十分だ、ということはあり得るのか(その8)
メリディアンの218について書いていて、
この項が途中なのを思い出していた。
マーラーを聴くにも十分だ、というツイートを見たことから書き始めたわけで、
この「マーラーを聴くにも十分だ」というツイートをした人が、
どういう人なのかはまったく知らない。
以前書いているように私がフォローしている人ではなく、
フォローしている人がリツイートしているのが目に留っただけである。
それでも、「マーラーを聴くにも十分だ」というのは、
こちらの心にひっかかってくる。
勝手な想像でしかないのだが、
「マーラーを聴くにも十分だ」とツイートした人は、
218(normal)の音を「マーラーを聴くにも十分だ」というであろう。
十分すぎる、ということだって考えられる。
そうだとしよう。
「マーラーを聴くにも十分だ」という人は、どういうマーラーを聴いているのだろうか。
バーンスタイン/ベルリンフィルハーモニーの第九は、
そこに含まれているのだろうか。
譜面に記されたものが音となって聴こえてくれば「マーラーを聴くにも十分だ」ということになるのか。
だとしたら、バーンスタイン/ベルリンフィルハーモニーの演奏でなくてもいいのではないか。
私がまったく聴きたいと思わないマーラーの演奏でも、いいのかもしれない。
くり返すが、私の勝手な想像で書いているに過ぎない。
でも思ってしまう。
「マーラーを聴くにも十分だ」の人は、
メリディアンの218(normal)と218(version 7)で、
バーンスタイン/ベルリンフィルハーモニーの第九を聴いても、そういうのか。