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Date: 10月 2nd, 2018
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(SNS = SESか・その7)

facebookで、毎月第一水曜日にやっているaudio wednesdayは、オーディオクラブか、というコメントがあった。

私はそう思っていない。
けれど、私自身、どこかのオーディオクラブに属していたことがない。
なんとなく、こんな感じなのか、と、オーディオクラブのこと想像しているにすぎない。

その想像するところと違うから、そう思っていない、と答えたけれど、
質問された方にしてみれば、納得のいく答ではなかったかもしれない。

facebookにいくつも出来ているオーディオ関係のグループは、
特に、オーディオとかオーディオマニアと名乗っているグループは、
オーディオクラブとははっきりと違う。

まず参加している人の数が多い。
多いところは二千人を超えている。
そこに参加している人の中には、直接会ったことのある人もいるはずだが、
大半はfacebook(SNS)上でのつきあいではなかろうか。

そういうのを、オーディオクラブとは呼ばない。
facebookでのオーディオ関係のグループで、比較的クラブ的といえるのは、
小口径のフルレンジユニット関係のグループとか、
ヴィンテージJBLとか、対象を絞ったグループの方だろう。

それでもオーディオクラブだ、とは私は思っていない。

audio wednesdayは、どうなのか。
毎月定期的に集まっている。
ときおり初めての方も参加されるが、常連の人たちがいる。
といっても大勢の集まりではない。
こぢんまりした集まりであり、
その点は、オーディオクラブ的に、外からは見えるかもしれない。

毎月第一水曜日に集まって、音を四時間ほど聴く。
何が、私が想像しているオーディオクラブと違うのだろうか。

Date: 10月 2nd, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その60)

別項で「オーディオ評論家は読者の代表なのか」を書いている。
その18)では、編集者は、必要な時は、強く代弁者であるべきだ、と思う、とも書いた。

では、編集者は読者の代表なのか。
実をいうと、編集者だったころに、こんなことは考えたことはほとんどなかった。
まったくなかった、といってもいいかもしれない。

こんなことを考えるようになったのは、ステレオサウンドを離れて、
さらに「バクマン。」というマンガを読んでからだった。

「バクマン。」は2008年から少年ジャンプに連載が始まった。
NHKでアニメになっているし、映画にもなっているから、
「バクマン。」というタイトルだけはみた記憶があるという人もいるだろう。

二人の高校生が、一人は原作、一人は作画という協同作業をすることで、マンガ家となっていく。
少年ジャンプが、物語の舞台としても登場してくる。
マンガ家と編集者とのやりとりも、そうとうに描かれている。

少年ジャンプは、読者ハガキに人気投票欄がある。
その集計が連載を続けるか打ちきりになるかを決定する──、
そんなふうにいわれていた、その内情についても描かれている。

面白いだけでなく、興味深いマンガでもある。
その「バクマン。」を読んでいて、編集者は読者の代表なのか、ということを考えていた。

Date: 10月 1st, 2018
Cate: 進歩・進化

メーカーとしての旬(その4)

オーディオに興味をもって40年以上。
いろんなオーディオメーカーの旬があった、と感じている。

私がオーディオに興味をもったのは1976年の秋以降。
それ以前のことももちろん知っていて、旬といえそうなところがわからないわけではないが、
やはり自分で感じてきた旬に絞って書いていきたい。

その1)でヤマハの旬について少しだけ触れている。
そのヤマハから少し遅れて旬を迎えたのは、サンスイだろう。

プリメインアンプのAU607、AU707、
それに続く上級機としてダイヤモンド差動回路を採用したAU-D907、
その技術を607と707にも採用して、AU-D607、AU-D707を出してきた。
さらにAU-D907の細部から磁気歪を取り除くために、
銅メッキを細部にまで施したAU-D907 Limited、
このころはまさにサンスイの旬といえる。

しかもサンスイ(山水電気)は、JBLの輸入元でもあった。
4343を筆頭に4300シリーズのスタジオモニターはヒットしていたし、
それ以外のJBLも売れていた。

サンスイの旬はそう長くは続かなかった(少なくとも私はそう感じている)。
プリメインアンプのD607、D707、D907は、
その後も改良が加えられて、いわゆるロングセラーモデルといわれるようになったが、
型番末尾にFがついてからの、このシリーズは、変ってしまった、と感じた。

いっそのこと新しい型番と新しいパネルフェイスを与えていれば、
見方も変ったのに、なぜか頑なに変えようとはしなかった。

それでも中身は、そして音は変っていっていた。
JBLも山水電気からハーマンインターナショナルへと移っていった。

山水電気はCIへと走る。
ルイジ・コラーニによるデザインのロゴマーク。
これに支払った、といわれる金額について具体的な数字をきいている。
驚く金額だった。

それだけの予算を、開発にまわしていれば……、
と山水電気に勤めていた人は思っていたのではないだろうか。
部外者の私だって、そう思った。

コントロールアンプのC2301、パワーアンプのB2301など、
力作をサンスイは出してきた。
それでも、二度と旬を取り戻すことはできなかった。

Date: 10月 1st, 2018
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(SNS = SESか・その6)

昔は(といっても30年くらい前か)、オーディオクラブというものが、
全国にいくつもあった。

ステレオサウンドにも、52号のスーパーマニアに、郡山のワイドレンジクラブが登場している。
64号からの連載「素晴らしき仲間たち」は、そういうオーディオクラブを取材している。

私の周りにはそういうオーディオクラブはなかったので想像で書くのだが、
オーディオ店の常連の人たちが集まってのオーディオクラブなのだろう。

一つのオーディオ店に一つのオーディオクラブというわけでもなかったかもしれない。
そのオーディオ店でも、JBLのスピーカーを好む人たちもいれば、
イギリスのBBCモニター系列を好む人たちもいただろうから、
いくつかのオーディオクラブができあがっても不思議ではない。

1975年のダイヤトーンの広告には、
ダイヤトーンの故郷 郡山へご招待!
ダイヤトーン 1日ブレーン募集、というのをやっていた。

応募方法に、所属しているオーディオクラブ名、とあり、
各オーディオクラブから二名の5クラブで計十名を、十回にわたって百名を招待する企画だった。

いまオーディオクラブというのはあるのだろうか。
この時代からずっと続いているオーディオクラブはあるのだろうか。

別項でも書いているように、ステレオサウンドに登場したオーディオクラブのいくつかは、
1980年代に解散してしまっている。

新しいオーディオクラブが生れなければ、数は減っていくだけだ。

いまはSNSがある。
facebookには、グループ機能というのがあり、同好の士が集まれる。
オーディオ関係のグループは、いくつかあるんだろうか。
オーディオとかオーディオマニアという名のグループもあれば、
アナログディスクに絞ったグループ、真空管、JBLの古いモデル、
ウェスターン・エレクトリック……、とにかく細分化されたグループも増えてきている。

私は、audio sharingというグループをやっているし、
あとは海外のDIYのグループには参加しているが、
それ以外のオーディオ関係のグループには参加していない。

かなりの人が参加しているオーディオグループはある。
けれど、それが以前のオーディオグループにあたる集まりかといえば、
そうではないはずだ。

Date: 10月 1st, 2018
Cate: audio wednesday

第93回audio wednesdayのお知らせ(ホーン周りと設置)

10月3日のaudiowednesdayでは、やっとアルテックのホーンにバッフルを取り付けるとともに、
ドライバーを含めた中高域ユニットの配置も変更する。

実は前回のaudio wednesdayでもトゥイーター(JBLの075)は、
いつもと違う位置に置いていた。
誰も何もいわなかったのは、気付かなかったからなのか、
メリディアンのULTRA DACの音に驚いてなのか。

今回からすべてインライン配置にする。
できれば明日(10月2日)までに作業は済ませておきたかったけれど、
結局、3日当日にやることになってしまった。

3日は私も、いつものように16時ぐらいには行けない可能性もあって、
音が出るようになるのは20時ぐらいを予定している。

開始時間は、いつもと同じ19時だが、
その時間に来られても私が作業しているのを見ているだけになる(はずだ)。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 10月 1st, 2018
Cate: Digital Integration

Digital Integration(Mojoを聴いてひろがっていくこと・その2)

予算に制約がなければマルチアンプの可能性は確かに大きいが、
ほとんどの人には予算の制約がある。

その制約のなかで、どう予算を配分するのか。
マルチアンプならば、パワーアンプ以外は同じであるとして、
デヴァイダーと複数台のパワーアンプに割く予算を、
一台のパワーアンプに使えば、そうとうにいいモデルが手に入れられる。

ほどほどのデヴァイダーとほどほどのパワーアンプ(複数)によるマルチアンプと、
スピーカー内蔵のLCネットワークを使うけれど、
そうとうにいいパワーアンプ(一台)では、どちらがいい結果が得られるのか。

パワーアンプが複数台になるということは、
そのことによる音質向上のメリットがあるとともに、
電源の取り方や設置などによっては、音質劣化の原因に、すぐさまなってしまう。

ゆえに、私はいまでも、どちらがいいかはなんともいえないと思っている。
ネットワークが手間を惜しまずに作られているのであれば、
ほどほどのマルチアンプよりも、いい結果は得られそうだとも、どちらかといえば思っている。

そこにD/Aコンバーターまで複数台ということになると、どうなるのか。
可能性は大きくなるけれど、その可能性をきちんと発揮させるには、
想像以上に困難なことがつきまとうはずである。

実際にどちらがいいのか。
たとえば試聴室において、数時間試聴したくらいでは結論は出ないように思う。
どんなに高価な器材を用意されていたとしても、そこであるレベル以上の音が出せたとしても、
それをもって結論とすることはできない。

D/Aコンバーターにしても、パワーアンプにしても大きな筐体のもつモノを、
複数台使用することのデメリットは、それらの筐体が音の反射物となることを考えても、
現実的にはスピーカーの後の壁の向うに、
D/Aコンバーター、パワーアンプ用の別室を用意するぐらいのことが求められる。

そんな、私には到底実現できないこと、
たとえ実現できるようになったとしても、そこまでやるかといわれれば、
どうだろうか……、と答えることだろう。

そんなこと考えていたときに、Mojoを聴いた次第だ。

Date: 10月 1st, 2018
Cate: Digital Integration

Digital Integration(Mojoを聴いてひろがっていくこと・その1)

マルチウェイスピーカーにマルチアンプ、というのが、ある到達点としてある。
そこにデジタル信号処理技術が加わり、
アナログだけの時代では無理だったことが可能になってきた。

タイムアライメントもその一つである。
デジタル処理のデヴァイダーには、そういう機能が搭載されているし、
安価な製品もいくつか登場してきている。

こういうデジタルのデヴァイダーで思うことは、
D/A変換のクォリティなのは、多くのオーディオマニアに共通するところのはず。

デヴァイダー内のD/Aコンバーターなのか、
それともデジタルで信号を取り出して、気に入ったD/Aコンバーターを用意する、という手がある。

けれど、マルチアンプにおいてパワーアンプだけでなく、
D/Aコンバーターをユニットの数分だけ用意するというのは、なかなかのことだ。

D/Aコンバーター一台なら、気に入ったモデルを購入できる人でも、
3ウェイなら三台、4ウェイならは四台必要になるわけで、経済的負担はそうとうなものになる。

いまでは非常に高価なD/Aコンバーターがある。
一千万円をこえるモデルもある。
そういうD/Aコンバーターを複数購入できる人は、世の中にはいるけれど、
ごくごく少数であろう。

それにそういったD/Aコンバーターは、また大きい。
それらを置くスペースの確保だけでも、私には無理な話である。

それでもオーディオマニアとしては、
少なくとも満足のいくD/Aコンバーターを複数台用意してのマルチアンプシステムは、
一度は聴いてみたい対象であるし、
スマートにまとめられるのならば挑戦してみたい対象ともなる。

Date: 10月 1st, 2018
Cate: オーディオの「美」

オーディオの「美」(その5)

オーディオは、基本コンポーネントである。
プレーヤー(アナログでもデジタルでも)、
アンプ、スピーカーシステムが最低でも必要になる。

もっともミニマムなオーディオとしてヘッドフォンがあるにしても、
ここでも携帯プレーヤーとヘッドフォン(イヤフォン)の二つは、最低限必要となる。

たった一つで音を出してくれるわけではない。
アンプは完成品として売られていても、
それだけで音が聴けるわけではない。

スピーカーに関しても同じ、プレーヤーもそうだ。
オーディオはコンポーネントである。

ここでのタイトルは、オーディオの「美」としているが、
オーディオこそ「美」とも捉えている。

オーディオは「美」である──、
ここにはコンポーネントということが大前提としてあるし、
そのコンポーネントから鳴ってくる音こそが、ということがある。

ここを読まれている方で、オーディオコンポーネントを持っていないという人はいないはず。
何らかのシステムを持っていて、すでに音を出している人である。

そういう人がオーディオ店に行き、グレードアップのために何かを購入する。
アンプであったり、CDプレーヤーなのかもしれないし、ケーブルということだってあろう。

アンプを買った、としよう。
憧れのアンプを手に入れることができた。
それは「美」を手に入れた、といえるのか。
「美」を買った、といえるのか。

オーディオ店のスタッフは、客に「美」を売った、と思っているのか。

Date: 9月 30th, 2018
Cate: 真空管アンプ

現代真空管アンプ考(その25)

無線と実験、ラジオ技術には、毎号、真空管アンプの製作記事が載っている。
この二誌以外のオーディオ雑誌にも、真空管アンプの製作記事が載ることがある。

トランスにはシールドケースに収納されているタイプと、
コアが露出しているタイプとがある。

シールドケースに入っているタイプだとわかりにくいが、
コアが露出しているタイプを使っているアンプ、
それもステレオ仕様のアンプだと、出力トランスの取り付け方向を見てほしい。

きちんとわかって配置しているアンプ(記事)もあれば、
無頓着なアンプも意外と多い。

EIコアのトランスだと、漏洩磁束の量がコアの垂直方向、水平方向、
それに巻線側とでは、それぞれに違う。

そのことを忘れてしまっている製作例がある。

複数のトランスが、一つのシャーシー上にあれば、必ず干渉している。
その干渉をなくすには、トランス同士の距離を十二分にとるのがいちばん確実な方法だ。

けれどこんなやり方をすれば、アンプ自体のサイズがそうとうに大きくなるし、
それに見た目も間延してしまう。

それにトランス同士の距離が離れれば、内部配線も当然長くなる。
どんなワイヤーであってもインダクタンスをもつ。
そうであれば高域でのインピーダンスは必然的に上昇することになる。

配線の距離が長くなるほど、インピーダンスの上昇も大きくなるし、
長くなることのデメリットは、外部からの影響も受けやすくなる。

NFBを、出力トランスの二次側からかけている回路であれば、
NFBループ内のサイズ(面積)が広くなり、このことにも十分な配慮が必要となる。

配線の長さ、仕方によるサイズの変化については、以前書いているので、ここでは触れない。

Date: 9月 29th, 2018
Cate: 真空管アンプ

現代真空管アンプ考(その24)

オルトフォンのSTA6600のトランスを流用して自作したモノは、
うまくいった。
トランスの取り付け方だけが工夫を凝らしたところではなく、
他にもいろいろやっているのだが、その音は、
誰もが中身はSTA6600のトランスとは見抜けないほど、音は違っている。

もっといえば立派な音になっている。
自画自賛と受けとられようが、
この自作トランスの音を聴いた人は、その場で、売ってほしい、といってくれた。

その人のところには、ずっと高価な昇圧トランスがあった。
当時で、20万円を超えていたモノで、世評も高かった。

だから、その人も、その高価なトランスを買ったわけだが、
私の自作トランスの方がいい、とその人は言ってくれた。

そうだろうと思う。
トランス自体の性能は、高価なトランスの方が上であろう。
ただ、その製品としてのトランスは、トランス自体の扱いがわかっていないように見えた。

この製品だけがそうなのではなく、ほとんど大半の昇圧トランスが、そうである。
インターネットには、高価で貴重なトランスをシャーシーに取り付けて──、というのがある。

それらを見ると、なぜこんな配線にしてしまうのか。
その配線が間違っているわけではない。
ほとんどのトランスでやられている配線である。

それを疑いもせずにそのまま採用している。
私にいわせれば、そんな配線をやっているから、
トランス嫌いの人がよくいうところの、トランス臭い音がしてしまう。

取り付けにしても配線にしても、ほんのちょっとだけ疑問をもって、
一工夫することを積み重ねていけば、トランスの音は電子回路では味わえぬ何かを聴かせてくれる。

MC型カートリッジの昇圧トランスと、真空管パワーアンプの出力トランスとでは、
扱う信号のレベルが違うし、信号だけでなく、真空管へ供給する電圧もかかる。

そういう違いはあるけれど、どちらもトランスであることには変りはない。
ということは、トランスの扱い方は、自ずと決ってくるところが共通項として存在する。

Date: 9月 28th, 2018
Cate: 変化・進化・純化

変化・進化・純化(その11)

別項「音の良さとは(好みの音、嫌いな音・その1)」に、
元同僚のグリーンピース嫌いのことを書いている。

徹底したグリーンピース嫌いの彼は、
交通事故のあと、グリーンピースをおいしそうに食べる。
事故のとき、頭を打ったこともあって、少し記憶がとんでいる、と彼は言っていた。

それまで絶対に食べなかったグリーンピースを、おいしい、と言いながら食べている。
彼自身、グリーンピース嫌いだったことも忘れてしまっている。

とんでしまった少しばかりの記憶に、グリーンピースに関することも含まれていたのか。
そもそも彼がどうしてグリーンピース嫌いになったのかは知らない。

本人がグリーンピース嫌いだったことすら忘れてしまっているから、
あれこれ訊ねても、何か期待できる答が返ってくることはないだろう。

それでも、答を知りたい。
人の好みとは、その程度のことなのか、とも思う。

ならば古い知人が、何かのきっかけで少しばかり記憶を失った、としたら……、
たとえば老人性痴呆症になったとしたら……、
嫌いな音に関する記憶もなくなってしまうのか。

グリーンピース嫌いだった元同僚が、いまではおいしそうに食べているのと同じように、
全体のバランスを大きく欠いてでも、嫌いな音を排除していたことすら忘れてしまい、
見事なバランスの音を鳴らすようになるのだろうか。

それも、ひとつの純化なのだろうか。

Date: 9月 28th, 2018
Cate: 変化・進化・純化

変化・進化・純化(その10)

音でなくてもいい、味、匂いのほうがいいかもしれない。
好みの味、匂いが形成されるより前に、
嫌いな(苦手な)味、匂いが形成されているのではないだろうか。

「これ、好き」よりも「これ、嫌い」が先に立つのではないのか。
音もそうだ、と思っている。

ここでの音は、スピーカーから鳴ってくる音だけに限らない。
耳に入ってくるすべての音、
オーディオに関心のない人であっても、嫌いな(苦手な)音はある。

嫌いな音がどうやって形成されるのかは、知らない。
嫌いな音がある、ということが、ここでは重要なのだ。

古い知人は、嫌いな音がはっきりしていた。
それは古い知人と一緒に音を聴いたことのある人ならば、
ほとんどの人が、そう感じていたことでもある。

古い知人の嫌いな音は一貫していた。
その嫌いな音を徹底的に排除していくのが、彼の鳴らし方でもある。

それは少なくとも私の知る限り、ずっとそうだった。
古い知人は、嫌いな音に対して、人一倍敏感だったのかもしれない。

だから人一倍努力して、嫌いな音を排除していく。
その結果、バランスを大きく欠いたいびつな音を出すことになっても、
古い知人にとっては、嫌いな音が排除(抑えられた)ということで、いい音に聴こえていた。

古い知人が、そんな音をいい音と思うのは、しかたないことだし、
古い知人にとっては、いい音なのだから、周囲は黙っているしかない。

それでも、その音は、古い知人のほんとうに好きな音なのか、という疑問はずっとある。
嫌いな音を排除した音に、若いころからずっと聴いてきたことによる単純接触効果なのではないか、と。

古い知人の、ほんとうに好きな音は、
嫌いな音を排除してしまった音の陰に埋もれてしまっているのか、
それともまだ形成されていないのかもしれない。

Date: 9月 28th, 2018
Cate: 変化・進化・純化

変化・進化・純化(その9)

facebookに、
聴きたい音楽、好みの鳴り方を求めれば、
結果として同じような音になってしまうのではないか……、
というコメントをいただいた。

それは、私もそう思っている。
聴きたい音楽がまずあって、
それをいい音(好きな音といいかえてもいい)で聴きたいからこそ、
オーディオに夢中になってきたのであれば、そうであろう。

そう思いながらも、私は「五味オーディオ教室」からオーディオの世界に入った。
そして「五味オーディオ教室」の少しあとに出た「コンポーネントステレオの世界 ’77」、
その巻頭の黒田先生の「風見鶏の示す道を」で出逢った黒田先生の文章。

このふたつのこと(二人の文章)は、
音楽の聴き手としてつよくありたい、と私に思わせた。

だからといって、聴きたい音楽を聴いている聴き手が、よわい、と思っているわけではない。
ただただ、聴き手としてつよくありたい、と思っている。
そうでなければ……、とおもうところもある。

同時に、少し違うことも考えているから、この項を書いている。
聴きたい音楽は、ほんとうに聴きたい音楽なのか、
そして、好みの鳴り方もそうだ。
それはほんとうに求めている好みの鳴り方なのか。

別項「戻っていく感覚(風見鶏の示す道を)」の(その12)に、
単純接触効果のことに触れた。

これがあるから、その人の好みは、ほんとうのところでの好みなのか、
単純接触効果によって形成された好みなのか、と疑いたくなるからだ。

Date: 9月 27th, 2018
Cate: 変化・進化・純化

変化・進化・純化(その8)

古い知人だけのことではない、とおもう。

いま、オーディオ評論家と呼ばれている人たち、
オーディオ雑誌、それを編集している人たち、
彼らもみな自己模倣という純化の沼に浸かっているし、
浸かっていることに気づいていないのかもしれない。

こんなことを書いている私にしても、自己模倣から抜け出せていないのかもしれない。

自己模倣という純化の沼と書いたけれど、
本来、これは変化・進化・純化の「純化」とはいえない。

そこに進化もなく、変化すらないからだ。

Date: 9月 27th, 2018
Cate: 変化・進化・純化

変化・進化・純化(その7)

古い知人は、よくスピーカーを買い替えた。
つきあいがなくなって十年近く経つ。
古い知人の近況は、たまに耳にするぐらいだけれど、相変わらずのようだ。

スピーカーをあれこれ買い替えている。
けっこうなことだ。
スピーカーの買い替えは、誰に迷惑をかけるでもないし、
買って売る、また買う、また売る。
それをくり返す。

古い知人の楽しみなのだから、けっこうなことだ。

古い知人は、どんなスピーカーに買い替えても、
常に同じ音で鳴らす。

古い知人は、そのことを自慢気に話す。
どんなタイプのスピーカー、どんな音のスピーカーでも、自分の音にしてしまう、と。

私の耳には、ある時から、古い知人の音は、自己模倣になってしまった、と聴こえる。
自己模倣だから、どんなスピーカーであっても、同じ音で鳴るしかないのだ。

けれど古い知人は、それで満足している。
つきあいのなくなった私がとやかくいうことではない。
こうなってしまうと、自己模倣も純化なのかもしれない。

古い知人は、自己模倣という純化の沼にどっぷりと浸かっている。