感覚の逸脱のブレーキ(その2)
信号処理に関係する機能は、感覚の逸脱のアクセルとなる、ともいえる。
レベルコントロールも、音量を上げすぎと感じたら、
それは感覚の逸脱であり、レベルコントロールをすっと下げるわけだが、
感覚の逸脱ということでは音量が小さすぎるのも、感覚の逸脱といえるはずである。
音楽には、個々の楽器には適正音量があるからこそ、
上げすぎと感じるともいえる。
ならば音が小さすぎるのも、適正音量から外れているのだから、
適正音量の範囲までレベルコントロールをあげるのかといえば、
多くの場合、音量が大きいことは批判の対象となりがちなのに、
音量が小さいことはそうはならず、むしろ評価としては高くなることがある。
アクースティック蓄音器にはレベルコントロールはなかった。
レベルコントロールがつき、音量を自在に変えられるようになるのは、
電気蓄音器になってからである。
電気が蓄音器をコントロールするようになり、
レベルコントロールだけでなく、さまざまな信号処理機能が付加されていった。
フィルター、トーンコントロール、グラフィックイコライザー、パラメトリックイコライザー、
さらにはデジタル信号処理が加わることで、使い手がいじれる領域は拡大していっている。
感覚逸脱のアクセルは、逸脱の度合はそれぞれ違うけれど、確実に増えてきている。
怖いのは、これらを使う人が、
必ずしも感覚の逸脱のアクセルになるということを意識していないことにある。
別項で書いている「間違っている音」に関しては、その実例でもある。
最新の、それもプロフェッショナルが使う信号処理の機器を手に入れて、
あきらかに逸脱してしまっていた。
本来、これらの機器は、ブレーキとまではいえなくとも、いわば整音の機能を実現したモノである。
なのに使い手によって、反対の機能として働くことになる。