つきあいの長い音(その38)
つきあいの長い音に映るのは、ひとりで音楽を聴く行為ゆえの何かなのだろうか。
つきあいの長い音に映るのは、ひとりで音楽を聴く行為ゆえの何かなのだろうか。
「菅野沖彦の音を超えた」──、
そういった人もいる、と聞いている。
これを言ったのが誰なのかも聞いている。
会ったことはないけれど、インターネットではけっこう名の知られている人だ。
あくまでも又聞きだから、その人がなぜそんなことを言ったのか、
推測で書くしかないけれど、そうとうな自信をもってのひと言だった、らしい。
その人が使っている装置の総額は、
菅野先生のシステムの総額をはるかに超える。
いわゆるハイエンドオーディオと呼ばれているモノばかりで、
ケーブルもそうとうに高価なモノである。
その人がいったのは、システムの総額のことではない。
音のことである。
その人は、菅野先生の音を聴いている。
そのうえでの「菅野沖彦の音を超えた」──、
菅野先生の音を、ひじょうに断片的な聴き方をしての、この発言なのか。
私が菅野先生の音を聴いたのは、もう十年ほど前のことだ。
その一、二年あとに、これを聞いている。
私は、その時の菅野先生の音を聴いて、
「オーディオはここまでの再生が、やはり可能なんだ」と勇気づけられた。
オーディオの限界をどう感じるかは、人によってすいぶん違うようだ。
私は、ずっと、そうとうに高いところに限界はある、というか、
ほとんど限界はないのかもしれない、
つまりそうとうな可能性をもっている──、そんな直感が、
「五味オーディオ教室」を読んだ時から持っていた。
それでも現実の音は、必ずしもそうではない。
けれど、菅野先生の音を聴いて、直感は間違ってなかった、と感じた。
その菅野先生の音を超える音を出した、という人がいる。
世の中には上には上がいる、ということはわかっている。
けれど「菅野沖彦の音を超えた」と自慢げに誰かに言っている人の音が、
菅野先生の音を超えている、とは私には思えない。
実は今日の昼も行ってきた。
片チャンネルから出ていたノイズを抑えるためであり、
この点に関しては、あのへんに原因があると思えたし、
事実そのとおりで、うまくいった。
昨晩やらなかったのは、ML7Aの天板を開けることができなかった(工具がなかった)から。
ただ、今度はノイズフィルターを通していても、両チャンネルからノイズが出る。
壁のコンセント直よりは、ノイズの質はまだいいし、量も少ないが、はっきりと出る。
電源のノイズが昨晩とはまた違っているためであろう。
山手線内の繁華街、
こういう場所の電源の汚れ(ひどさ)は、私の想像を超えている。
ノイズ対策は、音との兼合いがある。
ただただノイズをなくしていく手法だけでうまくいくとはいえない面がある。
とはいえ、今回のような状況では、
そうとうに積極的に電源からのノイズを抑えていく必要がある。
今度はコモンモードノイズ対策をした電源ケーブルを、近日中に持っていく。
どの程度の効果があるのか、
それに持っていった日の電源からのノイズは、また変化している可能性もある。
つまりノイズが出なくなっていることもあれば、
同じかもしくはひどくなっていることだって考えられる。
とにかく試してみるしかない。
どの程度ノイズを抑えられるのか、
うまく抑えられたとして、音への影響はどう出てくるのか。
こういう環境だからこそ確かめられる。
私が勤めていたころのステレオサウンドは、
窓から顔を出せば東京タワーがはっきりと見える場所にあった。
井上先生が、そのころよくいわれていたのは、ノイズ環境のひどさだった。
スイングジャーナルは東京タワーの、ほぼ真下といえるところにあったから、
ステレオサウンドの試聴室の方が条件としては悪い(ひどい)、といわれていた。
いまから約30年前の話だ。
いまやノイズ環境はひどくなるばかりといっていい。
デジタル機器が氾濫しているし、電源の状態も悪くなることはあっても、
もうよくなることはないであろう。
昨日、渋谷の明治通り沿いにあるギャラリー・ルデコでの写真展(4F)に行っていた。
マークレビンソンのML7A、No.27、スピーカーはアンサンブルのReferenceという組合せで、
音楽が流されている空間だった。
片チャンネルからバズのようなノイズが出ていた。
ノイズがどう変化するのかいくつか試したなかで、
ML7Aの電源コードを、壁のコンセントから直に取るようにしたところ、
両チャンネルから、ノイズが出るようになった。
いままでのノイズにプラスして、である。
ML7AはADCOM製のノイズフィルター内蔵のACタップから取られていた。
元に戻すと、片チャンネルだけのノイズになる。
つまり電源からのノイズが、音として聞こえてきたわけである。
ステレオサウンドの1981年の別冊「’81世界のセパレートアンプ総テスト」では、
コントロールアンプの測定で、パルス性のノイズを電源に加えた場合に、
出力に表れるかどうかということをやっている。
パルス性ノイズがそのまま出てくるアンプもあった。
ML7は優秀で、まったく出てこなかった。
それだけ現在の電源ノイズは、ある意味、すごい(ひどい)といえる。
長島先生は「ステレオへの分離」と書かれている。
モノーラル録音されたものをステレオにするということは、
分離でいいのだろうか、と考える。
長島先生が書かれているやり方では、
調査に音楽学者、歴史学者、が各社、エンジニア、レコーディング・ディレクター、
その他大勢の有能な人びとがあたることになる。
そうとうな時間と手間が必要となる調査である。
「2016年オーディオの旅」では、
述べ数百人の人たちが二年間かけて、
フルトヴェングラーのベートーヴェンの五番の修復が行われた、とある。
そのくらいかかるものかもしれないし、もっと人も少なく、時間も短くなるかもしれないし、
その逆だって考えられる。
まだ誰もやっていないのだから、なんともいえない。
ただそう簡単にはいかないことだけは、確かだろう。
だから思う。
人工知能が行ったら……、と。
画像処理技術の進歩を見ていると、
音を音として扱うよりも、画像として扱ったらいいのでは……、
まったくの素人は思うことがある。
コンピューター(人工知能)にとっては、
元が音であろうと画像であろうと、デジタル信号であることは同じである。
ならば人工知能の深層学習、独自学習によって、
モノーラルの音源をステレオへと分離するのではなく、
モノーラル音源を元に、新たにステレオ音源を創成することができるのではないのか。
ステレオサウンド 50号(1979年春)、
長島先生の「2016年オーディオの旅」の中に、
フルトヴェングラーのベートーヴェンの第五が、ステレオで再生される話が出てくる。
フルトヴェングラーの録音は、いまのところすべてモノーラルばかりである。
ステレオ録音だ、といわれていたスカラ座とのワーグナーも、
結局はモノーラルだった。
他にもウェーバーの「魔弾の射手」はステレオといわれていたが、
CDを聴くかぎり、そうといえない。
フルトヴェングラーのステレオ録音は残されているのかもしれないし、
まったく存在しないのかもしれない。
ただ市販されているディスクは、疑似ステレオをのぞけば、すべてモノーラルである。
そのフルトヴェングラーの録音が、ステレオだけでなく、最新録音のように聴こえてくる。
「2016年オーディオの旅」は創作だ。
ここに登場する主人公に、フルトヴェングラーのステレオを聴かせてKが説明する。
どのような状況で録音が行なわれたかの調査、
使用された楽器、楽器の配置、ホールの構造、材質などが綿密に調べられ、
録音器材に関しても同じことが行われる。
その調査結果を元にして、録音された信号の変化を割り出す。
そして残されているマスター(モノーラル)から、ステレオの分離が行われる──、
というものだった。
ほんとうにそんな時代が来てほしい、と、読んだ人なら、
クラシック好きの人ならみなそう思ったはずだ。
フルトヴェングラーのベートーヴェンやワーグナー、ブラームスなどが、
ステレオで聴けたなら……。
フルトヴェングラーだけではない、他にも聴きたい演奏家は大勢いる。
現実には2016年は過ぎ去っている。
そんな技術は、いまのところない。
けれど最近の人工知能(AI)による画像処理技術のニュースを見ていると、
もしかして……、と思うことがある。
「瀬川先生の音を彷彿させる音が出せた」と私にいってきた知人も、
私にしてみれば、「頂点まで最短距離で登っていった」という人と同類だ。
オーディオの頂点からすれば、瀬川先生の音というゴールは、
身近にあるように思えるのかもしれない。
知人は、別項でも書いているように瀬川先生の音を聴いたこともない、
瀬川先生と会ったことすらない。
仮に会っていて、瀬川先生の音を聴いていたとしても、
知人と「頂点まで最短距離で登っていった」といった人とは、やはり同類だ。
知人には、瀬川先生の音というドアはひとつしか見えてなかったようだ。
知人は、そのドアに気づいていたのか。
気づいていたとして、そのドアを開けようとしたのか、と思う。
ドアにたどり着くことが目的ではないはずだ。
そのドアを開け、さらに一歩進んだところから、
瀬川先生の音の世界は拡がっているのではないのか。
しかも知人は、間違ったドアを目指していた。
行き着いたと思ったところに、その次に進む道が見えてくる。
しかも道は一本とは限らない。
それはオーディオも同じのはずだ。
なのに……、と思うことが、これまでも何度かあった。
ある人は「頂点まで最短距離で登っていった」と、私に言った。
あきれるをとおりこして、無表情で聞いているしかない。
この人には、道が一本しか見えなかったのか。
それとも一本しか見てこなかったのか。
本人は行き着くところまでいった、と思っている、
信じ込んでいるのだろう。
その人は、見たコトのないドアのあるところまでたどり着いていないだけなのかもしれない。
もしかすると、本人は前だけを見ているつもりでも、下だけを見ているのかもしれない。
ピュアオーディオとは、映像をともなわない、音だけの世界のこととしか使われている。
「頂点まで最短距離で登っていった」といった人がやっているのも、
その意味ではピュアオーディオといえる。
けれど、その人は「頂点まで最短距離で登っていった」といってしまった。
その時点で、別の意味でのピュアオーディオからは外れてしまった、ともいえる。
純粋な気持で取り組む意味でのピュアではなくなっている。
だから、自分のいるところを頂点だと勘違いしてしまうし、
見たコトのないドアにも気づかない。
1984年に公開された「ストリート・オブ・ファイヤー」。
先月やっとBlu-Rayでの発売。
アメリカでは数年前から出ていたのに、なぜか日本ではなかなか発売されず。
「ストリート・オブ・ファイヤー」は映画館で二度観た、初めての映画だった。
20代のころ、休日は映画館のハシゴをしていた。
一日に三本観ていた。
新宿が主だった。
紀伊國屋書店の裏にチケット売場があって、
そこには新宿の映画館の上映時間がホワイトボードに書いてあった。
それを見て、上映時間と終了時間を確認して、その日に観る映画と順番を決めていた。
とにかく一本でも多くの映画を観たい、と思っていた時期だった。
にもかかわらず「ストリート・オブ・ファイヤー」だけは一週間もしないうちに、
もう一度観に行った。
行きたくて行きたくて、新しい、まだ観てない映画よりも、
数日前に観たばかり「ストリート・オブ・ファイヤー」を優先してしまった。
あのころは、なぜ、そこまでして二度観たかったのか、わからなかった。
いまはわかる。
「ストリート・オブ・ファイヤー」は、
ダイアン・レイン演ずるエレン・エイムのステージから始まる。
ラストもエレン・エイムのステージで終る。
結局、エレン・エイムの歌を、もう一度聴きたかったのだ。
「ストリート・オブ・ファイヤー」が、初めて買ったサウンドトラック盤でもある。
まだLPの時代だった。
いまはHuluでも公開しているので、
iPhoneがあれば、いつでもどこででも観ることができる。
エレン・エイムの歌(ダイアン・レインが歌っているわけではない)を聴きたくなったら、
CDはあるから、それを聴けばいいのだが、
Huluで、そのシーンだけ観る(聴く)方が楽しい。
オーディオ評論というテーマで、150本以上書いてきている。
書きながら、思い出したことがある。
(じろん)である。
小学生のころだった、初めて(じろん)という言葉を聞いた時、自論だ、と思った。
幸い、作文などで(じろん)を使うことはなかったから、間違いはバレなかった。
中学生になって、持論なんだ、と知った。
(じせつ)には、自説と持説がある。
けれど(じろん)には、持論だけで、自論はない。
オーディオ評論について考えることは、評論について考えることでもある。
評論には「論」がついている。
自論ではなく、持論の「論」がついている。
iPhoneのGoogleアプリは、私が検索したキーワードから、
私が関心をもちそうなニュースをカード型式で表示してくれる。
今日の午後、表示されたのが「SWITCH Vol.36 No.1 特集:良い音の鳴る場所 福山雅治」だった。
12月20日発売の雑誌SWITCH Vol.36の特集は、オーディオである。
まだ書店に並んでいない本(読んでいない本)の内容について、
あれこれ書くことはできないが、リンク先の内容(コンテンツ)を眺めると、
メーカー、輸入元とのタイアップ的な記事が目につく、といえばそうである。
それでもおもしろければ……、と思うが、
そのへんは20日になってみないと、なんともいえない。
個人的には、
STEREO SOUND [PLAY and REPLAY]
半世紀以上にわたりオーディオ専門誌「ステレオサウンド」が読者に伝えてきたこと、
この記事がどんな仕上がりになっているのかが、いちばんの楽しみだ。
いまはオーディオマニアと口では言っているが、
心の中ではオーディオ少年だ、と一年前に書いている。
オーディオ少年だからこそ、生意気な目つきを忘れないようにしたい。
スピーカー単体での変換効率は、圧倒的に昔の方が高かった。
アンプも真空管の時代でも、出力は、時代とともに増していった。
マッキントッシュのMC3500は350Wの出力をもつ管球式アンプである。
時代は、真空管からトランジスターへの増幅素子の移行があり、
同じ出力であれば真空管よりもトランジスターを採用した方が、アンプそのもののサイズは小さくなる。
さらに増幅方式がA級動作からB級動作、そしてD級動作となれば、
アンプの効率が高くなっていく。
そうなればアンプのサイズはますます小さくなる。
しかもA級アンプは効率が悪い、ということは、
効率の悪いスピーカー同様、熱を大量に発する。
効率の良いD級アンプは発熱も少ない。
A級アンプに不可欠だった大型ヒートシンクは、
D級アンプには不要になってくる。サイズはさらに小さく、軽くできる。
電源もスイッチング方式が増えてきている。
効率のよい電源方式である。
増幅部も電源部も効率が飛躍的に向上している。
D級動作+スイッチング電源のアンプは、小さく軽い。
こうなってくると、スピーカーの変換効率ではなく、
パワーアンプを含めた変換効率を考えると、
スピーカーの変換効率の悪さを、変換効率の高いアンプでカバーする、
いまの方が高いといえるのではないか──、そう考えることもできる。
それにウェスターン・エレクトリックのユニットは励磁型が多かった。
そうなるとユニット用に電源が必要となる。
ユニットもずしりと重かった。
アンプも出力は低くとも大きく重かった。
スピーカーユニット用の電源も同じだった。
どれだけの物慮を投入しての変換効率の高さなのか。
そのことに対しあきれもするが、わくわくもする。
つまりそれだけの物量を、変換効率の高さのために投入していた。
まさに集中のアプローチである。
90dB/W/mでも高能率スピーカーといわれるようになった時代しか知らない世代、
100dB/W/mあたりから高能率スピーカーといっていた時代を知っている世代。
その差は10dBである。
この10dBの差を、非常に大きいと感じる世代に、私は属している。
喫茶茶会記のスピーカーはアルテックを中心としたシステム。
測定したわけではないが、97dBほどか、と思う。
現在市販されているスピーカーと比較すれば、圧倒的に高能率といえる数字であっても、
鳴らした感触からいっても100dBを超えているとはいえないスピーカーである。
ウーファーの416-8Cの能率がいちばん低いから、ここがシステムの数字となる。
ドライバーは100dBを超えている。
トゥイーターのJBLの075は、もう少し高い数字である。
ホーン型だから、高能率はいわば当然といえるし、
それでもウェスターン・エレクトリックのドライバーからすると、低い数字でもある。
無声映画からトーキーへと、なった時代、
アンプの出力はわずか数Wだった。
そのわずかな出力でも、映画館いっぱいに観客に満足のいく音を届けなければならない。
そのために必要なことは、スピーカーの徹底した高能率化である。
他のことは犠牲にしてでも、まず変換効率をあげること。
そこに集中しての開発だった。
いまのスピーカー開発が拡張というアプローチをとっているのに対し、
古のスピーカー開発は集中というアプローチをとっていた。
12月のaudio wednesdayのテーマは、
「誰かに聴かせたい、誰かと聴きたいディスク」だった。
誰かに聴かせたい、誰かと聴きたいディスクというけれど、
その前に自分で聴きたいディスクである。
自分で聴きたくないディスクを、
誰かに聴かせたい、誰かと聴きたいとは、まず思わない。
けれど自分で聴きたいディスクは、
誰かといっしょに聴くことに向いているディスクとは必ずしもいえない。
そういえるディスクとそういえないディスクとがある。
今年のインターナショナルオーディオショウでの、あるブースでのことだった。
そこでは高価なオーディオ機器が鳴っていた。
私がそのブースに入ったとき、それまで鳴らされていたディスクがちょうど終ったところだった。
来場者の一人がスタッフに「このディスクを聴かせてほしい」とCDを手渡していた。
スタッフの人も気軽に応じていた。
「音量は?」とスタッフの問いに、「かなり大きめで」との会話が聞こえてきた。
どんな音楽なのかは、音が鳴るまでわからない。
音が鳴ってきた。
なんともいいようのない音楽と音だった。
演奏はプロのミュージシャンとは思えない、
それに録音もプロの仕事とは思えない。
アマチュアのバンドをアマチュアの録音マニアが録ったディスクなのか……、
と思った私は、ディスクを持参した人の顔を見た。
満足そうに聴いているように見えた。
私は、これを最後まで聴くのはタマラン、ということで、すぐに席を立ってブースを出た。
私が立ったのと同じようなタイミングで数人の人が立ち上って出口に向っていた。
この人たちが、私と同じように感じて席を立ったのかはわからない。