サー・コリン・デイヴィスのベートーヴェン 序曲集(その3)
エソテリックの人たちの何人かは、
菅野先生監修のリマスタリングに立ち合っていることだろう。
それにエソテリックからのSACDの第一弾に、
コリン・デイヴィスのベートーヴェンを選んだということは、
菅野先生のところで聴いてのことのはずだ。
にも関らずの2007年のインターナショナルオーディオショウでのエソテリックでの、
コリン・デイヴィスのベートーヴェンは、正体不明でしかなかった。
誰の指揮なのか、どの国の、どのオーケストラなのか、
そういったことだけでなく、ベートーヴェンの曲なのに、
ベートーヴェンの音楽になっていなかった。
その意味において、別項で書いているゼルキンのベートーヴェンのことを思い出す。
エソテリックのSACDの出来が悪かったわけではない。
このSACDは手に入れて聴いている。
悪いのは鳴らし方である。
一時期、中古相場が三万円(元は3,300円)程度までになったSACDであっても、
鳴らし方を根本的なところで間違ってしまえば、とんでもない鳴り方に変容してしまう。
エソテリックのSACDだから、いい音で鳴ってくれるわけではない。
エソテリックのSACDも、TIDALのMQAも、選択肢である。
最良とおもえる選択をしたところで、音楽の聴き方をどこかで間違ってしまっていては、
間違った鳴らし方しかできない。
少なくとも菅野先生のところでコリン・デイヴィスのベートーヴェンを聴いている人間が、
2007年のエソテリックのブースで、正体不明の音楽を鳴らしてしまっている。
私がスタッフの一人だったら、あれでは鳴らせないと、
つまり聴かせられないと判断する。
けれど2007年のエソテリックはそうではなかった──、
ということは、あの音を、菅野先生のところでの音と同じとまではいわないものの、
良さは出せていると判断してのことなのだろう。
そうとしか思えない。
だとしたら、鳴らし方以前の聴き方の、本質的なところでの問題である。