オーディオ評論家は読者の代表なのか(その10)

約一年前に別項「輸入商社なのか輸入代理店なのか(その10)」で、
「オーディオは文化」と捉える人とそうでない人がいることについて書いた。

「オーディオは文化」なのか。
私はこれまでずっとそう思ってきたし信じてきている。
けれど、世の中にはいろんな人がいるわけで、
オーディオマニアであっても「オーディオは文化」とは捉えない人がいるし、いてもいい。

あくまでも文化といえるのは音楽であって、
それを再生するオーディオ機器は文明とはいえても、文化とは認められない。
そういう考えはあってもいい。

たとえばコンピューターにおけるソフトウェアとハードウェアについて、
コンピューターに詳しくない人に対して、
ある人は「ソフトウェアは文化、ハードウェアは文明」と答えた話を読んだことがある。

同じことはオーディオにもあてはめようと思えば可能である。
だから「ソフトウェア(録音物)は文化、オーディオ機器(ハードウェア)は文明」
という捉えかたを全否定する気はない。

ただ「オーディオは文化」となると、そこには自ずとソフトウェアも含まれると考えられる。
そうなるとどうだろうか。

コンピューターにしてもソフトウェアだけでも、ハードウェアだけでも役に立たない。
両方揃って、はじめて道具として機能することを考えれば、オーディオもまた同じことである。
ならば「オーディオは文化」と捉えるのが道理としか私には思えないのだが、人はさまざまだ。

ステレオサウンドはどうだろうか。
私がいたときは「オーディオは文化」として捉えていた。
ステレオサウンド 49号で当時の編集長であった原田勲氏が、
《オーディオ機器の飛躍は、オーディオ文化の昇華につながる》と書かれている。

「オーディオは文化」としての編集方針があったのは明白である。
いまはどうなのかわからないが、少なくとも以前はそうだった。

ということは、そのころ熱心にステレオサウンドを読んできた人たち(私もその一人)は、
「オーディオは文化」と捉えてきた人たちであるはずだ。

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