Archive for category テーマ

Date: 9月 11th, 2016
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これまで(ヤマハNS1000M・その5)

ヤマハは総合オーディオメーカーであったから、
NS1000Mを鳴らすためのアンプも用意していた、と見ていい。

となるとどのアンプがそうなのか。
型番からいえばプリメインアンプのCA1000(III)となる。
価格的にもCA1000が、ヤマハが想定していたアンプのひとつと見て間違いない。

CA1000の上級機としてCA2000が登場した。
当時のヤマハにはNS2000という型番のスピーカーはなかった。
CA2000もNS1000Mのためのプリメインアンプとみていい。

ただCA1000にしてもCA2000にしても、アピアランス的にNS1000Mにマッチしているかというと、
そうとはいえず、仕上げの違うNS1000との組合せを前提しているのか。
NS1000でも、木目の色調がかなり違うのも、実際のところどうなのだろうか。

アピアランスでいえば、NS1000Mを鳴らすアンプは、
プリメインアンプの中にはなく、セパレートアンプのC2とB2の組合せとなる。

価格的なバランスは、C2が15万円、B2が20万円で、
アンプにややウェイトを置きすぎのような気もするが、非常識な組合せではない。
C2とB2で鳴らすNS1000Mの音を聴いた人は、けっこういるのではないだろうか。

私もNS1000Mは、いくつかのアンプで鳴らした音を聴いている。
ステレオサウンドで働くようになって、けっこう数を聴いている。
ヤマハのアンプで鳴らすNS1000Mの音も、もちろん聴いている。

ステレオサウンド 64号の特集では、
プリメインアンプのA8と、セパレートアンプではC50+B50、C70+B70の音を聴いている。
悪い音ではなかったはずだ。

悪い音、ひどい音であればけっこう憶えているからだ。
でも、64号を読み返しても、ヤマハのアンプで鳴らしたNS1000Mの音をうまく憶い出せないでいる。
つまり印象にのこっていないからなのだが、
それはヤマハのアンプが冴えなかったからではない。

ケンウッドのL02Aで鳴らしたNS1000Mの音が良すぎたから、
その音の印象が強すぎるためである。

Date: 9月 11th, 2016
Cate: audio wednesday

第69回audio sharing例会のお知らせ

10月のaudio sharing例会は、5日(水曜日)です。

テーマは未定。
やりたいことはいくつかあっても、その準備がうまくいくかどうかと時間の都合もあるから、
いつやれるかがはっきりと決るわけでもない。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 9月 11th, 2016
Cate: きく

感覚の逸脱のブレーキ(その3)

ここでのタイトルは「感覚の逸脱のブレーキ」である。
つまり感覚の逸脱をすべて否定しているわけではなく、
むしろ感覚の逸脱を怖れることはないし、
さらにいえば積極的に感覚の逸脱を行う(試みる)ことも必要だと考えている。

そのうえで感覚の逸脱の「ブレーキ」が必要となる──、という考え方である。
ブレーキがあるからこそ、信頼できるブレーキがあれば、
感覚の逸脱も逸脱しすぎるということはない。

逸脱しすぎてしまうことの怖さは、
逸脱していることを意識しなくなる(感じなくなる)ことではないだろうか。

録音・再生の約束事を無視して感覚の逸脱という暴走に、ブレーキをかけることをしない。
どんどんと逸脱していってしまう。
そういう実例を知っているからこそ、この項を書いている。

Date: 9月 10th, 2016
Cate: 「オーディオ」考

「気」と「手」(その1)

オーディオに不可欠なものとして、電気と空気が挙げられる。
将来はスピーカーというトランスデューサーを必要とせず、
脳に直接信号を送るという技術が生れるであろうし、
そうなったら空気は必要不可欠なものではないわけだが、
いまわれわれがオーディオと認識している現象には、
電気と空気は必要不可欠であり、
どちらにも「気」がついている。

空気も電気に形がないから、「気」なのかと思いながら、
なぜ聴き手には「手」がついているのかを考えてしまう。

書き手ならば、まだわかる。
書くためには手を使う。だから書き手。
読み手もそうだ。本を読むのに手を使う。だから読み手。

楽器の演奏者を弾き手という。
これもわかる。
楽器を弾くには手を使う。だから弾き手。

けれど聴き手はどうだろう。
ここでの聴き手は、音楽を聴く人のことである。

たとえばインタヴューをする人のことを聞き手という。
これはまだ理解できる。
相手が話したことを書き留めるために手を使う。
そんなふうに解釈できないこともない。

でも聴き手は違う。
聴く前には手を使う。
LPなりCDなりセットして、音を出すまでには、さほどでもないにしろ手を使う。
だが音を出たら、手を使うことはない。
にも関わらず聴き手というのは、なぜなのか。

「気」と「手」がいま気になっている。
関係しているように感じているからだ。

Date: 9月 10th, 2016
Cate: きく

感覚の逸脱のブレーキ(その2)

信号処理に関係する機能は、感覚の逸脱のアクセルとなる、ともいえる。
レベルコントロールも、音量を上げすぎと感じたら、
それは感覚の逸脱であり、レベルコントロールをすっと下げるわけだが、
感覚の逸脱ということでは音量が小さすぎるのも、感覚の逸脱といえるはずである。

音楽には、個々の楽器には適正音量があるからこそ、
上げすぎと感じるともいえる。
ならば音が小さすぎるのも、適正音量から外れているのだから、
適正音量の範囲までレベルコントロールをあげるのかといえば、
多くの場合、音量が大きいことは批判の対象となりがちなのに、
音量が小さいことはそうはならず、むしろ評価としては高くなることがある。

アクースティック蓄音器にはレベルコントロールはなかった。
レベルコントロールがつき、音量を自在に変えられるようになるのは、
電気蓄音器になってからである。

電気が蓄音器をコントロールするようになり、
レベルコントロールだけでなく、さまざまな信号処理機能が付加されていった。
フィルター、トーンコントロール、グラフィックイコライザー、パラメトリックイコライザー、
さらにはデジタル信号処理が加わることで、使い手がいじれる領域は拡大していっている。

感覚逸脱のアクセルは、逸脱の度合はそれぞれ違うけれど、確実に増えてきている。
怖いのは、これらを使う人が、
必ずしも感覚の逸脱のアクセルになるということを意識していないことにある。

別項で書いている「間違っている音」に関しては、その実例でもある。
最新の、それもプロフェッショナルが使う信号処理の機器を手に入れて、
あきらかに逸脱してしまっていた。

本来、これらの機器は、ブレーキとまではいえなくとも、いわば整音の機能を実現したモノである。
なのに使い手によって、反対の機能として働くことになる。

Date: 9月 9th, 2016
Cate: 柔と剛

柔の追求(その12)

ハイルドライバー(Air Motion Transformer)は原理的には同相のダイボール型である。
ADAMのAMTユニットX-ART、エラックのJET、
それ以外にもいくつかのメーカーがつくっているAMT(Air Motion Transformer)は、
ダイアフラム背面を磁気回路でふさいでしまっているため、
ダイボール特性ではなくモノポール特性としてしまっている。

ADAMにしろエラックにしろエンクロージュアのフロントバッフルにAMTユニットをとりつけている。
ESSのamt1のようにエンクロージュア上部に置いた形であればダイボール特性をいかせるが、
エンクロージュアをもつのであればそうもいかないし、
ダイアフラム背面をふさいでいなければ、ウーファーの背圧をモロに受けてしまい、
ダイアフラムがゆすられてしまう。

それを防ぐためにも磁気回路でダイアフラム背面をふさぐか、
もしくはバックキャビティをもうけるかである。
どちらにしろダイボールではなく、モノポールになる。

ハイルドライバーに対し、ピストニックモーションのユニットは逆相のダイボール型である。
ここでユニークなのは、インフィニティのスピーカーシステムである。

インフィニティは1980年ごろ、ラインナップを一新して、
中高域にEMIM、EMITと呼ばれる独自のユニットを採用するようになった。

インフィニティのこの時代のシステムがユニークなのは、
EMITをシステムの背面にも取りつけている点である。

フラッグシップモデルのIRSは前面にEMITを24、背面に12取りつけている。
普及クラスのReference Standard 4.5では前面に3、背面に1となっている。

EMITは5kHz以上を受け持っている。
つまり5kHz以上の帯域はダイボール特性であり、しかも同相のダイボールである。

Date: 9月 9th, 2016
Cate: 柔と剛

柔の追求(その11)

ステレオサウンド 72号の特集「いま、聴きたい、聴かせたい、とっておきの音」で、
朝沼予史宏氏はアクースタットのModel 1+1のところで、こう書かれている。
     *
 70年代中期以降、米国のハイエンドのオーディオシーンは静電型をはじめとするダイボール型スピーカーが牽引してきた感があるが、アクースタットの占める位置は実に興味深い。
     *
ダイボール(dipole)型と呼ばれるスピーカーは、前面と後面に等しく音を放射する。
厳密にいえばQUADのESLの前面と後面の音は等しいとはいえない。
実際のESLを分解してみれば、すぐにわかることである。

それでもコーン型ユニットの後面の音をエンクロージュアで囲ってしまったり、
ドーム型、ホーン型といった方式と比較すれば、QUADのESLも充分ダイボール型といえる。

確かにアメリカでは1970年代中期以降、マグネパンも登場しているし、
インフィニティもこのころはトゥイーターにウォルッシュ型を使い、
水平方向の無指向性を確保している。
ハイルドライバーのオリジネーターといえるESSのamt1もトゥイーターはダイボール型である。

1980年代にはいり、オールリボン型のアポジーが登場する。
このスピーカーもダイボール型である。

ただしリボン型トゥイーターの場合、多くは磁気回路でダイアフラムの背面をふさいでいるため、
ダイボール型にはなっていないものも多い。
パイオニア、デッカ、ピラミッドのリボン型、テクニクスのリーフ型がそうである。

ダイボール型が音場感豊かな音聴かせてくれる──、
そう思いこんでいる人はけっこういるようだ。
そういう人たちの中には、音場感の豊かさと音場再現を混同している人も少なくない。
私はそう感じることがけっこうある。

ダイボール型が得意とするのは、音場感なのか音場なのか。
これについては、あえてここでは述べない。
ここで書いておきたいのは、
ダイボール型には後面の音が前面の音と同相のものと逆相のものがある、ということだ。

Date: 9月 8th, 2016
Cate: アンチテーゼ

アンチテーゼとしての「音」(その4)

「耳に遠く、心に近い」音と「耳に近く、心に遠い」音。
一年ほど前に書いたことだ。

後者の「耳に近く、心に遠い」音が、とても増えてきたように感じている。
ステレオサウンドで高い評価を得ているスピーカーシステムのいくつかにも、
「耳に近く、心に遠い」音のように感じている。

どのスピーカーがそうだとは書かない。

心に近い、心に遠い──ほど、主観的なことはない。
だから私にとって、私の心に近い音が、別の人にとって心に近いとは限らないし、
反対に遠いと感じることだってあるのだから。

ひとりひとりが見極めればいいことである。
同時に、私にとって「心に遠い」音を出すスピーカーを高く評価している人もまた、
私にとって「心に遠い」人ということになっているのかもしれない。

Date: 9月 8th, 2016
Cate: 「オーディオ」考

時代の軽量化(その2)

時代の軽量化。

それは残心なき時代のことのようにも感じている。

[残心]
武道における心構え。一つの動作が終わってもなお緊張を解かないこと。剣道では打ち込んだあとの相手の反撃にそなえる心の構え、弓道では矢を射たあとその到達点を見極める心の構えをいう。
(大辞林より)

Date: 9月 8th, 2016
Cate: アナログディスク再生

アナログプレーヤーの設置・調整(その31)

接点をこまめにクリーニングする知人がいた。
彼がオーディオ機器のセッティングを大きく変更するというから手伝ってほしい、といわれた。

セッティングの変更だから、まず接続ケーブルを外していくことから始まる。
ここで気づいたのだが、確かに接点はこまめにクリーニングされているようであるが、
RCAプラグがスポッと簡単に抜けてしまった。

スピーカーケーブルに関しても同様だった。
アンプ・リアパネルのスピーカー端子、スピーカーシステム裏側のスピーカー端子、
どちらも締めがゆるかった。
ほとんど力を入れずに緩めることができた。

これでは……、と思ってしまった。
ステレオサウンドの試聴室で、長島先生は特に接点の状態を気にされた。
接点のクリーニングはもちろん、
接点の嵌合具合に関しても,つねに気を配られていた。

RCAプラグがスポッと抜ける場合だと、
ロングノーズプライヤー(ラジオペンチ)で、RCAプラグのアース側の径を少し小さくされる。
あまり小さくしてしまうと、今度はRCAジャックにささらなくなるから、
適度に抵抗が感じられる程度にする。
何事もやりすぎは禁物である。

これでしっかりと嵌合するようになるのは、あくまでもアース側だけである。
それでもゆるいのとしっかりしている状態とでは、音に違いがあらわれる。
スピーカー端子も同じだ。
意識的に緩めた状態と締めた状態の音を比較してみれば、すぐにわかることだ。

アナログディスク再生だと、シェルリード線も交換できるし、この部分にも接点がある。
この個所の接点がゆるかったり、汚れていたりしては、
それ以降の接点をきちんとしていても、台無しである。

しかもシェルリード線の嵌合が緩いまま気にしていない人は、意外に多いようだ。

Date: 9月 8th, 2016
Cate: 柔と剛

柔の追求(その10)

ステレオサウンドとその別冊に書かれていることに、間違いはない──、
そんなことは当時もまったく思っていなかった。
当時は巻末にお詫びと訂正が載っていた。

でもメーカーのスピーカーの技術者のページで、
技術的な間違いの記述があるとは、まったく思っていなかった。

私がハイルドライバーの動作原理を、あのころすぐには理解できなかった理由のひとつが、
HIGH TECHNIC SERIESでの
《背面も前面と同じ特性の音波を放射する(背面は逆相となる)》だった。

だからこそしっかりと記憶していて、いまここで書いている次第だ。

プリーツ状のダイアフラムが伸縮する。
そうやって音を出すのであれば、前面も背面も同相の音が放射されるはず……、
なのに、HIGH TECHNIC SERIESには逆相となっている。

しかも書かれているのが佐伯多門氏である。
ステレオサウンドだけでなく、他のオーディオ雑誌にもスピーカーの記事を書かれていたし、
技術系のオーディオ雑誌では技術解説もされていた。
当時は有名な人だった。

だから疑う気はまったくなかった。
疑っていたら、ハイルドライバーの動作原理の理解はすんなりいっていたはずだ。

HIGH TECHNIC SERIESのこのことに関する訂正記事はなかった、と記憶している。

Date: 9月 8th, 2016
Cate: 柔と剛

柔の追求(その9)

昨夜のaudio sharing例会の「主役」は、
ハイルドライバー(Air Motion Transformer)といえる。

五年前、ADAMのスピーカーについて書いたことに対して、ある方からコメントがあった。
ADAMはAMTユニットをX-ARTと、エラックはJETと呼んでいるが、
この方式・原理をリボン型と同じだと考えている人からのものだった。

たしかにダイアフラムは、どちらもリボンと呼べるところがある。
けれど動作原理はまったく違う。
ダイアフラムの形状が似ているからといって、動作方式まで同じと考えるのは短絡的すぎる。

そのときも書いたのだが、いまAMTに関する技術解説を行っている記事があるだろうか。
エラックのCL310が登場したのは1998年。
そのときから今日まで、オーディオ雑誌でこの方式についてきちんと解説されただろうか。

やっと登場した記事が無線と実験、2015年の記事である。
その他にあっただろうか。

リボン型とAMTは、はっきりと違う。
このことは何度でも書いていく必要があるのかもしれない。
しかも以前の記事でも、この方式への誤解もあった。

ステレオサウンド別冊HIGH TECHNIC SERIES、トゥイーターを取り扱った三冊目の巻末には、
ダイヤトーン(三菱電機)の技術者だった佐伯多門氏が、
トゥイーターの基礎知識として、
コーン型をはじめ、ドーム型、ホーン型、リボン型、コンデンサー型など、
ほぼすべての動作原理を解説されていた。

ハイルドライバー(AMT)についての解説もあった。
ハイルドライバーの構造図もあった。
構成要素に短い解説がついた厨である。

ダイアフラムのところにはこう書いてあった。
《背面も前面と同じ特性の音波を放射する(背面は逆相となる)》

これは間違いである。
本文は佐伯多門氏が書かれているのははっきりしているが、
構造図の解説は佐伯氏によるものなのか、ステレオサウンド編集部によるものなのかはわからない。

ここにもハイルドライバーをリボン型と同じに捉えているための誤解がある。
リボン型は背面に、前面と逆相の音を放射する。
けれどハイルドライバー(Air Motion Transformer)では、
前面と背面の音は同相である。

Date: 9月 6th, 2016
Cate: audio wednesday, 柔と剛

第68回audio sharing例会のお知らせ(柔の追求・その8)

このブログを書いた後に、
the re:View (in the past)の更新作業にとりかかる。
最近は画像のレタッチ作業ばかりをやっている。

1ページ広告のレタッチは比較的楽なことが多い。
それが2ページ見開きの広告になると、すんなりいく場合とそうでない場合とがある。
難しいのは、左ページと右ページをうまくつなぎ合せることだ。

掲載誌をバラしてスキャンしているのだが、
それでも中央付近の画像がもともとないことがけっこうある。
多少重なるようにしている広告もあれば、
ぎりぎりぴったりの広告もあるし、あきらかにその部分が欠如している広告もある。

うまくごまかせることもあれば、そうでないこともある。
そうでない見開きの広告のレタッチをやっていると、ひどくめんどうに思えて、
なぜこんなことをやっているのか、と自分でも思ってしまうほどだ。

それでも、おっ、こんな広告があったんだ、と思えることが偶にある。
昨晩もひとつあった。
ティアックが出したESSのamt1の広告である。

オスカー・ハイル博士が黒板の前に立っている。
製品のamt1よりもハイル博士の写真の方が、かなり大きく扱われている。
このamt1の、ハイルドライバーの説明文もわかりやすい。

明日(9月7日)のaudio sharing例会は、
ハイルドライバー(AMT)とハイレゾリューション再生がテーマである。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 9月 5th, 2016
Cate: オーディオ評論

「商品」としてのオーディオ評論・考(その3)

同じ商品であっても、オーディオ機器とオーディオ雑誌は同一視できない。
アンプしろスピーカーにしろ、ジャンルに関係なく、
オーディオ機器においての商取引は、メーカー(もしくは輸入商社)とユーザーとで成り立つ。

実際には流通系路の関係で直接取引ではなく、問屋、小売店が間にいるわけだが、
それでもメーカーの商取引の相手はユーザーである。

オーディオ雑誌も、出版社と読み手とのあいだで商取引は行われるが、
前回書いているように、出版社は広告主とも商取引をしている。

メーカー、輸入商社には、この商取引はない。

メーカー、輸入商社はオーディオ雑誌に広告を出している。
ということは出版社と商取引をしているではないか──、という反論は成り立たない。

ここでの商取引は、商品においての商取引である。
メーカーが製造したオーディオ機器、
輸入商社が輸入したオーディオ機器、
これらが商品であり、この商品においての商取引はユーザーとのあいだに成り立っている。

メーカー、輸入商社がオーディオ雑誌に広告を出すのは、別の商取引である。
けれど出版社にとっては、別の商取引とはいえない。

株式会社ステレオサウンドにとっての商品は、季刊誌ステレオサウンドであり、
他の雑誌、HiViであったり、管球王国であったりする。
ここでは季刊誌ステレオサウンドに絞って話を進める。

季刊誌ステレオサウンドという商品は、読み手とのあいだの商取引、
広告主とのあいだの商取引、このふたつの商取引をもつ。
これが雑誌という商品の特徴でもある。

同じ出版物でも書き下しの書籍は、雑誌とは違ってくる。
そこに広告はないからだ。
書籍の商取引の相手は読み手のみである。

Date: 9月 5th, 2016
Cate: prototype

prototype(NS1000X・その3)

1984年に登場したNS1000xの末尾のx(小文字)は、
NS1000Xの登場から10年目ということで、ローマ数字で10をあらわすxがついている。

ならば1974年のプロトタイプであるNS1000XのX(大文字)は、何を意味していたのか。

NS1000XからはNS1000Mだけが生れたわけではない。NS1000も登場している。

NS1000は、NS1000Mとは違い、ウーファー前面に金属ネットはない。
かわりにサランネットがついてくる。

NS1000MではNS1000XにはなかったYAMAHAの文字がフロントバッフルに大きくある。
トゥイーターのほぼ真横にある。
NS1000には、スピーカー本体にはYAMAHAの文字はない。
サランネット下中央に、ヤマハのマークとともに小さくあるだけだ。

NS1000XとNS1000はその点で似ているし、
レベルコントロールの位置もほぼ同じといえる(完全に同じではない)。
NS1000Mはロゴがあるため、レベルコントロールはふたつともスコーカーの真横にある。

NS1000Xの外形寸法はW37.5×H67.5×D32.4cm。
NS1000MはW37.5×H67.5×D32.6cmとほぼ同じである。
奥行きのみわずかに違うのは、NS1000Mのウーファーの金属ネットがあるためだろう。
つまりNS1000XとNS1000Mのエンクロージュアの寸法は同じである。

NS1000はW39.5×H71.0×D34.9cmとわずかに大きくなっている。
NS1000は仕上げにこだわったスピーカーでもある。
NS1000XとNS1000Mの黒塗装に対し、黒檀オイルフィニッシュとカタログには書いてある。

それだけでなくサランネットの固定方法も一工夫なされている。