Archive for category テーマ

Date: 9月 17th, 2016
Cate: ケーブル

ケーブルはいつごろから、なぜ太くなっていったのか(その17)

スピーカーの変換効率を向上させていく。
現時点では1%以下の変換効率のスピーカーが大半になってしまっているが、
それを理想といえる100%までもっていく技術が開発されたと仮定する。

そうなったときにスピーカーの音色の違いはなくなるのだろうか。

私が生きているうちには、そんなことはやってきそうにないけれど、
それでも考えてみた。

100%の変換効率をもっていたら、
スピーカー間の音色の違いはほとんどなくなる、といえるかもしれない。

100%の変換効率を実現するスピーカーの方式とは、
いったいどういうものになるのか、それはわからない。

たとえばステレオサウンド 50号に長島先生が書かれていたような、
スピーカー周辺の空気を磁化し、振動させるという方式で100%の変換効率が実現できたとしたら、
振動板がないわけだから、少なくとも振動板の素材がもつ固有音は排除できる。

少なくともなんらかの素材を振動板にするかぎりは、変換効率を100%にすることはできないはずだ。

──そんなことを考えていたこともある。
実際にはありえない100%の変換効率のスピーカーだと、
スピーカーケーブルの違いをどう表現するのか、とも考えた。

ケーブルの違いが、
いまわれわれが聴いているスピーカーとは比較にならないほどはっきりと聴きとれるのか。
そうだとしたらケーブルメーカーは、さらにあの手この手でさまざまな新商品を出してくるんだろうか。

こんなことも考えていた。
同時に、1%以下の変換効率のスピーカーシステムで、
ケーブルの違いが音として聴きとれる、という不思議さに気づいた。

ただ、すぐさまむしろ逆なのかもしれない、とも気づいた。
むしろ変換効率が低いからこそ、ケーブルの違いが音として出てきている、といえる面もあるのではないか。

Date: 9月 15th, 2016
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これまで(ヤマハNS1000M・その10)

ここまでヤマハのNS1000Mについて書いてきて、
ふと頭に浮んだことがある。
「NS1000Mはヴィンテージとなっていくモノなのか」である。

別項で「ヴィンテージとなっていくモノ」を書いている。
書いている途中で、NS1000Mについて、そこで書く予定はまったくなかった。
ついこの間まで、私はNS1000Mをヴィンテージとなっていくモノとして見ていなかった。

でも、ここまで書いてきて、
これから書いていこうと考えていることを照らし合せているうちに、
NS1000Mはヴィンテージとなっていくモノといえる気がしてきた。

このことが頭に浮んだときは、そうとはいえないな、と即座に否定したけれど、
でも考えれば考えるほど、否定の気持は薄れていっている。

かなり薄れてきているから、いまこれを書いているわけだ。
まだヴィンテージとなっていくモノとは断言できずにいる。

そのことを含めて、今後書いていきたい。

Date: 9月 14th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンド 200号に期待したいこと(その3)

すでにステレオサウンド 200号は書店に並んでいるのだから、
ここのタイトルも変えなければならないのだが、
それでも、あえて変えずに書こう。

まだ200号は見ていない。
それでも目次だけは、ステレオサウンドのウェブサイトで見ることができる。
ざっと眺めて思ったり感じたりすることは、いくつもある。

そのひとつを書けば、先ほど別項で書いた「糸川英夫のヘッドフォン未来雑学」。
この種の、いわば地味な記事、けれど年月が経って読んでも興味深い内容、
むしろ年月が経つことで、よりおもしろく読める内容の記事を、
いつのころからか現ステレオサウンド編集部は軽んじている、と感じることだ。

200号には附録がついている。
200号らしい、創刊50周年らしい附録と思う人の方が世の中多いであろう。

でも、今回の附録は200号らしい、というか、200号にふさわしい附録だったのだろうか。
これまでの50年が終り、次の50年への一歩となる201号のほうが、よりふさわしかったのではないだろうか。
そんなことを思う。

200号らしい、つまり50年という区切りをつける号の附録としてふさわしいのは、
地味で、手間もかかるけれど、50号の巻末附録である。

50号の巻末附録は、地味である。
けれど役に立つ。丹念に見ていくことで気づくことがいくつもある。

文字だけ、といっていい巻末附録。
丹念に見ていくのは、けっこうしんどいと感じても、得られることが多々ある。
50号分(正確には49号分と別冊分」だけでもそうだった。
200号(50年分)となれば、50号の四倍以上のボリュウムになる。

こんな面倒で、しかも誌面が地味になってしまうことを、
現ステレオサウンド編集部がやろうはずがないことはわかっていた。
それでも……、というおもいがあって、(その1)で書いた。

それにしても地味でも味わい深い記事が、まったくなくなってしまった。
違う表現で書けば、
これからのオーディオについて考えていくうえできっかけ、手がかりを与えてくれる記事が、
過去の記事ばかりという現実である。

Date: 9月 14th, 2016
Cate: atmosphere design

atmosphere design(その4)

「Hi-Fiヘッドフォンのすべて」に掲載されていた瀬川先生の文章を、
別項で引用した。
「Hi-Fiヘッドフォンのすべて」そのものをひっぱり出してこなくとも、
「Hi-Fiヘッドフォンのすべて」に載っている瀬川先生の文章はテキスト化しているから、
このブログを書いているMacのハードディスクに記録されている。

それでも「Hi-Fiヘッドフォンのすべて」をひっぱり出してきた。
ひっぱり出して、実際にページをめくることで気づくことがあるのを知っているからだ。

巻末に「糸川英夫のヘッドフォン未来雑学」という記事がある。
インタヴュー形式で、聞き手は相沢昭八郎氏。

糸川英夫氏についての説明はいらないだろう。
ばっさりと省かせてもらう。
知らない人は、Googleで検索していただきたい。

「Hi-Fiヘッドフォンのすべて」は1978年に出ている。
ほぼ40年前の本であり、「糸川英夫のヘッドフォン未来雑学」は40年前のインタヴュー記事である。

タイトルになっている未来学の「未来」とは、すでに過ぎ去った時代のことだろうか、
それともまだ来ていない時代のことなのだろうか。

こんなことをあえて書いたのは、昨夜読み返していて、実におもしろいと感じたからである。
正直にいえば、1978年にも、この記事は読んでいた。
でも当時は、15歳の私は、それほどおもしろさがわからなかった。

この記事に「空間のマルチ化」という表現が出てくる。
それから伝声管のことも出てくる。

こんなにおもしろい記事だったのか、といまごろワクワクして読んだ。

Date: 9月 13th, 2016
Cate: オーディスト

「オーディスト」という言葉に対して(その23)

audist(オーディスト、聴覚障害者差別主義者)とは、
神の御言葉を聴けない者は不完全な人間である、
神から与えられた言葉を聴けない、話せない者は不完全な人間である、
と主張する人たちのことだ、と聞いている。

このことを知っていたから、(その22)で、
五味先生の「マタイ受難曲」を引用したうえで書いた。

(その22)の最後に書いたことを、もう一度書いておく。

オーディスト(audist)という言葉ではなく、
オーディスト(聴覚障害者差別主義者)を生み出したのは、教会という、人が作ったシステムである。

五味先生の「マタイ受難曲」を読んでも何も感じない輩は、オーディストと名乗ればいいし、使えばいい。

Date: 9月 13th, 2016
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これまで(ヤマハNS1000M・その9)

ステレオサウンド 64号、ヤマハの広告に登場したNS1000M。
これが家庭で使われていたNS1000Mであったなら、
なんて乱暴な扱いを受けているNS1000Mだろう、と思ったことだろう。

私は何も、すべてのNS1000Mがキズが似合うと思っているわけではない。
どういう使われ方をしているかによって、それは変ってくる。

そこに写っていたのは可搬型モニターとしてのNS1000Mだったからである。
ヤマハ・エピキュラスのスタッフは、ユニットにダメージを与えないように、
フロントバッフルにのみ蓋を用意している。

可搬型であっても、何が何でもキズひとつつけたくない、と考える会社(人)もいる。
そういうところでNS1000Mが使われたとしたら、
NS1000Mがそのまま入る頑丈な可搬型ケースが用意されるであろう。
そしてかすかなキズがついたら、すぐに補修されるであろう。

扱い方は違ってくる。
そのことで思い出すことがある。
     *
スティーブ・ジョブズは、 iPod の外見を損ねるものには、カバーであれ何であれ、非常に敏感に反応するのだ。

私は彼とのインタビューを録音する際に、外付けマイクと iPod を持っていったことがある。

「iSkin」という透明プラスチックのカバーをつけた iPod を鞄から取り出した途端、彼は私に名画「モナリザ」に牛の糞をなすりつけた犯罪者を見るような目を向けたものだ。

もちろん私は、繊細なiPodに傷や汚れをつけたくないのだと言い訳したが、彼は聞き入れようとしなかった。

「僕は、擦り傷のついたステンレスを美しいと思うけどね。僕たちだって似たようなもんだろう?僕は来年には五十歳だ。傷だらけの iPod と同じだよ」
(スティーブン・レヴィ「iPod は何を変えたのか」より)
     *
けっこう前から見かける文章である。
「ジョブズ iPhone ケース」で検索すると、すぐに表示される。
読まれた人も少なくないと思う。

iPhone、iPad、iPodにケースをつけるかつけないか。
何もジョブズがいっているから、付けない方がいいとはいわないけれど、
私はiPhone、iPadにはケースを付けていない。

カバンは普段持ち歩かないので、
iPhoneはジーンズのポケットに、ケースなしで入れている。
実を言うと、何度か落としている。いまのところ運がいいのか破損したことはない。
液晶が汚れているのは気になるから、こまめにクリーニングするけれど、
キズは絶対につけたくない、とは思っていない。

持ち歩くモノだからである。

キズだらけのNS1000Mをみて、キズが似合う、と思ったのも、理由は同じところにある。
そう考えるとNS1000Mの「M」はmonitorから来ているのだが、
mobileの意味ももつようにも思えてくる。

Date: 9月 13th, 2016
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これまで(ヤマハNS1000M・その8)

ステレオサウンド 64号は、ヤマハのNS1000Mを印象づけた、という意味で、
ヤマハ(日本楽器)の広告も忘れてはならない。

カラー見開きの広告。
そこに写っているのは、キズだらけといっていいNS1000Mである。
この写真の脇には、こう書いてあった。
     *
この#60247RのNS-1000Mは
ヤマハ・エピキュラスに所属し、
武道館での世界歌謡音楽祭などもたびたび経験している
     *
このNS1000Mのリアバッフルにはキャスターが取りつけられている。
フロントバッフル側には木製の蓋が用意されていて、
そのまま持ち運びが容易に行えるようになっている。

NS1000Mの底板はキズだらけ。
フロントバッフルにもいくつかキズがある。

ウーファースコーカーのフレームには「54 12.6」、
トゥイーターのフレームには「54.1108」と書かれていてる。
おそらくユニットを交換した日付であろう。

このNS1000Mはヤマハが主催するコンサート会場での、
ミキサーのモニターとして使われていたのだろう。

いわば「働くNS1000M」である。
この写真を見ていると、キズが似合う、とも思えてくる。
なかなか、そう思えるスピーカーはないことも、思わせてくれる。

Date: 9月 13th, 2016
Cate: アンチテーゼ

アンチテーゼとしての「音」(その5)

菅野先生が以前いわれたことを思いだす。

ある有名な録音エンジニアによる録音のことだった。
どう思うか、ときかれた。
その録音エンジニアの録音を数多く聴いていたわけではなかった。
せいぜい数枚程度だった。

その範囲内での感じたことを話した。
菅野先生は、いわれた。
「いい音だけど、毒にも薬にもならない音だろう」と。

確かにそのとおりだった。
ケチがつけられるような録音ではない。
だから優秀録音として、高く評価されている。
いい音といえばそうであり、それを否定することは難しい。

それでもこちらの心にひっかかってくるところが稀薄にも感じていたのかもしれない。
だから菅野先生の「毒にも薬にもならない」に納得したのだろう。

「毒にも薬にもならない」音が、現代を象徴する音かもしれない。
この録音エンジニアの録音を高く評価する人が、
非常に優れていると評するスピーカーの音もまた、私には「毒にも薬にもならない」と感じられる。

録音として優秀であれば、
スピーカー(変換機)として優秀であれば、それでいいではないか。

それが「毒にも薬にもならない」ということだろう、といわれれば、
特に反論はしないけれども、それでもこれらの音は私にとって「耳に近く、心に遠い」音なのだ。

おそらく菅野先生の「毒にも薬にもならない」は、
同じ意味であったように思っている。

Date: 9月 13th, 2016
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これまで(ヤマハNS1000M・その7)

ステレオサウンド 64号の特集では、三組のスピーカーシステムを使っている。
JBLの4343が通常の位置に置かれ、その両脇にタンノイのArden IIとヤマハのNS1000Nだから、
NS1000MとArden IIのセッティングは、決していいとはいえない。

しかもNS1000Mはブックシェルフ型でスタンドを必要とする。

確か、このときのスタンドは他社製のスピーカー用であり、
しかもオーディオ店で使いやすいように、ということでキャスターが付いているモノだった。

お世辞にもスタンドとして、音的に推奨できるタイプではない。
ステレオサウンドでも、64号以降、このスタンドは使っていないし、
ブックシェルフ型スピーカーシステムのセッティングは、かなり変っていった。

それでもケンウッドのL02Aで鳴らしたNS1000Mの音は、印象に残っている。
スタンドをきちんとしたモノに変更し、4343とArden IIを試聴室から運び出して、
NS1000Mだけにして、L02Aで鳴らしたら、どこまで音をチューニングしていけただろうか。

そのことを考えると、いまでもワクワクしてくる。
NS1000MもL02Aも、いま程度のいい個体を探しだすのは大変なことだろう。
オーディオ店では、完全メインテナンス済みと謳っていたりするけれど、
そんなのは信じない方がいい、とだけはいっておこう。

64号の試聴ではNS1000Mの条件は決していいものではなかった。
それでも、あれだけの音を聴かせてくれた、という記憶はしっかりと残っている。

Date: 9月 13th, 2016
Cate: 素材

羽二重(HUBTAE)とオーディオ(その15)

別項「wearable audio(その1)」で書いたこと。
あの日、菅野先生のリスニングルームで私の腕の肌が感じていたことを思いだしている。

もしあの時、体を強ばらせる聴き方をしていたら、
きっと腕の肌は、音を感じること、音の波動を感じることはなかったように思う。

あの日、露出していたのは腕だけだった。
それこそ究極的には全裸で聴いていたら……、そんなことを想像もしていた。

仮に、あの日の菅野先生の音を自分の音とできたとして、
自分のリスニングルームで全裸で聴くかといえば、なかなかできないだろう。

独り暮しなのだから、気兼ねすることなく、
外から覗かれなければ全裸で聴いてもかまわないし、特に問題はない。
間違いなく、全裸で聴いた方が、より音楽を体感できる、という確信はある。

それでも……、である。
いくら独りでの行為とはいえ、眼前で音楽が演奏されている以上、
服はきちんと着ていたい、と思う。

ならば、服を着ることで、全裸よりもよりよく体感できるようにすることを考えるべきである。
そこで思い出すのが触覚コンタクトレンズである。

Date: 9月 12th, 2016
Cate: ヘッドフォン

ヘッドフォン考(終のリスニングルームなのだろうか・その10)

いかなる方式の、素材を使ったユニットであれ、
固有音から逃れることは完全にはできない。

同じ方式のユニットであっても、構造、素材が違えば、音は同じにはならない。
それでもある種の共通する音が、最後までわずかに残ることがある、ともいえる。

モノ(素材)・コト(方式)には、固有音がそれぞれあり、
その固有音同士の関係・組合せが最終的な音になっている、とも考えられる。

ハイルドライバー(Air Motion Transformer)も、完璧なトランスデューサーなわけではない。
そこにはなんらかの固有音が存在する。

私が気になっているのは、Air Motion Transformerという方式による固有音というよりも、
ダイアフラムに使う高分子フィルムをプリーツ状に加工して動作させることによって、
顕在化してきた固有音のようにも感じている。

細かな改良・工夫によって、固有音を抑えていくことはできる。
ダイアフラムの材質は同じであっても、
そこにプリントする導体によって、音は変化してくるはずだ。

一般的にはアルミ箔が多いようだが、
渡辺成治氏製作のATMユニットは銅箔だった。
アルミ箔と銅箔とでは、わずかに質量も変化するだろうが、アルミと銅の素材としての違いが、
音にあらわれていないとはいえない。

アルミ箔でもなく銅箔でもなく、金箔だったら……、とも想像している。

高分子フィルムといっても、さまざまな種類があるだろうから、
微妙に音は違うはずである。

ハイルドライバーはダイアフラムの、この種の違いを聴き分けるのに都合がいい。
磁気回路、フレームはそのままでダイアフラムだけを簡単に交換できるからである。

ダイアフラムがカートリッジ式になっていて、
上部から抜き差しするだけで交換できるのは、エッジやダンパーをもたない構造の特長である。

Date: 9月 12th, 2016
Cate: ヘッドフォン

ヘッドフォン考(終のリスニングルームなのだろうか・その9)

平面スピーカーで知られるFAL(古山オーディオ)では、
ハイルドライバーのトゥイーターを扱っている。
そこにはスイス製のダイアフラム、とある。

FALオリジナルハイルドライバーとある。
ということはダイアフラムだけを輸入して、磁気回路、フレームをつくり、
ATMトゥイーターとして製品化しているのたろう。

どのメーカー製なのか、詳細はないが、もしかするとERGO製なのかもしれない。
ヘッドフォンに使われているダイアフラムを使っていたとしても、ふしぎではない。

ならば逆も可であるのだから──、と考える。
ハイルドライバー(Air Motion Transformer)のヘッドフォンではなく、
AKGのK1000のハイルドライバー版が実現できないのだろうか、と。

ステレオサウンド別冊「Hi-Fiヘッドフォンのすべて」には、
ESSのヘッドフォンもMK1Sも登場している。
ハイルドライバーのヘッドフォンである。
     *
 スピーカーではすでにトゥイーターとして実用化されているハイルドライバーの応用という特殊型だ。中音域は広い音域にわたって全体に自然だが、高音域のごく上の方(おそらく10数kHz)にややピーク性の強調感があって、ヴォーカルの子音がややササクレ立つなど、固有の色が感じられる。が、そのことよりも、弦のトゥッティなどでことに、高音域で音の粒が不揃いになるように、あるいは滑らかであるべき高音域にどこかザラついた粒子の混じるように感じられ、ヨーロッパ系のヘッドフォンのあの爽やかな透明感でなく、むしろコスHV1Aに近い印象だ。低音がバランス上やや不足なので、トーンコントロール等で多少増強した方が自然に聴こえる。オープンタイプらしからぬ腰の強い音。かけ心地もかなり圧迫感があって、長時間の連続聴取では疲労が増す。直列抵抗を入れた専用アダプターがあるが、スピーカー端子に直接つないだ方が音が良いと感じた。
     *
ESSのラインナップにヘッドフォンはあるが、ハイルドライバーではない。
リエイゾン・オーディオからもATM方式のヘッドフォンは登場している。
こちらは全体域をATMでカバーしているわけではなく、2ウェイとなっている。

私が欲しいのは、くり返すがK1000のハイルドライバー版であり、
ハイルドライバーの同相ダイボール型という特性は、K1000と同じ構造にぴったりといえる。

と同時に、瀬川先生が「Hi-Fiヘッドフォンのすべて」で指摘されていること。
この点は、ESSのヘッドフォン固有の問題とは捉えていない。

以前エラックのCL310を鳴らしていた。
そのとき、同じようなことを感じていたからだ。

Date: 9月 12th, 2016
Cate: ステレオサウンド

夏の終りに(ステレオサウンド)

野球にほとんど関心のない私でも、
広島カープが25年ぶりに優勝したことは知っているし、
いくつかのニュースを読んでいる。

その中に、広島カープは1番から9番まで、チーム生え抜きの選手、というものがあった。
他球団の有名選手を金銭トレードで獲得して、チーム強化を図るのを悪いことだとも思っていないが、
それでも広島カーブのような球団があるのか、と少し驚くとともに、
ステレオサウンドは広島カープではないな、と思っていた。

ステレオサウンドは、はっきりと広島カープとは対極の方針である。
いわば読売ジャイアンツ的である。

このことは私がいたころから編集部で何度か話していた。
生え抜きの書き手がいるだろうか。
一から書き手を育てるのかどうか。
そういうことを話していた時期がある。

ステレオサウンドに書いている人たちは、ほとんどがどこかで書いていて、
それからステレオサウンドに書くようになった人たちだ。

野球選手とオーディオ評論家は同じには語れないのはわかっている。
野球選手は同時に複数の球団に所属できないが、
書き手はいくつもの出版社の雑誌に書いていける。

そんな違いがあるのはわかったうえで書いている。
ステレオサウンド生え抜きの書き手は……、と。

Date: 9月 12th, 2016
Cate: ヘッドフォン

ヘッドフォン考(終のリスニングルームなのだろうか・その8)

ステレオサウンド別冊「Hi-Fiヘッドフォンのすべて」で、
イエクリン・フロート Model 1が取り上げられている。
瀬川先生の評価は高かった。
     *
 かける、というより頭に乗せる、という感じで、発音体は耳たぶからわずかだか離れている完全なオープンタイプだ。頭に乗せたところは、まるでヴァイキングの兜のようで、まわりの人たちがゲラゲラ笑い出す。しかしここから聴こえてくる音の良さにはすっかり参ってしまった。ことにクラシック全般に亙って、スピーカーからはおよそ聴くことのできない、コンサートをほうふつさせる音の自然さ、弦や木管の艶めいた倍音の妖しいまでの生々しさ。声帯の湿りを感じさせるような声のなめらかさ。そして、オーケストラのトゥッティで、ついこのあいだ聴いたカラヤン/ベルリン・フィルの演奏をありありと思い浮べさせるプレゼンスの見事なこと……。おもしろいことにこの基本的なバランスと音色は、ベイヤーDT440の延長線上にあるともいえる。ただ、パーカッションを多用するポップス系には、腰の弱さがやや不満。しかし欲しくなる音だ。
     *
この試聴の時点で、イエクリン・フロート Model 1の入手は、
オーディオ店に行けば、すぐ買えるというものではなかったようだ。

「Hi-Fiヘッドフォンのすべて」の推薦機種のところで、
《残念ながら入手が不可能らしいイエクリン・フロート》と書かれている。

Jecklin Floatはスイスのブランドだった。
正確にはどう発音するのか。
イエクリン・フロートなのか、ジャクリン・フロート、それともエクリン・フロートなのか。
ここではイエクリン・フロートを使う。

「Hi-Fiヘッドフォンのすべて」が出た時点で、
イエクリン・フロート Model 1の製造中止のように思われていたが、
海外ではあたりまえに入手できていた、ともきいている。

イエクリン・フロート Model 1は、聴きたかったヘッドフォンであり、
聴けなかったヘッドフォンである。
イエクリン・フロート Model 1はコンデンサー型で、
のちのAKGのK1000の原型と捉えることもできなくはない。
つまりヘッドフォンというよりは、イヤースピーカーと云った方が、より近い。

イエクリン・フロートはその後、いろいろあったようで、ERGO(エルゴ)というブランドに変り、
コンデンサー型からAMT(Air Motion Transformer)へと変っている。

Date: 9月 12th, 2016
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これまで(ヤマハNS1000M・その6)

1978年のステレオサウンド別冊「世界のコントロールアンプとパワーアンプ」で、
瀬川先生がヤマハのC2+B3の音について書かれている。
     *
 以前B2と組み合わせて聴いたC2だが、パワーアンプが変ると総合的にはずいぶんイメージが変って聴こえるものだと思う。少なくともB3の出現によって、C2の本当に良い伴侶が誕生したという感じで、型番の上ではB2の方が本来の組合せかもしれないが、音として聴くかぎりこちらの組合せの方がいい。B2にはどこか硬さがあり、また音の曇りもとりきれない部分があったがB3になって音はすっかりこなれてきて、C2と組み合わせた音は国産の水準を知る最新の標準尺として使いたいと思わせるほど、バランスの面で全く破綻がないしそれが単に無難とかつまらなさでなく、テストソースのひとつひとつに、恰もそうあって欲しい表情と色あいを、しかしほどよく踏み止まったところでそれぞれ与えて楽しませてくれる。当り前でありながら現状ではこの水準の音は決して多いとはいえない。ともかく、どんなレコードをかけても、このアンプの鳴らす音楽の世界に安心して身をまかせておくことができる。
     *
ヤマハのアンプの特質が、ここに表現されている。
すべてのヤマハのアンプが、ここに書かれている音を聴かせてくれるわけではないが、
ヤマハの、このころの優秀なアンプは、セパレートアンプ、プリメインアンプであっても、
まさに、ここに書かれているとおりの音といえた。

《国産の水準を知る最新の標準尺》、
これもまさにそうであった。
いつのヤマハのアンプをじっくり聴いているわけではないので、あえて過去形にしている。

《テストソースのひとつひとつに、恰もそうあって欲しい表情と色あいを、しかしほどよく踏み止まったところでそれぞれ与えて楽しませてくれる。》
これも、まさにそのとおりである。
「ほどよく踏み止まったところ」、これはほんとうにそのとおりとしかいいようがない。

そのような音のヤマハのアンプで鳴らすNS1000Mの音もまた、
他社製のアンプで鳴らすNS1000Mの音を評価していく上で、ひとつの標準尺として機能する。

ケンウッドのL02Aで鳴らすNS1000Mの音がいまも思い出せる私は、
そこにわずかなもの足りなさを感じるのかもしれない。