Archive for category テーマ

Date: 8月 2nd, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その47)

ステレオサウンド 50号巻頭座談会のでの瀬川先生の発言に感じた同種のものを、
ずっと後になって感じたことがある。

2011年だったか、ある人から古いオーディオ雑誌をまとめて譲ってもらった。
その中に、ステレオ誌(1979年5月号)があった。
池上比沙之氏による「音に生き、音に死んだ男の伝説 岩崎千明考」が載っていた。
     *
 とりわけ、2人の仕事を注目し、尊敬していたぼくにとっては、奇妙にも2人とも死の一週間前に会って、逆にはげましの言葉をかけられていただけに、冷静に彼らの世界を語ることすら難しいのである。だが、中野宏昭の仕事に関する考察は別の機会に行うとしても、岩崎千明の、あの大音量再生に秘められた生き様は明らかにしていかねばなるまい。
 昭和51年の秋頃だったろうか。

ぼくは東京・六本木の交差点で
偶然、岩崎千明に声をかけられた。
 同じ雑誌に原稿を書いていたこともあって、世間話は幾度となく交わしている間柄であったが、それまで膝をかかえて〝生き方〟を語るといったことはなかった。何回かその機会もあったのだが、互いのシャイな部分が向いあうことになり、他愛のない話に終始した。ところが、この日の岩崎千明は違っていた。いきなり、
「お茶でも飲もうよ」
といって、先にスタスタ歩き出した。常に他人に対して気を使う岩崎千明にしては珍らしいストレートな行動だったので、いまだに一部始終を鮮明に記憶している。入った店は、交差点際の古ぼけたコーヒー・ショップ「エリゼ」。2Fの一番奥の窓際のボックスに坐るなり、
「オーディオはもう駄目だね。救いようがないよ。ボクにも責任はあるんだけどさ、誰かがちょっとぐらいがんばったってどうなるもんでもないぐらい駄目だ」
といって深くため息をつくのである。その時の、岩崎千明の目は実に悲しげであった。その日、彼になにがあったかは知る由もない。そして、この唐突な告白が突発的な感情の吐露ではなく、彼の晩年を支配していた絶望感であったことをぼくが知るのは、死の直前になってからだった。「音楽のオの字もなくって、オーディオ製品が語られたりさ、アンプが目方で判断されたりしてたら、そのうちツケがまわってくるよ。もうオーディオ評論家なんて先が見えてるね。ね、ジャズの話をしよう、ジャズの話を。なんかいいレコード見つけた?」それから、ぼくらの会話はジャズに移った。その時、ぼくが彼に示したレコードは、ビル・エバンスの「ポートレイト・イン・ジャズ」とか、ウェス・モンゴメリーのリバーサイド盤「インクレディブル・ジャズ・ギター」などの、50年代後半から60年代前半に録音された秀作群であった。ぼくが、クロスオーバー系音楽を中心とする新しいジャズに肩入れしていることを知っている彼は、ニヤリと笑って、「な、そうだろ。あんただってあのへんのジャズを聴けばいいと思うよな。あの時代の音がね、20何年も経ってるいま、オレの部屋で鳴ってるのかと思うと、ゾクゾクする時があるんだよ。長い年月が過ぎても残っているっていうのは、いいから残るんだよな」と、一気にたたみかけてきた。

この日、岩崎千明はジャズのことばかり、
なにかに憑かれたように話し続けた。
 一体、彼が半生を費して愛し続けたオーディオの世界はどこに行ってしまったのだろう。
     *
1976年秋の六本木の出来事が書かれている。
ちょうど同じころ、私は「五味オーディオ教室」と出逢っている。

そのとき岩崎先生は、
「オーディオはもう駄目だね。救いようがないよ。ボクにも責任はあるんだけどさ、誰かがちょっとぐらいがんばったってどうなるもんでもないぐらい駄目だ」
といってため息をつかれている。

1976年でもそうだったのか……、と。
オーディオの世界だけの話ではない。
およそすべてがそうであるはずだが、趣味として楽しんでいる人たちと、
それを仕事としている人たちの間には、こういうことが生じてくる。

仕事として、その業界に属しているといろいろなことが見えてくる。
それは趣味として楽しんでいる人たちは、
まったくといっていいほと見えないようになっていることまでが見えてくる。

Date: 8月 1st, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その46)

ステレオサウンド 50号の巻頭座談会、
この最後に出てくる瀬川先生の発言は、当時の私には完全には理解できなかった、
というか、同意できなかったところがあった。
     *
瀬川 「ステレオサウンド」のこの十三年の歩みの、いわば評価ということで、プラス面ではいまお二方がおっしゃったことに、ぼくはほとんどつけたすことはないと思うんです。ただ、同時に、多少の反省が、そこにはあると思う。というのは「ステレオサウンド」をとおして、メーカーの製品作りの姿勢にわれわれなりの提示を行なってきたし、それをメーカー側が受け入れたということはいえるでしょう。ただし、それをあまり過大に考えてはいけないようにも想うんですよ。それほど直接的な影響は及ぼしていないのではないのか。
 それからもうひとつ、新製品をはじめとするオーディオの最新情報が、創刊号当時にくらべて、一般のオーディオファンのごく身近に氾濫していて、だれもがかんたんに入手できる時代になったということも、これからのオーディオ・ジャーナリズムのありかたを考えるうえで、忘れてはならないと思うんです。つまり初期の時代、あるいは、少し前までは、海外の新製品、そして国産の高級品などは、東京とか大阪のごく一部の場所でしか一般のユーザーは手にふれることができなかったわけで、したがって「ステレオサウンド」のテストリポートは、現実の製品知識を仕入れるニュースソースでもありえたわけです。
 ところが現在では、そういった新製品を置いている販売店が、各地に急激にふえたので、ほとんどだれもが、かんたんに目にしたり、手にふれてみたりすることができます。「ステレオサウンド」に紹介されるよりも前に、ユーザーが実際の音を耳にしているということは、けっして珍しくはないわですね。
 そういう状況になっているから、もちろんこれからは「ステレオサウンド」だけの問題ではなくて、オーディオ・ジャーナリズム全体の問題ですけれども、これからの試聴テスト、それから新製品紹介といったものは、より詳細な、より深い内容のものにしないと、読者つまりユーザーから、ソッポを向かれることになりかねないと思うんですよ。その意味で、今後の「ステレオサウンド」のテストは、いままでの実績にとどまらず、ますます内容を濃くしていってほしい、そう思います。
 オーディオ界は、ここ数年、予想ほどの伸長をみせていません。そのことを、いま業界は深刻に受け止めているわけだけれど、オーディオ・ジャーナリズムの世界にも、そろそろ同じような傾向がみられるのではないかという気がするんです。それだけに、ユーザーにもういちど「ステレオサウンド」を熱っぽく読んでもらうためには、これを機に、われわれを含めて、関係者は考えてみる必要があるのではないでしょうか。
     *
41号から読みはじめた私にとって、50号はちょうど10冊目のステレオサウンドにあたる。
二年半読んできて、熱っぽく読んでいた時期でもある。

だから瀬川先生の《ユーザーにもういちど「ステレオサウンド」を熱っぽく読んでもらうためには》に、
完全に同意できなかったことを憶えている。

でも、ずっとオーディオを趣味としても仕事としてもやってこられた瀬川先生と、
オーディオに興味を持ちはじめてそれほど経っていない私とでは、
さまざまな捉え方、考え方が違ってあたりまえなのは頭でわかっていても、
このことは、心のどこかにひっかかったままになっていた。

Date: 8月 1st, 2016
Cate: 言葉

〝言葉〟としてのオーディオ(その7)

〝言葉〟としてのオーディオを、ちかごろよく考えるようになってきている。
7月の上旬、ある集まりに呼ばれた。
初対面の方がふたり。特にオーディオマニアの集まりではなかった。

そのうちのひとりに、オーディオにのめりこんでいったきっかけをきかれた。
「五味オーディオ教室」だと答えた。

多くのオーディオマニアは、身近にオーディオマニアがいたことがきっかけとなっている。
身近にいる人は家族であったりもしくは親戚、学校や会社の先輩だったりする。
そこで、なんとなくイメージしていたステレオの音とは違うオーディオを聴いて……、
ということがきっかけとなる。

私にはそういうきっかけはなかった。
ただひたすら「五味オーディオ教室」を読んではまた読んで……がきっかけである。

「めずらしいですよね」と、だからいわれた。
私のようなオーディオマニアがどのくらいいるのかはわからないが、少数派ではあろう。

どちらのきっかけがいいのかは、実はどうでもいいことだと思う。
その上で、私は「五味オーディオ教室」がきっかけでよかったと、
近頃ますますそう思うようになってきている。

それは私の中に少しは「〝言葉〟としてのオーディオ」が形成されてきているからかも……、
勝手にそう思うようにしている。

Date: 8月 1st, 2016
Cate: audio wednesday

第67回audio sharing例会のお知らせ(Heart of Darkness)

今月のaudio sharing例会は、3日(水曜日)です。

今回のシステムは、6月に行ったマークレビンソンLNP2の試聴と基本的に同じだ。
スピーカーは喫茶茶会記のシステムの上に、JBLの2441+2397、それに今回は2405も追加する。
ネットワークは直列型6dBで、前回とは違う配線でやろうと考えているのは、
テーマが「新月に聴くマーラー」だからである。

パワーアンプはマッキントッシュの管球式プリメインアンプのMA2275。
プリ・パワーが分離できるので、パワー部のみを使う。

コントロールアンプはマークレビンソンのLNP2である。
他のアンプでもいいてすよ、と、今回もLNP2を持ってきて下さるKさんは言ってくれているが、
今回もスピーカーのアッテネーターをなしでいきたいので、
どうしてもLNP2のトーンコントロールが不可欠である。

ちなみに他のアンプとは、マークレビンソンのJC2とクレルのPAM2であり、
どちらも試してみたいところだが、そういう事情のためLNP2しかない。

ただひとつ迷っている。
バウエン製モジュールのLNP2かマークレビンソン製モジュールのLNP2か。

昔の私だったら迷うことなく、
マークレビンソン製モジュールのLNP2だけでいいです、と即答していただろう。
それが先々月のaudio sharin例会での試聴で、迷っている。

結局、Kさんのご好意に甘えて、今回もLNP2を二台持ってきてもらうことになった。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 8月 1st, 2016
Cate: イコライザー

私的イコライザー考(音の純度とピュアリストアプローチ・その11)

マーク・レヴィンソンという男の評価は、人によって違うし、
私の中でも時代(私の年齢)とともに変化してきている。

それでも……、と思うのは、マーク・レヴィンソンは録音に携わっている。
演奏者としても、レコード制作者としても、である。

もしマーク・レヴィンソンにまったく録音の経験がなかったら、
オーディオパレットを、果してミュージックレストアラーと呼んだだろうか。

オーディオパレットの元にあたるモノをつくったのはディック・バウエンであり、
それをレヴィンソンが望むクォリティにまで高めたのがオーディオパレットでもあるわけだから、
ミュージックレストアラーという発想は、もしかするとバウエンが考えたものかもしれない。

どちらにしろマーク・レヴィンソンは、
イコライザーの本来の意味をどこかに置き忘れていたわけではない。

でも中には、置き忘れている人、イコライザーの意味が頭の中にない人もいる。
そんな人がグラフィックイコライザー、パラメトリックイコライザーを使ったら……、
踏み外してしまった例を私は何度となく聴いている。

イコライザーは、自分勝手な音をつくるための道具では、本来ない。
もちろんそういう使い方を完全否定はしないが、
そういう場合はイコライザーという言葉を使うのはやめたほうがいいとは思う。

こうやって書いていると、dbxが20/20に自動補正機能を搭載したのかが理解できる。
dbxは、イコライザーとしてふさわしい機能としての開発・搭載だったといえよう。

Date: 7月 31st, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その45)

ステレオサウンド 49号には、附録がついていた。
表紙写真傑作集としての1979年のカレンダーだった。
附録がついていて、1600円の定価はそのままだった。

カレンダーのコストがどれだけかかっていたのかはわからないが、
49号の誌面にカラーページが少ない理由のひとつには、このカレンダーがあるはずだ。

ただ、それでも……、と思う。
カレンダーは197号にも附録としてついていた。
197号にカラーページが少なかったということはない。
特集にはカラーページがたっぷりと使われている。
内容はステレオサウンド・グランプリ(つまり賞)である。

49号と197号。
定価も含めて比較してみると面白い。

49号の原田勲氏の編集後記には、賞という文字は登場しない。
     *
 もしもオーディオコンポーネントの高級品がこの世から全く消え去ったら……オーディオファイルにとってそれこそ闇だ。これはオーディオに限らない。どんな趣味であれ、優れた道具の持味はその趣味の感興を高める。そのことから〝趣味は道具につれ、道具は趣味につれ〟と言えなくもない。
 今回選定した〝ステート・オブ・ジ・アート〟の狙いは、オーディオコンポーネントにおける道具の理想のあり方を、実際の製品を通して語ろう、というところにある。無論、現実の製品が理想を実現しているというわけでは決してないが、少なくとも、「ステレオサウンド」誌の考えている、望ましいコンポーネントのありようは提示されているとおもう。
     *
STATE OF THE ARTという日本語には訳しにくい言葉をあえて選んで使ったのは、
当時編集長であった原田勲氏のはずだ。

何度でも書くが、STATE OF THE ART賞が現在のステレオサウンド・グランプリの始まりであり、
名称だけでなく、ずいぶんと変質してしまった、と思ってしまう。

Date: 7月 31st, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その44)

ステレオサウンド 49号だけを見ているぶんには気づかなかったことが、
50号を手にして、49号の特集にはカラーページがなかった、と気づいた。

50号は創刊50号記念特集を謳っていた。
五味先生の「続・五味オーディオ巡礼」で始まり、特集のページに続く。
巻頭座談会として、井上卓也、岡俊雄、菅野沖彦、瀬川冬樹、山中敬三の五氏による
『「ステレオサウンド」誌50号の歩みからオーディオの世界をふりかえる』があり、
岡俊雄、黒田恭一、両氏による『「ステレオサウンド」誌に登場したクラシック名盤を語る』、
「オーディオ一世紀──昨日・今日・明日」(岡俊雄)、
「栄光のコンポーネントに贈るステート・オブ・ジ・アート賞」、
「オーディオ・ファンタジー 2016年オーディオの旅」(長島達夫)があった。

巻頭座談会、「栄光のコンポーネントに贈るステート・オブ・ジ・アート賞」にはカラーページがある。
50号のあとに49号にもどると、
49号には「続・五味オーディオ巡礼」はなく、特集から始まる。
しかもカラーページはない。

カラーページなしの特集は、ステレオサウンドにしては珍しい。
しかも49号の特集は、《第一回STATE OF THE ART賞》と、
これから先も続けていくことをはっきりと示している。

ステレオサウンドにとって初めての「賞」の特集であり、
今後も続けていくことを考えているのだから、
一回目は華々しくカラーページを使い……、と思いがちなのに、
カラーページが巻頭からまったく登場しない。

49号でカラーページがあるのは、「サウンドスペースへの招待」だけという、
記事の内容ではなく、パラパラと手にしたときの印象は、49号はどうしても地味になる。

想像してみてほしい。
いまのステレオサウンド編集部が、それまで賞をやってこなくて、
初めて賞のつく企画を開始するとしたら、大々的にカラーページを使って、
華々しい印象の誌面にするはずである。賞ということを全面的に押しだす。
49号は、なぜか地味な印象を与えるかのような誌面になっている。
つまり賞の企画であることが、STATE OF THE ARTの後にいるかのようにも感じさせる。

Date: 7月 31st, 2016
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(購入後という視点・その6)

ステレオサウンド 64号から始まった「素晴らしき仲間たち」に登場したグループは、
スピーカーを中心としていた。
同じスピーカー、もしくは同じブランドのスピーカーを鳴らしている人たちが集まっていた。

けれどオーディオをながく続けていれば、スピーカーをかえることがある。
同じブランドの最新機種、もしくはフラッグシップモデルにすることもあれば、
違うブランドの、それまで鳴らしていたスピーカーとはまったく趣の異るモノにすることもある。

そうなったら、その人は属していたグループから離れていくのだろうか。
オーディオ仲間であっても、鳴らしているスピーカーという共通項がなくればそうなるのか。

「素晴らしき仲間たち」のグループは楽しそうだと感じながらも、
一方ではそんなことを思ってもいた。

「素晴らしき仲間たち」を担当していたのは、Nさんだった。
Nさんから聞いたところによると、いくつかのグループは解消してしまったそうだ。
どのグループだったのか聞いているけれど、ここではそのことに触れる必要はないし、
他のグループもその後どうなったのかはわからない。

あるグループがバラバラになってしまった理由は、
誰かがスピーカーを買い換えたから、というものではなかった。
ステレオサウンドに出たことだった、と聞いた。

それまでグループ内のバランスがうまくとれていたのが、
ステレオサウンドで記事になったことで崩れてしまったそうだ。

そうやって崩れてしまったバランスは、違うバランスをとることはできないのだろうか。
「素晴らしき仲間たち」の、この話を聞いたのはハタチぐらいのときだった。

そのころはそれ以上深く考えることはしなかったが、
購入後ということを考えるようになって、そういえば……、と思い出した次第だ。

Date: 7月 30th, 2016
Cate: イコライザー

私的イコライザー考(音の純度とピュアリストアプローチ・その10)

オーディオ機器で、イコライザーと付くモノは、
グラフィックイコライザー、パラメトリックイコライザー、フォノイコライザーなどがある。

イコライザー (Equalizer)とは、イコール(equal)から来ている。
イコール、すなわち等しいこと、同じもの、という意味であり、
イコライザーとは本来そういう目的のためのものだから、イコライザー (Equalizer)なのである。

フォノイコライザーを考えてみてほしい。
こまかな説明は省くが、アナログディスクでは信号処理をせずにそのままカッティングすれば、
低域になるほど大振幅の溝になってしまい、溝のピッチを大きくすることになる。
そうなればアナログディスクの収録時間はそうとうに短くなってしまう。

それに低域のそういう大振幅をカートリッジはトレースできない。
結果カッティング時に録音イコライザーをかけて、可聴帯域においては振幅が同じになるように、
低域にいくにしたがってレベルを下げる。

再生時にはその逆のイコライザーカーヴ(低域を上昇させ、高域を減衰させる)によって、
元の録音状態と同じにする(イコールにする)から、
イコライザー(イコライゼーション)なのである。

ところがグラフィックイコライザーやパラメトリックイコライザーの普及とともに、
イコライゼーションは広汎な意味を持たせれるようになってしまった。

マーク・レヴィンソンがチェロ創立時に発表したオーディオパレット。
簡単にいってしまえば6バンドのパラメトリックイコライザーなのだが、
マーク・レヴィンソンは、オーディオパレットのことをミュージックレストアラーと呼んでいた。

おそらくマーク・レヴィンソンのイコライゼーションに対する感覚は、
言葉本来の意味のイコライズ(等比)がしっかりとあったのかもしれない。
そうでなければレストアラーとはいわないはずだ。

Date: 7月 30th, 2016
Cate: audio wednesday

第67回audio sharing例会のお知らせ(Heart of Darkness)

8月のaudio sharing例会は、3日(水曜日)です。

岡先生が著書「マイクログルーヴからデジタルへ」の上巻で書かれている。
     *
 ぼくの手許に古いLPがまだかなりあり、いまでも年に何度かひっぱり出して聴いている二十五年来の愛聴盤というのがある。その最たるものが、キャスリン・フェリア/ワルター/ウィーンPOのマーラーの《亡き子を偲ぶ歌》(米コロムビアML2187)だ。このレコードは改めていうまでもない名盤なのだが、第一曲のおわりで鳴るグロッケンシュピールの音をはじめて聴いたときの胸のときめきを、いまでもこのレコードをかけるたびに思いだす。LPになってから打楽器の音はSP時代と次元を異にするリアリスティックな再生が行えるようになったのだが、こんなに心にしみとおるような透明なただずまいで聴かれたグロッケンシュピールのピアニシモの響きには、「LPのよさだなあ」と感じさせられたものだった。
     *
フェリアー/ワルターの《亡き子を偲ぶ歌》。
私にとっても愛聴盤なのだが、8月3日当日、これ(CD)をかけるかどうかは迷っている。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 7月 29th, 2016
Cate: 「オーディオ」考

「アルゲリッチ 私こそ、音楽!」

2014年に映画「アルゲリッチ 私こそ、音楽!」が公開された。
DVDも発売されていて、今年になってやっと観た。

オーディオマニアを揶揄するのに、絶対音感がないのに……、というのがある。
そう多くみかけるわけではないが、これまでに数度目にしたことがあるし、耳にしたこともある。
菅野先生が提唱されたレコード演奏、レコード演奏家が広まるにつれて、
演奏、演奏家とついているのに、絶対音感もないのか。
それでよく演奏(演奏家)といえるな──、そういう声も見たことがある。

演奏家にとって絶対音感は絶対必要なことなのだろうか。
そう問えば、オーディオマニア、レコード演奏を揶揄する演奏家は、
絶対に必要というであろう。

マルタ・アルゲリッチは、ピアニスト(ピアノ演奏家)だ。
「アルゲリッチ 私こそ、音楽!」で、アルゲリッチは絶対音感を持っていないを知った。

Date: 7月 29th, 2016
Cate: 「うつ・」

うつ・し、うつ・す(その8)

《大切な想い出を音で記憶できる幸せがオーディオ愛好家にはある》

ステレオサウンド 61号の編集後記に、そうある。
原田勲氏の編集後記からの引用だ。
そう61号の編集後記である。

原田勲氏と瀬川先生は同じ年のはずだ。
私はまだ18だった。
《大切な想い出を音で記憶できる幸せがオーディオ愛好家にはある》
といえるだけの経験はないまま、読んでいた。

40をすぎたころから、
《大切な想い出を音で記憶できる幸せがオーディオ愛好家にはある》に首肯けるようになった。

大切な想い出を音で記憶できる、ということは、
音に何かを反映するということなのか。
映しているのから、時間の中を移すことができるのか。

それとも内包しているのか。
内(うち)の古形は[うつ]で、[空(うつ)]の意なのだから、
音は空(うつ)だから、大切な想い出(憶い出)を時間を経ても移せるのか。

Date: 7月 29th, 2016
Cate: audio wednesday

第67回audio sharing例会のお知らせ(Heart of Darkness)

8月のaudio sharing例会は、3日(水曜日)です。

今日未明(2時ごろ)、ふと空を見あげたら三日月がでていた。
かなり細くなっていて、もうすぐ新月なんだなぁ、と思っていた。
来週の水曜日は「新月に聴くマーラー」である。

関東地方も梅雨明け。
猛暑まではいかないけれど暑い。
おそらく来週の水曜日も同じくらい暑い日になりそうだ。

そんな日に窓のない空間に男が集まってマーラーを聴く、というのは、
マーラーにもオーディオにも関心のない人にどう映ることだろう。

今回はJBLの2405をつないで3ウェイにする。
ネットワークを含めた接続方法も、まだ試していないことをやる予定である。
ぶっつけ本番の要素が強い。
どういう音を響かせてくれるか、予想のつくところとつかないところがある。

あえてそんなふうにして自分のオーディオの力量を試している。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 7月 28th, 2016
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(その32)

私がいたころのステレオサウンドは、598のスピーカーに対して、肯定的とはいえなかった。
そのことはいまでも間違っていなかったと思うが、それだけではだめだったという反省が、いまはある。

598のスピーカーの新製品が出れば、試聴室で鳴らす。
そこで鳴らすのは、当時リファレンス機器として使っていたアキュフェーズのセパレートアンプ、
CDプレーヤーはソニーであったりアキュフェーズであったりしたが、
アンプにしてもCDプレーヤーにしても、スピーカー単体の価格の軽く十倍以上するモノばかり。

新製品紹介の記事は、その製品のお披露目の場であるわけだから、
可能な限り良く鳴らした状態で、ということがあった。
これはいまでも間違っていない、と思う。

だがこれだけでは定期刊行物のオーディオ雑誌としては、不十分である。
598のスピーカーに肯定的でなかったステレオサウンドだから、
実際に598のスピーカーがユーザーのところにおさまったとき、
どう鳴らされているのかを取材しておくべきだった、と、この項を書きながら反省している。

ステレオサウンド試聴室と598のスピーカーのユーザーのリスニングルームとでは、
ずいぶん条件は違っているはず。
アンプもCDプレーヤーも、セッティング、チューニングのレベルも、それから鳴らす音量も違う。

当時の598のスピーカーを選んだ人たちが、どういう理由で選んだのか、
それすらも知らなかったし、知ろうともしなかった。

別のオーディオ雑誌(別冊FM fanなど)にまかせておけばいい、という空気があった。
いま考えているのは、なぜそういう空気がうまれたのか、を含めて、
どうするのが正しい編集だったのか、である。

Date: 7月 28th, 2016
Cate: 表現する

音を表現するということ(間違っている音・その7)

ここで書きたいと考えていることは、
二年前に書いた「オーディオマニアとして(グレン・グールドからの課題)」につながっていく。
     *
芸術の目的は、神経を昂奮させるアドレナリンを瞬間的に射出させることではなく、むしろ、少しずつ、一生をかけて、わくわくする驚きと落ち着いた静けさの心的状態を構築していくことである。われわれはたったひとりでも聴くことができる。ラジオや蓄音機の働きを借りて、まったく急速に、美的ナルシシズム(わたしはこの言葉をそのもっとも積極的な意味で使っている)の諸要素を評価するようになってきているし、ひとりひとりが深く思いをめぐらせつつ自分自身の神性を創造するという課題に目覚めてもきている。
     *
このグレン・グールドの文章を引用するのは四回目になるか。
ここにもナルシシズムが出てくる。
しかも美的ナルシシズムとある。

グレン・グールドがナルシシズムの語源を知らないわけがない。
にも関わらず、美的とつけている。

ならば醜的ナルシシズムがあるのか、と考える。
美的ナルシシズムの諸要素、醜的ナルシシズムの諸要素とは、どういったことなのか。