくべきである。

人は知らず知らずのうちに誰かの影響を受けている。
そのことを自覚せずに書いていくことだけはしたくない。

Date: 1月 24th, 2015
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その8)

そんな違いはどうでもいいじゃないか、と思われるようと、
私がここにこだわるのは、
私にとっての最初のステレオサウンドが41号と「コンポーネントステレオの世界 ’77」ということが関係している。

41号の特集は世界の一流品だった。
スピーカーシステム、アンプ、アナログプレーヤー、テープデッキなど紹介されている。
オーディオに関心をもち始めたばかりの中学生の私にとって、
世の中には、こういうオーディオ機器があるのか、と読んでいた。

いわば41号は、現ステレオサウンド編集長がいうところの、
《素晴らしい音楽を理想の音で奏でたい、演奏家の魂が聴こえるオーディオ製品を世に広く知らせたい》
という編集方針の一冊ともいえる。

「コンポーネントのステレオの ’77」は巻頭に、
黒田先生の「風見鶏の示す道を」があることがはっきりと示すように、
これは《素晴らしい音楽を理想の音で奏でたい、演奏家の魂が聴こえるオーディオ製品を世に広く知らせたい》
という編集方針の一冊ではなく、
はっきりと《「聴」の世界をひらく眼による水先案内》の編集方針の一冊である。

私はたまたまではあるが、同じようにみえて実のところ違う編集方針のステレオサウンドを手にしたことになる。
38年前、私が熱心に読みふけったのは「コンポーネントステレオの世界 ’77」だった。

Date: 1月 24th, 2015
Cate: オーディオ入門

オーディオ入門・考(問と聞のあいだに)

入門の門(もんがまえ)に口がつくと問、耳がつくと聞になる。

ここでの口と耳はひとりの人物の口と耳ではないはず。
ある人の口から問いが発せられる。
それを別の誰かの耳が受けとめる(聞く)。

ならば問と聞のあいだにあるのは、音である。
門(もんがまえ)と音で、闇になる。

問・闇・聞なのか。

Date: 1月 23rd, 2015
Cate: スピーカーとのつきあい

複数のスピーカーシステムを鳴らすということ(その21)

私は早い時期からスピーカーを擬人化してとらえていた。
ステレオサウンドで働くようになってからのある一時期、あえて擬人化しない捉え方を意識的にするようにしていた。
そして、いまは、というと擬人化して捉えるようになっている。

とはいえ、その擬人化に変化がある。
役者として捉えるようになってきた。

役者には主役もいれば、いわば脇役とよばれる人もいる。
主役ばかりでは映画もドラマも成りたたない。
アカデミー賞には、主演男優賞、主演女優賞もあれば、助演男優賞、助演女優賞もある。

主役だけが映画・ドラマの中で光っているわけではない。
光っていても、主役の力だけではない。

スピーカーも同じだと最近思うようになってきた。
部屋にひとつのスピーカーシステム。
それが理想的な鳴らし方のように、昔は思っていた。
かなり長いこと、そう思ってきた。

けれど菅野先生のリスニングルームに行き、その音をきいたことのある人ならば、
あの空間に、都合三つのシステムがある。
どれも見事に鳴っている。

菅野先生の音を聴いていて、あのスピーカーがあそこになければ……、といったことは一度も思ったことがない。
私がスピーカーを擬人化の延長として役者として捉えるようになったのは、
菅野先生の音を聴いたからである。

Date: 1月 23rd, 2015
Cate: 単純(simple)

シンプルであるために(ミニマルなシステム・その11)

その9)で、Wadia 5とWadia 390 + Wadia 790のトランスの数を書いている。
気づかれている方もおいでであろうが、Wadia 5の二基、Wadia 790の五基は片チャンネルの数でしかない。
両チャンネルとなるとWadia 5は四基、Wadia 390 + Wadia 790は十一基となる。

単体のD/Aコンバーターとパワーアンプ、あいだにフェーダーをいれて使うとしよう。
このときのトランスの数はいくつになるか。
パワーアンプがモノーラルであれば、最低で三基である。

D/Aコンバーターが、デジタル部とアナログ部の電源回路を電源トランスからわけたとして、計四基。
Wadia 390 + Wadia 790の十一基という数は、
オーディオマニアとしては、そこまで徹底して分離してくれた、と嬉しくもなるが、一方で疑問も生じてくる。

そこまで電源トランスをわけるくらいなら、筐体を分けた方がずっとスマートに思える。
ワディアのPower DACはD/Aコンバーター内蔵のパワーアンプなのか。
ワディアはD/Aコンバーターをつくりたかったのか。

Power DACというコンセプトはWadia 5もWadia 390 + Wadia 790も同じである。
けれど何かが決定的に違っているようにも感じる。
そのことが、Wadia 5にミニマルな印象を受け、
Wadia 390 + Wadia 790にはミニマルという印象はほとんど受けないことにつながっているのではないか。

ステレオサウンド 133号の三浦孝仁氏の記事を読むと、
ワディアの創設者であるドン・ワディア・モーゼスが数年前に健康上の理由からワディアデジタルを去った、とある。
古参のエンジニアもほとんどいない、ともある。

この数年前がいつなのかは書いてない。
なのでてっきりWadia 5の開発は創設者が関わっていて、
Wadia 390 + Wadia 790には関わっていないのではないか、とさえ思った。

けれど三浦孝仁氏によるステレオサウンド 99号のワディア訪問記を読むと、すでに引退したとある。
そうなると開発者が入れ替わったから、Wadia 5からWadia 390 + Wadia 790への変化があった、といえない。

Date: 1月 22nd, 2015
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その7)

編集方針が変っていくのが悪いとはいわない。
ステレオサウンドが創刊された1966年と2015年の現在とでは、大きく変化しているところがあるのだから、
オーディオ雑誌の編集方針も変えてゆくべきところは変えてしかるべきではある。

私がいいたいのは、変っているにもかかわらず、創刊以来変らぬ、とあるからだ。
そのことがたいしたことでなければ、あえて書かない。

だが編集方針は、少なくとも活字となって読者に示されたところにおいては、変ってきている。
その変化によって、オーディオ評論家の役目も変ってきている。

《「聴」の世界をひらく眼による水先案内》としてのオーディオ評論家と、
《素晴らしい音楽を理想の音で奏でたい、
演奏家の魂が聴こえるオーディオ製品を世に広く知らせたい》ためのオーディオ評論家、
私には、このふたつは同じとはどうしても受けとられない、やはり違うと判断する。

現ステレオサウンド編集長の2013年の新年の挨拶をそのまま受けとめれば、
どちらもオーディオ評論家も同じということになる。

オーディオ評論家は読者の代表なのか、について考えるときに、
同じとするか違うとするかはささいなことではない、むしろ重要なことである。

Date: 1月 22nd, 2015
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その6)

ステレオサウンド 2号の表2の文章は原田勲氏が書かれたものだとしよう。
ほかの人による可能性は低い。

この文章の最後に、
《本誌が「聴」の世界をひらく
眼による水先案内となれば幸いです》
とある。

本誌とはいうまでもなくステレオサウンドのことである。
つまりステレオサウンドが眼による水先案内となることを、
ステレオサウンドを創刊した原田勲氏は、このとき考えていた(目指していた)ことになる。

ステレオサウンド 2号の表2にこう書いてあるのだから、
これがステレオサウンド創刊時の編集方針といっていい。

水先案内とは、目的地に導くことである。

2013年の、ステレオサウンド編集長の新年の挨拶にあった
《素晴らしい音楽を理想の音で奏でたい、演奏家の魂が聴こえるオーディオ製品を世に広く知らせたい》
という編集方針と、
《「聴」の世界をひらく眼による水先案内となれば幸い》という編集方針は、果して同じことなのだろうか。

何も大きくズレているわけではないが、同じとは私には思えない。

けれど現ステレオサウンド編集長は、創刊以来変らぬ編集方針として、
《素晴らしい音楽を理想の音で奏でたい、演奏家の魂が聴こえるオーディオ製品を世に広く知らせたい》
と書いている。

微妙に変ってきているとしか思えない。

Date: 1月 22nd, 2015
Cate: 新製品

新製品(Nutube・その1)

今年も数多くの新製品が登場することであろう。
驚くような新製品もあってほしい、と期待している。

でも今年の新製品で、これほど昂奮するモノは出ないかもしれない。
Nutube(ニューチューブ)という真空管、
それも音響機器用真空管の新製品が登場する。

ノリタケとコルグの共同開発で、
ノリタケの子会社であるノリタケ伊勢電子が製造する蛍光表示管の技術を応用したもので、
小型化、それにともなう省電力化を実現したもの、とのこと。

どういう特性なのか、詳しい技術資料はまだ発表されていない。
アンペックスのオープンリールデッキMR70に採用されたニュービスタに近いモノなのだろうか。
ニュービスタはRCAがミサイル用に開発した真空管である。

今年中にはコルグからNutube搭載の機器が出るとのこと。
となると他メーカーからも出てくるのであろうか。
今年は無理でも来年あたりには、Nutube採用のアンプが登場してきても不思議ではない。

Nutubeそのものの市販も期待している。

Date: 1月 22nd, 2015
Cate: 単純(simple)

シンプルであるために(ミニマルなシステム・その10)

ノイズ対策を徹底化することは、現代オーディオ機器の必須条件ともいえる。
内部、外部両方からのノイズに対して、どう対処するのか。

完全にノイズを遮断することは、オーディオ機器だけでは不可能である。
ゆえにノイズを遮断しながらも、それでも混入してくるノイズを除去するとともに、
あるレベルではノイズとうまく共存していく方法をさぐっていく必要もある。

Wadia 790の筐体内にある五基のトランスは、
ステレオサウンド 133号の三浦孝仁氏の解説が正しければ、
コントロール系、D/Aコンバーターのデジタル部、D/Aコンバーターのアナログ部、
ドライバー段、出力段で電源トランスは独立していて、八基のチョークコイルも採用されている。

三浦孝仁氏の解説では、チョークインプットコイルとなっている。
これは技術的にはおかしな表現である。
チョークコイルを採用した電源方式には、
コンデンサーインプットとチョークインプットのふたつがある。

チョークインプットコイルと書いてしまうと、
部品の名称と平滑方式の名称をいっしょくたにしてしまっている。

それから三浦孝仁氏は「PA85というAPHEX社製のディバイス」と書かれているが、
APHEXではなくAPEXである。

おそらくワディアの当時の輸入元であったアクシスからの資料をそのまま引用されたためであろう。
話がそれてしまうが、ステレオサウンド 133号の奥付をみると、
編集長、編集デスクをふくめて、編集者は五人いる。
誰も、この間違いに気がつかなかったのだろうか。
輸入元の資料だから、と鵜呑みにしてしまったいたのだろうか。

APHEXかAPEXかは、調べればすぐにわかることである。
133号は1999年12月発行で、いまほどインターネットが普及していないとはいえ、
技術に多少なりとも詳しい人が編集部にひとりいれば、わかったことである。

ステレオサウンドは100号で、Wadia 5の見出しに、
ワディアが放つエポックメイキングな新カテゴリー、
と書いている。

ステレオサウンドのワディアのPower DACへの監視の高さは、133号の記事でもうかがえる。
だから十分なページ数を確保しての記事となっているにも関わらず、細部の詰めがあまさがどうしても気になる。

Date: 1月 21st, 2015
Cate: オーディオの「美」

オーディオの「美」(美の淵)

絶望の淵とか死の淵などという。
絶望の淵に追いやられる、死の淵に立たされる、ともいう。

幸いなことに、私はまだ死の淵、絶望の淵に立たされたり追いつめられてはいない。

オーディオは美の淵なのだろうか、とふと思った。

よくオーディオは泥沼だ、といわれる。
いまもそうなのかはよく知らないが、昔はよくいわれていたし書かれてもいた。
その泥沼に喜んで身を沈めていくのがオーディオマニアである、とも。

この項へのコメントを、川崎先生からfacebookにいただいた。
「オーディオの美ではなく、オーディオはすでに美であるべき!」とあった。

オーディオは美であるべきなのに、それを泥沼とも表現する。
泥沼は泥沼である。もがけばもがくなど深みにはまっていく。そして抜け出せなくなる。

けれど、この泥沼はオーディオマニアと自認する人、まわりからそう呼ばれる人にとっては、
案外と居心地のよいところもあるのかもしれない。

でも、それでも泥沼は泥沼である……。

こんなことを考えていた。
そして、この泥沼の淵は美の淵なのだろうか、とも考えた。

いまのところは、美の淵という言葉を思いついただけである。
この美の淵に、オーディオは聴き手を導いてくれるのか。

なにもはっきりとしたことは、まだ書けずにいる。
それでも、美の淵について考えていこう、と思っている。

Date: 1月 21st, 2015
Cate: 公理

オーディオの公理(その4)

ラックスのLX38はプリメインアンプということもあって、外側から真空管は見えない。
よく真空管のヒーターの灯っているのがあたたかみを感じさせてくれる、というが、
SQ38FD/II、LX38にはそのことはあてはまらない。

何も知らない人にとっては、SQ38FD/IIもLX38も真空管アンプとは見えないといえる。
同じように、このころのラックスのコントロールアンプCL32は、
当時としては真空管アンプとは思えない薄さ(7.7cm)だった。

CL32はその外観からもわかるように、懐古趣味的な真空管アンプとしてではなく、
新しい時代のラックスの真空管アンプとして開発されたものであった。

そのCL32の音については、どう評価されていたのか。
私のもうひとつのブログ、the re:View (in the past)をお読みいただきたい。

井上先生、菅野先生、岩崎先生、瀬川先生の評価が読めるわけだが、
みなCL32の音に真空管アンプならではの音の特徴を認められているのがわかる。

CL32はLX38よりも、もっと真空管アンプであることを視覚的な印象からは感じさせないにも関わらず、
しかもLX38はSQ38シリーズの最新モデルという、ある種のしがらみのようなものは、CL32にはなく、
まったくの新製品であるにも関わらず、よくいわれる真空管アンプの良さを持っている(残している)。

LX38の次に私が聴いた真空管アンプは、マイケルソン&オースチンのパワーアンプTVA1である。

Date: 1月 21st, 2015
Cate: 公理

オーディオの公理(その3)

私が初めて聴いた真空管アンプも、ラックスのアンプだった。
SQ38FD/IIの次期モデルであったLX38で、
瀬川先生が定期的に来られていた熊本のオーディオ店でのイベントにおいてである。

他にはトランジスターアンプがあった。
何機種あったのかはもうおぼえていないけれど、LX38だけが真空管アンプだった。

トランジスターか真空管という違いよりも、
アンプメーカーによる音の違いが大きいといえばそうなるし、
真空管アンプすべてに共通する音の特質はあるようでいてないような、
そんなはっきりとしないことがあるのはわかっていても、
LX38の音はSQ38FD/IIの後継機であることもあってか、
やはりあたたかい、とか、やわらかい、といわれる類の音ではあった。

この時、瀬川先生が聴きたいモノのリクエストはありませんか、といわれたので、
スペンドールのBCIIとLX38、それにカートリッジはピカリングのXUV/4500Qの組合せで鳴らしてもらった。

この時の音については以前書いているけれど、
われながら、いい組合せだったと思う。
瀬川先生からも「これは玄人の組合せだ」といわれて、嬉しくなったことははっりきと憶えている。

私がお願いしたレコードをかけ終って、「これはいいなぁ」といわれて、
自分で聴きたいレコードをかけられたほどだった。

スペンドールのBCIIの音にもどこかピントの甘いところがある。
LX38の音にもそういうところがある。
だからBCIIの良さをLX38は、うまく抽き出してくれたのだが、
カートリッジにまで同じようにピントの甘い音のものをもってきたら、
おそらく聴くにたえなかった、と思う。

XUV/4500Qには、そういうところはなかった。

これが私にとっての初めての真空管アンプのアンプということなのだから、ことさら印象に残っている。
たしかにLX38の音は、一般的にいわれているような真空管アンプらしい音であった。