Archive for category テーマ

Date: 6月 15th, 2021
Cate: ショウ雑感

2021年ショウ雑感(その18)

11月に、インターナショナルオーディオショウは開催される。
詳細はまだ発表になっていないが、オンライン配信を行うのだろうか。

入場者の制限は、たぶんあるはずだ。
行きたいけれど、今年はまだ行けない、という方も少なくないと思う。

会場全体の入場制限だけでなく、
各ブースの入場制限も重要になってくる。

そうなると会場にいても、聴きたかったブースに入れなかった、という人が出てくるかもしれない。

こういう状況下での開催は誰も経験していないのだから、
どんなことがおこるのか、事前に完全に把握することはできない。

混乱を少しでも防ぐ意味でも、オンライン配信をやったほうがいいのではないだろうか。
クリアーしなければならない問題がいくつかあるだろうが、
完全なかたちではなくても、試みとしてのオンライン配信をやってほしい。

そう思っている人は、けっこういるかもしれない。

Date: 6月 14th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Cantate de l’enfant et de la mere Op.185(その2)

聴きたい、とおもうときには、聴けないことが多かったりするものだ。
そういうものだ、となかばあきらめていた。

それでもAmazon Music HDを使い始めたのだから、
こっちでも、検索してみよう、と思った。
すんなり見つかった。

五味先生が聴かれていたのと同じである。
私がずっと以前に手離したのと同じ、
ミヨー夫人による朗読の「子と母のカンタータ」である。

素晴らしい時代を迎えつつある、という感触がある。
ほぼ三十年ぶりに聴いた。

あのころは、ミヨー夫人の朗読が心に沁みてくるという感じではなかったけれど、いまは違う。

五味先生の個人的事情と私の個人的事情とではずいぶん違うけれど、
三十年のあいだに、いろんな個人的事情はあった。

そんなことがあったから、「子と母のカンタータ」が聴きたくなったのだろうし、
いま、こうやって聴くことができて、よかった。

あいかわらずミヨー夫人が、なにを言っているのか、まんたくわからない。
けれど、あのころと違って、インターネットがある。

インターネットがあるからこそ、こうやって「子と母のカンタータ」が聴けているわけで、
「子と母のカンタータ」の詩を検索すれば、きっとすぐに見つかるだろう。
翻訳も見つかるもしれない。

見つからなかったとしても、いまはDeepLという翻訳サイトがある。
そこを使えば、日本語に訳してくれる。

そこにかかる労力はわずかなものであり、
やろうとおもえばすぐにできることだ。

でも、知らないままでいいのかもしれない、といまはおもっている。

《音楽のもたらすこの種の空想》、
そのためにあえてやらないことだってある。

Date: 6月 14th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Cantate de l’enfant et de la mere Op.185(その1)

TIDALを使うようになって、わりとすぐに検索した曲がある。
けれど、検索の仕方をいくつか試してみたけれど、TIDALにはなかった。

ナクソスのサイトで聴けるのは知っている。
ただしmp3音源だ。

昔、LPを持っていた。
廉価盤だった、と思う。
水色の背景のジャケットだった。
もちろんフランス盤だ。

この曲を知ったのも、聴きたいとおもったのも、
五味先生の文章を読んだから、である。
     *
 〝子と母のカンタータ〟は、フランス語の朗読に、弦楽四重奏とピアノが付いている。朗読は、私の記憶に間違いなければミヨー夫人の声で、こちらは早稲田の仏文にいたがまるきりフランス語はわからない。だからどんな文章を読んでいるのか知りようはないのだが、意味は聴き取れずとも発声を耳にしているだけで、何か、すばらしい詩の朗読を聴くおもいがする。フランス語はそういう意味で、もっとも詩的な国語ではないかとおもう。カタログをしらべると、ピアノはミヨー自身、弦楽四重奏はジュリアードが受持っているが、なまじフランス語がわからぬだけに勝手に私自身の作詩を、その奏べに托して私は耳を澄ました。空腹に耐えられなくなるとS氏邸を訪ねては、〝幻想曲〟とともに聴かせてもらった曲であった。
 私たち夫婦には、まだ子はなかった。妻は私が東京でルンペン暮しをしているのを何も知らず、適当な職に就いて私が東京へ呼び寄せるのを、大阪の実家で待っていた。放浪に、悔いはないが、何も知らず待ちつづける妻をおもうと矢張り心が痛み、もしわれわれ夫婦に子供があって、今頃、こんなふうに妻は父のいない我が子に詩を読んできかせていたら、どんなものだろうか。多分、無名詩人の私の作った詩を、妻はわが子よりは自分自身を励ますように朗読しているだろう……そんな光景が浮んできて、いつの間にか私自身のことをはなれ、売れぬ詩を書いている貧しい夫婦の日常が目の前に見えてきた。どんな文学書を読むより、音楽のもたらすこの種の空想は痛切であり、まざまざと現実感をともなって私を感動させる。
 いつもそうである。
 貧乏物語をしたいからではなく、音楽が、すぐれた演奏がぼくらに働きかけ啓発するものの如何に多いかを言いたくて、私は書いているのだが、ついでに言えば私が今日あるを得たのは音楽を聴く恩恵に浴したからだった。地下道や、他家の軒端にふるえながらうずくまって夜を明かした流浪のころ、おそらく、いい音楽を聴くことを知らねば私のような男は、とっくに身を滅ぼしていたろう。
 そういう意味からも、とりわけ〝子と母のカンタータ〟は私を立直らせてくれたことで、忘れようのない曲である。遂に未だにミヨー夫人の朗読したその詩の意味はわからない。私にはただ妻が私たち夫婦のために読んでいる詩と聴えていた。どうにか世に出るようになってこのレコードを是非とり寄せたいとアメリカに注文したら、すでに廃盤になっていた。S氏のコレクションの中にまだ残されているかも知れないとおもうが、こればかりは面映ゆくて譲って頂きたいとは言えずにいる。ステレオ盤では、たとえ出ていても、ミヨー夫人の朗読でのそれは望めまい。それなら別に聴きたいと私は思わない。ぼくらがレコードを、限られた名盤を愛聴するのは、つねにこうした個人的事情によるだろう。そもそも個人的関わりなしにどんな音楽の聴き方があるだろう。名曲があり得よう。
(オーディオ巡礼「シューベルト《幻想曲》作品一五九」より)
     *
五味先生が注文されたときには廃盤になっていたようだが、
私が20代前半のころは、手に入れられた。
五味先生以上に、私はフランス語はまったくわからない。

ミヨー夫人の朗読の意味は、なにひとつわかっていなかった。
当時、調べようとしたけれど、手がかりもなくあきらめてしまった。

「子と母のカンタータ」のLPは、無職時代に、
背に腹は替えられぬ、という理由で、ほかの多くのディスクとともに売り払った。

その時は、特に惜しい、とは感じていなかった。
ここ十年くらいである。
もう一度聴きたい、とわりと頻繁に思うようになってきたのは。

Date: 6月 13th, 2021
Cate: 試聴/試聴曲/試聴ディスク

試聴ディスクの変遷とオーディオ雑誌 (その2)

オーディオ雑誌の誌面に登場した試聴ディスクを網羅した記事は、
私の知るかぎりないけれど、ステレオサウンド 50号では、
それに近い感じの記事をやっている。

50号は、創刊50号記念特集が組まれている。

50号の記事の掲載順は、
まず五味先生の「続・五味オーディオ巡礼」がある。
これは、もう不動の位置であり、
創刊50号記念特集がどういう内容であれ、順番が変ることはない。

このあとから50号記念特集が続く。
巻頭特別座談会「オーディオの世界をふりかえる」が、まずある。
井上卓也、岡俊雄、菅野沖彦、瀬川冬樹、山中敬三、五氏の座談会があって、
岡先生と黒田先生の『「ステレオサウンド」誌に登場したクラシック名盤を語る』だ。

そして、岡先生の「オーディオ一世紀──昨日・今日・明日」、
「栄光のコンポーネントに贈るステート・オブ・ジ・アート賞」、
長島先生の「2016年オーディオの旅」と続く。

41号から読み始めた私にとって、
当時は、記事の、この順番を特に不思議とは思わなかったが、
少なくとも平成以降のステレオサウンドしか読んでいない人にとっては、
『「ステレオサウンド」誌に登場したクラシック名盤を語る』が、
前の方にあることを意外に思うのかもしれない。

この記事(対談)は、当時読んだときよりも、
数年後、さらには十年後、二十年後に読み返した方が楽しめた。

50号(1979年)当時は、それほど多くのクラシックのレコードを聴いていたわけではない。
というよりも、聴いたクラシックのレコード数は少なかった。
ある程度の知識はもっていたけれど、それでも微々たるものだったし、
岡先生、黒田先生の対談を読むのは、まず勉強という意識でもあった。

Date: 6月 12th, 2021
Cate: 試聴/試聴曲/試聴ディスク

試聴ディスクの変遷とオーディオ雑誌 (その1)

Amazon Music HDが追加料金なしでも利用できるようになったので、
プライム会員ということもあって、今日から利用するようにした。

TIDALで満足しているどころか、
まだまだ聴くのが追いつかないほどなのに、
Amazon Music HDでも音楽を聴こう、と思うようになったのは、
TIDALが弱い日本語の歌を集中して聴きたくなったことも関係している。

あれこれ検索していたら、沢たまきが表示された。
「ベッドで煙草を吸わないで」とともに、である。

上杉先生が、ずっと以前試聴レコードとして使われていた。
といっても、私がステレオサウンドで働いたころは、もう使われていなかった。

1966年発表の曲だから、
私がいたころ(1980年代)には試聴ディスクとして使われてなくても不思議ではなかった。

それでも、上杉先生といえば、私にとってはこの「ベッドで煙草を吸わないで」が、
まっさきに浮んでくる。

この曲がヒットしたころは、私は幼かったから、その時代のことを知っているわけではない。
テレビ番組で懐かしのメロディで聴いたぐらいの記憶しかない。

「ベッドで煙草を吸わないで」を最後まで通して聴いたのは、
今日が初めてだった。

聴いていても、上杉先生のことを思い出していた。

いまオーディオ雑誌で試聴ディスクとして登場する日本語の歌は、
「ベッドで煙草を吸わないで」のころとはずいぶん違ってきている。

50年以上経っているのだから、変ってきていて当然なのだが、
そういえば、オーディオ雑誌で使われてきた試聴ディスクをまとめた記事がないことに気づく。

ステレオサウンドも創刊50年をこえて、今年の秋で55年になる。
誌面に登場した試聴ディスクの数は、どれだけになるのか。

オーディオ雑誌はステレオサウンドだけではない。
すでに休刊(廃刊)になったオーディオ雑誌も少なくない。

それらを含めて、誌面に登場した試聴ディスク(曲)がどれだけになり、
そのうちのどれだけでTIDALやAmazon Music HDで聴けるのだろうか。

Date: 6月 11th, 2021
Cate: Pablo Casals, ディスク/ブック

カザルスのモーツァルト(その7)

いろんな指揮者のモーツァルトの演奏を聴いていると、
ふと、こんな演奏じゃなくて……、と思ってしまうときがある。

そういう時に聴きたくなるモーツァルトは、きまってカザルス指揮のモーツァルトである。
そして、もうひとりフリッツ・ライナーのモーツァルトである。

ライナー/シカゴ交響楽団によるモーツァルトを聴いていると、
これこそがモーツァルトだ、と心でつぶやいている。

カザルスのモーツァルトもそうなのだが、こういうモーツァルトは聴けそうで聴けない。

ライナー/シカゴ交響楽団のモーツァルトの交響曲を聴く、ずっと前に、
ライナー/メトロポリタン歌劇場による「フィガロの結婚」を聴いていた。

録音は、私が手に入れたCDはかなり悪かった。
それでも演奏は素晴らしかった。

五味先生はカラヤンの旧録音(EMIでのモノーラル)を高く評価されていた。
五味先生はライナーの「フィガロの結婚」は聴かれていないのか。

「フィガロの結婚」の記憶があるから、
ライナー/シカゴ交響楽団のモーツァルトには期待していた。

期待は裏切られるどころか、こちらの勝手な期待を大きくこえたところで、
モーツァルトのト短調が鳴り響いていた。

五味先生の表現を借りれば、
《涙の追いつかぬモーツァルトの悲しい素顔》が浮き上ってくる演奏とは、
ライナーやカザルスの演奏のような気がしてならない。

Date: 6月 11th, 2021
Cate: 名器

名器、その解釈(その8)

指揮者にかぎらなくてもいい、ピアニストでもヴァイオリニストでもいい。
大ピアニストと名ピアニスト、大ヴァイオリニストと名ヴァイオリニスト。

どちらが優れた演奏家ということは、あまり関係ないように感じている。
それでもなお名指揮者、名ピアニストとはいえても、
大指揮者、大ピアニストと呼ぶことが、ちょっとためらわれる指揮者、ピアニストがいる。

その違いが、わかっているようでいて、よくわかっていない。
ただただ感覚的に大と名を使い分けているような気もしている。

大指揮者と呼ばれる人の演奏が常に名演とは限らない。
それは名指揮者と呼ばれている人の演奏にも同じことがいえる。

名演のときもあれば、さほどでもないときもある。
それでも名演とはいっても、大指揮者による名演を、大演とは呼ばない。
大名演とはいう。

このことから考えれば、大指揮者は大名指揮者なのか。
そんなことも思いつくわけだが、大指揮者は、やはり大指揮者である。

ここに深く関係しているのが、「スケール」なのだろう。
となると、大指揮者は必ずしも名指揮者とは限らないのか。

そんなこともまた考えてしまう。

オーディオはどうだろうか。
名器もあれば、大器と呼ばれるモノもある。

それに大器の場合、未完の大器という使われ方もある。

Date: 6月 10th, 2021
Cate: ロマン

好きという感情の表現(その8)

この項を書き進めていると、瀬川先生の、この文章が浮んでくる。
     *
 どういう訳か、近ごろオーディオを少しばかり難しく考えたり言ったりしすぎはしないか。これはむろん私自身への反省を含めた言い方だが、ほんらい、オーディオは難しいものでもしかつめらしいものでもなく、もっと楽しいものの筈である。旨いものを食べれば、それはただ旨くて嬉しくて何とも幸せな気分に浸ることができるのと同じに、いい音楽を聴くことは理屈ぬきで楽しく、ましてそれが良い音で鳴ってくれればなおさら楽しい。
(虚構世界の狩人・「素朴で本ものの良い音質を」より)
     *
オーディオは科学技術の産物ゆえに、技術的なことを語ろうとすれは、
際限なく語れるところがある。
しかも難しく語ろうと思えば、そうすることも際限なくできるし、
しかつめらしい顔をして深刻ぶることもたやすい。

菅野先生がいわれていたネアカ重厚の反対で、
ネクラ軽薄な人ほど、深刻ぶるのが得意なようだし、好きなようだ。

オーディオを介して音楽を聴くということは、
瀬川先生がずっと以前に書かれているように、《もっと楽しい》ものだ。

深刻ぶってしまったら、幸せな気分に浸ることは、もうできなくなる。

Date: 6月 10th, 2021
Cate: 戻っていく感覚

二度目の「20年」(ライバルのこと・その3)

オーディオにおいてのライバルとは、
結論めいたことを先に書けば、互いの音を糧とする(できる)の間柄のはずだ。

片方だけが相手の音を糧に、という間柄ではライバルとはいえないわけで、
あくまでも互いの音を、ということが大事なことだ。

私が「ライバルがいなかった」というのは、このことがとても大きいからだ。

Date: 6月 9th, 2021
Cate: Noise Control/Noise Design

CR方法(その21)

CR方法は、スピーカーに関していえば、
ウーファー、スコーカー、トゥイーターすべての帯域のユニットに試しているし、
コーン型、ドーム型、ホーン型にもやってきた。

いずれの場合にも、効果ははっきりとある。

スピーカーユニットの型式で試していないのは、AMT型(ハイルドライバー)である。
ボビンにコイルが巻かれているタイプではない。

私がこれまでやってきたのは、いわゆるコイルに対して、である。
スピーカーのボイスコイル、ネットワークのコイル、トランスの巻線などである。

AMT型ユニットのボイスコイルに相当する箇所は、いわゆるパターンである。
これまでやってきたスピーカーユニットと同じような効果があるのか、
それともあまり効果なしなのか。

いますぐというわけにはいかないが、いずれやってみよう。

Date: 6月 8th, 2021
Cate: アンチテーゼ, 平面バッフル

アンチテーゼとしての「音」(平面バッフル・その6)

アルテックの604-8Gを、サブバッフル+三本の角柱で固定する。
これでしっかりと自立する。

このサブバッフルに、平面バッフルを取り付けるかっこうになるわけだ。
バッフルのサイズ、材質は、予算、スペースに応じて変更できる。

最初はそれこそ強化ダンボールでかまわない。
さほど高価なわけではないから、サイズの検討もやりやすい。

1m×1mぐらいから始めてもいいし、
いきなり部屋におさまる最大サイズをやってみるのもいいだろう。

ダンボールだから、大きすぎた、と感じたら処分も簡単だ。

それにバッフルそのものにユニットを取り付けるわけではないから、
バッフルにユニットの荷重がかからない。

これは平面バッフルのバッフルそのものの響きをよくするうえでは、
いい方向に働く、と思っていい。

604-8Gは15kgほどの重量がある。
これを平面バッフルだけで支えるとなると、
バッフルへのストレスとなると考えられる。

それをサブバッフルと三本の角柱で支えることで、
サブバッフルと平面(メイン)バッフルとは、機械的にしっかりと結合しなくてもすむ。
このメリットは大きい。

強化ダンボールである程度の手応えを感じたら、
好ましいと思う材質に変更してもいい。

Date: 6月 8th, 2021
Cate: ディスク/ブック

COMPLETE DECCA RECORDING Friedrich Gulda

タワーレコードから届いた新譜案内のメール。
そこに、フリードリッヒ・グルダの「デッカ録音全集」があった。

41枚のCDとBlu-Ray Audioで、7月下旬に出る。
192kHz、24ビットでのリマスターということだ。

Blu-Ray Audioで聴けるのは、
ホルスト・シュタイン/ウィーンフィルハーモニーとのベートーヴェンである。

それ以外は、44.1kHz、16ビットになるわけだが、
おそらくe-onkyo、TIDALでも扱うことになる、と思っている。

すべてが、となるのかどうかはなんともいえないが、
私としてはベートーヴェンのピアノソナタが、
192kHz、24ビットのMQAで聴けるようになれば、それでそうとうに満足できる。

その日がおとずれるのが、待ち遠しい。

Date: 6月 7th, 2021
Cate: 40万の法則

40万の法則が導くスピーカーの在り方(D130と岩崎千明氏・その28)

一年半ほど前の記事を思い出していた。
タイトルは『「音楽は世界共通の言葉」という通説が間違っていた可能性』である。

詳細はリンク先を読んでほしい。
最後のところだけ引用しておく。
     *
しかし、チマネ族が使う楽器の音の上限は4000Hzよりもかなり低いものが多いにもかかわらず、チマネ族も西洋人と同様に約4000Hzまでは正確に聞き取れた一方で、それ以上になると音の違いが分からなくなってしまったとのこと。

この結果についてマクダーモット氏は「音が4000Hzを超えると、脳のニューロンの反応性が低下し、音の違いを判別することが困難になるのではないでしょうか」との推論を述べて、人間の音感の限界は文化ではなく生物学的な制限に起因したものだとの見方を示しました。
     *
推論であり、記事のタイトルにも《間違っていた可能性》とあるから、
数年後、十年後には、また別の推論が登場し、否定される可能性もある。

けれど、《音が4000Hzを超えると、脳のニューロンの反応性が低下》するというのは、
ひじょうに興味深い。

4000Hzは4kHz。
ここで述べてきているJBLのD130のトータルエネルギー・レスポンスで、
ほぼフラット帯域の上限が4kHzである。

4kHz以上の高域が不要とか、それほど重視しなくてもいい、といいたいわけではなく、
4kHzまでの帯域、40万の法則に従うなら100Hzから4kHzまでの帯域を、
きっちりとすることが、実のところ、想像以上に大事なことではないか──、
そういいたいのである。

Date: 6月 6th, 2021
Cate: ディスク/ブック

宿題としての一枚(その6)

「瀬川先生の音を彷彿させる音が出ているから、来ませんか」といった知人宅では、
児玉麻里/ケント・ナガノのベートーヴェンは、ベートーヴェンの音楽ですらなかった。

菅野先生は、この二人のベートーヴェンを、けっこう大きめの音量でかけられた。
知人宅では、まず音量もあがらない。

もちろん、ボリュウムのツマミを時計回りに廻せば、音量はあがる。
けれど、しなびた音は、どこまでいってもしなびた音でしかない。
不思議なもので、まったく音量が増したように感じられないのだ。

赤塚りえ子さんのところでは、どう鳴ったのか、というと、
厳しいところを感じたりもしたけれど、少なくとも私の耳にはベートーヴェンの音楽であった。

知人宅のシステムは、赤塚さんのシステムよりも、
ずっと大型で、マルチアンプで規模も大がかりだった。
いろいろと音をいじってもあった。

本人いわくチューニングの結果としての音である。
知人宅のシステムも、もっとストレートに鳴らしていれば、
ここまで破綻することはなかったはずなのに、と思うけれど、
本人は「瀬川先生の音を彷彿させる」ほどの音に聴こえているわけだから、
その世界に閉じ籠もったままで、シアワセなのだろう。

私にはまったく関係ない、興味ない世界でしかない。
私は、ベートーヴェンの曲をかける時は、ベートーヴェンの音楽を聴きたい。
もっといえば、ベートーヴェンという花を咲かせたい。

ベートーヴェンの音楽は、動的平衡の音の構築物である。
まさしく児玉麻里とケント・ナガノのベートーヴェンは、そうだった。
菅野先生のところで聴いた音は、そうだった。

それには、あの音量が必要不可欠のように思われる。
私のところでは、その必要な音量で、いまのところ鳴らせない。

赤塚さんのところは違う。
だから、この二人のベートーヴェンを聴いてみたい気になったのだろうし、
本筋は外していないだけに、これからチューニングをやっていけば──、
という可能性も感じていた。

Date: 6月 6th, 2021
Cate: 新製品

JBL SA750(その5)

ステレオサウンド 219号は、ちょっとだけ楽しみにしていた。
JBLのSA750の記事を読める、と思っていたからだ。

けれど発売日前に、友人のKさんが、
私が期待している記事は載っていないことを知らせてくれた。

219号にSA750は、一応載っている。
424ページに、編集部原稿で、簡単な紹介記事が載っているだけである。

アメリカでは1月に発表になっていた。
日本でも4月ごろには発表された。

記事には、2021年初夏から受付開始とある。
発売されるのは8月とか9月くらいになるのだろうか。

それにしても、なぜこんなに発売が遅れているのか。

1月の発表とともに、
SA750は、同じハーマン傘下のアーカムのSA30をベースにしている(はず)と、
ソーシャルメディアで少し話題になっていた。

スペック的には確かに同じといわれてもしかたないほどだ。
リアパネルの写真を比較すると、これまた同じことがいえる。

アーカムのSA30がベースでも、そっくりそのまま出してくることはない、とは思っている。
そのための時間が必要なのかもしれない──、
と219号の記事を読むまでは思っていた。

写真の説明文にこうある。
《この写真はCG画像で実際の製品とは細部が異なります。》

ということは、リアパネルの写真もCG画像なのか。
1月発表の段階で、プロトタイプは存在していなかったのか。

9月発売の220号には、載るであろう。
どんなふうに仕上げてくるのか。

もしかすると220号の表紙はSA750なのかもしれない。