Archive for category テーマ

Date: 9月 22nd, 2015
Cate: background...

background…(ポール・モーリアとDitton 66・その1)

ポール・モーリアの音楽はイージーリスニングとして捉えられることがもっぱらだ。
だからといってポール・モーリアの音楽が、
常に、誰にとってもイージーリスニングな音楽であるわけではない。

たとえばセレッションのDitton 66というスピーカーシステムがある。
トールボーイのフロアー型で、30cm口径のウーファーに同口径のABR(パッシヴラジエーター)、
スコーカーは5cm口径、トゥイーターは2.5cm口径のドーム型の3ウェイである。

瀬川先生は、このスピーカーシステムを高く評価されていた。
ステレオサウンド 43号(ベストバイ)では、こう書かれている。
     *
 仕事先に常備してあるので聴く機会が多いが、聴けば聴くほど惚れ込んでいる。はじめのうちはオペラやシンフォニーのスケール感や響きの自然さに最も長所を発揮すると感じていたが、最近ではポピュラーやロックまでも含めて、本来の性格である穏やかで素直な響きが好みに合いさえすれば、音楽の種類を限定する必要なく、くつろいだ気分で楽しませてくれる優秀なスピーカーだという実感を次第に強めている。
     *
Ditton 66は44号の「フロアー型中心の最新スピーカーシステム」にも登場している。
ここでも瀬川先生の評価はそうとうに高い。
     *
 柔らかく暖かい、適度に重厚で渋い気品のある上質の肌ざわりが素晴らしい。今回用意したレコードの中でも再生の難しいブラームス(P協)でも、いかにも良いホールでよく響き溶け合う斉奏(トゥッティ)の音のバランスも厚みも雰囲気も、これほどみごとに聴かせたスピーカーは今回の30機種中の第一位(ベストワン)だ。ベートーヴェンのセプテットでは、たとえばクラリネットに明らかに生きた人間の暖かく湿った息が吹き込まれるのが聴きとれる、というよりは演奏者たちの弾みのついた気持までがこちらに伝わってくるようだ。F=ディスカウのシューマンでも、声の裏にかすかに尾を引いてゆくホールトーンの微妙な色あいさえ聴きとれ、歌い手のエクスプレッション、というよりもエモーションが伝わってくる。バルバラのシャンソンでも、このレコードのしっとりした雰囲気(プレゼンス)をここまで聴かせたスピーカーはほかにない。こうした柔らかさを持ちながら〝SIDE BY SIDE〟でのベーゼンドルファーの重厚な艶や高域のタッチも、決してふやけずに出てくるし、何よりも奏者のスウィンギングな心持ちが再現されて聴き手を楽しい気持に誘う。シェフィールドのパーカッションも、カートリッジを4000DIIIにすると、鮮烈さこそないが決して力の弱くない、しかしメカニックでない人間の作り出す音楽がきこえてくる。床にじかに、背面を壁に近づけ気味に、左右に広く拡げる置き方がよかった。
     *
Ditton 66は1977年当時、一本178000円のスピーカーシステムであり、
瀬川先生の評価はある程度価格を考慮してのものであるにしても、
非常に好ましいスピーカーであることが読みとれる。

43号、44号の瀬川先生の文章を読んで数年後、Ditton 66の音を聴いた。
たしかに、そのとおりの音だった。
私はいいスピーカーだと思う。
いまも程度のいいモノがあれば、それに置き場所が確保できれば手もとにおきたいスピーカーである。

けれどDitton 66は聴き手側の聴き方が変れば、その評価もかなり変ってくる。
44号では岡先生も試聴に参加されている。

Date: 9月 21st, 2015
Cate: オーディオ評論, 五味康祐, 瀬川冬樹

オーディオ評論家の「役目」、そして「役割」(続々続・おもい、について)

日本のオーディオ界を毒する方向へともってゆく人は、
おそらく自分自身が、そういう方向へともってゆこうとしているとは気づいていないのかもしれない。
それだけではなく、自分自身が毒されたということを自覚していないのかもしれない。

そういう人たちでさえ、オーディオ界で仕事をするようになったときから、
日本のオーディオ界を毒する方向へともってゆこうと考えたり、行動していたわけではなかったはずだ。

なのにいつしか毒されてしまう。
いつのまにかであるから、なかなか毒されたことに自覚がなく、
自覚がないままだから、日本のオーディオ界を毒する方向へともってゆこうとしている──。

そんな人たちばかりでないことはわかっている。
わかっていても、そんな人たちの方が目立っている。
ゆえにそんな人たちの周囲にいる人は、どうしても毒されてしまう環境にいるといえよう。

それで毒される人、毒されない人がいる。
そんな人も、自分が周囲の人を毒する方向へともってゆこうとしているとは、
露ほどにも思っていないのではないだろうか。

こういうことを書いている私自身は、どうなのだろうか……。

Date: 9月 20th, 2015
Cate: オーディオ評論, 五味康祐, 瀬川冬樹

オーディオ評論家の「役目」、そして「役割」(続々・おもい、について)

ステレオサウンド 16号(1970年9月発売)、
巻頭には五味オーディオ巡礼がある。
副題として、オーディオ評論家の音、とついている。

山中敬三、菅野沖彦、瀬川冬樹、三氏の音を聴かれての「オーディオ巡礼」である。

瀬川先生のところに、五味先生は書かれている。
     *
 でも、私はこの訪問でいよいよ瀬川氏が好きになった。この人をオーディオ界で育てねばならないと思った。日本のオーディオを彼なら毒する方向へはもってゆかないだろう。貴重な人材の一人だろう。
     *
「毒する方向へはもってゆかない」。
これは、日本のオーディオを毒する方向へともってゆく人が現実にいる、ということのはずだ。

「貴重な人材の一人だろう」。
日本のオーディオ界を毒する方向へともってゆかない人よりも、
日本のオーディオ界を毒する方向へともってゆく人の数が多いということなのだろう。

Date: 9月 20th, 2015
Cate: 対称性

対称性(その5)

別項でも書いたようにEMT930st、927Dstのメインプラッターは車のホイールのようである。

ではB&OのBeogramシリーズのプラッターは? というと、
私の場合、頭に浮ぶのは時計である。

若い人は知らないだろうが、
アナログディスク全盛時代、オーディオ店にB&Oの時計が壁にかかっているところがいくつかあった。
広告にも出ていたはずだ。

Beogramシリーズのターンテーブルプラッター、
放射状にラインが入っている、あのプラッターを文字盤とした壁掛け時計が、当時はあった。
私にとって、欲しい、と思った最初の時計だった。

時計で回転するのは長針と短針であり、文字盤が回転するわけではない。
文字盤は動かない。
一方ターンテーブルプラッターは回転するからこそ、ターンテーブルであり、その仕事を果す。
動かないターンテーブルプラッターは機能していない。

だからEMTのターンテーブルプラッターで車のホイールをイメージするのであれば、
Beogramのターンテーブルプラッターでイメージすべきは、
別の回転体であるべきなのかもしれないと思っていても、
Beogramのプラッターと時計とを、どうしても切り離すことはできないでいる。

Date: 9月 19th, 2015
Cate: 対称性

対称性(その4)

EMTの927DstとB&OのBeogram 4002。

EMTのアナログプレーヤーは、スタジオでの使用を考えてのアナログプレーヤーである。
もっといえばスタジオでの使用のみを考えて設計されたアナログプレーヤーである。

ここでいうスタジオとは放送局のスタジオでもあるし、
レコード会社の録音スタジオでもある。
そういう場で使われるEMTのプレーヤーは扱うのは、それぞれのプロフェッショナルであり、
その意味でもEMTのプレーヤーは、プロフェッショナル用である。

B&Oは、まるで違う。
そういったスタジオでの使用はまったく想定されていない。
家庭で使うアナログプレーヤーであり、
Beogram 4002のデザイナーのヤコブ・イエンセンは、
「モダン・テクノロジーは、人間の幸せのために奉仕すべきものだ」という。
(ステレオサウンド 49号「デンマークB&O社を訪ねて」より)

さらに「オーディオ機器は、トータル・ライフの中で、音楽を楽しむという目的で存在しているはずだ」ともいう。

Beogram 4002だけではない、
レシーバーのBeocenterシリーズも、まさしくイエンセンのことば(主張)が、
それに振れることではっきりと理解できる。

B&Oのアナログプレーヤー(他の製品も含めて)、完全なコンシューマー用である。

EMTのアナログプレーヤー(930st、927Dst)には、モダン・テクノロジーはそこからは感じとれない。
人間の幸せのために奉仕すべき機器として開発されたモノとも思えない。
ましてトータル・ライフの中で音楽を楽しむという目的で存在しているわけではない。

そういうふたつのアナログプレーヤーが、
瀬川先生の著書「続コンポーネントステレオのすすめ」の221ページでは上下に並べて掲載されている。

編集部にどういう意図があったのは不明だが、実に示唆に富む一ページだと思う。

Date: 9月 17th, 2015
Cate: audio wednesday

第57回audio sharing例会のお知らせ

10月のaudio sharing例会は、7日(水曜日)です。

テーマはまだ決めていません。
時間はこれまでと同じ、夜7時です。

場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 9月 16th, 2015
Cate: High Resolution

Hi-Resについて(ソニー・クラシカルの場合)

9月11日にグレン・グールドの81枚組CDボックスが発売になった。
10月30日には、この81枚組ボックスからインタヴュー音源を省いたものが、USBメモリーで発売になる。
ソニーのサイトによれば、USBメモリー版はハイレゾ 24bit/96kHz FLACと書いてある。

おおっ、と誰もが思うことだろう。
だがこのサイトからリンクされている販売サイト(amazon、HMV、タワーレコードなど)をみると、
24bit/44.1kHz FLACとある。サンプリング周波数に違いがある。
ビット数が増えているから、これでもハイレゾ音源と呼べるわけだが、
なんとも出し惜しみ感たっぷりの中途半端なハイレゾという感じがつきまとう。

それにしてもどちらが本当なのだろうか。
ソニーは制作元である。しかもニュースリリースの日付は9月11日になっている。
けれどディスクユニオンのサイトをみると、
当初24bit/96kHzとお知らせしておりましたが、その後制作元より24bit/44.1kHzに訂正されました、と書いてある。

グレン・グールドのサイトにも、24bit/44.1kHzとある。

やはり24bit/44.1kHzなのだろうか。
そうなると制作元のソニーでは、古い情報をいまだ変更せずにいることになる。
そんなことがあるのだろうか。

もしかするとまた変更になり、当初のリリース通りに24bit/96kHzで出るのかもしれない。
可能性としてはかなり低いと思うけれど……。

Date: 9月 13th, 2015
Cate: 新製品

新製品(その15)

新製品の登場には、期待して、わくわくしてしまうのだろうか。

先日、Appleから新しいiPhoneとiPadの発表があった。
毎年、この時季には新しいiPhoneが発表されるのが恒例になっているし、
これまでの変遷から型番がどうなるのかは誰にでもわかることである。
しかも、インターネットでは新しいiPhoneが出てしばらくする来年のiPhoneについての予測記事が出る。
発表間近になると、かなり正確な情報が、どこから漏れてくる。
それでだいたいの予想はつくし、大きく外れることはない。

それでも新しいiPhoneの発表には、わくわくするところがまだある。
いったい新製品に、何を期待しているのだろうか。

1979年のオンキョーの広告がある。
チューナーのIntegra T419の広告である。

そこにはこう書いてあった。
     *
新製品というよりは
〝新性能の登場〟がよりふさわしい。
     *
この広告を見て、感心した。
新製品とはいったい何か、のある一面を見事に言い表している、と思ったからだ。

新製品の登場は、新性能の登場である。
たまには旧性能の登場といえるモノもないわけではないが、
基本的には、新製品は新性能の登場である。

オーディオマニアが新製品にわくわくしてしまうのは、
それが新製品だから、ということと同じくらい、もしくはそれ以上に、
その製品がどれだけの新性能を持っているのかに期待しているから、ともいえよう。

オーディオ機器の場合「新性能」とは、物理的な性能だけではない。
その製品が聴かせてくれる「音」もまた性能である。大事な性能である。

そして新製品の登場は、新性能の登場だけではない。
iPhoneがそうであるように、新機能の登場の場合もある。

それまでの製品にはなかった機能を搭載しての新製品(オーディオ機器)は、これまでにもいくつもあった。
目立つ新機能もあれば地味な新機能もあった。
消えてしまった機能もあれば、生き残り進歩している機能もある。

オンキョーの広告を見て以来、
新性能と新機能の登場ということは、わりとすぐに考えていた。

けれど新製品は、新性能と新機能の登場だけではないことに、
かなり経ってから気づかされた。

川崎先生の「機能性・性能性・効能性」をきいたことによって、気づいた。

Date: 9月 12th, 2015
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(ヤマハのA1・その3)

ステレオサウンド 44号のヤマハの広告は8ページ続く。
このカラー8ページの広告で紹介されているのは、
スピーカーシステムがNS100M、NS10M、FX1、
コントロールアンプのC2、パワーアンプのB2、B3、
プリメインアンプがCA2000、A1、CA-G1、
チューナーはCT7000、T1、T2、CT-G1、
アナログプレーヤーはYP-D10と YP-D9、それにリニアトラッキングアーム搭載のPX1、
その他にヘッドフォンのHP1000、カセットデッキのTC1000の19機種である。

この19機種の型番は、新製品は赤、従来のからの製品は黒で区分けされている。
それぞれの製品の写真はそれほと大きくなく、余白の多いレイアウトで、
それぞれに製品解説文がつく。

ヤマハはGlobal&Luxurious groupとEssential&Fidelity groupとに分けて、
新製品を登場させる、と広告の冒頭で謳っている。

ただ44号の広告を見るかぎりでは、どの製品がGlobal&Luxurious groupなのか、
Essential&Fidelity groupに属するのはどの製品なのかは、はっきりとしない。

その2)でも引用しているように、
ヤマハにとってFidelityとLuxuryは製品を不可分に支えるスピリットであり、
一本の線で明確に分類するといったことは不可能なことではあっても、
そのいずれかをさらに意識的にアクセントして行こうかという発想、とある。

つまりFidelityかLuxuryのどちらにアクセントがおかれた製品なのか。
そういう視点で見れば、プリメインアンプでいえばCA2000はGlobal&Luxurious groupとなり、
この時の新製品であるA1はEssential&Fidelity groupということになる。

チューナーでいえばCT7000はGlobal&Luxurious group、T1はEssential&Fidelity group、
アナログプレーヤーのPX1はEssential&Fidelity groupで、
YP-D10、YP-D9はGlobal&Luxurious groupというところか。

スピーカーシステムはどうだろうか。
NS1000MとFX1はEssential&Fidelity groupといえるが、
NS10Mはどちらになるのだろうか。

型番の末尾にMonitorの「M」がついているし、エンクロージュアの仕上げもNS1000Mと同じ黒塗装、
Fidelityにアクセントが置かれているけれど、
Global&Luxurious groupでもよそうな気も捨てきれない。

セパレートアンプは、プリメインアンプよりも形態的にも忠実度を追求しているわけだから、
必然的にEssential&Fidelity groupということになるわけだが、
B3を見ていると、そのアクセントはどちらなのか迷ってしまう。

ヤマハのセパレートアンプとしてすでに知られていたBI、B2とははっきりと形態が違う。
B3と同様の形態のパワーアンプは、それ以降登場していないことも考え合わせると、
どうもGlobal&Luxurious groupの新製品として見えてくる。

Date: 9月 9th, 2015
Cate: ディスク/ブック

Children of Sanchez(その2)

黒田先生は「サンチェスの子供たち」でもっともよく聴くのは、
第一面第一曲の「サンチェスの子供たち序曲」と第二面第三曲の「コンスエロの愛のテーマ」と書かれている。

「サンチェスの子供たち序曲」は14分07秒かけて演奏される。
どんな曲か。
     *
「サンチェスの子供たち序曲」は、ギターを伴奏に、ドン・ポッターがスパニッシュ・フレイヴァーのメロディーをうたって、開始される。そこでうたわれる、チャック・マンジョーネの書いたヒューマニスティックな詩がまた、じつにすばらしい。ドン・ポッターがうたい終ると、打楽器群がリズムをきざみはじめ、ブラスが鋭くつっこんでくる。少し音量をあげめにしてきいていると、そこは、オーディオ的にもまことにスリリングだ。音楽のつくりは決して複雑ではないが、この音楽は、音楽の性格として、細部まで鮮明にききとれた方がはるかに音楽的たのしみが大きくなるものだ。
     *
瀬川先生による試聴会で「サンチェスの子供たち」がかけられたときも、
やはり「サンチェスの子供たち序曲」だった。

この曲をかけられる前に簡単な説明があった。
黒田先生が書かれていることは同じことだった。
だから初めて聴く曲とはいえ、
ギター伴奏の歌が終ればドラムが鳴り出すことはわかっていた。
そしてブラスも加わる。

《オーディオ的にもまことにスリリングだ》と書かれているように、
ほんとうにそうだった。
この部分がそういうスリリングなところだと文章で知ってはいても、
実際に鳴ってきた音は、ほんとうにスリリングだった。

ドン・ポッターが歌う。
 Without dreams of hope and pride s man will die
 Though his flesh still moves his heart sleep in the grave
 Without land man never dreams cause he’s not free
 All men need a place to live with dignity

 Take the crumbs from starving soldiers, they won’t die
 Lord said not by bread alone does man survive
 Take the food from hungry children, they won’t cry
 Food alone won’t ease the hunger in their eyes

 Every Child belongs to man kind’s family
 Children are the fruit of all humanity
 Let them feel the love of all the human race
 Touch them with the warmth, the strength of that embrace

 Give me love and understanding, I will thrive
 As my children grow my dreams come alive
 Those who hear the cries of children, God will bless
 I will always hear the children of sanchez

黒田先生は《わざわざ日本語におきかえることもないと思うので》、そのまま書き写されている。
辞書をひきながら意味を知ろうとした。
     *
このヒューマンな内容の詩と、その音楽と、目を閉じて、キリストのような髭をたくわえた顔をほころばせているチャック・マンジョーネの表情とが、もののみごとに一致している。その詩も、その音楽も、その表情も、大好きだ。大好きだから、うたわれる詩にじっと耳をかたむける。演奏される音楽をせいいっぱいききたいと思う。ジャケットに印刷されているチャック・マンジョーネの表情に目をこらす。むろん、再生装置が不充分だと、そのレコードにおさめられている音楽が十全にたのしめないというわけではない。ただ、ききては、もっとききたいと思う。さらに、よりいっそう、もっとききたいと思う。大好きな音楽だからだ。そこではじめて、音楽をきくための「道具」である再生装置が、関与する。
     *
ここに書かれていることは、すこしも大袈裟ではない。
「サンチェスの子供たち」を聴いたあと、
あらためて黒田先生の《「サンチェスの子供たち」を愛す》を読んだものだ。

瀬川先生の試聴会のあとに「サンチェスの子供たち」を買った。
輸入盤を買った。

Date: 9月 9th, 2015
Cate: ディスク/ブック

Children of Sanchez(その1)

チャック・マンジョーネの「サンチェスの子供たち」の存在を知ったのは、ステレオサウンドだった。
ステレオサウンド 49号での、黒田先生の《「サンチェスの子供たち」を愛す》を読んで、だった。

こんな書き出しではじまっている。
     *
 なにかというとそのレコードをきく。今日はたのしいことがあったからといってはきき、なんとなくむしゃくしゃするからといってはきき、久しぶりに友人がたずねてきてくれたからといってはきき、つまりしじゅう、のべつまくなしにきくレコードがある。そういうレコードは棚にしまったりしないで、いつでもすぐかけられるように、そばにたてかけておく。そうなるともう、そのレコードにおさめられている音楽を、音楽としてきいているのかどうか、さだかでない。
 もしかすると、ききてとして、多少気持のわるいいい方になるが、そのレコードできける音楽に恋をしてしまっているのかもしれない。さしずめコイワズライ、熱病のような状態だ。若い恋人たちが、さしたる用事があるわけでもないのに、愛する人に会おうとするのに、似ている。きいていれば、それだけで仕合せになれる。
     *
黒田先生にとって1978年後半の、
そういうレコードがチャック・マンジョーネの「サンチェスの子供たち」だった。

「サンチェスの子供たち」は同タイトルの映画用の音楽であり、
いわゆるサウンドトラック盤である。

黒田先生は、
《今のチャック・マンジョーネがいい。今のチャック・マンジョーネにあっては、ともかく、自分のいいたいことと、それをいうべきわざとのバランスがとれている。どこにも無理がない。ひとことでいえば、のっている──ということになるのだろう。そして、そういう今のチャック・マンジョーネの頂点にあるのが、まちがいなく「サンチェスの子供たち」だ。》と書かれている。

いいレコードだ、ということが素直に伝わってくる。
でも、当時高校一年の私はすぐには買わなかった(買えなかった、ともいえる)。

「サンチェスの子供たち」は二枚組だった。
黒田先生は輸入盤で3600円だった、と書かれていた。

東京ではこの値段で買えたであろうが、
地方ではもう少し高かったように記憶しているし、まず輸入盤をおいている店も少なかった。

「サンチェスの子供たち」を聴いたのは、自分で買ったものではなかった。
熊本のオーディオ店が定期的に瀬川先生を招いての試聴会を行っていた。
そこで「サンチェスの子供たち」を聴いた。

Date: 9月 7th, 2015
Cate: 香・薫・馨

陰翳なき音色(その1)

カルロ・マリア・ジュリーニのブラームスの交響曲第二番は、
EMIからフィルハーモニア管弦楽団との録音が1960年、
ドイツ・グラモフォンからロスアンジェルスフィルハーモニーとのデジタル録音が1980年、
1991年にウィーン・フィルハーモニーとの録音が、ドイツ・グラモフォンからでている。

最初の録音から二度目の録音までは20年、
二度目の録音から三度目の録音までは11年と、約半分の短さである。

ウィーン・フィルハーモニーとの録音もいうまでもなくデジタル録音である。
ロスアンジェルスフィルハーモニーとの録音がアナログ録音であったのなら、
ジュリーニとしては短いといえる11年での再録音もわからないではない。

いまもレコード芸術では恒例の企画となっている名曲・名盤300選(500選)は、
私がレコード芸術を読みはじめた1980年代のはじめのころ始まった、と記憶している。

数号にわたりこの企画が特集記事として掲載され、
一冊のムックとして出版もされていた。

この企画で黒田先生がブラームスの第二番で、
ジュリーニのロスアンジェルス・フィルハーモニーとの盤を選ばれている、ときいた。

私が読んで記憶にあるのは、トスカニーニ、バルビローリ、フルトヴェングラーを選ばれているものだった。
だから私が熱心に読んで記憶しているのとは、違う年の企画での話なのだろう。

そこには、ロスアンジェルス・フィルハーモニーではなくウィーン・フィルハーモニーだったら……、
と思わなくもない、そんなことが書かれていた、とのこと。

黒田先生以外で、ジュリーニ/ロスアンジェルス・フィルハーモニーを選んでいる人たちは、
そんなことは書かれていなかった、つまりロスアンジェルス・フィルハーモニーへの不満はないことになる。

この話をしてくれた人は、黒田先生と同じ意見ではなく、他の人たちと同じで、
ロスアンジェルス・フィルハーモニーの演奏に、
黒田先生が感じられているであろう不満(もの足りなさか)はない、とのことだった。

私はジュリーニ/ロスアンジェルス・フィルハーモニーとのブラームスの二番に関しては、
黒田先生と同じ側である。

Date: 9月 5th, 2015
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(ふたつの絵から考える・その3)

ふたりの絵描きは、アンプにもたとえられよう。

マッキントッシュの真空管式パワーアンプ、MC3500とMC275。
このふたつのアンプのことを「五味オーディオ教室」を読んで知った。

MC3500は、 
《たっぷりと鳴る。音のすみずみまで容赦なく音を響かせている、そんな感じである。
絵で言えば、簇生する花の、花弁の一つひとつを、くっきり描いている。》
MC275は、
《必要な一つ二つは輪郭を鮮明に描くが、簇生する花は、簇生の美しさを出すためにぼかしてある、そんな具合だ。》

MC3500は、ここでの花が造花であれば、造花として忠実に描くことだろう。
《音のすみずみまで容赦なく音う響かせている》のだから。

MC275は、たとえ造花であっても《簇生の美しさを出す》、そんな鳴り方をしてくれることだろう。

このふたつのアンプは、ずいぶん前のこと。
いまのアンプの多くは、世の趨勢はMC3500の側にある。

どんな音であっても、些細な音であっても、
音のひとつひとつを大事にするのであれば、つまりおろそかにしないのが正しいのであれば、
MC3500はMC275よりも優秀なアンプということになる。

事実、優秀なアンプといえるだろうし、
そういう意味では、現代にはもっともっと優秀なアンプが存在している。

情報量が多くなることで、ときとして人は音を「聴こえる」としか感じなくなるのかもしれない。
もしくは「聴かされている」となるかもしれない。

音はきくものである。
スピーカーから出てくる「音」は、聴く対象である。
ならば「聴こえる」、「聴かされている」としか感じなくなる音は、正しいといえるのだろうか。

石井幹子氏の言葉」を読み返した。
かわさきひろこ氏の言葉」も読み返した。

Date: 9月 4th, 2015
Cate: オーディオマニア

つきあいの長い音(その15)

つきあいの長い音こそが、ハーモニーの陰翳を聴きとる耳をもたらすのかもしれない。

Date: 9月 4th, 2015
Cate: オーディオマニア

つきあいの長い音(その14)

つきあいの長い音は、ハーモニーの陰翳とでも言うほかない音のニュアンスを聴かせてくれようになる。