ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(その15)
わかりやすいは、わかったつもりで留まる人にとっては楽しいことではあるのかもしれないが、
本当に楽しい、といえるだろうか。
ここで憶いだすのは、ステレオサンウド 58号に載った対談記事である。
粟津則雄、黒田恭一の二氏による「レコードで音楽を聴くということ」だ。
レコードで音楽を聴く、ということは、映像がない、音だけの世界で音楽と接するということであり、
それゆえの難しさが確実にある。
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黒田 オペラに限定していうと、むつかしいことがひとつあるんです。たとえば「ボエーム」を例にあげると、最後にミミが死ぬんですが、台本にはどこでミミが死ぬのか書かれていない。そのシーンで、ミミは「ドルミーレ」つまり「眠いわ」と、二小節のあいだでうたう。つぎに音楽がガラッとかわって、ロドルフォが「医者はなんといった?」とうたい、マルチェロが「もうじきくるよ」と答える。そしてつづいてムゼッタが聖母マリアへの祈りをうたう。
聴いている人間が、どこでミミの死を知るのかというと、そのあとでショナールがミミの様子を見にいって、眠っているのではなく死んでいるのを発見して、「マルチェロ・エ・スピラータ」つまり「死んでいるよ」と叫ぶ。そこで知るわけですね。ミミの「ドルミーレ」からショナールの「エ・スピラータ」まで、時間にすれば一分以上ある。その間に、ミミは死んでいる。いったいどこの時点で、ミミは死んだのか。
オペラ劇場で見ている場合でいうと、たとえばこの秋に来日するスカラ座がもってくる。ゼッフィレルリの演出だと──このあいだテレビで放映されましたが──、ベッドに寝ているミミの手が、バタンと落ちるんです。それによって、聴衆は、ミミの死に気づくわけです。とくに音楽に耳をすませていなくても、目で見て、ああいま死んだんだとわかります。
レコードでは、そうはいきません。耳をすませていなくてはならない。いい演奏であれば
、どこでミミが死んだのか、コードのひびかせかたでわかるのです。しかしそれを聴きとるためには、それなりの聴きかたが必要になるわけですね。
ヨーロッパの音楽ファンは、とくにオペラ好きではなくとも「ボエーム」ぐらいのオペラは、オペラ劇場で聴いています。だから、どこでミミが死ぬのか、目で知っている。そのうえでレコードを聴くのだから添付された台本に、ここでミミが死ぬといったト書きがなくたって、いいわけですよね。
粟津 ところがレコードだけだとそうはいかないわけだ。
黒田 ぼくの経験をいいますと、このオペラはエデーレ指揮でテバルディがうたったレコードで、最初に聴いたのですが、このレコードを聴いていて、どこでミミが死ぬのだろうとずっと考えていたんです。そのつぎにトスカニーニ指揮のレコードを聴いて、多分ここだろうとわかったわけですけれど、十何年か前にヨーロッパにいったときに、ゼッフィレルリの演出──現在のものとはちょっとちがっていますが──による「ボエーム」をみて、やっぱりここで死ぬんだな、とおれの聴きかたはまちがっていなかったな、とわかったんですね。
そのプロセスは逆行してるということでしょう。つまりヨーロッパの人間だったら、オペラ劇場でみて、ぼくの、というか日本人の大多数の聴きての聴きかたは、まずレコードで聴いて、そのあとで実際の舞台をみる、ということですね。いいかえるとヨーロッパの人間と逆の接しかたをしているわけで、それが大きな特徴だと思う。
粟津 さらにいえば、レコードでそういう聴きかたができるということは、ヨーロッパの人間からみれば驚くべきことだといってもいいたろうね。
黒田 だから彼らにいわせると、そうしたレコードの聴きかたを幸福だといい、その幸福にひじょうに羨望を抱くんです。
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ステレオサウンド 58号は1981年春号である。
パイオニアがレーザーディスクプレーヤーの第一号機LD1000を出すのは、この年の秋である。