Archive for category テーマ

Date: 3月 4th, 2018
Cate: ディスク/ブック

椿姫

私がステレオサウンド編集部にいたころは、
編集顧問をされていたYさん(Kさんでもある)がいた。

Yさんは、熱狂的なカルロス・クライバーのファン(聴き手)だった。
聴き手というだけでなく、カルロス・クライバーについての些細な情報についても、
すべてを知りたい、という人だった。

私よりずっと年上(父よりも上のはずだ)で、ほんとうに教養のある人だ。
そのYさんも「椿姫」といっていたな、と思い出したのは、
昨晩引用した黒田先生の文章を読み返したからだ。
     *
「椿姫」は、このオペラの原作であるデュマ・フィスの戯曲のタイトルであって、ヴェルディのオペラのタイトルではない。
 ヴェルディのオペラのタイトルは「ラ・トラヴィアータ」という。にもかかわらず、日本では昔から、慣習で、「ラ・トラヴィアータ」とよばれるべきオペラを「椿姫」とよんで、したしんできた。ことばの意味に即していえば、「ラ・トラヴィアータ」を「椿姫」とするのは、間違いである。
 デュマ・フィスの戯曲「椿姫」とヴェルディのオペラ「ラ・トラヴィアータ」とは、別ものであり、同一の作品とはみなしがたい、ということで、ヴェルディの作曲したオペラに対する「椿姫」という呼称をもちいない人がいる。その主張は正しい。オペラ「ラ・トラヴィアータ」は、正確に「ラ・トラヴィアータ」とよばれるべきであって、「椿姫」とよばれるべきではないとする考えは、正論である。
 正論であるから、つけいるすきがない。にもかかわらず、ここでは、正論より、慣例に準じる。「ラ・トラヴィアータ」という呼称より「椿姫」という呼称のほうが、より多くの方に馴染みがある、と考えられるからである。せっかく「椿姫」という呼び方でしたしんでいるのに、いまさら「ラ・トラヴィアータ」と、わざわざいいかえるまでもあるまい、というのがぼくの考えである。このオペラを、インテリ派オペラ・ファンの多くが正確に「ラ・トラヴィアータ」とよぶのに反し、素朴なオペラ好きたちは「椿姫」とよぶ傾向がある。ちなみに書きそえれば、ぼくは「椿姫」派である。
     *
「ラ・トラヴィアータ(La Traviata)」は、堕落した女、道を踏み外した女であり、
椿姫とするのは、確かに間違いということになる。

そんなことはYさんも知っていたはず。
それでもYさんは、「椿姫」派だった。

ずっと以前、ある人と話していた時に、「椿姫」と言ったことがある。
「あぁ、ラ・トラヴィアータね」とわざわざいいかえられた。

インテリ派オペラ・ファンが、ほんとうにいた、と思って聞いていた。

Date: 3月 4th, 2018
Cate: 老い

老いとオーディオ(齢を実感するとき・その7)

川崎先生の
《人間が「劣化」します。高齢による劣化、精神性での劣化、人格の劣化、欲望の劣化、この哀しみを存分に受け止められる人間は劣化から解放されるという幻想もあり!》は、
仏教でいうところの五濁(ごじょく)につながっていくのだろう。

 劫濁
 煩悩濁
 衆生濁
 見濁
 命濁

そうなのかもしれない。

Date: 3月 3rd, 2018
Cate: audio wednesday

第86回audio wednesdayのお知らせ(チューニングの方向性)

今回のテーマである「チューニングの方向性」は、
2018年を通してのテーマであり、毎回のテーマというわけではない。

今回は、「さぐる」意味合いが濃い内容になると思う。
まだ具体的に、どういうふうにやっていくのかは決めていない。
おそらく当日、音を聴きながら考える、ということになりそうだし、
まとまらない音を鳴らす可能性もある。

今年最後のaudio wednesday(12月5日)には、
きちんとイタリアオペラが鳴るように仕上げていくつもりだが、
その過程を、何回か聴いてもらうことになる。

一年を通して使う(鳴らす)ディスクを決めておかねばならない。
イタリアオペラといっても、プッチーニ、ヴェルディだけではない。
レオンカバロ、マスカーニ、ベルリーニ、ジョルダーノなどのオペラもある。

でも、結局はカルロス・クライバーの「椿姫」にしようかと思っている。
常連の人の中には、あまり(ほとんど)オペラを聴かない人もいることを考慮し、
喫茶茶会記にもSACDの再生環境が整ったわけだし、
SACD盤であることも、クライバーの「椿姫」にしようとしている理由でもある。

黒田先生が「オペラへの招待」で、こう書かれている。
     *
 すぐれた指揮者による演奏できくと、アンニーナとヴィオレッタのやりとりのあいだに、ヴィオレッタがあんなにも待っていたアルフレードのきたことをしる。しだいに音量をましつつ、切迫していく音楽に耳をすますききては、病気で弱っているヴィオレッタの心臓が、いまにもはりさけそうに脈うっているのを感じる。そこで、ききては、自分がききてであることを忘れ、まるでヴィオレッタになったような気持でアルフレードの登場を待つ。
 凡庸な指揮者によった演奏では、そうはいかない。いかに目をも耳にしてきいても、ききては、そうか、アルフレードがきたのか、などと、平静でいられる。相思相愛のふたりが、やっとのことで誤解もとけ再会するのである。おまけにヴィオレッタの生命の火は、今にも消えようとしている。平静にきかれては困るところである。その部分をカルロス・クライバーの指揮した演奏できくと、思わず身をのりだし、緊張する。階段を駆けあがっているアルフレードの姿が、アンニーナがとめようとする手をふりきってベッドで身をおこそうとしているヴィオレッタの姿が、その音楽にみえてくる。オペラだけが味わわせてくれる、素晴らしい、感動的な一瞬である。
     *
この「素晴らしい、感動的な一瞬」をどれだけ再生できるかは、
いまのところなんともいえないが、12月には、そうありたい。

3月のaudio wednesdayは、7日。
場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
19時開始です。

Date: 3月 3rd, 2018
Cate: Noise Control/Noise Design

Noise Control/Noise Designという手法(その49)

それだけに、JC80の残留ノイズの多さは気になる。
JC80の音を良さを積極的に評価している人ならば、
あと少し残留ノイズが低ければ……、と思うし、願う。

残留ノイズの多さは、輸入元からディネッセンに伝えられていた。
JC80の残留ノイズは、ラインアンプの残留ノイズの多さなのだが、
ラインアンプの終段に使われているFETが、ノイズの多くを発生している、とのことだった。

JC80はGASのThaedraほどではないが、コントロールアンプとしてはけっこう熱くなる。
それだけラインアンプの終段のFETにアイドリング電流を流しているわけだが、
このアイドリング電流の多さも、ノイズを増やしているようだった。

JC80はJC80IIとなった、さらにJC80II Goldへと改良されていった。
JC80IIになり、残留ノイズは確かに減っていた。
シャーシーも、以前ほどは熱くならなくなった(アイドリング電流を減らしたようだ)。

魅力的な音ではあったが、JC80の音を聴いて、強烈に欲しい、と思う気持は薄れてしまった。
少なくとも私にとっては、残留ノイズが減るとともに、JC80の音の魅力の、
もっとも大事なところが稀薄になってしまった。

まさしく「ノイズも音のうち」の実例である。
ディネッセンのJC80こそが、私にとって「ノイズは音のうち」を実感した最初であり、
マークレビンソンのLNP2にバッファーを追加した方が音がいい、と、
瀬川先生は以前からいわれていたことともつながっている。

LNP2のバッファーの追加も「ノイズは音のうち」の実例なのかもしれない。

Date: 3月 3rd, 2018
Cate: Noise Control/Noise Design

Noise Control/Noise Designという手法(その48)

ディネッセンのJC80が燈称してきたころ、
アメリカでは、低能率のスピーカーが擡頭してきていた。

90dB/W/mを切る出力音圧レベル、
それからスピーカーと聴き手との距離を十分とれるアメリカの住環境、
そういう使われ方だとJC80の残留ノイズは、さほど気にならなかったのかもしれない。

けれど日本では、そうではない。
こんなことを書くと、すぐに「だから日本のオーディオは遅れている」という人がいる。
アメリカのそういう流れとは正反対とも映る日本のオーディオの、当時の主流を、
そんなふうに批判する一知半解の人がいる。

ほんとうにそう思い込める人は、いつまでもそう思い込んでいればいい。

JC80の音の魅力は、
同じジョン・カールの設計のコントロールアンプであり、
初期のマークレビンソンのJC2、LNP2と共通する特徴をもちながらも、
JC80はダイナミズムといえるところにある。

だからか、JC2、LNP2を女性的と表現していた人たちも、
JC80の音は男性的と捉えていた。

そういうJC80の音と、同じ傾向・方向にあるといえるのは、
音楽のアクセントがスタティックなスピーカーではない。

音楽のアクセントがダイナミックな表現のスピーカーにこそ、
JC80は、そのスピーカーから新しい音の魅力を引き出してくれるように感じていた。

JC80をひときわ高く評価されていた山中先生、長島先生が鳴らされていたスピーカー、
それを思い出せる人ならば、JC80の音を聴いていなくとも、
JC80の音の魅力を理解してくれるのではないだろうか。

Date: 3月 2nd, 2018
Cate: 老い

老いとオーディオ(齢を実感するとき・その6)

川崎先生が、2010年5月にTwitterに書かれていた
     *
人間が「劣化」します。高齢による劣化、精神性での劣化、人格の劣化、欲望の劣化、この哀しみを存分に受け止められる人間は劣化から解放されるという幻想もあり!
     *
誰だって毎年、歳をとっていく。
30になり、40になり、その十年後には50をこえる。
50からは60、70……とつづく。

《高齢による劣化》がおとずれる(まっている)。
にしても、老いるほどに、人はこれほどまでに違ってくるのか、とおもうことが、
私自身も50も半ばになったこともあって、増えてきた。

川崎先生は
《この哀しみを存分に受け止められる人間は劣化から解放されるという幻想もあり!》
と書かれている。

そのとおりなのかもしれない。
哀しみを存分に受け止められなかった人と、受け止められる人とがいて、
劣化から解放されない人と解放される人とがいる。

解放された人こそが、瑞々しさを得るのだろう。

つい先日も、川崎先生のこの言葉を思い出すことに出合った。
具体的なことは書かない。
何かが特定されるかもしれないことは書かない。

こんなにも人は「劣化」するのかと考え込むことがあった。
本人は、そんなことまったく思っていないのかもしれないが、
傍からみるこちらが辛くなるほどに「劣化」を感じてしまった。

本人がなにも感じてなければ、シアワセなんだろう。

Date: 3月 1st, 2018
Cate: audio wednesday

第86回audio wednesdayのお知らせ(チューニングの方向性)

さきほど書いた「ワグナーとオーディオ(余談・UREI Model 813とイタリアオペラ)」。
今年のaudio wednesdayの一年を通してのテーマは、これにしようと思う。

喫茶茶会記のスピーカーはUREIのModel 813ではないが、
アルテックのユニットを中心としたシステム。

これから先、Model 813を鳴らせる機会はそうそうないだろう。

UREIの800シリーズも、型番末尾にAがつくタイプまでは604を使っていたが、
Bがつくようになってアルテックではなくなっている。

811B、813BもUREIのスピーカーシステムであることには違いないが、
私の心の中では、813とは、やはり(というかどこか)違うスピーカーだ。

ならば、アルテックの、他のスピーカーでイタリアオペラをうまく鳴らせる方向に、
チューニングをしていきたい、と思う。

毎回、このテーマで行うわけではないし、
うまくいくかどうかもはっきりとはしないが、
チューニングのひとつの方向性として、イタリアオペラというのは挑戦しがいのあるテーマだ。

3月のaudio wednesdayは、7日。
場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
19時開始です。

Date: 2月 28th, 2018
Cate: きく

感覚の逸脱のブレーキ(その7)

菅野先生が、「パイプ」に書かれていることを引用しておく。
     *
 私はいままでにずいぶんと、期間を区切って禁煙している。たとえば一日禁煙したり、長いときには半年とか一年ということもあるが、これはタバコをやめようと思って禁煙するのではない。白紙に帰して、あの初心のおいしさを味わおうということで禁煙するわけだ。音楽でも同じだが、常に飽和状態にしておくことはよくない。やはり飢餓状態にしておくことが必要だ。朝から晩まで音楽を聴いていては感受性がにぶってしまう。食物でもしかりだ。だからタバコがマンネリになったと思ったらやめて、それもできるだけ長くやめる。何についても自己規制は必要であり、自分の感受性のゼロバランスを戻す努力をすべきだと思う。
(「音の素描」より)
     *
ステレオサウンド 86号に、岡先生による「音の素描」の書評が載っている。
岡先生も、「パイプ」の一節について書かれている。

上に引用したところについて、こんなふうに表現されている。
《そのあとのしめくくりの短文が菅野さんならではのものである》と。

私もそう思う。
《自分の感受性のゼロバランス》、
《感覚の逸脱のブレーキ》とともに忘れてはならない。

Date: 2月 27th, 2018
Cate: Noise Control/Noise Design

Noise Control/Noise Designという手法(その47)

ディネッセンのJC80のことを思い浮べる。
型番からわかるように、ジョン・カールの設計による、このプリアンプは音は良かった。

外観や外部電源のつくりなど、注文をつけたいところはいくつもあったが、
その音を聴いてしまうと、欲しくなる。どうしても欲しくなるほどの音の魅力があった。

JC80と出合ったのは、ステレオサウンドで働きはじめたばかりのころで、
そうとう無理しても手の届くアンプではなかった。

それでも試聴の度に、欲しい、と思わせる。
ただ残留ノイズだけは、大きかった。

当時のステレオサウンド試聴室のリファレンススピーカーは、JBLだった。
4343から4344へと替ったころにあたるが、どちらも出力音圧レベルは同じで、
カタログ値は93dB/W/mで、いまの感覚からすれば高能率ということになるだろうが、
当時としては、フロアー型としてはやや低めだった。

それでも残留ノイズは、かなり大きい。
ボリュウムを絞りきっていても、
入力セレクターをライン入力にしていても出ているわけだから、
ラインアンプの残留ノイズである。

音楽が鳴っていないと、つねにスピーカーからシーッというノイズ音がしている。
けれど、そのノイズは、音楽が鳴り出すと、気にならなくなる。

それでも、人によってはそうとうに気にするであろうし、
私だって、もう少しなんとかならないものかと思っていた。

Date: 2月 26th, 2018
Cate: audio wednesday

30年ぶりの「THE DIALOGUE」(さらに余談)

ステレオサウンド 46号のUREIのModel 813の試聴記を読みながら、
ジャズを、それも古い録音のジャズを思い切り気持良く鳴らしてくれるスピーカーだ、と思った。

だからスイングジャーナルでは、ステレオサウンド以上に高く評価されるだろう、と思った。
そのころのスイングジャーナルを熱心に、毎号読んでいたわけではない。
だから見落している可能性も高いのだが、
スイングジャーナルでModel 813が高く評価された、という記憶がない。

菅野先生はスイングジャーナルの試聴室でも、Model 813を聞かれていても不思議ではない。
スイングジャーナルに、菅野先生によるModel 813の記事は載っているのだろうか。

ちょっと不思議に思えることだが、
46号に載っているModel 813のインピーダンスカーヴを見ていると、
もしかして、このへんに起因しての、スイングジャーナルでの評価だったのかも……、
と、気になる点がある。

Model 813は604-8Gにサブウーファーを足している関係上、
サブウーファーの受持帯域では、604-8Gのウーファーとサブウーファーとが、
並列にアンプの負荷となるわけで、インピーダンスがかなり低下する。

46号のグラフをみると、40Hzよりも少し高いところにf0のピークがあり、
このピークも10Ω程度とさほど高くなく、そこからインピーダンスは低下する。

80Hzあたりでは4Ωを切っていて、ほぼ3Ωといっていい。
150Hzあたりからやや上昇していくが、300Hzあたりでも4Ωくらいしかない。
これは、当時のアンプにとっては、けっこうな負荷となっていただろうと推測できる。

しかも、ある人から聞いた話では、
スイングジャーナルの試聴室の特性は、
Model 813のインピーダンスがもっとも下る帯域あたりで、
レスポンスが低下する、らしい。

スイングジャーナルの試聴室に入ったことはないし、
測定データを見たわけでもないから、断定はできないものの、
試聴室の特性に関しては信頼できる人からの情報だから、
私の記憶違いでなければ、試聴室のレスポンスの低下と、
Model 813のインピーダンスの低下する帯域とはほぼ一致している。

このへんに、スイングジャーナルでのModel 813の評価の理由がある、と私は見ている。

Date: 2月 26th, 2018
Cate: Noise Control/Noise Design

Noise Control/Noise Designという手法(その46)

井上先生は、かなり以前から「ノイズも音のうち」といわれていた。
このことを少し具体的に書かれているのが、
「ラックス論:ハイエンドオーディオの神髄ここにあり」である。
     *
オーディオ機器としてのクォリティ、つまり物理特性を上げていけば、当然の帰結として、音の鮮明さ、分解能は向上し、以前のラックス製品と比べると最新のものはそうとうに細かく、かつダイナミックで、音場感情報が豊かな音を出すようになってきているのは事実だ。
 しかし、そこで面白いのは、ラックスマンのアンプは徹底してノイズを取るという志向ではないところだ。たとえば今回の試聴テストでも、C10とB10の組合せをJBL4344MkIIで聴くと、プリアンプのボリュウムを絞りきっても、海外製品のように、かすかに残留ノイズが聴き取れる。国内メーカーのアンプでは、ボリュウムを絞りきるとまったく無音、いっさいノイズは聴きとれないというのがほとんどだが、ラックスは違う。徹底してノイズを取ることを至上とするよりは、むしろ音の生き生きした表現力の豊かさの方を重視する。このへんは海外製品にも通じる、ラックスならではのア符スー値というべきだろう。無用にSN比を上げるカタログ至上主義ではなく、実用レベルのSN比を重視し、音楽に悪影響を与えないかぎりは、ノイズを抑えることによって音楽の表情が死んでしまわないよう、音楽の表情の豊かさ、自然さの方を重視しているのがラックスマンの考え方といえる。
     *
音の生き生きした表現力の豊かさ、音楽の表情の豊かさ、自然さ、
これらをひとことで表わすなら、聴感上のダイナミズムだ。

Date: 2月 26th, 2018
Cate: Noise Control/Noise Design

Noise Control/Noise Designという手法(その45)

これまでに何度も聴感上のS/N比の重要性について書いてきた。
聴感上のS/N比を向上させることで、
聴感上の周波数レンジ、ダイナミックレンジも向上する、とも書いている。

ここでいう聴感上のS/N比を向上させるために必要なのは、
まず機械的な雑共振をなくしていくことである。

どんな素材を使っていても、その素材固有の鳴きは大なり小なりある。
まったくないといえる素材は、いまのところ存在しない。

それら固有の鳴きを徹底して抑えていくことも聴感上のS/N比を向上させることにつながるが、
素材固有の鳴きを完全に抑えることは無理だし、
徹底することの、音への影響は昔からいわれている。

必ずしもダンプして鳴きを徹底的に殺していく方法は、好結果を生まないことが多い。
大事なのは、雑共振である。

素材固有の鳴きと雑共振は違う。
CDプレーヤーの天板の上に、CDのプラスチックケースをいくつか置く。
これだけ聴感上のS/N比は確実に悪くなる。
これが雑共振による聴感上のS/N比の悪化の、簡単に試させる例のひとつだ。

もっとも雑共振のかたまりのような環境にオーディオ機器を設置していては、
あまり大きな変化量はなかったりする。

雑共振は、徹底してなくしてべきである。
雑共振もノイズである。
素材固有の鳴きも、ある種のノイズである。

そして(その44)で書いているストコフスキー、
ライナーの録音、
これらに含まれていて、ヤマハのNS5000の音を魅力的に響かせたのも、またノイズである。

ノイズは聴感上のダイナミズムに関係してくる。

Date: 2月 25th, 2018
Cate: フルレンジユニット

シングルボイスコイル型フルレンジユニットのいまにおける魅力(その17)

ユニットの三角形配置(三発配置)に、
昨日電話をくれた友人ふたりは興味をもってくれた。
ひとりは三発ウーファーのEurodynの音を聴いている。

スピーカーユニットの三角形配置は、こんな電話をもらうと、
妄想がふくらんでいく一方だ。

ウーファーを、38cm口径三発はたいへんでも、
30cm口径三発ならば、なんとかなるんじゃないか、
そんなことまで考えはじめている。

それで気づいた。
そういえばUREIのModel 815も、そうじゃないか、ということに。

Model 813は604-8Gに同口径のサブウーファーを一発足している。
Model 815は二発足したシステムで、
三本のユニットは三角形配置である。

一本は604-8Gであるから、同じユニット三本というわけではないが、
サブウーファーの受持帯域に関しては三角形配置の音である。

Model 815の音を聴く機会はなかった。
見たこともない。
どんな音だったのだろうか。

Date: 2月 25th, 2018
Cate: オーディオ入門

オーディオ入門・考(マンガ版 オーディオ電気数学・その2)

説明の仕方が違うということは、
同じことに対しての理解の仕方が違う、ということでもあろう。

「マンガ版 オーディオ電気数学」は、その意味で、
いくつかのことで理解が不十分であったのを指摘してくれた一冊でもある。

Date: 2月 25th, 2018
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の才能と資質(その6)

スピーカーをうまく鳴らせるのは誰なのか。
そのスピーカーを設計・開発した人でしょう、という人がいる。

本気でそんなことをいう人が意外にいる。
どうして、そういう考えになるのか、不思議に思う。

例えばカメラ。
カメラメーカーの技術者が、もっともいい写真を撮れるのか、というとそうではない。
プロのカメラマン、写真家がいる。

写真家よりも、そのカメラについては開発した人のほうがずっと詳しい。
だからといって、写真家よりいい写真が撮れるわけではない。
そんなことはほとんどの人がわかっている。

車にしてもそうだ。
車の開発者が、いちばん速く走らせられるか、というとそんなことはない。
このことだって、ほとんどの人がわかっている。

そんなわかりきったことが、なぜかオーディオでは通用しなかったりすることがある、
通用しない人がいる。

その1)で、オーディオ評論家はスピーカーをうまく鳴らすことが求められる、
と書いた。
その5)では、どんなに耳がよくても、
スピーカーをうまく鳴らせなければ、それはオーディオ評論ではなくサウンド批評だ、とも書いた。

車の評論家を考えてみてほしい。
車の評論家で、運転できない人がいるだろうか。
助手席に座っているだけで車の評論ができると思っている人が、
スピーカーがうまく鳴らせなくとも、オーディオ評論家というのだろう。