Archive for category テーマ

Date: 1月 10th, 2020
Cate: 真空管アンプ

Western Electric 300-B(その25)

真空管アンプを設計するにあたって、
固定バイアスにするか自己バイアスにするか──、
どの段階で決めていくのだろうか。

私は早い段階から、どちらのバイアスのかけ方にするかは決める方だ。
ここでの300Bのプッシュプルアンプにおいては、
この項の最初のほうに書いているように、自己バイアスで考えている。

理論的に考えていけば、自己バイアスよりも固定バイアスだろう。
この自己バイアスか固定バイアスかは、
スピーカーユニットでいえば、永久磁石か励磁型かの違いに似ているように感じることもある。

励磁型(フィールド型)こそが、
スピーカーユニットの磁気回路として理想だ、という謳うメーカーや、
そう主張するオーディオマニアは少なくない。

ウェスターン・エレクトリックの初期のスピーカーはすべて励磁型だったことも、
このことは関係しているのだろう。

励磁型の音は聴いている。
確かに惹かれる音を出してくれる。

それでも励磁型のスピーカーを、
スペースや予算のことを考えなくてもいいのだとしても、
自分のリスニングルームに導入するかというと、ちょっと考え込む。

励磁型は、当然のことながら、電磁石ゆえに外部電源が必要になる。
この電源をどうするのか。

定電圧電源を製作すれば、なんの問題もない、というのであれば、
励磁型の導入も、個人的に現実味を帯びてくる。

けれど実際には電源によって、大きく音が変りすぎることを経験している。
励磁型が最高の性能を目指してのモノであるならば、
その性能を最高度までに発揮するには、そうとうに大掛りな電源を必要とする。

Date: 1月 10th, 2020
Cate: 情景

変らないからこそ(その後・その1)

「〜Amor…あの瞬間〜50周年コンサート」というグラシェラ・スサーナのCDがある。
2016年に出ている。

初来日から50年。
50周年コンサートをやっていたのは知っていた。
東京では、日本橋・三越のホールで行われた。
平日の昼だったこともあって、都合がつけられず行けなかった。

「〜Amor…あの瞬間〜50周年コンサート」は、コンサート会場で売られていたようだ。
出ていたのは知っていたけれど、これも手に入れていなかった。
昨年末にやっと手に入れたにもかかわらず、聴かずにそのままだった。

グラシェラ・スサーナのコンサートは2007年に行ったのが最後だ。
この時のことは、「変らないからこそ」に書いている。

そのコンサートからほぼ十年。
この十年の変化は、大きい。

2007年の時は二十年ぶりぐらいだった。
グラシェラ・スサーナの容姿も変っていた。

それでも、ほとんど変らぬ歌が聴けたことに驚いたし、新鮮にも感じた。

50周年コンサートに無理してでも……、と思わなかった理由でもある。
2007年のコンサートとほとんど同じだろうな、と勝手に思っていた。

けれど、実際は大きく違っていた。
聴きなじんだ曲ばかりなのに、ずいぶん違う。

黙って聴かされたら、グラシェラ・スサーナとわかっただろうか……、と思うほどに、
声も変っていた。歌い方もそうだった。

もちろん聴いていくうちに、グラシェラ・スサーナらしいところに気づく。
それでも……、と思いながら聴いていた。

Date: 1月 9th, 2020
Cate: High Resolution

MQAのこと、MQA-CDのこと(その6)

その5)で、MQAでも、e-onkyoでの配信、MQA-CD、
それからユニバーサルミュージックのサンプラー盤で、
サンプリング周波数が違う場合がある、と書いた。

不思議だったのは、同じユニバーサルミュージックのMQA-CDでも、
サンプラー盤の方がサンプリング周波数が高い場恣意があるのか、ということだった。

サンプラー盤には、352.8kHz/24ビットとある。
なのにいくつかのMQA-CDのアルバムでは、176.4kHz/24ビットとある。

メリディアンの218は、MQA再生時にはフロントパネルのLEDが点灯する。
けれどディスプレイをもたない218では、サンプリング周波数を表示することはできない。

けれどiPhone用のIP Controlを使えば、サンプリング周波数が表示される。
なんとういことはない、サンプラー盤だけでなく、それぞれのアルバムも352.8kHz/24ビットである。

どうも帯を制作時点では176.4kHz/24ビットだったらしいのだが、
352.8kHz/24ビットに音質的優位性を認めて変更になった、らしい。

とにかく聴き手にとってはうれしい仕様変更である。

けれどe-onkyoとMQA-CDではサンプリング周波数が違うアルバムは少なからずある。

Date: 1月 9th, 2020
Cate: 音の良さ

完璧な音(その5)

具体的に考えてみる。
たとえばスタインウェイのピアノによる演奏があった、とする。
その演奏を録音する。

いかなる装置で、いかなる音で聴かれるのかは制作側にはわからない。
それでも、どんな装置、どんな音であっても、
その録音はスタインウェイのピアノだ、ということが聴き手に伝われば、
完璧な音の最低条件は満たされた、といえるのか。

ただし、ここでの完璧な音とは、完璧な録音、ということになる。
完璧な録音というものが、もしあるとすれば、そういうことではないのか。
どんな装置で、どんな音でかけられても、
スタインウェイのピアノが、ヤマハのピアノやベーゼンドルファーのピアノに聴こえたりしたら、
それはどんなにいい音で録音されていたとしても、完璧な音(録音)とはいえない。

ここでもう一つ考えなければならないのは、聴き手のことだ。
世の中にはさまざまな装置、音があるように、
聴き手もまったく同じである。

聴き手が違えば、同じ音を同じ時に聴いても、印象が違うことは誰だって経験していよう。
つまりは、どんな装置、どんな音でかけられても、
さらにどんな聴き手がスピーカーの前にいようと、
その聴き手に、スタインウェイのピアノだ、ということを認識させられる音が、
完璧な音(録音)ということになる。

そんな録音があるのだろうか。
装置によっては、グランドピアノがアップライトピアノに聴こえることだってある。
スタインウェイのピアノが、ヤマハのピアノに聴こえたり、
さらにはメーカー不明のピアノの音に聴こえたりすることだってある。

そういえば、菅野先生はオーディオラボでベーゼンドルファーの録音も残されている。
菅野先生によれば、本来のピアノの音よりも、
大きめの音量で鳴らした時にベーゼンドルファーらしく鳴るようにしている──、
そんな話を聞いたことがある。

Date: 1月 8th, 2020
Cate: 所有と存在

所有と存在(その17)

黒田先生の「ききたいレコードはやまほどあるが、一度にきけるのは一枚のレコード」に、
フィリップス・インターナショナルの副社長の話がでてくる。
     *
ディスク、つまり円盤になっているレコードの将来についてどう思いますか? とたずねたところ、彼はこたえて、こういった──そのようなことは考えたこともない、なぜならわが社は音楽を売る会社で、ディスクという物を売る会社ではないからだ。なるほどなあ、と思った。そのなるほどなあには、さまざまなおもいがこめられていたのだが、いわれてみればもっともなことだ。
     *
「ききたいレコードはやまほどあるが、一度にきけるのは一枚のレコード」は1972年の文章、
ほぼ50年前に、フィリップス・インターナショナルの副社長は、こういっている。

サブスクリプション(subscription)を、よく目にする時代になった。
音楽関係においても、頻繁に目にするようになってきた。

○○解禁、というふうに、サブスクリプションについて語られる。
○○には、日本人のミュージシャンの名前、グループ名が入る。

フィリップス・インターナショナルの副社長の発言からほぼ50年経って、
「ディスクという物を売る会社」ではなく「音楽を売る会社」へとなりつつある、ともいえる。

当時のフィリップス・インターナショナルの副社長は、いまも存命なのだろうか。
ようやく、そういう時代が訪れたな、と思っているのだろうか。

黒田先生の「なるほどなあ」は、いまならば、どういうおもいがこめられただろうか。

Date: 1月 8th, 2020
Cate: 書く

毎日書くということ(10,000本をこえて)

10,000本以上書いてきて思うのは、
どれだけ問う力を身につけた、高められたか、ということ。

なぜだか、ここで「自恃」ということばが浮んできた。
中原中也の「山羊の歌」が浮んできた。
     *
自恃だ、自恃だ、自恃だ、自恃だ、
ただそれだけが人の行ひを罪としない
     *
脈絡ないことを書いているのはわかっている。
それでも浮んできて頭から離れないから書いている。

Date: 1月 7th, 2020
Cate: 提言

いま、そしてこれから語るべきこと(その14)

その13)で、二つの映画のことに少しだけ触れた。
実在の写真家、ユージン・スミスをジョニー・デップが演じる「Minamata」が、
今秋公開される、とのこと。

この映画のテーマ曲が世界で初めて披露されたコンサートが、昨年末、熊本で開催されている。

Date: 1月 6th, 2020
Cate: 「オーディオ」考

「音は人なり」を、いまいちど考える(その17)

人は、自分のことも、誰かのことも、断片でしか、
いくつかの断片でしか捉えていない(知ることができない)。

断片がいくつかあるのかすらわかっていないように思う。
だから、自分のことであっても、いくつもある断片のなかのいくつかだけしか見ていない、
誰かに対しても同じであろう。

つきあいのながい人、そうでない人であっても、
その人のことをどれだけ知っているかというと、やはりいくつかの断片でしかなくて、
しかも、この人、いつもと少し違う──、と感じている時には、
いつもと違う断片のいくつかを、勝手に取捨選択してみているのかもしれない。

だからこそ「音は人なり」なのかと最近おもうようになってきた。
音は、その人のすべてが統合されて鳴ってきているのではないのか──、
そう考えるようになってきた。

もちろん、ここでも手前勝手に聴いている可能性はある。
それでも音を聴くことのほうが、単なる断片のいくつかとしてではなく、
いびつなかたちであっても、統合されているのではないか。

Date: 1月 4th, 2020
Cate: 老い

老いとオーディオ(若さとは・その4)

むき出しの才能、
むき出しの情熱、
むき出しの感情、
これらをひとつにしたむき出しの勢いを、
音として、スピーカーからの音として表現しようとしているのかもしれない。

だから、メリディアンの218に何度も手を加えているのか……

Date: 1月 4th, 2020
Cate: ディスク/ブック

FAIRYTALES(その6)

1月1日のaudio wednesdayでも、ラドカ・トネフの“FAIRYTALES”はかけた。
その5)で、11月のaudio wednesdayでの“FAIRYTALES”は、
それまでとは大きく違った鳴り方をした、と書いた。

今回もよかった。
ラドラ・トネフの声の表情は、より濃やかになっている。
これがほんとうに初期のデジタル録音なのか、と疑いたくなるほどのみずみずしさで鳴る。

それ以上に、今回はピアノの音の繊細さに耳がいく。
メリディアンの218が、version 6から7に変ったことによって得られた音である。

こういう変化が得られるから、
面倒だな、と思いつつも、218に手を加える。

Date: 1月 4th, 2020
Cate: 「オーディオ」考

時代の軽量化(番外)

昨年末に、STAR WARS episode IXを観た。
スターウォーズで検索すれば、さまざまな映画評が表示される。
最高という声もあれば、まったく逆の声もある。

私は、というと、スターウォーズの映画で初めて「長いなぁ……」と感じてしまった。
1978年夏、熊本の映画館で観たときとは、まるで違っていた。
あの時の昂奮は、もうなかった、と感じた。

観終ってしばらくして、「これも時代の軽量化なのか……」とふと思った。
STAR WARS episode IXは大作だ。
制作費もそうとうな額なはずだ。

IMAXで観た。
最後の戦闘シーンでは、音で座席が揺れるぐらいであった。
つい、この映画一本を上映するのに、電気代はどのくらいかかるんだろうなぁ……、
そんなことも考えてしまうほど、
スクリーンに投影される光の量も、スピーカーからの音量、
それらを実現するための電気の量は、そうとうなものだろう。

そんな意味でも大作なんだろう、と思いつつも、
時代の軽量化とも感じた映画だった。

Date: 1月 3rd, 2020
Cate: High Resolution

MQAで聴けるミケランジェリのドビュッシー

ミケランジェリの録音は、アナログディスクのころから聴いている。
なのに最後まで聴き通すことが、私にとってこれほど難しいと感じさせるピアニストは他にいない。

どうでもいい存在のピアニストならばそれでいいけれど、
ミケランジェリはそうではないどころか、素晴らしいピアニストだと思っている。

なのに、どこか苦手意識が、初めて聴いた時からつきまとい続けている。
ミケランジェリのピアノの音は美しい。
完璧主義者といわれるのも頷ける美しいピアノの音なのだが、
そこにミケランジェリというピアニストの肉体をほとんど感じない。

それでも、スピーカーから鳴ってくるピアノの音は、
まさしくミケランジェリによるピアノの音である。

このことがふとしたきっかけで頭か心のどちらかにひっかかってくると、もういけない。
気になってしまい、途中でボリュウムを絞ってしまう。

そうであっても、ミケランジェリをMQAで聴きたい、と思うのは、
どこか確認したい気持も強いからなのかもしれない。

e-onkyoにはショパンとベートーヴェンのピアノ協奏曲(ジュリーニの指揮)があった。
ミケランジェリのドビュッシーを、まずMQAで聴きたい、と思っていた。

いつの出るのだろうか、と思っていたら、今日出ていた。
Préludes IImages 1 & 2; Children’s Cornerがあった。

どちらも192kHz、24ビットである。
ショパンとベートーヴェンは96kHzだっただけに、このこともあわせて嬉しい。

まだ聴いていない。
MQAならば、素直に素晴らしい──、
そう思えるようになるのだろうか。

Date: 1月 2nd, 2020
Cate: 「オーディオ」考

十分だ、ということはあり得るのか(その8)

メリディアンの218について書いていて、
この項が途中なのを思い出していた。

マーラーを聴くにも十分だ、というツイートを見たことから書き始めたわけで、
この「マーラーを聴くにも十分だ」というツイートをした人が、
どういう人なのかはまったく知らない。

以前書いているように私がフォローしている人ではなく、
フォローしている人がリツイートしているのが目に留っただけである。

それでも、「マーラーを聴くにも十分だ」というのは、
こちらの心にひっかかってくる。

勝手な想像でしかないのだが、
「マーラーを聴くにも十分だ」とツイートした人は、
218(normal)の音を「マーラーを聴くにも十分だ」というであろう。

十分すぎる、ということだって考えられる。

そうだとしよう。
「マーラーを聴くにも十分だ」という人は、どういうマーラーを聴いているのだろうか。
バーンスタイン/ベルリンフィルハーモニーの第九は、
そこに含まれているのだろうか。

譜面に記されたものが音となって聴こえてくれば「マーラーを聴くにも十分だ」ということになるのか。
だとしたら、バーンスタイン/ベルリンフィルハーモニーの演奏でなくてもいいのではないか。

私がまったく聴きたいと思わないマーラーの演奏でも、いいのかもしれない。

くり返すが、私の勝手な想像で書いているに過ぎない。
でも思ってしまう。

「マーラーを聴くにも十分だ」の人は、
メリディアンの218(normal)と218(version 7)で、
バーンスタイン/ベルリンフィルハーモニーの第九を聴いても、そういうのか。

Date: 1月 2nd, 2020
Cate: 会うこと・話すこと

会って話すと云うこと(audio wednesdayのこと・その6)

audio wednesdayでは、通常の喫茶茶会記のセッティングをバラして、一からやり直す。
そのこともあって、ほんとうのスタートといえるのは21時過ぎの音である。

19時開始であっても、使用機材のウォームアップはまだまだである。
使いこなしでどうにかなるところもあるし、鳴らしていくしかないところがある。
たいてい21時過ぎの音からを聴いてほしい、と思うくらい、
19時から21時にかけての変化は、けっして小さくない。

昨晩も、鳴りはじめたな、と感じる音が鳴ってくれたのは、21時をまわっていた。
ここから約二時間が、充実した時間でもある。
そして最後にかける曲。

これがうまく鳴ってくれれば、よかった、と思える。
昨晩はバーンスタインのマーラーの第九がそうだった。

人によって聴き方・受けとり方が違うのは重々承知しているが、
それでも、昨晩のバーンスタインのマーラーは、聴いていた六人の共通体験であるはずだ。
だからこそ話せることが、きっとある、と考えている。

audio wednesdayは週の真ん中に、夜おそくまでやる。
仕事の都合とかあって、なかなか行けない、という声もきいている。
それでも、都合がつけば、昨晩のように来てくれる人がいる。
そして最後まで聴いてくれる。

一方で、ほぼ毎回来てくれても、
一時間ぐらいで帰ってしまう人もいる。

人にはその人の都合があるから、そのことについてあれこれいわないが、
それでも、きちんとした音が鳴ってくる前に帰ってしまう人、
最後にかける曲を聴かずに帰ってしまう人、
つまり共通体験がそこには存在しない人とは、
音楽のこと、オーディオのこと、音のことについて話せるとは、思えない。

Date: 1月 2nd, 2020
Cate: 会うこと・話すこと

会って話すと云うこと(audio wednesdayのこと・その5)

昨晩のaudio wednesdayは、
1月1日だし、しかもバーンスタインのマーラーの第九をかける、ともいっていたから、
常連の方、二人だけかな、と予想していた。

五人の方が来られた。
一人は新しい方、一人は常連の方で、これまで豊田市からだったのが、
年末に転勤で神戸市からの参加だった。
もう一人の方は、ULTRA DACのときに参加された方で、大阪からだった。

みな、最後まで聴いてくれていた。
バーンスタインのマーラーの第九を聴いてくれたわけだ。

バーンスタインのマーラーの第九の第一楽章が終ったのは、23時すぎだった。
あとすこし時間の余裕があれば、最後まで聴きたかった。
それが無理なら最終楽章だけでもかけたかった(聴きたかった)。

毎回そうなのだが、ほとんど音を鳴らしているから、あまり話す時間はとれない。
昨晩もそうだった。
新しい方と話す時間は、ほとんどなかった。

それでも、と思うのは、最後まで聴いてくれた、ということだ。
また来られるかもしれない、そうでないかもしれないが、
どこかで会う機会があったときに、何か話せるはずだ、と思っている。

ほかの方もそうだ。
どこかで会った時に、きっと話せるはずだ。
音楽のこと、オーディオのこと、音のことについて話せる。

それは、最後までいてくれて、最後まで聴いてくれたからだ。