Archive for category テーマ

Date: 1月 2nd, 2019
Cate: 楷書/草書

楷書か草書か(その10)

「ボヘミアン・ラプソディ」のクライマックスは、
1985年のライヴエイドの再現である。

実際のライヴエイドがどうだったのかは見たことがないけれど、
「ボヘミアン・ラプソディ」を観ていると、見事としかいようがない。

それは決してトレースではない。
その9)で指摘したようなトレースではないから、
ここにきて「ボヘミアン・ラプソディ」のカタルシスがとてつもないものに仕上がっている。

クイーンのヒットした曲は、ある程度は知っている(聴いている)程度で、
一枚もクイーンのLP、CDを持っていない私(にわかファンですらない)でも、
グッと胸にくるものがあった。

ライヴエイドのシーンで、涙する中高年のファンが多い、と聞いているが、
若いころにクイーンに夢中になっていた時期があったならば……、
そんなふうに思わせるほどだ。

けれど、再現度がどれほど完璧といえるレベルにあったとしても、
フレディ・マーキュリー役のラミ・マレックが、実際のライヴエイドの映像を見、記憶し、
フレディ・マーキュリーの動きをトレースしただけでは、
それがどんなに完璧なトレースであったとしても、
1985年のライヴエイドの再現とはとうていなりえない。

トレースは、どこまでいってもトレースでしかない。
トレースの域から脱したところでのラミ・マレックのフレディ・マーキュリーだからこその感動であり、
ここで涙する人が大勢いるのだろう。

Date: 1月 1st, 2019
Cate: 「スピーカー」論

「スピーカー」論(ピストニックモーションにまつわる幻想・その2)

ホーン型の場合、
コンプレッションドライバーのピストニックモーション領域は2オクターヴくらいといわれている。

2オクターヴということは、オールホーン型でシステムを組み、
すべてのユニットをピストニックモーション領域で使うことを前提とするならば、
必然的に5ウェイとなる。

しかも遮断特性の低次であれば、ピストニックモーション領域から外れてくるわけで、
急峻な遮断特性のフィルターでカットオフしなければならなくなる。

デジタル信号処理であれば、96dB/oct.とか、それ以上の遮断特性を得られる。
そうやって5ウェイ、
さらには万全を期して6ウェイ、7ウェイという非常に大がかりなシステムを組んだとしよう。

そうすることで、一般的にいわれているホーン型のピストニックモーション領域の追求は、
ほんとうにピストニックモーションの実現となるのだろうか。

コンプレッションドライバーのエッジは、大きくはタンジェンシャルエッジである。
ウェスターン・エレクトリックの時代から、
タンジェンシャルエッジは、特定のレゾナンスを抑えるためにも有効である。

けれどタンジェンシャルエッジは放射状に折られている。
アルテックとJBLとでは、その方向が逆でもある。

方向がどちらであっても、タンジェンシャルエッジを見ていると、
これでダイアフラムが前後にピストニックモーションをできるのか、と、
オーディオに興味を持ち始めたばかりの中学生のころ疑問に思った。

どうみてもダイアフラムが前後に動く際に、僅かとはいえ回転しそうに感じたからだ。
実際にどういう動作をしているのかというと、ダイアフラムの前後運動にともない回転運動が起きている。

ダイアフラムの振幅が大きくなれば、回転運動も無視できないほど大きくなる。

Date: 1月 1st, 2019
Cate: 映画

映画、ドラマでのオーディオの扱われ方(その4)

映画「ボヘミアン・ラプソディ」は、
1970年年代初頭から1985年のライブエイドまでが描かれているから、
この映画に登場するオーディオ機器も、時代によって違っている。

EMIの重役レイ・フォスターのオフィスでのシーン。
そこにあったのはガラードの401にSMEのトーンアームの組合せ。
時代的にもイギリスということもあって、ガラードとSMEなのか、やっぱりと納得するものの、
401のついている三つのツマミの真ん中を反時計方向に廻すシーンがある。

そんなことしたら回転数が遅くなってしまう……、と思っていたら、
音量が小さくなっていった。
そのツマミはピッチコントロールであって、レベルコントロールじゃないのに……、
とオーディオマニアなら誰しも思っていただろう。

フレディ・マーキュリーが数年ぶりにクイーンのメンバーと会うシーンでは、
1985年ということもあってCDプレーヤーがある。
メリディアンのMCDが、そこにあった。

ちらっと映し出されるとはいえ、何度か登場する。

Date: 1月 1st, 2019
Cate: audio wednesday

audio wednesdayのこと(その3)

5月1日から新元号になる。
平成が4月30日で最後になるため、
平成最後の大晦日とか、平成最後の紅白歌合戦とか、
そんなふうに語られることが急に増えてきている。

元号が変る。
それはもちろん知っていた。
今年の5月のaudio wednesdayが100回目なのも、とっくに気付いていた。

けれど不思議なことに、この二つのことが結びついていなかった。
今年5月のaudio wednesdayは、1日である。

新元号になって最初の日が、100回目のaudio wednesdayになる。
偶然にしても、なにかしら感じるものがある。

Date: 12月 31st, 2018
Cate: 1年の終りに……

2018年の最後に

2017年はマリア・カラス没後40年だったことは知っていた。
けれど「四十年かぁ……」ぐらいのおもいだった。
40年を記念してSACDが出たことも知ってはいたが、それ以上の関心をもったわけではない。

それが、どうしてか今年の後半になってから、マリア・カラスに対する熱が高まっている。
これまでにないくらい高まってきている。

きっかけはいくつかあった。
すでに書いているように、メリディアンのULTRA DACの音もそのひとつだ。
でも、それだけで、ここまで高まっているとは思えない。

他にも小さなきっかけが二,三ある。
そこに映画「私は、マリア・カラス」の公開を知った。

映画も観た。
さらに火がついたのかもしれない。

今日(12月31日)、映画「ボヘミアン・ラプソディ」を観た。
夕方からの回で、こんな時間に帰宅しての、今年最後のブログを書いている。

「ボヘミアン・ラプソディ」からもマリア・カラスの歌が聴こえてきた。

なぜ、いまごろになってマリア・カラスなのか。
2019年への宿題になってしまったようだ。

Date: 12月 30th, 2018
Cate: 映画

MARIA BY CALLAS(その2)

《多くのひとは、大輪の花をいさぎよく愛でる道より、その花が大輪であることを妬む道を選びがちです。あなたも、不幸にして、妬まれるに値する大輪の花でした》
と黒田先生は、「音楽への礼状」で書かれていた。

「MARIA BY CALLAS」を観ていると、このことをまざまざと見せつけられる──、
といっていいだろう。

こうも続けて書かれていた。
     *
 あなたは、ノルマであるとか、トスカであるとか、表面的には強くみえる女をうたうことを得意にされました。しかしながら、あなたのうたわれたノルマやトスカがききてをうつのは、あなたが彼女たちの強さをきわだたせているからではなく、きっと、彼女たちの内面にひそむやさしさと、恋する女の脆さをあきらかにしているからです。
 ぼくは、あなたのうたわれるさまざまなオペラのヒロインをきいてきて、ただオペラをきく楽しみを深めただけではなく、女のひとの素晴らしさとこわさをも教えられたのかもしれませんでした。今でも、ぼくは、あなたのうたわれたオペラをきいていると、あのときのあなたの寂しげな微笑を思い出し、あの朝、あなたは神になにを祈られたのであろう、と思ったりします。
     *
私は、マリア・カラス(MARIA BY CALLAS)」を観て感じるのは、
恋する女の脆さをあきらかにできるのは、
マリア・カラスその人をあきらかにしているからだ、ということだ。

黒田先生が書かれている《あのときのあなたの寂しげな微笑》、
映画のなかにも出てきたようにおもう。

Date: 12月 29th, 2018
Cate: 映画

MARIA BY CALLAS(その1)

最初に「私は、マリア・カラス」と日本語のタイトルが映し出される。
そのあとに映画本編が始まる。

本編の最初にスクリーンに映し出されるのは、
原題の「MARIA BY CALLAS」である。

1970年、アメリカのテレビ番組のインタヴューから始まる。
何度もダビングを繰り返したような細部のつぶれた画質である。

このテレビ番組のインタヴューは、映画のなかで何度か出てくる。
映画も終りに近づいたころ、もう一度登場する。

マリア・カラスが「自分勝手な祈りをするの」というシーンがある。
どんなことを祈っているのかは、映画を観てほしいのだが、
話し終ったあとにみせるマリア・カラスの表情が、茶目っ気とでもいおうか、
それまでのマリア・カラスの表情からは想像し難いものだった。

ダビングを繰り返したような画質なのが残念といえばそうなのだが、
そんな画質であっても、「MARIA BY CALLAS」には欠かせない一コマのように思えた。
それほど印象的である。

「MARIA BY CALLAS」を観ていて、
こんなにもカラスの映像が残っているのか、ということにも驚く。
いまの時代を生きていた人ではない。

1977年にカラスは亡くなっている。
スマートフォンもデジタルカメラもなかった時代である。
カメラも大きく重かった時代である。

それでもこれだけの映像が残っている、ということは、
映画に使われなかった映像はあるわけでは、全体ではどれだけ残されているのか。

マリア・カラスがどれだけ注目の的だったのかが、窺いしれる。
1958年1月のローマ歌劇場での「ノルマ」の、第一幕での気管支炎による降板を、
当時のマスコミがどのように報じたかも含めて考えると、
マリア・カラスの存在は、いったいどういうことだったのか──、とおもう。

映画では、たびたびカラスのプライベートな手紙が、
ファニー・アルダンの朗読によって読まれる。

そこで何度か出てくるウォルターとは、おそらくウォルター・レッグのことなのだろう。
ウォルター・レッグは「レコードうら・おもて」で、
《カラスの輝かしさはダイヤモンドのそれであって、太陽の輝きではなかった》
と書いている。

だからだったのだろうか……。

Date: 12月 28th, 2018
Cate: audio wednesday

第96回audio wednesdayのお知らせ(マリア・カラスとD731)

年が明ければすぐにaudio wednesday(1月2日)。

マリア・カラスだけをかける回である。
マリア・カラスが残した録音のなかで、もっともかけたいのは、
ベルリーニの「ノルマ」である。

いまではベッリーニのほうが一般的になっているようだが、
昔はベルリーニだった。なので、ここではベルリーニにしている。

黒田先生がかなり以前に、
マリア・カラスだけ聴いていればそれでいい、という考え方・聴き方には賛成できないが、
それでも「ノルマ」に関してだけはカラスに尽きる──、
そんなことを書かれていた。

「清らかな女神よ」(Casta Diva, カスタ・ディーヴァ)は、
「ノルマ」全曲を聴いたことがない人でも、
「ノルマ」という作品についてあまり知らない人であっても、
どこかで耳にしていても不思議でないほどに有名なアリアであり、
「Casta Diva」ほど難しいアリアはない、ともいわれている。

「Casta Diva」を、私は「ノルマ」全曲盤で聴くよりも、
シルヴィア・シャシュのオペラ・アリア集で初めて聴いた。

ステレオサウンドの試聴室にも、このLPはあった。
気になる新製品が登場すると、シャシュのレコードをかけていた。

1982年夏、ステレオサウンドの別冊として「サウンドコニサー(Sound Connoisseur)」の時もそうだった。
午前中の試聴が終り、昼食のあいだに、午後からのスピーカー、
アクースタットのModel 3を準備していた。

黒田先生たちが食事から戻られるまでには少しばかり時間があった。
この時、試聴レコードにシャシュのアリア集は含まれていなかった。
なので、この空き時間にシャシュを聴いていたところに、
黒田先生たちが戻ってこられた。
     *
弱りましたね。「ステレオサウンド」編集部の素晴らしいところと怖いところは、どこに落とし穴があるかわからないところなんだ(笑)。編集部の方々もどの人が味方でどの人が敵なのかわからない。
というのも、昼食を食べて試聴室に戻ってきたら、あれはシルビア・シャシュだと思うけれど、彼女の歌っているノルマの「カスタディーバ」が聴こえてきた。昼休みを利用して試聴レコードにないシャシュがかかっていたわけなんですが、この選曲が、このアクースタットのモデル3にとっては抜群の出来だったと思うのです。
     *
黒田先生は、サウンドコニサーの座談会で、こう語られていた。
この時の「Casta Diva」は美しかった。

1月2日に鳴らすスピーカーは、コンデンサー型のアクースタットとは対極にあるアルテックのホーン型。
シャシュではなくカラスの「Casta Diva」。
LPではなくCDである。

「Casta Diva」は、21時すぎ(おそらく22時ごろ)にかける。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
19時からです。

Date: 12月 27th, 2018
Cate: 訃報

森芳久氏のこと

facebookを見ていたら、森芳久氏が12月26日に亡くなられたことを知った。

森芳久氏は、ソニーのカートリッジのエンジニアとして、
私がオーディオの世界に足を踏み入れたころから、オーディオ雑誌に登場されていた。

他の日本のメーカーのエンジニアの人たちも、
オーディオ雑誌に登場されている。
顔写真も載っていたりしていた。

森芳久氏の名前と顔はすぐに憶えた。
柔和な表情が、そのころからすごく印象に残っていたからだ。

ソニーのカートリッジは、こういう表情の人が設計・開発しているんだな、と思ったことを憶えている。

1982年から丸七年ステレオサウンド編集部にいたけれど、
森芳久氏と会う機会はなかった。
1982年秋にはCDが登場している。

いうまでもなくソニーはフィリップスとともに、CDのオリジネーターである。
CD登場後もソニーのカートリッジの新製品は出ている。

それでも会う機会はなかった。
森芳久氏のことを何か書けるわけではない。

だったら書かなければいいではないか……、
そのとおりなのだが、書かずにはいられない気持は消さない。

音環手帖というウェブサイトがある。
東京藝術大学音楽学部音楽環境創造科のサイトである。

森芳久氏は、音響技術史という講義を担当されていたそうだ。
音環手帖には、「教官モ、語ル」というページがある。
森芳久氏が登場されている。

技術は決して無機的なものではなく、そこには熱い血が流れているのです
そのページに、そう記してある。

Date: 12月 26th, 2018
Cate: 1年の終りに……

2018年をふりかえって(その9)

今年はCHORDのMojoとメリディアンのULTRA DAC、
この二つのD/Aコンバーターについて多く書いている。
まだ書き終っていないので来年も続きを書くわけだが、
2018年をふりかえって思うことは、
いまの時代、D/Aコンバーターの選択は、
スピーカーシステムの選択に近いところにある、ということ。

オーディオはコンポーネントゆえに、
スピーカー、アンプ、プレーヤーが最低でも必要になる。
スピーカーにはスピーカーならではの選択の難しさ、面白さがあり、
アンプにはアンプの、プレーヤーにはプレーヤーの、それぞれの選択の難しさと面白さがある。

スピーカー選びの難しさとアンプ選びの難しさは、かなり違うともいえる。
ではD/Aコンバーターはどうだろうか。

電子機器だから、アンプ選びと共通するのかといえば、
私は、この一年で、なんとなくスピーカー選びと共通するものがあるように感じはじめている。

以前からそうだったとは、いまふりかえってもそうは思わない。
ここ数年の変化ではないだろうか。

すべての機器の選択に、その人のオーディオ観がうかがえるわけだが、
それでもスピーカーシステムの選択ほど、その人のオーディオ観をはっきりと出すものはない。

これと同じことを、D/Aコンバーターの選択にも感じているところだ。

Date: 12月 26th, 2018
Cate: 1年の終りに……

2018年をふりかえって(その8)

その2)で、手を動かした年だと書いた。
動かしているから思いつくこともあった。

半年くらい前から試してみたいと考えているだけで、
まだやっていないのだが、カホンをエンクロージュアにしてみたい。

カホンとは打楽器である。
ここでいうカホンとは、ペルー式カホンと呼ばれるタイプで、箱型のもののことだ。
楽器店に行けば、たいていのところに展示してある。

カホンについて詳しいわけではないが、
ほんとうに四角い箱で、丸い穴が開けられている。

サイズもいくつかあって、小口径から中口径のフルレンジユニットが収まるような感じである。
打楽器だけに叩いて音を出すための造りなので、
すべての面がしっかりとしているわけではない。

ペコペコと鳴る面もある。
でも、その鳴る面もうまく利用して、10cmくらいの小口径のフルレンジを取り付ければ、
音量を上げると盛大に箱鳴りがしそうだが、
音量を絞った状態ならば、逆にうまいこと中低音あたりが補われるかもしれない。

楽器だけに仕上げもきちんとされている。
そんなに高価なわけでもない。

遊び的要素が大きくなるが、
カホンとフルレンジユニットの組合せはおもしろそうである。

Date: 12月 25th, 2018
Cate: ディスク/ブック

ブラームス 弦楽六重奏曲第一番 第二番(その1)

ブラームスの弦楽六重奏曲は、20代前半頃に聴いてから、
ほとんど聴くことがなかった。

曲が嫌いとか、つまらないとか、そんなはっきりした理由があったわけではなく、
ただなんとなく遠ざけていただけ。

十数年前だったか、
なんなとくブラームスの弦楽六重奏曲のディスクに手が伸びた。
正確には、ラルキブデッリのディスクだったから、である。
ブラームスの弦楽六重奏曲を特に聴きたかったわけではなく、
ラルキブデッリの他のディスクとまとめ買いしただけである。

そのまとめ買いも、輸入盤三枚以上だとインターネット通販だと、
さらに値引きしてくれるからである。

実をいうと、ラルキブデッリの演奏を聴いたのは、この時が初めてだった。
それまで関心のなかったラルキブデッリをなぜ買ったのかは、
その理由は思い出せない。

アンナー・ビルスマの熱心な聴き手ではなかったし、
むしろほとんど聴いていなかった。
なのにラルキブデッリなのである。

ブラームスの弦楽六重奏曲のディスクは後回しにしていた。
他のラルキブデッリのディスクを聴いて、
もっと早く聴いておけば──、と思った。

それでもブラームスの、というより弦楽六重奏曲という形式そのものを、
なんとなく遠ざけていただけに、ブラームスのディスクも、
なかなか聴こう、という気にはなれなかった。

この時買ったラルキブデッリの数枚のディスクで、
思わず声をあげたくなるほどの驚きがあったのが、ブラームスだった。

Date: 12月 24th, 2018
Cate: ディスク/ブック

ブラームス ヴァイオリン協奏曲二長調 Op.77(その1)

ブラームスのヴァイオリン協奏曲はそれほど聴いているわけではない。
これまで聴いてきた録音は、それほど多いとはいえない。

一応、名演といわれる録音(1990年ぐらいまでは)は、ある程度は聴いている。
ムターのヴァイオリン、カラヤン指揮ベルリン:フィルハーモニーによる演奏(録音)は、
この曲をまだ聴いたことがないという人には薦めやすいのかもしれない。

全体に優美だし、ヴァイオリンの音色の魅力ということでも、ムター盤はいい。
ミルシテインのヴァイオリン、ヨッフム指揮ウィーンフィルハーモニーもいい。

ヴァイオリンの音色ということではムターとミルシテインとでは大きく違う。
違うことで、この曲の大事なところが浮び上ってくるような感じがする。

そんなふうに感じるのは、
ジネット・ヌヴーのヴァイオリン、
シュミット=イッセルシュテット指揮北西ドイツ放送交響楽団による1948年録音のライヴ盤の、
強烈な印象がいまなお残っているからだ。

ムター/カラヤン盤にはない強さがあり、
ミルシテイン/ヨッフム盤にある鋭さがより直進力を増している。

ブラームスのヴァイオリン協奏曲は、こういう表情を求めるのか、と思うほどだった。
最初に聴いたのは日本フォノグラムによるLPだった。

録音はいいとはいえないが、オーディオファイル向けとして登場したように記憶している。
それからCDが出た。
フランスのレーベルSTILからも数年後に出た。
いまもいくつかのマイナーレーベルのCDで聴くことができる。

STILまでは聴いている。
そのあとに登場した盤は聴いていない。

どれがいいのかはいえないけれど、
同じ演奏が収められている以上、一瞬にして惹きこまれる人もいれば、
拒絶したくなる人がいても不思議ではない。

私は、ブラームスのヴァイオリン協奏曲といえば、
ヌヴー盤が記憶のなかで響いてくる。
消し去ることができないほど刻み込まれている。

Date: 12月 23rd, 2018
Cate: 1年の終りに……

2018年をふりかえって(その7)

今年のaudio wednesdayには数人の方が初めて来られた。

別項「音の悪食(その2)」で書いたように、
5月に来られた二人組の方たちは、わずかな時間で帰られた。
おそらく二度と来られないであろう。

こういう会をやっているから、できれば多くの人に来て欲しい、とは思っている。
喫茶茶会記のためにも一人でも多くの人に来てほしい、とおもう。

今年初めて来てくれた人で、これからも来てくれそうな人はいまのところ一人だけである。
寂しい会だな、と思われても、それでいい。
一人いてくれれば、それでいい。

別項で書いているように、来年はわがままでいる。
これまで抑えてきたけれど、わがままをはっきりと出して行く。

そういう私だから、来ない人は来ないでいいし、
来て欲しくない人がいるのも本音だ(その人は来なくなってけっこう経つから、もう現れないであろう)。

わがままでいることで、イヤなヤツと、これまで以上に思われても、
それでいい、と言い切れるようになれたのが2018年である。

Date: 12月 23rd, 2018
Cate: 1年の終りに……

2018年をふりかえって(その6)

Kate Bush – Remastered。
このセットの登場も私にとっては、2018年で起ったことで静かなインパクトをもっている。

Kate Bush – RemasteredはCDだけでなく、LPでも出ている。
そしてe-onkyo musicでの配信も始まっている。

44.1kHz、24ビットという微妙な配信ではあるが、
flac形式だけでなくMQAも用意されている。

ケイト・ブッシュのリマスターが、MQAで聴けるわけだ。
ULTRA DACを聴いていなければ、それほど魅力を感じなかっただろう。
けれど、すでに二度聴いている。