Archive for category テーマ

Date: 5月 14th, 2022
Cate: 黄金の組合せ

黄金の組合せ(その34)

《しかし十年を経たいま、右の装置が〝黄金〟のままでいることはもはや困難になっている》
と瀬川先生は、はっきりと書かれている。

その理由として、《ここ数年来、飛躍的に向上したレコードの録音の良さに対して、カートリッジもアンプもスピーカーも、すでに限界がみえすぎている》
ことを挙げられている。

オルトフォンのSPU-G/T(E)にしても、
ラックスのSQ38シリーズにしても、タンノイのIIILZもそうなのだが、
当時の最新の録音に十全に対応できている、とはもう言い難かったことを、
瀬川先生は少し具体的に書かれている。

そのうえで、こうも書かれている。
     *
 念のためつけ加えておきたいが、この〝黄金の組合せ〟を、定期的に点検調整し、丁寧に使いこんであれば、そして、鳴らすレコードもこの装置の能力にみあった時代の録音に限るか、又はこんにちの録音でもその音を十全に生かしてないことを承知の上で音楽として楽しんでゆくのであれば、はたからとやかく言う筋のものではないかもしれない。ただ、レコードの誠実な聴き手であろうとすれば、かつての〝黄金〟も、こんにち必ずしも「絶妙」とは認め難くなっているという現実を、冷静に受けとめておく必要はあると思う。
     *
いいかえれば、黄金の組合せ(絶妙の組合せ)は、
オーディオ機器のことだけで成立しているわけではなく、
レコード(録音物)をふくめて成立することであるだけでなく、
最も重要なのがレコード(録音物)のことである。

ここを抜きにして黄金の組合せについて語るのは、
なんとも片手落ちでしかないし、本質がわかっていないともいえる。

Date: 5月 14th, 2022
Cate: 黄金の組合せ

黄金の組合せ(その33)

ステレオサウンド 57号は1980年12月発売の号である。
そこでの《もう十年ほど昔の話》ということだから、
黄金の組合せは1970年ごろの話である。

もういまから五十年ほど昔の話である。
瀬川先生の文章の続きを引用しよう。
     *
 タンノイ(ここで言う「タンノイ」は、最近の製品ではなく、レクタンギュラー・ヨーク以前の旧製品に話を限る)は、IIILZに限ったことではないが、鳴らしかたのやや難しいスピーカーだった。かつての名機オートグラフから最良の音を抽き出すために、故五味康祐氏がほとんど後半生を費やされたことはよく知られているが、いわば普及型のIIILZも、へたに鳴らすと高音が耳を刺すように鋭い。当時普及しはじめたトランジスターアンプの大半が、IIILZをそういう音で鳴らすか、それとも、逆に味も素気もないパサパサの音で鳴らした。またIIILZオリジナルエンクロージュアは密閉型で、容積をギリギリに小さく設計してあったため、低音が不足がちで、そのことがよけいに音を硬く感じさせやすい。つまりこんにち冷静にふりかえってみれば弱点も少なくないスピーカーであったからこそ、その弱点を補うような性格の組合せをよく考えなくては、うまく鳴りにくかったのだが、その点、ラックスの38Fは、鋭い音を一切鳴らさず、低音を適当にゆるめる性格があって、そこが、IIILZとうまくあい補い合った。そして、オルトフォンSPUの低音の豊かさと音の充実感が、全体のバランスを整えて、その結果、費用や規模に比較してまさに絶妙、「黄金」と呼ぶにふさわしい組合せができ上ったのだった。高音をややおさえて、うまく鳴らしたときのこの組合せから鳴る(とくに弦の)音色の独特の張りつめた気品と艶は、聴き手を堪能させるに十分だった。当時でも私はもっと大型装置をうまくならしていたが、それでも、ときとしてこの〝黄金〟の鳴らす簡素な音の世界にあこがれることがあった。あまりにも大がかりな装置を鳴らしていると、その仕掛けの大きさに空しさを感じる瞬間があるものだ。〝黄金の組合せ〟には、空しさがなく充足があった。
     *
この文章からわかるのは、互いにうまく補い合った組合せが、
いわゆる黄金の組合せと呼ばれるシステムであって、
大事なのは、《空しさがなく充足があった》のところである。

つまり黄金の組合せとは、絶妙の組合せである。

Date: 5月 13th, 2022
Cate: 黄金の組合せ

黄金の組合せ(その32)

黄金の組合せとは、誰が言い始めたことなのだろうか。

瀬川先生は、こう書かれている。
     *
 もう十年ほど昔の話になると思うが、ある時期、本誌で「黄金の組合せ」とも呼ばれたコンポーネント・システムがあった。スピーカーがタンノイIIILZオリジナル。アンプがラックスSQ38F。カートリッジがオルトフォンSPU-GT(E)。
「黄金……」の名づけ親は、たぶん本誌編集長当たりかと思うが、その意味は、唯一最上というよりも、おそらく黄金比、黄金分割……などの、いわば「絶妙の」といった意味合いが濃いと思う。というは、右の組合せはご覧のように決して高価でも大型でもなく、むしろ簡潔で比較的手頃な価格であり、それでいて、少なくとも多くのクラシック音楽の愛好家が求めている音色の、最大公約数をうまく満たしてくれる鳴り方をした。いまでもまだ、この組合せのままレコードを楽しんでおられる愛好家は、決して少なくない筈だ。
     *
この瀬川先生の文章、読んだことがない──、
という人ばかりだろう。

ステレオサウンド 56号に、
「いま、私がいちばん妥当と思うコンポーネント組合せ法、あるいはグレードアップ法」が載っている。
瀬川先生の連載の開始だったのだが、
非常に残念なことに57号は休載、その後も載ることなく、瀬川先生は亡くなられている。

けれど原稿は書かれていた。
完全なかたちの原稿ではないけれど、
57号(もしくは58号)に掲載予定だった原稿の前半と後半が残っている。

その前半は、JBLの4343とロジャースのPM510のことから話は始まり、
黄金の組合せについてへテーマは移っていく。

黄金の組合せ、そして現代の黄金の組合せについて書かれる予定だった。

Date: 5月 13th, 2022
Cate: 映画

Doctor Strange in the Multiverse of Madness(その4)

その3)に、コメントがあった。
ホームシアターを仕事にされていて、
audio wednesdayにも何度も来てくださった水岡さんのコメントである。

そこに、こうある。
《ホームシアターの良い所、それは好きなソフトを好きな時に見られる事ですね。
いくらIMAXが凄かろうと、それが自分の見たい物でなければ・・・ですよね?
映画には色々な物があって、私が好きな名画やアニメ作品はIMAXと相性が良いとは思えませんし(笑)
それにホームシアターはライブ物のソフトを楽しむが最高なんですよ!
自分が手塩にかけたスピーカーに映像を組み合わせる!》

水岡さんのいわれる通りである。
IMAX 3Dがどんなに凄かろうと、相性が良いとはいえないどころか、
悪い作品もある。

それはわかったうえで、IMAX 3Dで凄い作品を観てしまうと、
《自分の見たい物》でなくとも観たいと思う気持が私にはあったりする。

それはどこかオーディオマニアが、音楽的内容とはあまり関係ないところで、
音のよい録音を鳴らす気持と通じているのかもしれない。

水岡さんのコメントを読んでいて気づいたのは、
私はあまりライヴものの映像を観ないということである。

私はホームシアターはやっていない。
自宅でどんなシステムで映画を観ているかといえば、
iPadにイヤフォンを接続して観ることが多い。
これでけっこう楽しんでいて満足しているし、
映画館に行きIMAX 3Dで観るということとはまったくの別物だと割り切っているのだろう。

水岡さんのコメントには、こうも書いてある。
《若い人に私が手掛けたシアターを見せた時の反応は結構良いのですが、ネックはやはり経済的な事ですね。》
これもその通りだし、経済的なことがネックとなるわけだが、
ここで本格的なホームシアターを自分のモノとして実現しようと思う人もいれば、
私のようにすっぱり割り切って、程々の大きさのテレビでいいや、という人もいる。

どちらが多いのか私にはわからない。
前者が多ければ、これからもホームシアター業界は安泰だろうし、
後者が多くなってくれば……。

最後水岡さんは、ホームシアターファイルは季刊で残っています、と書かれているが、
音元出版のサイトには、
ホームシアターファイルは休刊誌のところにある。
定期刊行物のところにあるのは、季刊ホームシアターファイルPlusとなっている。

一応、ホームシアターファイルと季刊ホームシアターファイルPlusは別扱いというところなのだろう。

このことは昨晩、(その3)を書く時点で確認していたことなのだが、
今日、これを書きながら、もしかするとHiViもいつの日か、
隔月刊か季刊になってしまうかもしれない──、
そんな日が来たとしたら、ホームシアター業界は斜陽産業といえるだろう。

Date: 5月 12th, 2022
Cate: 戻っていく感覚

SAE Mark 2500がやって来る(コントロールアンプのこと・その23)

この項を書き始めたときは、
まさかGASのTHAEDRAがやって来るとは、まったく思いもしていなかった。

SAEのMark 2500と組み合わせるコントロールアンプをどうするか。
すでに書いているようにまっさきに候補にあがったのは、
マークレビンソンのLNP2である。

そして次に、一度試してみたいと思っていたのが、
CelloのAudio Suiteである。

Audio SuiteとMark 2500とでは価格的にもアンバランスだし、
大きさもコントロールアンプのAudio Suiteのほうが大きい。

それにAudio Suiteは、いったいどれだけ売れたのだろうか。
Audio Suiteの中古相場はどのくらいなのか、まったく知らない。

今回THAEDRAを三万円ほどで手に入れることができたけれど、
同じようなことがAudio Suiteで起ることはまずない。

それでもコーネッタを鳴らすアンプとして、
Audio Suiteをシステムに組み込んだら──、
そんなことを妄想していたけれど、
さすがに現実味がまったくないから、あえて書かなかった。

なのに、Audio Suiteを貸しましょうか、といってくださる人が現れた。
二つ返事で、ぜひ! と答えたいところだが、迷っている。

聴かないから妄想で、妄想を逞しくすることで愉しめる。
ところが一度聴いてしまったら、
その妄想は幻想でしかなかった──、という心配をしているわけではなく、
その反対で、Audio Suiteの音に魅惑されてしまうであろうから、
そうなったら返したくなってしまうからだ。

そう思いながらも、Audio Suiteの音を聴いて、
THAEDRAのブラッシュアップの方向性を定めることもできるはず──、
そんなことを自分に言い聞かせてもいる。

こういう悩ましい時間も、実は楽しかったりする。

Date: 5月 12th, 2022
Cate: 映画
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Doctor Strange in the Multiverse of Madness(その3)

IMAX 3Dの凄さを味わった人、
それも若い人たちは、ホームシアターを趣味とするのだろうか。

趣味としてもらわないと困る──、
と言うのはホームシアター業界の人たちだろう。

メーカー、輸入元、雑誌関係の人たち、ホームシアター評論家。
これらの人たちは劇場でIMAX 3Dを体験して、どう思っているのだろうか。

脅威と感じているのどうか。
私だったら、そう感じる。
けれど私はホームシアター業界の者ではないし、
ホームシアター業界の内情についてもまったくといっていいほど知らない。

けれど音元出版は数年前にホームシアターファイルを休刊している。
HiViにしても、ひところはほとんどの書店で平積み扱いだったが、
最近はそうではなくなっている。

遠い将来か近い将来、どちらなのかはわからないが、
いつの日か、IMAX 3Dのクォリティをホームシアターでも実現できるようになるだろう。

でもそのころには劇場のクォリティ(次元)は、さらに先をいっていることだろう。
このこと自体はとてもいいことである。

劇場のクォリティ(次元)がきわめて高くなることに全面的に賛成だし、
いつまでもそういう場であってほしい、と、
老朽化した劇場で映画を観てきた世代の私は、そう思う。

けれど、そのことがホームシアターという趣味を広く定着させていくかは疑問である。

ホームシアター業界は、すでに斜陽産業なのかもしれない、
とIMAX 3Dで映画を観るたびに思うようになっている。

Date: 5月 12th, 2022
Cate: 映画

Doctor Strange in the Multiverse of Madness(その2)

私がいちばん映画を観ていたのは、20代のころである。
1980年代である。

あのころは休日ともなれば映画館をはしごしていた。
主に新宿の映画館を、一日で三館はしごしていた。

紀伊國屋書店の裏にあった映画の前売り券のみを扱っていたチケット店で、
上映されている作品の開始時間と終了時間を確認して、観る映画を決めていた。

このころはシネマコンプレックス(シネコン)は、まだなかった。
さすがは映画館! といいたくなる劇場もあったけれど、
老朽化している劇場も、まだまだ残っていた時代だ。

とにかく、この時代、邦画は敬遠していた。
なぜかといえば、音の悪い劇場が少なくなく、
セリフ(日本語)がひどく聞き取りにくいことがままあったからだ。

そして1980年代はAV(オーディオ・ヴィジュアル)時代の幕開けでもあった。
ステレオサウンドの姉妹誌であったサウンドボーイはHiViへと変っていった。

このころのハイエンドのホームシアターの実力は、
老朽化した劇場のクォリティを上廻っていた。

AVは、いつのころからかホームシアターと呼ばれるようになって、
さらにクォリティは向上していっている。

それでも──、といまは思う。
シネコンでIMAX 3Dで、きっちりとつくりこまれた作品を観ていると、
このクォリティは、ホームシアターでは無理だろう、と思ってしまう。

20代のころは、とにかく一本でも多くの映画を観たい──、
ということで映画館に行っていた。それはそれで楽しかった。

いまは、というと、IMAX 3Dでの映画を観るのがとても楽しい、と感じている。
それは私だけでなく、多くの人がそう感じているようだ。

20代のころは、スマートフォンはなかった。
映画を観るためのチケット購入は、劇場窓口かチケット店しかなかった。
いまはスマートフォンから買えるし、座席指定でもある。

私もそうやって買っているわけだが、
話題の作品の購入状況を見ると、IMAX 3Dのほうが人気があるようだ。
IMAX 3Dは通常料金に800円か900円が追加になる。

高いと感じるか安いと感じるか。
私はけっこう安いと感じている。
もちろん作品の出来が優れているという条件つきではあるが、
IMAX 3Dは新しい体験であるからだ。

そして思うのは、
ホームシアターで劇場でのIMAX 3Dと同じクォリティで観られるようになるのだろうか。

Date: 5月 12th, 2022
Cate: 進歩・進化

拡張と集中(その12)

変換効率の高いスピーカーと変換効率の低いスピーカー。
以前書いているように、
現在と昔とでは、この高い(低い)の値が変化している。

私がオーディオに興味をもったころ(1970年代後半)は、
90dB/W/m前半の出力音圧レベルは、どちらかというと低いという感覚だった。

95dB/W/mあたりを超えたころから高い、というよりも低くない、という感じであって、
高いというのは最低でも98dB/W/m、100dB/W/mを超えると文句無しに高い──、
そういうものだった。

それがいまでは10dBほど低いところで、高い低いが語られている。
85dB/W/m程度で、高いといわれる。

しかも私より上の世代のオーディオ評論家が、
そんな感覚で、高い(低い)といっているのをみると、
この人たちの感覚も世の中の変化につれて変ってきていて、
そのことを自覚しているのだろうか、とつい思ってしまう。

別項「Mark Levinsonというブランドの特異性(その56)」で触れているFさんは、
いまから十年ほど前に、マーク・レヴィンソンとメールのやりとりをされていたそうだ。

レヴィンソンからのメールに、こうあった、とのこと。
     *
Personally, I have gotten tired of systems based on very inefficient speakers which need big power amps.
     *
訳す必要はないだろう。
レヴィンソンも、齢を重ねて、そうなったか。
マーク・レヴィンソンが主宰するダニエル・ヘルツのスピーカーのM1の変換効率は、
確かに高い。カタログには100dB/W/mとある。

マーク・レヴィンソンも、いわゆるダルな音にうんざりしているのだろうか。

Date: 5月 12th, 2022
Cate: ディスク/ブック

ファトマ・サイードの“Imagine”

ファトマ・サイードが“Imagine”を歌っている。
今日、歌っていることを知って、聴いていたところだ。

一曲のみだから、ストリーミングでのみ聴くことができる。
私はTIDALで聴いた。
MQA Studio(44.1kHz)で聴いた。

CD、SACDといったパッケージメディアにこだわりたい、という気持は、
マニアならば誰にでもあることだろう。

それをディスク愛と表現して、特集のテーマとすることもできよう。

でも、そこにこだわりすぎてしまっては、
ストリーミングで音楽を聴くなんて──、と拒否したままでは、
聴けない曲が出てくることになってしまう。

それでもいい、というのか。
そこまでこだわるのか。
こだわるべき対象はパッケージメディアなのか、音楽なのか。

ファトマ・サイードの“Imagine”を聴いて、そのことをおもっていた。

Date: 5月 9th, 2022
Cate: 書く

続・audio identity (designing)を終りにする理由

小林秀雄が、中原中也のことを書いている。
《彼はどこにも逃げない、理智にも、心理にも、感覚にも。》

どこにも逃げない、理智にも、心理にも、感覚にも。

そうなのだ、来年はじめる新しいブログでは、そうありたい。
どこにも逃げない、理智にも、心理にも、感覚にも。

オーディオについて書くのは難しいようでいて、
逃げ道が、そこらにある、と感じている。

理智に逃げる、
心理に逃げる、
感覚に逃げる。

逃げられるからこそ書いてこれた、とも言えるのだから、
どこにも逃げずに書いていくというのは、しんどいだろうなぁ、とは思っている。

Date: 5月 9th, 2022
Cate: バランス

Xというオーディオの本質(その8)

Xという文字を両天秤として捉えていると、
Xを描く線の一本は音の姿勢であり、
交叉するもう一本は音の姿静である──、
というのはいまの私の予感である。

Date: 5月 8th, 2022
Cate: 映画

Doctor Strange in the Multiverse of Madness(その1)

「ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス」を観てきた。
IMAX 3Dでの映画鑑賞は久しぶりである。

昨年はIMAX 3Dで一本も映画を観ていない。
上映している映画も少なかったと記憶している。

以前なら、この種の映画ならIMAX 3Dでの上映があるのに──、
そう思える作品でもなかったりしていた。

「ドクター・ストレンジ」本編については何も書かない。
今日驚いたのは、本編が始まる前に流れた「アバター」の予告編についてである。

「Avatar: The Way of Water」は「アバター」の続編で12月公開予定である。
その予告編も、IMAX 3Dだった。

映像のクォリティに驚いた。
この予告編をIMAX 3Dで観られただけでも、
今日映画館に足を運んでよかった、と思えるくらいの出来なのだ。

公開まであと七ヵ月もあるのだから、公開時にはさらにクォリティは向上しているかもしれない。
公開が待ち遠しいと思っているのだが、
世の中には、この種の映画を蔑視する人たちがいる。

CGだけが売りで、内容的には……、と、そんなことをいって否定する。
内容的に……、といいたくなる映画もあるといえばあるけれど、
それにしても、こんなことをいう人は、
IMAX 3Dで上映される作品における情報量を処理できずにいるのではないのだろうか。

スクリーンに映し出される情報量は、IMAX 3Dともなると多い。
それに動きの早いシーンによっては目が追いつかない、と感じたりもする。

私はCGでしっかり作り込まれた映画をIMAX 3Dで観るのは、
スポーツのようなものだと受け止めている。
頭のスポーツである。

ふだんあまり動かしていない(と感じている)頭の部位を、
この種の優れた映画を観ると、鍛えられるような感じがする。

人は、処理し切れない情報量の場合、単純化(省略化)してしまう──、
という説を以前読んだことがある。
脳のオーバーヒートをおこさないようにするため、らしい。

三年ほど前にも、別項で同じようなことを書いているけれど、
「アバター」の予告編を観て、またさらに頭が鍛えられそうな、
つまり情報の処理能力が鍛えられそうな映画登場してくる、
そんなふうにも受け止めていた。

Date: 5月 7th, 2022
Cate: ベートーヴェン, 正しいもの

正しいもの(その23)

井上先生の
《ブルックナーが見通しよく整然と聴こえたら、それが優れたオーディオ機器なのだろうか》、
ここにある井上先生の問いかけに関連して思い出すのは、
五味先生の、この文章である。
     *
ベートーヴェンのやさしさは、再生音を優美にしないと断じてわからぬ性質のものだと今は言える。以前にも多少そんな感じは抱いたが、更めて知った。ベートーヴェンに飽きが来るならそれは再生装置が至らぬからだ。ベートーヴェンはシューベルトなんかよりずっと、かなしい位やさしい人である。後期の作品はそうである。ゲーテの言う、粗暴で荒々しいベートーヴェンしか聴こえて来ないなら、断言する、演奏か、装置がわるい。
(「エリートのための音楽」より)
     *
《粗暴で荒々しいベートーヴェン》でなくとも、
見通しよく整然と聴こえてきたベートーヴェンであったとしても、
ベートーヴェンのやさしさが聴こえてこないのならば、
ベートーヴェンに飽きがくるのであれば、
それは優れたオーディオ機器であろうか。

ここでの、装置が悪い、いい、というのは、
オーディオ雑誌における評価とは関係のないところでのいい、悪いである。

Date: 5月 6th, 2022
Cate: ディスク/ブック

マーラーの交響曲第一番(一楽章のみ・その1)

ここ数日、ふと思い立って集中的に聴いていたのが、
マーラーの交響曲第一番の一楽章である。

TIDALのおかげで、いろんな指揮者の一楽章のみを聴いていた。
こんなことをやって確認できたのは、
私にとって、この曲の第一楽章のリファレンスとなっているのは、
アバドとシカゴ交響楽団とによる1981年の録音である。

1982年夏にステレオサウンド別冊として出た「サウンドコニサー(Sound Connoisseur)」の取材で、
アバド/シカゴ交響楽団の、このディスク(まだCD登場前だったからLP)をはじめて聴いた。

第一楽章出だしの緊張感、カッコウの鳴き声の象徴といわれているクラリネットが鳴りはじめるまでの、
ピーンと張りつめた、すこしひんやりした朝の清々しい空気の描写は、
アバドという指揮者の生真面目さがはっきりと伝わってきたし、
その後、いろんなマーラーの一番を聴いたのちに感じたのは、
オーケストラがヨーロッパではなく、シカゴ交響楽団だったからこそ、
いっそう、そのことが際立っていたのだろう、ということだった。

ほんとうに、アバドによる一番の一楽章は、
息がつまりそうな感じに陥ったものだった。

この時の他の試聴ディスクは、クライバーのブラームスの四番もあった。
アバドのマーラーだけで試聴が進んでいったら、ほんとうにしんどかったことだろう。

そうこともあって、マーラーの一番に関しては、
アバド/シカゴ交響楽団の演奏がしっかりと刻み込まれてしまった。
ゆえにどうしても、他の指揮者、他のオーケストラによる演奏を聴いていると、
アバド/シカゴ交響楽団にくらべて──、といった聴き方をしていることに気づく。

このことがいいことなのかどうなのかはなんともいえないが、
こうやって一楽章のみを聴いてあらためておもったのは、
アバド/シカゴ交響楽団の一楽章は素晴らしい、ということだ。

Date: 5月 6th, 2022
Cate: 録音

録音フォーマット(その5)

44.1kHz、16ビットのデジタル録音をアップコンバートすること、
さらにDSDに変換することの是非について、あれこれ書くつもりはない。

書きたいのは、エソテリックはなぜMQA-CDを出さないのか、である。
名盤復刻シリーズは、SACDだけなのだろうか。

アナログ録音の復刻であれはそれでもいいと思うが、
44.1kHz、16ビットのデジタル録音の名盤を復刻するのであれば、
MQAが、現時点ではもっとも望ましい、と私は考えているから、
エソテリックは、ぜひともMQAによる名盤復刻シリーズを展開してほしい。

エソテリックがハードウェアでMQAに対応していないのであれば、
こんなことは書かないけれど、すでにMQA対応機種を出している。
ならば、ぜひともMQA-CDも手がけてほしい。

44.1kHz、16ビットであっても、
MQAとなることでほんとうに音がよくなることは、すでにTIDALで、
いくつもの録音で確認しているのだから。