Archive for category テーマ

Date: 2月 27th, 2022
Cate: Glenn Gould, 録音

録音は未来/recoding = studio product(その5)

別項で、鮮度の高い音について書いているところだ。
この「鮮度の高い音」を、
オーディオにおける金科玉条とする人はけっこう多い。

そうしたい気持はわかるし、ワルいとまではいわないけれど、
その「鮮度の高い音」は、ほんとうの意味での鮮度の高い音なのか──、
そのことについてとことん語られているのを、私は見たことがない。

私がみたことがないだけであって、
どこかで行われていたのかもしれないが、その可能性を否定しないけれど、
どうもそうとは思えない。

「鮮度の高い音」を金科玉条とする人たちは、
録音に関しても、同じ事を唱える。
シンプルな録音こそ最上だ、と。

具体的に書けば、マイクロフォンの数は二本。
つまりワンポイント録音である。

マルチマイクロフォンにすれば、ミキシングのための機器が必要となる。
そういう機器は、音の鮮度を落とすことになる。
同じ理由で、エフェクター類の使用は、まったく認めない。

ケーブルも吟味して、できるだけ短い距離で、各機器を接続する。
使用する器材はマイクロフォンと録音機器のみである。

これ以上、削ったら録音ができないまでに減らしての録音こそ、
鮮度の高い音が録れる、ということになる。

実際に、そういうコンセプトを売りにしているレーベルもある。
このことが悪いわけでもないし、可能性を感じないわけでもない。

たとえばプロプリウスから出ているカンターテ・ドミノ。
この録音こそ、まさにこういう録音である。

これまでにさんざん聴いてきたし、これからも昔ほどではないにしろ、
確認のために聴くことは間違いない。

でも、カンターテ・ドミノをstudio productと感じているかといえば、
そうではない。

Date: 2月 26th, 2022
Cate: 映画
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WEST SIDE STORY(その4)

以前、別項で引用したことを、ここでもう一度引用しておこう。

河出書房新社の「フルトヴェングラー 最大最高の指揮者」に、
作曲家・伊東乾氏による「作曲家フルトヴェングラー」についての文章がある。

バーンスタインの話から始まる。
     *
 生前のレナード・バーンスタイン(1918-1990)と初めて会ったときの事だ。たまたま学生として参加していた彼の音楽祭で、当時僕がスタッフをしていた武満徹監修の雑誌の企画で「作曲家としてのバーンスタイン」に話を聴くことになった。
 ところが、話が始まって20分位だったか、マエストロ・レニーは突然、何か感極まったような表情になってしまった。
 思いつめたような声で、半ば涙すら浮かべながら
「コープランドには第三交響曲がある。アイヴズには第四交響曲がある。でも自分には何もない」
 と訴え始めたのだ。大変に驚いた。
 反射的に彼の『ウエストサイド・ストーリー』(『シンフォニック・ダンス』)の名を挙げてみたのだが
「ああ、あんなものは……」
 と更に意気消沈してしまった。確かに「シンフォニック・ダンス」はよく知られた作品だが、実はオーケストレーションも他の人間が担当しており、ミュージカル映画の付帯音楽に過ぎないのは否めない。
「誰も僕を、作曲家としてなんか認めていない……」
「いいえ、あなたが一九八五年、原爆40年平和祈念コンサートで演奏された第三交響曲『カディッシュ』は素晴らしかっただから今、僕たちはここに来て、作曲家としてのあなたにお話を伺っているのです。
 自分の信じる通りを誠実に話して、どうにか気持ちを立て直して貰った。
     *
これを引用した別項でも書いたことだが、
グルダは、バーンスタインはジャズがわかっていないと批判していた。

バーンスタインの「ウエスト・サイド・ストーリー」を名曲という人は少なくない。
そうだろうな、と思いつつも、私には退屈だったりする。

耳に残る旋律があるものの、全体を通して聴くことは、もうしない。
そんな私でもバーンスタインが「ウエスト・サイド・ストーリー」を録音したことには、
へんないいかたになるが感謝している。

ホセ・カレーラスとキリ・テ・カナワを起用した「ウエスト・サイド・ストーリー」は、
CDだけでなくLD(レーザーディスク)も発売になった。

一度見ている。
ホセ・カレーラスが、クラシック歌手特有の歌い方がどうしても抜け切らず、
録音現場から立ち去ってしまうシーンがあった。

このことがあったから、
「ウエスト・サイド・ストーリー」での録音があったから、
その十数年後の“AROUND THE WORLD”がある、と感じるからだ。

Date: 2月 26th, 2022
Cate: 映画

THE BLUE NOTE STORY(その1)

3月11日から一週間だけ、映画“THE BLUE NOTE STORY”が公開される。

監督はエリック・フリードラ、
製作総指揮はヴィム・ヴェンダース。

どんな映画なのかは、リンク先を見てほしい。
一週間という短い上映期間、
しかも上映劇場は、北海道が一、関東地区(東京)が二、
中部地区が一、近畿地区が二、九州地区が一と少ない。

おそらく割と早くストリーミングでも観ることができるようになるのだろうが、
こういう映画は大きなスクリーンの映画館で観たいもの。

観に行く予定だ。

Date: 2月 25th, 2022
Cate: 五味康祐, 情景

情景(その4)

鮮度の高い音。
もっともらしくて、わかりやすく思える。

しかも鮮度の高い音は、ある意味たやすく聴ける、ともいえる。
昔のプリメインアンプにはトーンコントロールがついていた。
このトーンコントロールをバイパスするスイッチもけっこうついていた。

トーンコントロール回路を経由しないわけだから、
余分な回路を信号が通らない、その音は鮮度が高い、といえなくもない。

CDプレーヤーが登場して、パッシヴ型フェーダーを使うことで、
コントロールアンプを経由せずにパワーアンプにダイレクトに接続する。
その音を、鮮度が高い、といえなくもない。

でも、これらの音は、本当の意味で客観的に鮮度の高い音なのだろうか。
     *
 オーディオの再生の究極の理想とは、原音の再生だと、いまでも固く信じ込んでいる人が多い。そして、そのためのパーツは工業製品であり電子工学や音響学の、つまり科学の産物なのだから、そこには主観とか好みを入れるべきではない。仮に好みが入るとしても、それ以前に、客観的な良否の基準というものははっきりとあるはずだ……。こういうような考え方は、一見なるほどと思わせ、たいそう説得力に満ちている。
 けれど、オーディオ装置を通じてレコードを(音楽を)楽しむということは、畢竟、現実の製品の中からパーツを選び組合わせて、自分自身が想い描いた原音のイメージにいかに近づくかというひとつの創造行為だと、私は思う。いや、永いオーディオ歴の中でそう思うようになってきた。客観的な原音というものなどしょせん存在しない。原音などという怪しげなしかしもっともらしい言葉にまどわされると、かえって目標を見失う。
(ステレオサウンド別冊「続コンポーネントステレオのすすめ」まえがき より)
     *
瀬川先生が書かれている。
1979年においても、「いまでも」と書かれている。
ここからすでに四十三年が経っているが、この「いまでも」はそのままといえる。

《客観的な原音というものなどしょせん存在しない》とある。
そうである。
あるのは、主観的な原音である。

鮮度の高い音も、じつのところそうではないのか。
客観的な鮮度の高い音がある──、
ほんとうにそういえるのか。

Date: 2月 25th, 2022
Cate: ディスク/ブック

Bach: 6 Sonaten und Partiten für Violine solo(その10)

ヨハンナ・マルツィのEMIへの録音が、
2022年リマスターで発売になるというニュースがあったのは、わりと最近のこと。

192kHz、24ビットでのリマスター、とあった。
とうぜんMQAでの配信も始まる──、そう確信していても、
こればかりは実際に始まってみないことには、
ふくらみきった希望という風船は、いつしかしぼんでいくこともある。

今日、TIDALで聴いた。
ヨハンナ・マルツィのバッハの無伴奏が、
MQA Studio(192kHz、24ビット)で聴ける。

3月になれば、EMIへの他の録音も聴けることになるであろう。
もしそうならなくてもマルツィのバッハの無伴奏は聴ける。

これまでマルツィを、それほど熱心に聴いてきたわけではない。
一部の熱狂的な聴き手のように、マルツィを聴いてきたわけではない。

そんな私でも、今回のマルツィのバッハがMQAで聴けるようになったのは、
素直に喜んでいる。

Date: 2月 24th, 2022
Cate: 孤独、孤高
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ただ、なんとなく……けれど(その5)

ステレオサウンド 32号掲載の伊藤先生の連載「音響本道」。
「孤独・感傷・連想」というタイトルの下に、こう書いてあった。
     *
孤独とは、喧噪からの逃避のことです。
孤独とは、他人からの干渉を拒絶するための手段のことです。
孤独とは、自己陶酔の極地をいいます。
孤独とは、酔心地絶妙の美酒に似て、醒心地の快さも、また格別なものです。
ですから、孤独とは極めて贅沢な趣味のことです。
     *
孤独という極めて贅沢な趣味を味わえるのが、まさにオーディオという趣味である。

Date: 2月 24th, 2022
Cate: オーディオの「美」

人工知能が聴く音とは……(その8)

小林秀雄が、こう書いている。
《彼はどこにも逃げない、理智にも、心理にも、感覚にも。》

ここでの「彼」とは中原中也のことである。

「山羊の歌」にある「自恃」とは、そういうことなのか。

Date: 2月 23rd, 2022
Cate: 四季

さくら餅(その7)

人形町の三はし堂が二度目の閉店をしてから、もう五年以上経つ。
この季節になると、ふとした拍子に、
三はし堂のさくら餅の香りが一瞬よみがえってくることがある。

もう食べられないことがわかっているから、
だからといって、もう一度食べたい──、とは思わない。

けれど、三はし堂の閉店後に出逢った親しい人たちに、
三はし堂のさくら餅を食べてもらいたかったなぁ……、とはそのたびに思う。

Date: 2月 23rd, 2022
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これから(コロナ禍ではっきりすること・その5)

アメリカのエクソギャル(EXOGAL)が、業務停止を発表している。
元ワディアにいたエンジニアが創業した会社であることは知られている。

半導体などの部品の供給問題により、製品の製造が困難になったためである。
たった一個の部品が入手できなくなっても、
代替品がなければ、製品を完成することはできなくなる。

完成しない製品は出荷できない。
資金繰りも厳しくなる。

このニュースを知って、輸入元のアクシスのサイトを見てみた。
EXOGALのページは、まだ残っているが、
製品ラインナップのページを見ていくと、
すべての製品のところに[生産完了]となっている。

いつから、この[生産完了]がつくようになったのか。
昨日今日ついたものでなければ、
これがついた時点から経営が厳しい状況になっていたのだろう。

同じことは日本のオーディオメーカーにも起りうる。

Date: 2月 23rd, 2022
Cate: オーディオの「美」

人工知能が聴く音とは……(その7)

「人工知能が聴く音とは……」という、このテーマについてぼんやり考えていたら、
中原中也の「山羊の歌」が浮んできた。
     *
自恃だ、自恃だ、自恃だ、自恃だ、
ただそれだけが人の行ひを罪としない
     *
なぜ浮んできたのかは自分でもわからないが、
とにかく「自恃」が浮んできた。

人工知能に自恃はあるのだろか。
芽ばえるのだろうか。

Date: 2月 22nd, 2022
Cate: 黄金の組合せ

黄金の組合せ(番外)

MQAとベンディングウェーヴのスピーカーこそ、
私にとってのごく私的な黄金の組合せになってくれる気がしてならない。

Date: 2月 22nd, 2022
Cate: サイズ

サイズ考(その77)

L07C、Mark 2500の寝起きが悪いということを読んで、
まず温度が深く関係していることは、誰でもが思うことである。

パワーアンプの場合、出力段のトランジスターに流れる電流を、
バイアス回路で管理する。

このバイアス回路は温度補償もかねて、出力段とどこかで熱結合されている。
それゆえに、バイアス回路をどこに置くのかは、
パワーアンプの音質を大きく左右することになる。

取り付け位置がまずいと、温度に関して不安定気味になる。
あまりシビアに反応しても、うまくないわけである。

といってあまり反応しない位置に取り付けてしまえば、
熱暴走で出力段のトランジスターを壊してしまうことにもなりかねない。

大型(大出力)のパワーアンプになればなるほど、ヒートシンクは大型化していく。
トランジスターの数も増える傾向にある。

ヒートシンク全体が常に同じ温度であるならばいいのだが、温度差は生じるし、
出力段のトランジスターのすべてが同じ温度で動作させるということは、
なかなか難しいことである。

SAEのMark 2500を見てみると、動作中の出力段の温度を、
サーモグラフィーを出力段の表面温度を測ってみたくなる。

Mark 2500の出力段は2パラレル・プッシュプルだが、
トランジスターの数は片チャンネルあたり八個である。

トランジスターを二段重ねで使う回路のためである。
この八個のトランジスターが水平に四個ずつ二列に並んでいる。

どうみても、これら八個のトランジスターの温度が同じになるとは、
なかなか考えにくい。

電源投入時と二、三時間鳴らした状態でサーモグラフィーで表面を温度を測ったら、
どんな結果になるだろうか。

Date: 2月 21st, 2022
Cate: サイズ

サイズ考(その76)

1970年代後半ぐらいから、
アンプのウォーミングアップの問題が、オーディオ雑誌でもとりあげられるようになってきた。

電源を入れてすぐの音は、そのアンプ本来の音ではない。
電源を入れておく。ただそれだけで済むのならば、まだいいが、
実際のアンプのウォーミングアップは信号を入れて鳴らしてから始まる。

それでも30分程度で終るのであれば、まだいい。
このころのアンプの中には二、三時間程度のウォーミングアップを必要とするモノがあった。

国産アンプでは、トリオのコントロールアンプL07Cがそうだった。
瀬川先生はステレオサウンド 47号で、
《2時間以上鳴らし込むと真価を発揮するクリアーで緻密な音質が独特》と書かれている。

本調子になるのが遅いアンプといえる。
それでもL07Cはコントロールアンプで消費電力は大きくないから、
電源をずっと入れっぱなしにしておけば、ウォーミングアップの時間はある程度短くなる。

問題はパワーアンプだ。
同時代のパワーアンプでは、SAEのMark 2500(2600)がそうだった。

瀬川先生の愛用だったパワーアンプのMark 2500は、
《鳴らしはじめて2〜3時間後に本当の調子が出てきて、音の艶と滑らかさを一段と増して、トロリと豊潤に仕上がってくるこ上が聴き分けられる》
とステレオサウンド 41号で書かれている。

休日ならば、それでもまだいい。
でも仕事が終り帰宅してからのわずかばかりの音楽鑑賞の時間。

なのにアンプが本調子になるのが二、三時間後では、
いい音に仕上がってきたころには、アンプの電源を落さなければならない──、
そういうことだってままある。

いい音になるための時間はしかたない、必要な時間である──、
そう割り切ったとしても、なぜ? という疑問は残る。

Date: 2月 20th, 2022
Cate: High Resolution

MQAのこと、オーディオのこと(その9)

世の中の大半のスピーカーは、ピストニックモーションによって、
電気信号を音(振動)へと変換している。

コーン型、ドーム型、ホーン型、コンデンサー型、リボン型など、
スピーカーユニットには多くの変換方式があるが、
これらはどれもピストニックモーションによるものだ。

ピストニックモーションのスピーカーがある一方で、
ごくわずかだがベンディングウェーヴのスピーカーも、昔から存在している。
割合でいえば一割にも満たないほど、ごく少数といえる。

現在、ベンディングウェーヴのスピーカーでよく知られているのは、
ジャーマン・フィジックスとマンガーである。
どちらも偶然なのだがドイツのメーカーだ。

ベンディングウェーヴを高く評価する人はいる。
けれど、これもまた少数派である。
私は、その少数派の一人である。

MQAの音を聴いていると、ふとベンディングウェーヴで聴いたら、
つまりジャーマン・フィジックスやマンガーのスピーカーで聴いたら、
どんなに素晴らしいだろうか、と思ってしまう。

Date: 2月 20th, 2022
Cate: 戻っていく感覚

戻っていく感覚(「風見鶏の示す道を」その18)

その17)を書いていて、思い出す。
五味先生の文章を思い出す。
     *
 とはいえ、これは事実なので、コンクリート・ホーンから響いてくるオルガンのたっぷりした、風の吹きぬけるような抵抗感や共振のまったくない、澄みとおった音色は、こたえられんものである。私の聴いていたのは無論モノーラル時代だが、ヘンデルのオルガン協奏曲全集をくり返し聴き、伸びやかなその低音にうっとりする快感は格別なものだった。だが、ぼくらの聴くレコードはオルガン曲ばかりではないんである。ひとたび弦楽四重奏曲を掛けると、ヴァイオリン独奏曲を鳴らすと、音そのものはいいにせよ、まるで音像に定位のない、どうかするとヴィオラがセロにきこえるような独活の大木的鳴り方は我慢ならなかった。ついに腹が立ってハンマーで我が家のコンクリート・ホーンを敲き毀した。
 以来、どうにもオルガン曲は聴く気になれない。以前にも言ったことだが、ぼくらは、自家の再生装置でうまく鳴るレコードを好んで聴くようになるものである。聴きたい楽器の音をうまく響かせてくれるオーディオをはじめは望み、そのような意図でアンプやスピーカー・エンクロージァを吟味して再生装置を購入しているはずなのだが、そのうち、いちばんうまく鳴る種類のレコードをつとめて買い揃え聴くようになってゆくものだ。コレクションのイニシァティヴは当然、聴く本人の趣味性にあるべきはずが、いつの間にやら機械にふり回されている。再生装置がイニシァティヴを取ってしまう。ここらがオーディオ愛好家の泣き所だろうか。
 そんな傾向に我ながら腹を立ててハンマーを揮ったのだが、痛かった。手のしびれる痛さのほかに心に痛みがはしったものだ。
(フランク《オルガン六曲集》より)
     *
《再生装置がイニシァティヴを取ってしまう》、
コレクションのイニシアティヴは、聴く本人の趣味性にあるべきはずなのに、
いつの間にやらそうでなくなっていく。

五味先生だけがいわれていることではない。
私がオーディオに興味をもつ以前からいわれていることである。

心に近い音で鳴る再生装置であれば、
その再生装置がコレクションのイニシアティヴをとっても、
それは聴く本人の趣味性から離れることはないであろう。

耳に近い音だけの再生装置によるコレクションのイニシアティヴとは、
当然違ってくる。

五味先生は、コンクリートホーンをハンマーで敲き毀された。
徹底的に破棄する──、この行為こそが示す道がある。