ハイ・フィデリティ再考(ふたつの絵から考える・その3)
ふたりの絵描きは、アンプにもたとえられよう。
マッキントッシュの真空管式パワーアンプ、MC3500とMC275。
このふたつのアンプのことを「五味オーディオ教室」を読んで知った。
MC3500は、
《たっぷりと鳴る。音のすみずみまで容赦なく音を響かせている、そんな感じである。
絵で言えば、簇生する花の、花弁の一つひとつを、くっきり描いている。》
MC275は、
《必要な一つ二つは輪郭を鮮明に描くが、簇生する花は、簇生の美しさを出すためにぼかしてある、そんな具合だ。》
MC3500は、ここでの花が造花であれば、造花として忠実に描くことだろう。
《音のすみずみまで容赦なく音う響かせている》のだから。
MC275は、たとえ造花であっても《簇生の美しさを出す》、そんな鳴り方をしてくれることだろう。
このふたつのアンプは、ずいぶん前のこと。
いまのアンプの多くは、世の趨勢はMC3500の側にある。
どんな音であっても、些細な音であっても、
音のひとつひとつを大事にするのであれば、つまりおろそかにしないのが正しいのであれば、
MC3500はMC275よりも優秀なアンプということになる。
事実、優秀なアンプといえるだろうし、
そういう意味では、現代にはもっともっと優秀なアンプが存在している。
情報量が多くなることで、ときとして人は音を「聴こえる」としか感じなくなるのかもしれない。
もしくは「聴かされている」となるかもしれない。
音はきくものである。
スピーカーから出てくる「音」は、聴く対象である。
ならば「聴こえる」、「聴かされている」としか感じなくなる音は、正しいといえるのだろうか。
「石井幹子氏の言葉」を読み返した。
「かわさきひろこ氏の言葉」も読み返した。