Archive for category テーマ

Date: 6月 26th, 2016
Cate: オーディオのプロフェッショナル

モノづくりとオーディオのプロフェッショナル(その9)

メーカーとしての機能について書くためにあれこれ考えていたところに、
イギリスのEUからの離脱のニュース。

今後どういうふうになっていくのか私にはわからないことが多過ぎる。
そのことについて付焼刃の知識で書いていこうとは思っていない。
でもイギリスのオーディオメーカーに与える影響については、ちょっとだけ書ける。

オーディオメーカーとはいえ、すべてを内製しているわけではない。
たとえばスピーカーユニットは自社工場で生産していても、
エンクロージュアは木工技術が優れている他社にまかせているところもある。

その他社がイギリスにあるならばまだいいだろうが(間接的影響はあるはずだ)、
EU圏内の他国にあったとしたら、少なからぬ影響(直接的影響)が出てくるはずだ。

EUに加盟していれば、他国にあっても同じEU圏内であったため、
いわゆる国内生産と大きく違う面はなかったはずだ。
物理的な距離が遠いくらいだろうか。

けれどEUを離脱すれば、イギリスにとっては他国は他国である。
そのままの生産体制を維持すれば、価格に跳ね返ってくるだろうし、
生産体制をかえて、イギリス国内に代るメーカーを見つけたとしても、
まったく同じクォリティのモノがつくれるのかということ、
国が違えば人件費などのコストも違ってくるだろうから、
必ずしも同程度のコストで製造できるとは限らないはずだ。

ローコストのモノではなく、
ハイエンドオーディオと呼ばれるクラスのモノをつくっているメーカーの中には、
生産体制の見直しが迫られることになるところが確実にある。

生産体制を変えたとする。
すると、これはEU離脱前に製造されたモノだから、離脱後製造のモノよりも優れているとか、
反対に離脱後製造だから、こちらのほうが優れているとか、
そんなことが流布されていくのかもしれない。

イギリスのEU離脱が、メーカーとしての機能、
それだけでなくメーカーとしての性能にもどう影響を与えていくのか。
何かをもたらすのだろうか。
うっかりすれば見逃すような変化が、これからは起ってくるような気がする。

Date: 6月 25th, 2016
Cate:

オーディオと青の関係(その10)

アバドとアルゲリッチがピアノをはさんで坐っている写真。
検索すれば、すぐに見つかる写真。
2014年11月にドイツ・グラモフォンから発売になった、
このふたりによるピアノ協奏曲集のジャケットにも使われているから、
目にされた方も少なくないはず。

青を基調とした、この写真に写っているアバドとアルゲリッチは若い。
1970年代に撮影されたものであろう。

私は、この写真をiPhoneのロック画面にしているから、
一日のうちけっこうな回数見ているけれど、いまのところ他の写真に変えようとは思っていない。
もう一年半ぐらい、この写真のまま使っている。

アルゲリッチは1941年、アバドは1933年生れであるから、
1971年ごろだとしたらアルゲリッチは30、アバドは38ということになる。
もう少し後のことだとしてもアルゲリッチは30代だし、アバドも40前半ごろといえる。

老いを意識しはじめている年齢ではないはずだ。

日本では青は、未熟、若い色として使われることがある。
青臭い、青二才、青女房、青侍、それに青春がある。

写真のふたりはまだまだ若い、といえる。
いまのアルゲリッチの姿、亡くなる前のアバドの姿を知っているだけに、
まだまだ若いではなく、素直に若い、と感じる。
だから青が似合う。よけいにそう思えるけど、このふたりに未熟さは感じない。

だから、この写真の「青」は、何かと何かの狭間にある色のように感じることがある。

Date: 6月 25th, 2016
Cate: 名器

ヴィンテージとなっていくモノ(その4)

何をもってして、ヴィンテージというのか。
これを考えていると、なかなか答が出なかった。
これといった定義が見つけられなかった。

ヴィンテージ(vintage)の意味は辞書を引けば載っている。
けれど、英単語としての意味ではなく、
オーディオにおけるヴィンテージとはどういうことなのか、
もしくはヴィンテージオーディオとは、どういうものなのか。

だから一度ステレオサウンドの特集で、
一流品(41号)やState of the Art(49号、50号、53号……)などを開いては、
そこに登場するオーディオ機器をパッと見ては、
これはヴィンテージと呼べる、これは呼べない、これは保留。
そんなふうに続けざまに見ていった。

定義づけがはっきりとしないままで、
むしろそんなことを考えずに、とにかく見て感じたままで、そんな振分けをした。

やっていて気づいたことは、
私がヴィンテージとして選んだモノは、オーディオの古典といえるものばかりであった。

名器と呼べるモノと重なってはいるけれど、
私の中では名器と古典は少し違ってくるところがある。
その意味では、名器をヴィンテージと捉えているわけではないことを確認したともいえる。

アンプでいえば、マランツのModel 7はヴィンテージである(私にとっては、である)。
Model 2、Model 9もヴィンテージといえる。
マッキントッシュのC22、MC275もそうだ。

ではJBLのSA600、SG520、SE400Sはどうかというと、保留だった。
私の中では、これらのアンプは名器として位置づけられている。
けれどヴィンテージかというと、ヴィンテージだ、とすぐさまそう思えたわけではないし、
だからといってヴィンテージではない、とすぐに感じたわけでもなかった。

この三機種の中では、SA600はヴィンテージに近い気もするし、
別の視点から捉えようとすればSG520の方が近いのではないか……、という気もしてくる。

パワーアンプのSE400Sこそ、回路的に見れば古典といえるわけだし、
ならばヴィンテージかというと、必ずしもそうは感じない。

Date: 6月 24th, 2016
Cate: High Resolution

Hi-Resについて(その7)

ステレオサウンド 57号の表紙はハーマンカードンのCitation XXだった。
マッティ・オタラのインタヴュー記事の最後に、
(編注=ハーマン・カードンXXの詳細については次号に掲載予定です)とあった。

58号の表紙はスレッショルドのパワーアンプSTASIS 1だった。
新製品紹介のページに、Citation XXは登場していなかった。
ということは次号(59号)か、と思った。

59号の表紙はJBLの4345だった。
この号でもCitation XXの姿はなかった。

Citation XXが新製品紹介のページに登場したのは60号だった。
長島先生が書かれている。
カラーで4ページ割かれている。
写真をみるかぎり、57号の表紙との違いはない。
にもかかわらず、ここまで発売がずれこんだのは最終的なチューニングのためであろう。

Citation XXの製造は日本の新白砂電気が行っている。
回路設計はマッティ・オタラで、Citation XXの開発がスタートして以来、
日本とフィンランドを幾度となく往復して二年有余の歳月が費やされた、との説明文がある。

井上先生が何度かステレオサウンドに書かれているように、
Citation XXはネジの締付けトルクを管理した初めてのアンプでもある。

60号の記事には、Citation XXのブロックダイアグラムが載っている。
入力信号はまずINFRASONIC、ULTRASONIC、ふたつのフィルター回路に入る。
フロントパネルのボタンでON/OFFできるようになっているだけでなく、
フィルターを必要とする状況では、それぞれのインジケーターが赤色に点灯するようになっている。

INFRASONICは1Hz以下の周波数を6dBでカットしている。
ULTRASONICは100kHz以上を、2次のベッセル型でカットしている。
記事を読んだ当時は気づかなかったけれど、
ここでベッセル型を採用しているところが、マッティ・オタラらしい、といまは思う。

INFRASONIC、ULTRASONICのあとは500kHz以上をカットするフィルターが設けられている。
こちらはON/OFF機能はない。

ステレオサウンド 57号のインタヴュー記事は、テクニカルノートという連載記事のひとつである。
57号では、この他に、松下電器産業の藤井喬氏によるテクニクスのリニアフィードバック回路の記事、
日本ビクターの藤原伸夫氏によるピュアNFBについての記事もある。

藤原氏が、次のように述べられている。
     *
藤原 TIM歪というのは、アンプ内の立ち上りのスピードと入力の立ち上りのスピードとの間にある関係があり、アンプ内部での立ち上りよりも速い信号に対しては歪みが出るけれども、それ以下の信号だとゼロになってしまう特徴があるのです。私どものTIM歪判断の基準として、たとえば入力に100kHzの高域をカットするフィルターを入れた状態で、立ち上り無限大の理想的な矩形波を入れる。立ち上り無限大の矩形波は、100kHzのフィルターを通すと、立ち上りがある程度なまるわけですが、実際の音楽信号でこのような無限大の立ち上りをもつ進行は存在しません。実際に音楽のレベルなどをいろいろ検討しても、100kHzのフィルターというのは、音楽信号の立ち上りに対するマージンをとったとしても十分すぎるマージンがあるので、TIM歪みに対しては100kHzのフィルターを入力に入れれば対処できるのではないかという考えが多いようです。ですから、現存するどんなアンプでも無限大の立ち上りの信号を入れれば、すべてTIM歪的なものが出てきてしまいますので、入力フィルターをいくらにとるかということが一つの基準のようになっているのです。
 私どもでは、入力に100kHzのフィルターを入れていますので、音楽信号に対してはTIM非済みゼロであると宣言しています。
     *
ここでも100kHzのフィルターが登場している。

Date: 6月 24th, 2016
Cate: ディスク/ブック

「聴覚の心理学」

先日「聴覚の心理学」という本を手に入れた。
共立出版株式会社の現代心理学体系の一冊であり、昭和32年(1957年)に出版されている。

私が手に入れたのは昭和39年の初版第三刷。
ずいぶん前の本であり、しかも注文伝票(しおり状のもの)がついたままなのだから、
どこかの書店に売れずに残ったものだったのかもしれない。

著者は黒木総一郎氏。
奥付の著者紹介には、こう書いてある。
     *
大正3年神戸市に生る。
昭和12年東京大学文学部心理学科卒業後、同大学文学部副手、助手、嘱託を歴任、その間東京市立聾学校、陸軍航空通信学校嘱託などを兼任。
戦後外務省嘱託、相模女子大講師などを経て、昭和25年日本放送協会に入り、現在同協会技術研究所音響効果研究室主任。なお昭和25年夏から一年余米国に留学、アイオワ大学およびハーヴァード大学大学院学生として、またMIT電子工学研究所客員として音響心理学を専攻した。
     *
ほとんど忘れかけていた本である。
この本のことを知ったのは、ラジオ技術の別冊に武末数馬氏が書かれていたからだ。
そのころ手に入れようといくつか古書店を探しても見つからなかった。
それでいつしか忘れかけていた。

それをたまたま思い出して(といっても書籍名だけである)、検索してみた。
うろ覚えに近かったけれど、インターネットは便利になったと、こういうときに感じる。
筆者名もすぐに出てくる。そしてインターネットで注文した。

読み終えたわけではないから、目次だけを書き写しておく。

第1章 聴覚刺戟の性質
 第1節 音波
 第2節 音の波形
 第3節 音響スペクトル
 第4節 周波数の測定
 第5節 音の強さ
 第6節 デシベル
第2章 聴覚の生理学
 第1節 耳と聴覚
 第2節 外耳
 第3節 中耳
 第4節 内耳
 第5節 聴神経
 第6節 聴覚中枢
 第7節 聴覚異常
第3章 音の心理物理学
 第1節 音ときこえ
 第2節 可聴範囲
 第3節 マスキング
 第4節 弁別限
 第5節 音の周波数と高さ
 第6節 音の強さと高さ
 第7節 両耳効果と音の定位
 第8節 音の変化の知覚
 第9節 音色の知覚
第4章 音のない世界 ──ろうと難聴──
 第1節 聴力とは
 第2節 各種聴力検査法の比較
 第3節 純音聴力検査
 第4節 骨導聴力の検査
 第5節 語音聴力の検査
 第6節 各種聴力検査と補聴器
 第7節 年齢と聴力
 第8節 騒音と聴力
第5章 音だけの世界
 第1節 聴覚と通信
 第2節 言葉の伝送
 第3節 音楽の伝送
 第4節 Hi-Fiの問題

 附録1 オージオメーター(規格)
 附録2 指示騒音計(規格)
 附録3 簡易騒音計(規格)
 附録4 デシベル換算表

これを見て興味を持つ人もいれば、まったく持たない人もいよう。 

Date: 6月 23rd, 2016
Cate: High Resolution

Hi-Resについて(その6)

ステレオサウンド 57号でマッティ・オタラは、
100ぐらいのわかっていない歪が存在していると思う、と発言している。
そうかもしれない。

静的特性の歪ではなく、動的特性の歪に関しては、
意外にもそうなのかもしれない。
まだまだわかっていない歪が、かなりの数あっても不思議ではない。

57号ではTIMの他に、IIMについての説明もある。
     *
長島 TIMはスピーカーを除外したアンプ内のNFBの不正確な部分がクローズアップされたもので、これに対して、IIMはアンプにスピーカーをつないだ状態で、NFBの不正確さを追求したものと解釈していいわけですね。
マッティ・オタラ そのとおりです。このIIMを発見したきっかけというのは、スピーカーを聴いていると、400Hz〜1kHzのところにホーンで聴いているようなこもった感じがある。周波数特性はフラットなんでしょうがその辺が盛り上がった感じに聴こえる。どうしてだろうと思って、アンプやスピーカーを替えて聴いてみた。いいスピーカーといいアンプで聴くと、それがフラットに聴こえるんですけど、悪いスピーカーと悪いアンプでは、もちろんそうなっているのですが、スピーカーの悪さにマスクされてそれほど変わらない。いいスピーカーと悪いアンプで聴くと、まさしくアンプのこれが出てくるんです。これがIIMの発見のきっかけでした。ですから、悪いスピーカーを使っているのだったら、いいアンプを使う必要はないわけです(笑)。
 PIMは簡単にいいますと、フェイズ(位相)と振幅の直線性が一致しないという点を問題にしているわけです。
     *
マッティ・オタラはTIMにしてもIIMに関しても、
まず理論があって、これらの現象を発見したのではなく、
あくまでも音を聴いて疑問を感じ、その疑問の発生原因を追及していくことで、
動的歪を発見している。

このことはとても重要なことであり、科学にとって観察することが、
それも正しく観察することから始まる、ということを改めて教えてくれる。

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その14)

ステレオサウンドがオーディオの雑誌なのか、オーディオの本だったのかは、
別項で書いている「オーディスト」のことにも深く関係している、と私は感じている。

ステレオサウンドは2011年6月発売の号の特集で、オーディストという言葉を使っている。
大見出しにも使っている。
その後、姉妹誌のHiViでも、何度か使っている。

「オーディスト(audist = 聴覚障害者差別主義者)」。
その意味を調べなかった(知らなかった)まま使ったことを、
おそらく現ステレオサウンド編集長は、何ら問題とは思っていないようだ。

当の編集長が問題と思っていないことを、
こうやって書き続けることを不快と思っている人もいるけれど、
この人たちは、ステレオサウンドをオーディオの雑誌と捉えている人としか、
私には映らない。

オーディオ評論の本としてのステレオサウンド。
そう受けとめ、そう読んできた人たちを「オーディスト(audist = 聴覚障害者差別主義者)」と呼んで、
そのことを特に問題だとは感じていないのは、
もうそういうことだとしか私には思えない。

いまステレオサウンドに執筆している人たちも、誰一人として、
「オーディスト(audist = 聴覚障害者差別主義者)」が使われたことを問題にしようとはしない。
つまりは、問題にしていない執筆者も、
ステレオサウンドをオーディオの雑誌と捉えているわけで、
オーディオ評論の本とは思っていない──、そういえよう。

Date: 6月 23rd, 2016
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その13)

これは断言しておくが、
いまのステレオサウンド編集部は、ステレオサウンドをオーディオの雑誌と捉えている。
というよりも、オーディオ評論の本とは捉えていないはずだ。

でも、それは致し方ない、とも一応の理解を示しておく。
私もステレオサウンド編集部にいたころは、そのことに気づかなかった。

なぜ気づかなかったのか。
理由はいくつかあると思っているが、
もっとも大きな理由は、オーディオマニアにとってステレオサウンド編集部は、
とても楽しい職場であることが挙げられる。

もちろん大変なことも少なくないけれど、
オーディオマニアにとって、あれだけ楽しい職場というのは、
他のオーディオ関係の雑誌編集部を含めても、ないといえよう。

このことが、ステレオサウンドは、以前オーディオ評論の本であったこと、
いまはオーディオの雑誌であるということに気づかせないのではないか。

そうはいってもステレオサウンドが、真にオーディオ評論の本であった時代はそう長くはない。
おそらくいまの編集部の人たちはみな、
ステレオサウンドがオーディオ評論の本であった時代を同時代に体験していないはずだ。

そういう人たちに向って、いまのステレオサウンドは……、ということは、
酷なことである、というよりも、理解できないことなのかもしれない。

ステレオサウンド編集部が私のブログを読んでいたとしても、
私がステレオサウンドに対して書いていることは、
「何をいっているだ、こいつは」ぐらいにしか受けとめられていないであろう。

編集部だけではない、
ステレオサウンドがオーディオ評論の本であったことを感じてなかった読者もまた、
「何をいっているだ、こいつは」と感じていることだろう。

ならば書くだけ無駄なのか、といえば、決してそうではない。
私と同じように、
ステレオサウンドが以前はオーディオ評論の本であったことを感じていた人はいるからだ。

Date: 6月 22nd, 2016
Cate: High Resolution

Hi-Resについて(その5)

アンプにNFBをかけることで、特性は改善される。
周波数特性はのび、各種の歪も減る。ゲインも安定化される。

メリットはかなりある。
けれどデメリットもあることはずっと以前からいわれてきている。

NFBをかけすぎたアンプの音は死んでいる。
はっきりとした理由はわからない時代から、そういわれてきた。

1970年代がそろそろ終ろうとしているころに、TIMという、
新しい歪のことが、日本の技術誌の誌面にも登場するようになってきた。

TIMとはTransient Intermodulationの略語である。
フィンランドの物理学者マッティ・オタラ(Matti Otala)が、1963年に発見した歪である。
1968年からTIM歪の理論づけをはじめ、1970年にほぼ終了。
1972年にTIM歪抽出の論文を発表、1974年アンプのTIM歪測定法を発表。
1975年に、TIM理論を発表。

その後、1976年にIIM (Interface Intermodulation)を、
1979年にはPIM (Phase Intermodulation)を発見している。

このころマッティ・オタラの時の人だった。
ちなみにマッティ・オタラは、もともとの本名ではなかったそうだ。
ステレオサウンド 57号でのインタヴュー記事(ききて:長島達夫氏)によると、
国によって発音が違ってこないように、
コンピューターの順列組合せでつくった名前から絞りに絞って決めた名前だそうだ。

結婚を機に改名しているため、マッティ・オタラが本名となっている。
マッティ・オタラは1939年生れ、2015年に亡くなっている。

57号のインタヴュー記事には、TIM発見のきっかけのエピソードが載っている。
放送局に勤めるマッティ・オタラの友人が80dBものNFBをかけたパワーアンプを作って、
彼の家に持ち込んだ。

それは非常に硬い音のするアンプだったそうだ。
友人は、音が硬いのはNFBに原因があるのではなく、他のところにあるはずだから、
一緒に探してほしい、ということだったが、何の問題も発見できなかった。

数日後、今度は友人宅に行って、ふたたびそのアンプの音を聴いている。
はるかにいい音になっていたそうだ。

ただし、友人は50W出力のアンプとして設計したのに、30Wの出力しかとれていない、と。
友人は、トランジスターのエミッターとコレクターを逆に接続していたため、
出力が設計よりも小さな値になっていたわけだ。

つまりアンプのNFBをかける前のゲインは設計値よりも低く、
当然その分NFB量も減っていたわけだ。

そこでエミッターとコレクターを正しく接続しなおしたら、また音は硬くなった、とある。
1963年のころの話だから、マッティン・オタラが
「80dBもNFBもかけたら音は良くならないよ」と言っても、友人は信じなかったそうだ。

この時点では、なぜNFBをかけすぎると音にとって有害なのか、
そのシステムを解明していたわけではなかったけれど、経験上感じていたようだ。

マッティン・オタラのTIMについての論文は、検索すれば見つかると思う。
英文で見つかるはずだ。

TIM歪と従来の歪との大きな違いは、
TIM歪はいわは動的歪であり、従来の混変調歪、高調波歪は静的歪といえ、
NFBは静的歪に対しては非常に有効であっても、
適切に扱わなければ動的歪の発生原因となる。

マッティ・オタラはNFBをアスピリンにも例えている。
軽い頭痛であればわずかなアスピリンでおさまる。
けれど10kgのものもアスピリンを摂取したら非とは死んでしまう、と。

ちなみに57号(1980年時点)で、最適なNFB量は、
アンプの回路、使用するパーツによって変ってくるため一概にいえないとことわったうえで、
1970年の時点では22dB、1980年では12dB程度だといっている。

57号の表紙はハーマンカードンのパワーアンプ、
Citation XX(サイテーション・ダブルエックス)であり、
このアンプの回路設計はマッティ・オタラであり、NFB量は9dBとかなり低く抑えられていた。

57号の記事で、興味深いのはウィリアムソン・アンプについてである。
管球式アンプとしては、多量のNFBをかけて話題になったが、NFBは20dBである。

マッティ・オタラによると、ウィリアムソンの1933年の論文には、
NFBについては24dBを選択した、とある。
30dBをこすNFBをかけると、当時の測定器では測定できないほど静特性は改善される。
けれどウィリアムソンが24dBに抑えたのは、
ウィリアムソンは感覚的にTIMを発見していたのではないか、ということ。

Date: 6月 22nd, 2016
Cate: High Resolution

Hi-Resについて(その4)

1981年といえばいまから35年前になってしまう。
そのころ出たステレオサウンドは58号、59号、60号、61号である。

58号の掲載の岡先生の「クラシック・ベスト・レコード」に、次のことを書かれている。
     *
 デジタル・マスターのレコードがふえるにしたがって、アナログ録音にくらべてものをいうひとがふえてきた。いちばんよくきかれる声は、高域の帯域制限によって生ずる情報量のすくなさ、ということを指摘する声である。音楽再生における情報量の大小をいう場合、その物理量をはっきり定義した、という例はほとんどなく、大体が聴感でこうかわったという表現を情報量という言葉におきかえられている。線材やパーツをかえると音がかわるということがさかんにいわれていたことがあったとき、この問題を好んで論ずるひとの合言葉みたいに情報量がつかわれていた。つまり、帯域の広さと情報量の多さが相関をもち、それがよりハイ・フィデリティであるという表現である。
 しかし、はたして実際にそのとおりかということになると、客観的データはすこぶるあいまいである。むしろ、録音・再生系の帯域を可聴帯域外までひろげることによって生ずる、超高域の近接IMがビートとなって可聴帯域の音にかかわりあうとか、TIMによる信号の欠落、あるいは非直線性の変調歪などが、聴感上情報量がふえるような感覚できこえるのではないかと考えたくなる。
 一昨年、ビクターの音響研究所がおもしろいデータを発表したことがある。プログラムをさまざまな帯域制限を行ったソースを用いて、数多くのブラインドのヒアリング・テストをした結果では、信号系の上限を15kHz以上の変化はほとんど検知されなかったという。音楽再生でハイ・エンドがよくきこえたとか欠落したとかという場合、むしろ帯域バランスに起因することが多い。中・低域がのびていると、高域はおとなしくきこえるし、低域が貧弱だと高域が目立つということはだれもが体験しているはずである。性能のよいグラフィック・イコライザーをつかって実験してみると、部分的なバランスを2dBぐらいかえてもからっと音のイメージがかわることがある。デジタル・システムはアナログ(テープ)にくらべて、低域の利得とリニアリティが丹前よく、かつ変調歪によって生ずる高域のキャラクターがより自然であるという点で、聴感上、ハイ・エンドがおとなしくなる、といったことになるのではないかと考えられる。高域の利得が目立っておちていると思えないことは、シンバル、トライアングルなどの高音打楽器が、アナログよりも解像力がよく、しかも自然にきこえる例でも明らかであろう。
     *
岡先生は、いまのハイレゾ・ブームに対して、どういわれるだろう……。

Date: 6月 21st, 2016
Cate: オーディオマニア

オーディオマニアの覚悟(その4)

気(き)は「け」とも読む。
ならば気(き)→気(け)→化(け)、
つまり気が化けて鬼(き)となる。

その3)を書いたあとで、そう気づいた。

Date: 6月 21st, 2016
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その12)

ステレオサウンド 26号からある連載が始まった。
わずか四回で、それも毎号載っていたわけではない、
しかも地味な、といえる企画ともいえた。

タイトルは「オーディオ評論のあり方を考える」である。
26号の一回目は岡先生、28号の二回目は菅野先生、30号三回目は上杉先生、
31号が最後の四回目で岩崎先生が書かれている。

瀬川先生、長島先生、山中先生が書かれていないのが残念だが、
この記事(企画)は、どこかで常に読めるようにしてほしいと、ステレオサウンドに希望したい。

そしてできるならば、200号で、
ステレオサウンドに執筆されている方全員の「オーディオ評論のあり方を考える」を載せてほしい。

難しいテーマである。
書けそうで書けないテーマでもあるからこそ、
その書き手のバックグラウンド・バックボーンの厚さ(薄さ)が顕在化してくるはずだ。

華々しい企画で200号の誌面を埋め尽くそうと考えているのならば、
こういう企画は無視させるであろう。

だから問いたいことがある。
ステレオサウンドは何の雑誌なのか、である。

オーディオの雑誌、と即答されるはずだが、
ほんとうにステレオサウンドはオーディオの雑誌なのか、と思う。

私も10代のころ、まだ読者だった頃はそう思っていた。
けれどステレオサウンドで働くようになり、
それも瀬川先生不在の時代になって働くようになってわかってきたのは、
それもステレオサウンドを離れてからはっきりとわかってきたのは、
ステレオサウンドはオーディオ評論の本であった、ということだった。

こういう捉えかたをする人がどれだけおられるのかはわからない。
でも、同じようにステレオサウンドをオーディオ評論の本として捉えていた人、
ステレオサウンドにははっきりとオーディオ評論の本と呼べる時代があった、と感じている人は、
絶対にいるはずだ。

Date: 6月 20th, 2016
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その11)

長島先生が、サプリームNo.144(瀬川先生の追悼号)に書かれたことを憶い出す。
     *
オーディオ評論という仕事は、彼が始めたといっても過言ではない。彼は、それまでおこなわれていた単なる装置の解説や単なる印象記から離れ、オーディオを、「音楽」を再生する手段として捉え、文化として捉えることによってオーディオ評論を成立させていったのである。
     *
私はそういう瀬川先生が始められた「オーディオ評論」を読んできた。
菅野先生もステレオサウンド 61号に書かれている。
     *
この彼の純粋な発言とひたむきな姿勢が、どれほどオーディオの本質を多くの人に知らしめたことか。彼は常にオーディオを文化として捉え、音を人間性との結びつきで考え続けてきた。鋭い感受性と、説得力の強い流麗な文体で綴られる彼のオーディオ評論は、この分野では飛び抜けた光り輝く存在であった。
     *
少なくとも、ある時期のステレオサウンドに載っていたオーディオ評論は、
「オーディオは文化」という共通認識の上に成り立っていた。

けれど、どうもいまは違ってきているようだ。
「オーディオは文化」と捉えていない人が、オーディオ評論家と呼ばれ、
オーディオ評論と呼ばれるものを書いている。
それがステレオサウンドに載っている……、そう見ることもできる。

それはそれでもいいだろう。
長島先生がいわれるところの、瀬川先生が始められたオーディオ評論とは違うものだからだ。
別のところから始まったオーディオ評論があってもいいとは思う。

だが、「オーディオは文化」と捉えていない人が、
瀬川先生について書いているのを読むのと、一言いいたくなる衝動が涌いてくる。

Date: 6月 20th, 2016
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その10)

約一年前に別項「輸入商社なのか輸入代理店なのか(その10)」で、
「オーディオは文化」と捉える人とそうでない人がいることについて書いた。

「オーディオは文化」なのか。
私はこれまでずっとそう思ってきたし信じてきている。
けれど、世の中にはいろんな人がいるわけで、
オーディオマニアであっても「オーディオは文化」とは捉えない人がいるし、いてもいい。

あくまでも文化といえるのは音楽であって、
それを再生するオーディオ機器は文明とはいえても、文化とは認められない。
そういう考えはあってもいい。

たとえばコンピューターにおけるソフトウェアとハードウェアについて、
コンピューターに詳しくない人に対して、
ある人は「ソフトウェアは文化、ハードウェアは文明」と答えた話を読んだことがある。

同じことはオーディオにもあてはめようと思えば可能である。
だから「ソフトウェア(録音物)は文化、オーディオ機器(ハードウェア)は文明」
という捉えかたを全否定する気はない。

ただ「オーディオは文化」となると、そこには自ずとソフトウェアも含まれると考えられる。
そうなるとどうだろうか。

コンピューターにしてもソフトウェアだけでも、ハードウェアだけでも役に立たない。
両方揃って、はじめて道具として機能することを考えれば、オーディオもまた同じことである。
ならば「オーディオは文化」と捉えるのが道理としか私には思えないのだが、人はさまざまだ。

ステレオサウンドはどうだろうか。
私がいたときは「オーディオは文化」として捉えていた。
ステレオサウンド 49号で当時の編集長であった原田勲氏が、
《オーディオ機器の飛躍は、オーディオ文化の昇華につながる》と書かれている。

「オーディオは文化」としての編集方針があったのは明白である。
いまはどうなのかわからないが、少なくとも以前はそうだった。

ということは、そのころ熱心にステレオサウンドを読んできた人たち(私もその一人)は、
「オーディオは文化」と捉えてきた人たちであるはずだ。

Date: 6月 20th, 2016
Cate: 書く

毎日書くということ(How High The Moon)

1992年に公開された映画「スニーカーズ」。
ロバート・レッドフォードが主演している。
公開当時、映画館で観たきり、いままでもう一度観ることはなかった。

でも、なぜか気になっていた。
数年ごとに、ふっと気になる映画。
でも、なぜ気になるのかが自分でもよくわかっていない映画だった。

それでもDVDを買ったり借りたりしてまで観よう、という気にはならなかった。
その程度の気にかかりではあるともいえる。

ほっといてもよかったのだが、改めて「スニーカーズ」を観た。
あるシーンで、ここかも、と思っていた。
これが気になっていたのかも……。

なぜなのかが自分でもわかっていないのだから、
これだったのか、という確信は持てないのだが、
そのシーンで登場した四脚の「How High The Moon」に気づいて、納得できた。

毎日書くということにも、同じところがある。
なんとなくき気になっているところ、
ややもするとどこかに置き忘れてしまいそうな、そんな些細と、その時は思えることを、
どこかで確認して、はっきりとさせるからだ。