Archive for category テーマ

Date: 6月 19th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その43)

●瀬川冬樹
 ステート・オブ・ジ・アートという英語は、その道の専門家でも日本語にうまく訳せないということだから、私のように語学に弱い人間には、その意味するニュアンスが本当に正しく掴めているかどうか……。
 ただ、わりあいにはっきりしていることは、それぞれの分野での頂点に立つ最高クラスの製品であるということ。その意味では、すでに本誌41号(77年冬号)で特集した《世界の一流品》という意味あいに、かなり共通の部分がありそうだ。少なくとも、43号や47号での《ベストバイ》とは内容を異にする筈だ。
 そしてまた、それ以前の同種の製品にはみられなかった何らかの革新的あるいは斬新的な面のあること。とくにそれが全く新しい確信であれば、「それ以前の同種製品」などというものはありえない理くつにさえなる。またもしも、確信あるいは嶄新でなくとも、そこまでに発展してきた各社の技術を見事に融合させてひとつの有機的な統一体に仕上げることに成功した製品……。

●長島達夫
 ステート・オブ・ジ・アートという言葉が一般に知られるようになったのは、マーク・レビンソンが自作のアンプにこの言葉を冠したのがきっかけになっていたように思う。この言葉を字義どおりに直訳してみると、「芸術の領域に達した」ということになるように思う。しかし、これは機械相手の場合、何か大仰すぎる表現であまりふさわしくない印象を受けてしまう。なぜ大仰でふさわしくない印象をもつのだろうか。それは多分、この言葉を冠する対象が道具としての器械だからだろう。これがもし「人」を対象にする場合なら、そのようには感じないのかもしれない。

●柳沢功力
“STATE OF THE ART”という言葉にこだわった、いいわけがましいことを書くのはやめよう。そう決めていたのだが、いざ書きはじめてみると、やはりこだわってしまう。選定のための票を投じ終えたいま、まだ、その言葉にこだわっているというのも、考えてみれば責任を問われそうな態度だが、どうも、その本来の意味が、ほくには理解できたようでもあり、できないようでもある言葉なのだ。
 たとえばこれがBEST BUY”ならこんなことはないだろう。それには〝お買い得〟というぴったりの日本語があるから、ところが”STATE OF THE ART”の方には、どうもぴったりの日本語が見当らない。

●山中敬三
 ステート・オブ・ジ・アートという言葉は、わが国でこそ耳慣れないが、以前からアメリカを中心によく使われていた。私は、ステート・オブ・ジ・アートという言葉の本来の意味合いは、意訳かもしれないが、その時代において技術的に最高を極めた製品、というのが適当な訳だろうと思っている。元来、この言葉の持つ意味合いはかなり難しいもので、この言葉が使われ始めた頃には、よほどの製品でない限り、そのようには表現されなかったのであるが、最近、特にアメリカのオーディオ製品のランクを表わす言葉として、新しい着想で作られた技術の最先端をいくものに対して頻繁に使われるようになったために、最近ではさほど値打ちがなくなって、さらにエッジ・オブ・ジ・アートなどという言葉が作られるほど、一般化してしまった感がある。
 私は、今回ステート・オブ・ジ・アートを選出するに当って、やはりその言葉の原点に帰るべきだという気がする。そうでなければこの言葉の意義はまったく失われてしまうし、これだけ製品数の多い現状では選考基準をちょっとでも落すと非常に広範囲になってしまって、いわゆる〝ベストバイ〟というものと何ら違いはなくなってしまうという心配さえある。

書き出しだけだが、みな”State of the Art”をどう解釈するについて書かれている。
よく似た企画の41号の「世界の一流品」ならば、こうはならなかった。

もっといえば、最初からステレオサウンド・グランプリという名称であったなら、
「ステレオサウンド・グランプリ選定にあたって」の書き出しは、まったく違うものになっていたはずだ。

もしかすると名称の候補にステレオサウンド・グランプリは最初からあったのかもしれない。
けれど、これではラジオ技術のコンポグランプリの後追い・二番煎じと思われかねない。
ステレオサウンドの性格からして、それは最も避けたいことである。

“State of the Art”は、その役目を見事に果している。

Date: 6月 19th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その42)

ステレオサウンド 48号の特集の冒頭には、
岡先生の「Hi-Fiコンポーネントにおける《第一回STATE OF THE ART賞》の選考について」がある。

この岡先生の文章は、
《まず、〝ステート・オブ・ジ・アート〟という言葉から説明しなければなるまい》
で始まる。

岡先生の文章のあとに、
岡俊雄、井上卓也、上杉佳郎、菅野沖彦、瀬川冬樹、長島達夫、柳沢功力、山中敬三、
原田勲の九氏の選考委員の「ステート・オブ・ジ・アート選定にあたって」の、
それぞれの文章が続く。

それぞれの書き出しを引用しておく。

●井上卓也
 今回は、本誌はじめての企画であるTHE STATE OF THE ARTである。この選定にあたっては、文字が意味する、本来は芸術ではないものが芸術の領域に到達したもの、として、これをオーディオ製品にあてはめて考えなければならない。
 何をもって芸術の領域に到達したと解釈するかは、少しでも基準点を移動させ拡大解釈をすれば、対象となるべきオーディオ製品の範囲はたちまち膨大なものとなり、収拾のつかないことにもなりかねない。それに、私自身は、かねてからオーディオ製品はマスプロダクト、マスセールのプロセスを前提とした工業製品だと思っているだけに、THE STATE OF THE ARTという文字自体の持っている意味と、現実のオーディオ製品とのギャップの大きさに、選択する以前から面はゆい気持にかられた次第である。

●上杉佳郎
 私は,今も昔もオーディオマニアであることに変りはないのだが、過去においてメーカーに籍を置き、アンプ回路の設計を担当していた経験があるし、現在でも私の会社の上杉研究所で設計開発を行なっている関係上、どうしてもユーザー側の立場よりも、設計者的立場に片寄って物を見てしまう傾向がある。
 そのために、今回の〝ステート・オブ・ジ・アート〟選考に当って、私が最も重視した点は、〝経時変化〟ということになる。この経時変化に注意した、などというと不思議に思われる方がおられるかもしれないので、少し説明しておきたい。

●岡俊雄
 ステート・オブ・ジ・アートというものう、単にオーディオ機器における〝名器〟と同義語に解釈することには問題があるだろう。
 やはり技術的初産としての高度に達成されたものでなければならないし、その達成のされかたに、何らかのかたちで、オリジナリティというものをもっていなければなるまい。もちろん名器的な性格はそのなかに自ずと含まれてくることは必然的である。
 そのことをつきつめて考えてゆくと、オーディオ機器における〝名器〟とは何か、〝ステート・オブ・ジ・アート〟とは何か、という論文を書かなければならないことになってしまう。

●菅野沖彦
 ステート・オブ・ジ・アートという言葉が工業製品に対して使われる場合、工業製品がその本質であるメカニズムを追求していった結果、最高の性能を持つに至り、さらに芸術的な雰囲気さえ漂わせるものを指すのではないか、と私は解釈している。「アート」という言葉は、技術であると同時に美でもあり、
芸術でもあるという、実に深い意味を持っている。しかし、日本語にはこの単語の持つ意味やニュアンスを的確に訳出する言葉がないこともあって、実にむずかしい言葉ということができる。

Date: 6月 19th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その41)

当時は気づきもしなかったし、だから考えもしなかったけれど、
ステレオサウンド 49号の特集が「Hi-Fiコンポーネント《第1回STATE OF THE ART賞》選定」が、
もし違うタイトルだったら……、49号に対する印象は変ってきたと思う。

《STATE OF THE ART賞》はステレオサウンドが初めて行なう「賞」である。
オーディオ雑誌では、すでにラジオ技術がコンポグランプリを毎年行なっていた。
スイングジャーナルでは、毎年レコードのに賞を与えていた。

ラジオ技術のコンポグランプリが生れてきた背景は、
ステレオサウンドを離れてけっこう経ったころに知った。
そういう経緯で生れてきたのか、と思いながらも、
それが一回で終らずに続けられるようになったのは、それだけの影響があったためだろう。

影響があれば、出版する側にもメリットはある。
ならば他の出版社も、同じことをやろうとする。

ステレオサウンドの《STATE OF THE ART賞》も、そう捉えることができる。
けれど、少なくとも当時は、そんな印象は受けなかった。

それはコンポグランプリの事情についてほとんど知らなかったこともあるが、
それ以上に《STATE OF THE ART賞》という名称にある。

もしこれが、いまと同じ《ステレオサウンド・グランプリ》だったら、
こちらの印象は違ったものになっていたはずだ。

“State of the Art(ステート・オブ・ジ・アート)”という、
うまく日本語に訳せない言葉だからこそ、49号は成功した、といえる。

Date: 6月 19th, 2016
Cate: 境界線, 録音

録音評(その4)

銀座に行くこと(そこで買物をすること)と輸入盤を買うことは、
当時の私にはしっかり結びついていることだった。

銀座は東京にしかないし、
当時、私が住んでいた田舎では輸入盤のLPはほとんどなかった、といえるからだ。

LP(アナログディスク)を買うならば輸入盤。
これは東京に出てくる前から、そう決めていた。
クラシックならば、絶対に輸入盤。
輸入盤が廃盤になっていて、それがどうしても聴きたいディスクであるときは、
しかたなく日本盤を買っていたけれど、
そうやって買ったものでも、輸入盤をみかけたら買いなおしていた。

これは刷り込みのようなものだった。
五味先生の文章、瀬川先生の文章によって、
クラシック(他の音楽もそうだけれど)は、特に輸入盤と決めていた。

それは音がいいから、だった。
もっといえば、音の品位が輸入盤にはあって、日本盤にはなかったり、低かったりするからだ。

輸入盤と日本盤の音の違いは、もっとある。
それに場合によっては、輸入盤よりもいい日本盤があることも知っているけれど、
総じていえば、輸入盤の方がいい。

その輸入盤の音の良さは、いわゆる録音がいい、というのとはすこし違う。
録音そのものは輸入盤も日本盤も、基本は同じだ。
もちろん日本に来るカッティングマスターは、
マスターテープのコピーであり、そのコピーがぞんざいであったり、
丁寧にコピーされていたとしても、まったく劣化がないわけではない。

それに送られてきたテープの再生環境、カッティング環境がまったく同じというわけでもない。
海外にカッティングしメタルマザーを輸入してプレスのみ日本で行ったとしても、
レコードの材質のわずかな違いやプレスのノウハウなどによっても、音は違ってくる。

そうであっても大元の録音は、輸入盤も日本盤も同一であり、
そこから先のプロセスに違いがあっての、音の違いである。

Date: 6月 18th, 2016
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(その15)

わかりやすいは、わかったつもりで留まる人にとっては楽しいことではあるのかもしれないが、
本当に楽しい、といえるだろうか。

ここで憶いだすのは、ステレオサンウド 58号に載った対談記事である。
粟津則雄、黒田恭一の二氏による「レコードで音楽を聴くということ」だ。

レコードで音楽を聴く、ということは、映像がない、音だけの世界で音楽と接するということであり、
それゆえの難しさが確実にある。
     *
黒田 オペラに限定していうと、むつかしいことがひとつあるんです。たとえば「ボエーム」を例にあげると、最後にミミが死ぬんですが、台本にはどこでミミが死ぬのか書かれていない。そのシーンで、ミミは「ドルミーレ」つまり「眠いわ」と、二小節のあいだでうたう。つぎに音楽がガラッとかわって、ロドルフォが「医者はなんといった?」とうたい、マルチェロが「もうじきくるよ」と答える。そしてつづいてムゼッタが聖母マリアへの祈りをうたう。
 聴いている人間が、どこでミミの死を知るのかというと、そのあとでショナールがミミの様子を見にいって、眠っているのではなく死んでいるのを発見して、「マルチェロ・エ・スピラータ」つまり「死んでいるよ」と叫ぶ。そこで知るわけですね。ミミの「ドルミーレ」からショナールの「エ・スピラータ」まで、時間にすれば一分以上ある。その間に、ミミは死んでいる。いったいどこの時点で、ミミは死んだのか。
 オペラ劇場で見ている場合でいうと、たとえばこの秋に来日するスカラ座がもってくる。ゼッフィレルリの演出だと──このあいだテレビで放映されましたが──、ベッドに寝ているミミの手が、バタンと落ちるんです。それによって、聴衆は、ミミの死に気づくわけです。とくに音楽に耳をすませていなくても、目で見て、ああいま死んだんだとわかります。
 レコードでは、そうはいきません。耳をすませていなくてはならない。いい演奏であれば
、どこでミミが死んだのか、コードのひびかせかたでわかるのです。しかしそれを聴きとるためには、それなりの聴きかたが必要になるわけですね。
 ヨーロッパの音楽ファンは、とくにオペラ好きではなくとも「ボエーム」ぐらいのオペラは、オペラ劇場で聴いています。だから、どこでミミが死ぬのか、目で知っている。そのうえでレコードを聴くのだから添付された台本に、ここでミミが死ぬといったト書きがなくたって、いいわけですよね。
粟津 ところがレコードだけだとそうはいかないわけだ。
黒田 ぼくの経験をいいますと、このオペラはエデーレ指揮でテバルディがうたったレコードで、最初に聴いたのですが、このレコードを聴いていて、どこでミミが死ぬのだろうとずっと考えていたんです。そのつぎにトスカニーニ指揮のレコードを聴いて、多分ここだろうとわかったわけですけれど、十何年か前にヨーロッパにいったときに、ゼッフィレルリの演出──現在のものとはちょっとちがっていますが──による「ボエーム」をみて、やっぱりここで死ぬんだな、とおれの聴きかたはまちがっていなかったな、とわかったんですね。
 そのプロセスは逆行してるということでしょう。つまりヨーロッパの人間だったら、オペラ劇場でみて、ぼくの、というか日本人の大多数の聴きての聴きかたは、まずレコードで聴いて、そのあとで実際の舞台をみる、ということですね。いいかえるとヨーロッパの人間と逆の接しかたをしているわけで、それが大きな特徴だと思う。
粟津 さらにいえば、レコードでそういう聴きかたができるということは、ヨーロッパの人間からみれば驚くべきことだといってもいいたろうね。
黒田 だから彼らにいわせると、そうしたレコードの聴きかたを幸福だといい、その幸福にひじょうに羨望を抱くんです。
     *
ステレオサウンド 58号は1981年春号である。
パイオニアがレーザーディスクプレーヤーの第一号機LD1000を出すのは、この年の秋である。

Date: 6月 18th, 2016
Cate: 広告

広告の変遷(リンの広告)

数日前に、the re:View (in the past)に、
リンのLP12の広告をアップした。

現在のリンの輸入元の広告ではなく、その前のオーデックスの広告、
1979年のスイングジャーナルに掲載された広告である。

オーデックスの、この広告は見た記憶がなかった。
ステレオサウンドには載っていなかった、と思う。

ここで取り上げているのは、いい広告だと思うからだ。
イラストと文字だけ、モノクロのページの広告。
素人目に見映えのするカラー写真が使われているわけでもない。
しゃれたキャッチコピーがあるわけでもない。

でも、私はこれをいい広告だと思っている。
同時に、この広告だけでなく、オーデックス時代のリンLP12の広告を思い出してみると、
トータルでみても、いい広告をやっていたな、と思える。

見映えのする広告といい広告は、必ずしも同じではない。

一ヵ月ほど前、書店でステレオを手にして驚いたことがある。
パッと開いたところがちょうど目次だった。
目次の片隅に広告索引があり、その小ささに驚いた。

これだけしか広告が入っていないのか、と思ってしまうほどに少なかった。
オーディオアクセサリーも開いてみた。
こちらも目次に広告索引がある。

いまオーディオ業界は、こういう状況にあるのか、と驚き、
どちらの雑誌も、これでよくやっているな、と変なところで感心してしまう。

オーディオの広告は、はっきりと減っている。
そういう状況で、いい広告は思えるものがどれだけあるだろうか。

むしろ見映えだけの広告が増えているのではないだろうか。

Date: 6月 18th, 2016
Cate: audio wednesday, LNP2, Mark Levinson

LNP2になぜこだわるのか(その11)

アクースタットのModel 3を聴いたとき19歳だった。
欲しい、と思ったことは告白しておく。
無茶苦茶高価なスピーカーではなかったから、かなり無理すれば手が届かないということはなかった。

若かったから、そういう無茶もやれないわけでもなかった。
それでも欲しい、と思いながらも、欲しい! とまではいかなかった。

若さは馬鹿さで、突っ走ることはしなかった。
それはなぜだろう、と時折考えることもあった。

ある日、ステレオサウンドのバックナンバーを読んでいた。
32号、チューナーの特集号を読んでいた。

伊藤先生の連載「音響本道」が載っている。
32号分には「孤独・感傷・連想」とある。

タイトルの下に、こう書いてあった。
     *
孤独とは、喧噪からの逃避のことです。
孤独とは、他人からの干渉を拒絶するための手段のことです。
孤独とは、自己陶酔の極地をいいます。
孤独とは、酔心地絶妙の美酒に似て、醒心地の快さも、また格別なものです。
ですから、孤独とは極めて贅沢な趣味のことです。
     *
ここのところを読み、なにかしら感じた人は、ぜひ本文も何らかの機会に読んでほしい。

私がそうだ、これだったのか、と思ったのは、
《孤独とは、酔心地絶妙の美酒に似て、醒心地の快さも、また格別なもの》のところだ。

醒心地の快さ──、
私はアクースタットのModel 3から感じとることができなかった。
だから欲しい! とはならなかった、といまはおもう。

Date: 6月 17th, 2016
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(その14)

わかったつもりで留まっている(満足している)人を相手に商売をしたほうが、
つねにわかろうとしている人を相手にするよりもずっと楽である。

楽であるから、よほど気をつけていないとそちらへ転んでいる。
しかもそのことに気がつきにくい。

五年前に「オーディオにおけるジャーナリズム(その11)」を書いた。
そこで書いたことを、ここでもう一度書いておく。
     *
わかりやすさが第一、だと──、そういう文章を、昨今の、オーディオ関係の編集者は求めているのだろうか。

最新の事柄に目や耳を常に向け、得られた情報を整理して、一読して何が書いてあるのか、
ぱっとわかる文章を書くことを、オーディオ関係の書き手には求められているのだろうか。

一読しただけで、くり返し読む必要性のない、そんな「わかりやすい」文章を、
オーディオに関心を寄せている読み手は求めているのだろうか。

わかりやすさは、必ずしも善ではない。
ひとつの文章をくり返し読ませ、考えさせる力は、必要である。

わかりやすさは、無難さへと転びがちである。
転がってしまった文章は、物足りなく、個性の発揮が感じられない。

わかりやすさは、安易な結論(めいたもの)とくっつきたがる。
問いかけのない文章に、答えは存在しない。求めようともしない。
     *
けれど、いまのオーディオ雑誌は、あきからにこうである。
わかったつもりの人を相手にした誌面づくりとしか思えない。

そんな誌面づくりをしているうちに、作り手側も、いつしかわかったつもりの域で留まっている。

Date: 6月 17th, 2016
Cate: 境界線

境界線(その12)

コントロールアンプとパッシヴ型フェーダーとを、
同じに捉える、同じに位置づける人もいようが、
境界線について考えれば考えるほど、
コントロールアンプとパッシヴ型フェーダーをそうは考えられない。

その10)で、コントロールアンプの領域について書いた。
私が考えるコントロールアンプの領域は、
コントロールアンプに接続されるケーブルすべてを含めて、である。

同時にフェーダーに関しては、減衰量をもつ(自由に可変できる)ケーブルとして考えられるわけだから、
ケーブル+フェーダー+ケーブルという、ひと括りの存在として考えられる。

そう考えた場合、CDプレーヤーとパワーアンプ間にフェーダーがあるとすれば、
CDプレーヤーとパワーアンプ間のケーブル+フェーダー+ケーブルは、
CDプレーヤーに属するものであり、それはCDプレーヤーの領域と考える。

ここでコントロールアンプがオーディオの系にある場合とそうでない場合の境界線が違ってくる。
話を簡単にするためにプログラムソースとしてCDプレーヤーのみを想定する。

コントロールアンプがあれば、つまりオーディオの系における中心として捉えれば、
境界線はCDプレーヤーとコントロールアンプ間、コントロールアンプとパワーアンプ間、
パワーアンプとスピーカー間との三つにあると考える。

これがパッシヴ型フェーダーとなると、CDプレーヤーとパワーアンプ間、
パワーアンプとスピーカー間の二つになってしまう。

それだけでなく(その10)を読んでいただきたいのだが、
パッシヴ型フェーダーでは、
フェーダーを含めてパワーアンプに接続されるケーブルまでがCDプレーヤーの領域である。

コントロールアンプの場合は、CDプレーヤーとコントロールアンプ間のケーブルは、
コントロールアンプの領域と考えているわけだから、
境界線の数だけでなく、その位置もコントロールアンプとパッシヴ型フェーダーとでは違ってくる。

Date: 6月 16th, 2016
Cate: 型番

型番の読み方

オーディオ機器の型番が単語であれば、読み方に迷うことはないが、実際にはそうでもない。
オーディオ機器の型番はたいていはアルファベットと数字の組合せであるから、
アルファベットの部分はいいが、数字の部分をどう読むのか。人によって違ってくる。

マランツのModel 7をモデル・ナナと読む人はあまりいない。
ほとんどの人がモデル・セブンという。
このへんはまだいい。

JBLの4343となると、どうだろうか。
私はヨン・サン・ヨン・サンと読んでいる。
でも中にはヨンセンサンビャクヨンジュウサンと読む人もいる。
どちらが正しいか、ということはいえない。

4343はアメリカの製品だから、アメリカでの発音が正しい、ということになる。
4343をJBLの人たちはどう発音していたのか。
いまになって、きちんと確認しておけばよかった、と後悔している。

おそらくだが、43・43、つまりforty-three forty-threeではないかと思う。
4350はforty-three fiftyになるはずだ。

その4350を日本語だとヨン・サン・ゴ・マルと私は読む。
ヨン・サン・ゴ・ゼロでもいいわけだが、ヨン・サン・ゴ・マルである。
私のまわりでも、ヨン・サン・ゴ・マルの人が多い。

けれどこれが同じJBLの075になると、ゼロ・ナナ・ゴであって、マル・ナナ・ゴの人は、
少なくとも私のまわりにはいない。

2405は、ニィ・ヨン・ゼロ・ゴだが、ニィ・ヨン・マル・ゴの人もいる。
D130はどうか。
ディ・イチ・サン・ゼロかディ・イチ・サン・マルかというと、
私はディ・ヒャクサンジュウである。

175、375はイチ・ナナ・ゴ、サン・ナナ・ゴなのに、D130に関してはヒャクサンジュウなのだ。

私が大好きなスピーカーであるロジャースのPM510。
これはピー・エム・ファイブ・テンが正しい。
ステレオサウンド 56号、瀬川先生がそう書かれている。

Date: 6月 16th, 2016
Cate: audio wednesday, LNP2, Mark Levinson

LNP2になぜこだわるのか(その10)

ステレオサウンド別冊 Sound Connoisseur(サウンドコニサー)で、
黒田先生は”Friday Night In San Francisco”について、こう語られている。
     *
このレコードの聴こえ方というのも凄かった。演奏途中であれほど拍手や会場ノイズが絡んでいたとは思いませんでしたからね。拍手は演奏が終って最後に聴こえてくるだけかと思っていたのですが、レコードに針を降ろしたとたんに、会場のざわめく響きがパッと眼の前一杯に広がって、がやがやした感じの中から、ギターの音が弾丸のごとく左右のスピーカー間を飛び交う。このスペクタキュラスなライヴの感じというのは、うちの4343からは聴きとりにくいですね。
     *
まさしく、この通りの音がアクースタットのコンデンサー型スピーカーから鳴ってきた。
《会場のざわめく響き》が拡がる。
もうこの時点で耳が奪われる。
そのざわめきの中から、ギターの音が、まさしく《弾丸のごとく》飛び交う。

私は黒田先生とは逆にアクースタットで聴いた後に、JBLのスピーカーで聴いた。
確かにスペクタキュラスな感じは、聴きとりにくかった。

アクースタットの音は、新しい時代の音だ、といえた。
では、全面的にJBLのスピーカーよりも優れているのかといえば、そうではない。
いつの時代も、どのオーディオ機器であれ、すべての点で優れている、ということはまずありえない。

アクースタットの音は、黒田先生も指摘されているように、
かなり内向きな音である。
それこそ自分の臍ばかりを見つめて聴いている──、
そんなふうになってしまいそうな音である。

いわゆるコンデンサー型スピーカーというイメージにつきまといがちな、
パーカッシヴな音への反応の苦手さ、ということはアクースタットからはほとんど感じられなかった。

けれど《三人のプレーヤーの指先からとびだす鉄砲玉のような、鋭く力にみちた音》かというと、
ここには疑問符がつかないわけではない。

黒田先生は「コンポーネントステレオの世界 ’82」で、
パコ・デ・ルシアがきわだってすばらしく、
ジョン・マクラフリンはちょっと弱いかな、と書かれているが、
その後、このディスクを手に入れて自分で鳴らしてみると、
アクースタットでの、あの時の音は、パコ・デ・ルシアの音がちょっと弱いかな、
と思わせてしまうところがあったことに気がつく。

順番が変るわけではないから、
ジョン・マクラフリンはちょっと弱いかな、が、もう少し弱くなる。

こんなことを書いているが、
アクースタットで初めて聴いた”Friday Night In San Francisco”の音は、
私にとって、このディスクの鳴らし方のひとつのリファレンスになっている。

Date: 6月 15th, 2016
Cate: オーディオマニア

オーディオマニアの覚悟(その3)

別項で、気が違うからこその「気違い」と書いた。
わかったつもりで留まらず、わかろうと進んでいくのが、結局はマニアということだ。

気が違うからこそマニアであり、
その「気」は、いつしか「鬼(き)」となっていくのではないだろうか。

Date: 6月 15th, 2016
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(その13)

ここまで書いてきて思い出すことがある。
「五味オーディオ教室」にこう書いてある。
     *
 よくステレオ雑誌でヒアリング・テストと称して、さまざまな聴き比べをやっている。その結果、AはBより断然優秀だなどとまことしやかに書かれているが、うかつに信じてはならない。少なくとも私は、もうそういうものを参考にしようとは思わない。
 あるステレオ・メーカーの音響技術所長が、私に言ったことがあった。
「われわれのつくるキカイは、畢竟は売れねばなりません。商業ベースに乗せねばならない。百貨店や、電気製品の小売店には、各社のステレオ装置が並べられている。そこで、お客さんは聴き比べをやる。そうして、よくきこえたと思える音を買う。当然な話です。でもそうすると、聴き比べたときによくきこえるような、そんな音のつくり方をする必要があるのです。
 人間の耳というのは、その時々の条件にひじょうに左右されやすい。他社のキカイが鳴って、つぎにわが社の音が鳴ったときに、他社よりよい音にきこえるということ(むろんかけるレコードにもよりますが)は、かならずしも音質自体が優れているからではない場合が多いのです。ときには、レンジを狭くしたほうが音がイキイキときこえる場合があります。自社の製品を売るためには、あの騒々しい百貨店やステレオ屋さんの店頭で、しかも他社の音が鳴ったあとで、美しく感じられねばならないのです。いわば、家庭におさまるまでが勝負です。さまざまな高級品を自家に持ち込んで比較のできる五味さんのような人は、限られています。あなたはキチガイだ。キチガイ相手にショーバイはできませんよ」
 要するに、聴き比べほど、即座に答が出ているようでじつは、頼りにならぬ識別法はない、ということだろう。
 テストで比較できるのは、音の差なのである。和ではない。だが、和を抜きにして、私たちの耳は、音の美を享受できない。ヒアリング・テストを私が信じない理由がここにある。
     *
あるステレオ・メーカーの音響技術所長の
「畢竟は売れねばなりません。商業ベースに乗せねばならない」は、そうであろう。
商売であるのだから、売れて利益が出ないことには、あとが続かない。
商売であれば、できれば効率よく稼ぎたい、とも思うだろう。

だとしたら、誰を相手にすれば効率よく商売ができるのか、となると、
いうまでもなく「わかったつもり」の人相手である。

あるステレオ・メーカーの音響技術所長はだから、
五味先生のことを「あなたはキチガイだ。キチガイ相手にショーバイはできませんよ」という。

キチガイは気違い、と書く。
気が違う人である。
この意味でなら、五味先生は確かに「気違い」といえる。

五味先生は自身のことを
「私はキカイの専門家ではないし、音楽家でもない。私自身、迷える羊だ」と書かれている。
五味先生は、わかったつもりの人ではない。

だから、私にとってはわかったつもりの人と五味先生とでは、気が違う、ということになる。
五味先生はわかったつもりのところで留まっていない。

私もわかったつもりのところで留まる気は毛頭ない。
そのことで気違いと呼ばれるのならば、なんら気にしない。
むしろ誇らしく思う。

Date: 6月 15th, 2016
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(その12)

わかったつもりの人がやらかすことは、他にもある。
とあるオーディオ店でのことだ。

どういう店なのか、少しでも書くとすぐにでも特定されてしまうそうなだけに、
店に関してはこれ以上書かないが、
そこでの試聴会に参加した人から直接話を聞いている。

そこであるスピーカー(4ウェイのマルチアンプシステム)が鳴らされた。
私にこの話をしてくれた人も、そのスピーカーを鳴らしている人である。
だからこそ、音が出た瞬間に、片チャンネルのミッドバスが逆相になっていることがわかった。

その人は、そのことを指摘した。
けれどその店の人は、そんなことはない、と確認もせずにそのまま試聴をすすめていったそうだ。
結局、最後ではミッドバスが片チャンネルのみ逆相だということがはっきりした、とのこと。

誰にでも間違いはあるのだから、指摘された時点で確かめればいいことだ、と思う。
けれどそのオーディオ店の人は、それをやらなかった。
プライドがそれを許さなかったのか。

私は、その同じところで、左右チャンネルが反対に接続されている音を聴いたことがある。
左のスピーカーから右チャンネルの音が鳴ってきた。
これは、ミッドバスが片チャンネル逆相よりもすぐにわかることである。

けれど、このスピーカーは、
それまでずっと左右チャンネルが反対に接続されたまま鳴らされていた、ということだった。
笑い話というよりも、もうおそろしい話というべきである。

ペアで数百万円するスピーカーが、そんな状態で鳴らされている。
このスピーカーの輸入元の人たちが知ったら、どんな気持になるだろうか。

Date: 6月 15th, 2016
Cate: audio wednesday, LNP2, Mark Levinson

LNP2になぜこだわるのか(その9)

”Friday Night In San Francisco”のことを、まったく知らないわけではなかった。
1981年12月に出たステレオサウンド別冊「コンポーネントステレオの世界 ’82」の巻末に、
「オーディオ・ファンに捧げるNEW DISC GUIDE」というページがある。

黒田恭一、歌崎和彦、坂清也、安原顕、行方洋一の五氏が、
1981年に発売された新譜レコードから、演奏だけでなく、録音・音質の優れたものを選ぶ、という記事。

黒田先生が挙げられていたのは、まずカラヤンの「パルジファル」。
そうだろうと思いながら読んだ。
ステレオサウンド 59号でも、この「パルジファル」について書かれていたからだ。

この他に六枚のディスクを挙げられていて、
その中に”Friday Night In San Francisco”があった。
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「スーパー・ギター・トリオ・ライヴ」(CBSソニー30AP2136)をとりあげておこう。ノーマルプライスの盤(25AP2035)でもわるくないが、とりわけ音の力という点で、やはりひとあじちがう。一応500円の差はあるようである。それで「マスターサウンド」シリーズの方のレコードをあげておく。
 アル・ディ・メオラ、パコ・デ・ルシア、それにジョン・マクラフリンがひいている、ライヴ・レコーディングによるギター・バトルである。ライヴ・レコーディングならではの雰囲気を伝え、しかも三人のプレーヤーの指先からとびだす鉄砲玉のような、鋭く力にみちた音がみごとにとらえられている。パコ・デ・ルシアがきわだってすばらしく、アル・ディ・メオラがそれにつづき、ジョン・マクラフリンはちょっと弱いかなといった印象である。
 冒頭の「地中海の舞踏/広い河」などは、きいていると、しらずしらずのうちに身体から汗がにじみでてくるといった感じである。このトラックはパコ・デ・ルシアとアル・ディ・メオラによって演奏されているが、まさに火花をちらすようなと形容されてしかるべき快演である。音楽もいいし、音もいい。最近は、とかくむしゃくしゃしたときにはきまって、このレコードをとりだしてかけることにしている。
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読んではいたけれど、その日まで”Friday Night In San Francisco”のことは忘れていた。
アクースタットのModel 3から鳴ってきたパコ・デ・ルシアとアル・ディ・メオラ、
このふたりのギターの音に衝撃を受けて、聴き終ったころに、そういえばと思い出していた。