ボンジョルノのこと、ジャーマン・フィジックスのこと(その73)
まったくの仮説である。
科学的根拠が少しでもある、というわけでもない。
ただそれでも、これまでいろんなスピーカーを聴いてきて感じているのは、
ピストニックモーションを追求していけばいくほど、
血の通った音と感じられる音からは遠くなっていく──、
そういう仮説である。
分割共振を完全に排除して、
完全なピストニックモーションの実現を目指す。
そして同時にピストニックモーションしている振動板以外からの輻射も一切排除する。
科学技術の産物としてスピーカーシステムを捉えるのならば、
この方向が間違っているとは思わない。
けれど、そうやって開発されたスピーカーの音を、
血の通った、というふうに感じられない。
まったくないとはいわないけれど、
そういうスピーカーの理想により近づいていると思われるスピーカーの音は、
私の耳には、血の通った、という感じが稀薄になってきているように聴こえる。
これはもしかすると不気味の谷と呼ばれることなのだろうか。
もっともっと完全なピストニックモーションの実現、
それが可能になれば、不気味の谷をこえて、血の通った音と感じられるのかもしれない。
そう思うところはあるももの、ピストニックモーションの追求と実現では、
音に血が通うことはない──、
このことのほうが私の中では大きいままである。