ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(その14)
わかったつもりで留まっている(満足している)人を相手に商売をしたほうが、
つねにわかろうとしている人を相手にするよりもずっと楽である。
楽であるから、よほど気をつけていないとそちらへ転んでいる。
しかもそのことに気がつきにくい。
五年前に「オーディオにおけるジャーナリズム(その11)」を書いた。
そこで書いたことを、ここでもう一度書いておく。
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わかりやすさが第一、だと──、そういう文章を、昨今の、オーディオ関係の編集者は求めているのだろうか。
最新の事柄に目や耳を常に向け、得られた情報を整理して、一読して何が書いてあるのか、
ぱっとわかる文章を書くことを、オーディオ関係の書き手には求められているのだろうか。
一読しただけで、くり返し読む必要性のない、そんな「わかりやすい」文章を、
オーディオに関心を寄せている読み手は求めているのだろうか。
わかりやすさは、必ずしも善ではない。
ひとつの文章をくり返し読ませ、考えさせる力は、必要である。
わかりやすさは、無難さへと転びがちである。
転がってしまった文章は、物足りなく、個性の発揮が感じられない。
わかりやすさは、安易な結論(めいたもの)とくっつきたがる。
問いかけのない文章に、答えは存在しない。求めようともしない。
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けれど、いまのオーディオ雑誌は、あきからにこうである。
わかったつもりの人を相手にした誌面づくりとしか思えない。
そんな誌面づくりをしているうちに、作り手側も、いつしかわかったつもりの域で留まっている。