Archive for category ブランド/オーディオ機器

Date: 9月 4th, 2020
Cate: Cornetta, TANNOY

TANNOY Cornetta(その27)

コーネッタで「パルジファル」をきいた夜の帰り道、
電車のなかで、一人で思い出していたのは、ステレオサウンド 52号で、
岡先生と黒田先生の「レコードからみたカラヤン」というテーマの対談だった。
     *
黒田 そういったことを考えあわすと、ぼくはカラヤンの新しいレコードというのは、音の面からいえば、前衛にあるとはいいがたいんですね。少し前までは、レコードの一種の前衛だろうと思っていたんだけど、最近ではどうもそうは思えなくなったわけです。むろん後衛とはいいませんから、中衛かな(笑い)。
 いま前衛というべき仕事は、たとえばライナー・ブロックとクラウス・ヒーマンのコンビの録音なんかでしょう。
 そこのところでは、黒田さんと多少意見が分かれるかもしれませんね。去年、カラヤンの「ローマの松」と「ローマの泉」が出て、これはびっくりするほどいい演奏でいい録音だった。ところがごく最近、同じDGGで小沢/ボストン響の同企画のレコードができましたね。これはいま黒田さんがいわれた、プロデューサーがブロック、エンジニアがヒーマンというチームが録音を担当しているわけです。
 この2枚のレコードのダイナミックレンジを調べると、ピアニッシモは小沢盤のほうが3dB低い。そしてフォルティシモは同じ音量です。したがって全体の幅でいうと、ピアニッシモが3dB低いぶんだけ小沢盤のほうがダイナミックレンジの幅が広いことになります。物理的に比較すると、そういうことになるんだけれど、カラヤン盤のピアニッシモのありかたというか、音のとりかたと、小沢盤のそれとを、音響心理学的に比較するとひじょうにちがうんです。
黒田 キャラクターとして、その両者はまったくちがうピアニッシモですね。
 ええ。つまりカラヤン盤では、雰囲気とかひびきというニュアンスを含んだピアニッシモだが、小沢盤では物理的に小さい音、ということなんですね。物理的に小さな音は、ボリュウムを上げないと音楽がはっきりとひびかないんです。小沢盤の録音レベルが3dB低いということは、聴感的にいえば6dB低くきこえることになる。そこで6dB上げると、フォルテがずっと大きな音量になってしまうから聴感上のダイナミックレンジは圧倒的に小沢盤の方が大きくきこえてくるわけです。
 いいかえると、カラヤンのピアニッシモで感心するのは、きこえるかきこえないかというところを、心理的な意味でとらえていることです。つまり音楽が音楽になった状態での小さい音、それをオーケストラにも録音スタッフにも要求しているんですね。これはカラヤンがレコーディングを大切にしている指揮者であることの、ひとつの好例だと思います。
 それから、これはカラヤンがどんな指示をあたえたのかは知らないけれど、「ローマの松」でびっくりしたところがあるんです。第三部〈ジャニロコの松〉の終わりで、ナイチンゲールの声が入り、それが終わるとすぐに低音楽器のリズムが入って行進曲ふうに第四部〈アッピア街道の松〉になる。ここで低音リズムのうえに、第一と第二ヴァイオリンが交互に音をのせるんですが、それがじつに低い音なんだけど、きれいにのっかってでてくる。小沢盤ではそういう鳴りかたになっていないんですね。
 つまりPがひとつぐらいしかつかないパッセージなんだけれど、そこにあるピアニッシモみたいな雰囲気を、じつにみごとにテクスチュアとして出してくる。録音スタッフに対する要求がどんなものであったかは知らないけれど、それがレコードに収められるように演奏させるカラヤンの考えかたに感嘆したわけです。
黒田 そのへんは、むかしからレコードに本気に取り組んできた指揮者ならではのみごとさ、といってもいいでしょうね。
     *
カラヤンの「パルジファル」が、レコード音楽として美しいのは、
こういうところに理由があるはずだ。

カラヤンのピアニッシモは、「パルジファル」においても、
音楽が音楽になった状態での小さい音であって、
心理的な意味でとらえられたピアニッシモである。

カラヤンの「パルジファル」よりも新しい録音の「パルジファルを、
私はどれも聴いていない。
「パルジファル」に関しては、カラヤンで私はとまったままでいる。

新しい録音の「パルジファル」は、カラヤンの「パルジファル」よりも、
ダイナミックレンジは、物理的には広いはずだ。

「パルジファル」に限らない。
オーケストラものの録音は、物理的なダイナミックレンジは、
カラヤンの「パルジファル」よりも広くなってきている。

このことはほんとうに望ましいことなのだろうか。

Date: 9月 4th, 2020
Cate: Cornetta, TANNOY

コーネッタとケイト・ブッシュの相性(その6)

その3)で、コーネッタに搭載されているHPD295Aの低音について触れた。
過大な期待をしているわけではないが、もう少し良くなってくれれば、とやっぱり思う。

HPD295Aの低音への不満は、どこに起因しているのか。
心当たりは、コーネッタを鳴らす前からあった。

HPD295Aにはじめて触れたのは、ステレオサウンドだった。
なぜか一本だけあった。

それまでEatonにおさまっている状態、
つまりユニットの正面はみたことはあっても、
ユニットを手にとってすみずみまで見ることはなかった。

HPD295Aで、まずびっくりしたのは、マグネットカバーの材質だった。
それまで、なんとなく金属製なのかな、と思っていた。
実際は、プラスチック製だった。

このマグネットカバーは、フェライト化されたときからなくなっている。
カンタベリー15で、アルニコマグネットを復活したが、
マグネットカバーはなしのままだった。

ユニット単体を眺めているだけならば、マグネットカバーはあったほうがいい。
けれど、音を鳴らすとなると、このカバーは邪魔ものでしかない。

たとえ材質が金属で、しっかりとした造りであっても、
磁気回路はカバーのあいだには空間がある。
ここが、やっかいなのだ。

コーネッタを手に入れたときから、
マグネットカバーを外して鳴らそうと思っていた。

7月、8月のaudio wednesdayでは、
とにかくコーネッタの音を聴きたい、という気持が強かった。

三回目となる9月のaudio wednesdayでは、
最初からカバーを外すつもりでいた。

作業そのものは特に難しいことではない。
けれど、コーネッタの裏板は、けっこうな数のビスで固定されている。

ユニットがバッフル板についている状態では、
カバーを取り付けているネジは外せない。

一般的な四角いエンクロージュアであれば、その状態でもなんなく外せることがあるが、
コーナー型ゆえに、ドライバーが奥まで入らない。

ユニットを一旦取り外してカバーを取り、またユニットを取り付け、
裏板のネジをしめていく。

エンクロージュア内部の吸音材はグラスウールで、
作業しているときも、作業後も腕がチクチクしていた。

それでも、出てきた音を聴けば、そんなことはどうでもよくなる。
低音の輪郭が明瞭になる。

Date: 9月 3rd, 2020
Cate: Cornetta, TANNOY

TANNOY Cornetta(その26)

昨晩のaudio wednesdayは、三回目のコーネッタだった。
一回目、二回目とは鳴らし方のアプローチを変えた。

結果を先に書いてしまうと、うまくいった。
人には都合があるからしか。たないことなのだが、
一回目、二回目に来てくれた人に聴いてもらいたかった、と思っている。

昨晩は、途中から喫茶茶会記の常連の方が参加された。
オーディオマニアではない方だ。

こういうことはいままでも何度かあったが、昨晩の方は、最後まで聴かれていた。
それに一曲鳴らし終ると、小さな拍手をそのたびにしてくれた。

昨晩は、ディスクをけっこうな枚数持っていった。
そのなかで、私がいちばん印象に残っているのは、
カラヤンの「パルジファル」だった。

五味先生の、この文章を引用するのは、今回で三度目となるが、
それでも、また読んでほしい、と思うから書き写しておく。
     *
 JBLのうしろに、タンノイIIILZをステレオ・サウンド社特製の箱におさめたエンクロージァがあった。設計の行き届いたこのエンクロージァは、IIILZのオリジナルより遙かに音域のゆたかな美音を聴かせることを、以前、拙宅に持ち込まれたのを聴いて私は知っていた。(このことは昨年述べた。)JBLが総じて打楽器──ピアノも一種の打楽器である──の再生に卓抜な性能を発揮するのは以前からわかっていることで、但し〝パラゴン〟にせよ〝オリンパス〟にせよ、弦音となると、馬の尻尾ではなく鋼線で弦をこするような、冷たく即物的な音しか出さない。高域が鳴っているというだけで、松やにの粉が飛ぶあの擦音──何提ものヴァイオリン、ヴィオラが一斉に弓を動かせて響かすあのユニゾンの得も言えぬ多様で微妙な統一美──ハーモニイは、まるで鳴って来ないのである。人声も同様だ、咽チンコに鋼鉄の振動板でも付いているようなソプラノで、寒い時、吐く息が白くなるあの肉声ではない。その点、拙宅の〝オートグラフ〟をはじめタンノイのスピーカーから出る人の声はあたたかく、ユニゾンは何提もの弦楽器の奏でる美しさを聴かせてくれる(チェロがどうかするとコントラバスの胴みたいに響くきらいはあるが)。〝4343〟は、同じJBLでも最近評判のいい製品で、ピアノを聴いた感じも従来の〝パラゴン〟あたりより数等、倍音が抜けきり──妙な言い方だが──いい余韻を響かせていた。それで、一丁、オペラを聴いてやろうか、という気になった。試聴室のレコード棚に倖い『パルジファル』(ショルティ盤)があったので、掛けてもらったわけである。
 大変これがよかったのである。ソプラノも、合唱も咽チンコにハガネの振動板のない、つまり人工的でない自然な声にきこえる。オーケストラも弦音の即物的冷たさは矢っ張りあるが、高域が歪なく抜けきっているから耳に快い。ナマのウィーン・フィルは、もっと艶っぽいユニゾンを聴かせるゾ、といった拘泥さえしなければ、拙宅で聴くクナッパーツブッシュの『パルジファル』(バイロイト盤)より左右のチャンネル・セパレーションも良く、はるかにいい音である。私は感心した。トランジスター・アンプだから、音が飽和するとき空間に無数の鉄片(微粒子のような)が充満し、楽器の余韻は、空気中から伝わってきこえるのではなくて、それら微粒子が鋭敏に楽器に感応して音を出す、といったトランジスター特有の欠点──真に静謐な空間を持たぬ不自然さ──を別にすれば、思い切って私もこの装置にかえようかとさえ思った程である。でも、待て待てと、IIILZのエンクロージァで念のため『パルジファル』を聴き直してみた。前奏曲が鳴り出した途端、恍惚とも称すべき精神状態に私はいたことを告白する。何といういい音であろうか。これこそウィーン・フィルの演奏だ。しかも静謐感をともなった何という音場の拡がり……念のために、第三幕後半、聖杯守護の騎士と衛士と少年たちが神を賛美する感謝の合唱を聴くにいたって、このエンクロージァを褒めた自分が正しかったのを切実に知った。これがクラシック音楽の聴き方である。JBL〝4343〟は二基で百五十万円近くするそうだが、糞くらえ。
     *
《前奏曲が鳴り出した途端、恍惚とも称すべき精神状態に私はいたことを告白する》、
これまでも「パルジファル」は聴いてきている。
クナッパーツブッシュのバイロイト盤を聴いている。

回数的には少ないけれど、カラヤンの録音も聴いている。
それでも、今回ほど、五味先生の精神状態を追体験できたと感じたことはなかった。

アンチ・カラヤンとまではいわないものの、五味先生の影響もあって、
私は、熱心なカラヤンの聴き手ではない。

そんな私でも、カラヤンのワーグナーは、美しいと、これまでも感じていた。
それでも今回ほどではなかった。

Date: 9月 1st, 2020
Cate: Marantz, Model 7

マランツ Model 7はオープンソースなのか(その8)

私がオーディオに興味をもったころには、アンプのキットがいくつもあった。
有名なところではダイナコ、ラックスキットである。

ダイナコの場合、完成品と同じモデルがキットになっていた。
つまり完成品の音を聴こうと思えば聴けた。

自分で組み立てたダイナコのキットの音と、
完成品のダイナコのアンプとを比較試聴しようと思えば、それは可能だった。

ラックスキットは完成品のアンプすべてがキットになっていたわけではなかったし、
キットになっているアンプの完成品がすべてあったわけでもない。

それでも完成品とキット、両方出ているモデルもあった。
たとえばコントロールアンプのCL32のキットは、A3032だった。

だから、ラックスキットもダイナコと同じように、完成品の音、
つまり、そのアンプ本来の音を聴ける(確認できる)。

NwAvGuyのヘッドフォンアンプ、D/Aコンバーターは、どうだろうか。
NwAvGuyの指定通りに組み立てられた完成品が、二社ぐらいから出ている。
けれど、その音を、NwAvGuyが聴いて、本来の音が出ていると確認している、とは思えない。
NwAvGuyが匿名のエンジニアだからだ。

同じことは、無線と実験やラジオ技術に発表されるアンプについてもいえる。
回路図もプリント基板のパターンも、実体配線図も記事に載っているし、
部品の指定も、金田アンプの場合は、かなり細かい。

けれど、記事に発表されたアンプ、
つまり記事を書いた本人が組み立てたアンプの音を聴いている人は、ごくわずかだろう。

金田アンプの試聴会は、開かれている。
そこで使われている金田アンプは、金田明彦氏本人が組み立てたアンプである。
とはいえ試聴会で聴いたから、といって、
比較対象となるほかのアンプもない状態で、どれだけ正確に、
金田アンプ本来の音を聴いた、といえるだろうか。

Date: 8月 31st, 2020
Cate: Marantz, Model 7

マランツ Model 7はオープンソースなのか(その7)

1978年に、日本マランツからModel 7KとModel 9Kが発売になった。
型番末尾にKがつくことがあらわしているように、キットである。

この高価なキットの資料には、次のようなことが書いてある。
     *
ニューヨークの倉庫からする古い青図を私達は入手し、パーツリストをたどってオリジナルのパーツを極力探す努力をしました。ただし年月も経ち今や百パーセントオリジナルパーツの入手はもとより不可能です。従って完成品の再現ではなくして、こよなく♯7、♯9を愛しておられる方に、そして管球式アンプをよく熟知された高度なマニアに部品を提供し♯7、♯9を再現していただこうということになりました。
     *

オリジナルにより近いということでは、このキットのほぼ20年後に出た7と9のほうだろう。
だからこそ、キットではなく完成品として、この時は出してきた。

マランツ Model 7はオープンソースなのかについて、考えるうえで、
キットの存在は忘れてはならない。

ステレオサウンド 49号の記事には、資料からの引用がさらに続く。
     *
通常のキットとはかなりその意味が異なります。オリジナルな音の記録は現実にはありませんし、現状の古いアンプもパーツの老化を含めて本来の音の保証もありません。この音についてはより知っておられるユーザーに作っていただこうという趣向です。
     *
本来の音、
マランツ Model 7の本来の音。
それを知っている人がどれだけいるのだろうか。

私のModel 7はオリジナルだ、
その音こそ、オリジナルのModel 7の音だ、
こんなことを主張する人はいる。

それでも、その人がそう思い込んでいるだけであって、
オリジナルの音そのままだという保証は、どこにもない。

その6)で、アメリカのNwAvGuyと名乗る匿名のエンジニアのことを書いた。
彼が設計したヘッドフォンアンプとD/Aコンバーターは、回路図はもちろん、
プリント基板のパターンも公開されている。

指定通りに製作すれば、NwAvGuyの意図したとおりの、
つまり本来の音が出せるのか。

出てくるはず、と考えられるが、
NwAvGuyのヘッドフォンアンプ、D/Aコンバーターのオリジナルの音、
つまりNwAvGuyが製作したこれらの音を聴いている人は、
おそらくほとんどいないと思われる。

指定通りに製作して、その結果として出てきた音を、
本来の音と信じるしかない、ともいえる。

Date: 8月 11th, 2020
Cate: Cornetta, TANNOY

コーネッタとケイト・ブッシュの相性(その5)

こういうふうに聴こえる(感じとれる)というのは、
コーネッタでのケイト・ブッシュの再生が理想に近い、ということではない。

むしろ、コーネッタというスピーカーの演出によるものだ、と理解した方がいい。
同軸型ユニット、
それもアルテックとは違い、ウーファーのコーン紙が中高域のホーンの延長となっている、
そしてフロントショートホーン付きのエンクロージュアという、
現在の精確な音をめざしているスピーカーからすれば、古い形態のスピーカー、
むしろラッパと呼んだほうがぴったりくるものである。

そういうラッパ(スピーカー)で聴いての感じ方なのだから、
こういう聴こえ方でなければだめだ、とはまったく思っていない。

それでも、こういう聴こえ方が体験できる、ということに、
オーディオを長年やってきてよかった、と思う。

8月のaudio wednesdayの翌日に、
音を表現するということ(間違っている音・その11)」を書いたのは、
こういう音を聴いたからである。

もしかすると、こういう聴こえ方は、これっきりかもしれない。
それでもいい、と思っている。
とにかく私にとって、得難い体験であった。

Date: 8月 10th, 2020
Cate: Cornetta, TANNOY

コーネッタとケイト・ブッシュの相性(その4)

8月のaudio wednesdayでは、
“Hounds of Love”と“Big Sky”の二曲を聴いた。
どちらもMQAで、12インチ・シングルヴァージョンである。

最初は“Hounds of Love”だけのつもりだった。
12インチ・シングルヴァージョンの“Hounds of Love”は、
通常のヴァージョンと比較してドラムスの鳴り方が違う。
ずっと迫真的に鳴ってくれる。

といっても、それはあくまでも12インチ・シングルを鳴らしての印象であり、
同じ曲であっても、CDで聴くと、そこは少しばかり後退する印象でもあった。

つまりコーネッタの低音の鳴り方にとって、やや意地の悪い曲である。
無理は承知で鳴らしたわけだ。

ここに関しては、予想通りもう一息だった。
悪くはなかったけれど、そこまで求めるのはコーネッタには酷でもあろう。

そのかわりというか、“Hounds of Love”で、
目をつむって聴いていると、舞台がそこにあるように感じられた。
まったく変な表現になるが、
そこでケイト・ブッシュが音楽によるパントマイムをやっているかようだった。

舞台があって、ケイト・ブッシュの演出がしっかりと感じられた。
ただ単に音がよく鳴っていた、というのとは違う。

コーネッタよりも、ずっと、音の良さという意味ではうまく再生するスピーカーはある。
それでも、そういうスピーカーでも一度も感じたことのない舞台が、そこにある。

なんとも奇妙な感じだった。
音を聴いているというよりも、舞台がまぶたの奥に浮んでくる感じだった。

この不思議な感じを確かめたくて、続けて“Big Sky”も聴いた。
まったく同じ印象だった。

7月に続いて、そうか、ケイト・ブッシュはイギリス人なんだ、と思っていた。
シェークスピアの国、演劇の国の人なんだ、と。

8月のaudio wednesdayで一緒に聴いて人たちが、どう感じていたのかは知らない。
私と同じように感じていたのか、まったく違うのか。

たぶん、こんなふうに聴こえたのは、私のひとりよがりなのだろう。
それでもいいのだ。
いままでにない聴こえ方で、ケイト・ブッシュが聴けた、ということ。

これだけで、コーネッタを手に入れた価値があったというものだ。

Date: 8月 10th, 2020
Cate: Cornetta, TANNOY

コーネッタとケイト・ブッシュの相性(その3)

ステレオサウンド別冊HIGH-TECHNIC SERIES 4で、
菅野先生はHPD295Aの低音について、
《解像力が少し弱くてあまりリズミカルには躍動しない》といわれているし、
瀬川先生も低音は《少し重くなります》という評価だった。

これはブックシェルフ型エンクロージュアに入れての評価ではなく、
2.1m×2.1mの平面バッフルに取り付けての試聴の結果である。

7月のaudio wednesdayで鳴らした時も、
低音に関しては同じ印象を受けた。

量的には出ているけれど、確かに解像力が弱い、やや不明瞭になる、とはいえる。
それでも低音は、意外にものびているからこそ、
もう少し澄んだ低音を響かせてくれれば──、とないものねだりをしたくなる。

だから菅野先生は、ジャズのベースがドスンドスンという響きになる、と、
瀬川先生はジャズを鳴らすには方向が違うような気がする、といわれている。

コーネッタにおさめた状態でも、HPD295Aは、まさにそうだった。
でも、それが特に不満というわけではなかった。
ただ、ケイト・ブッシュには向かないだろう、ということだった。

ケイト・ブッシュは、リンゼイ・ケンプに弟子入りしている。
パントマイムを、デビュー前にやっていた。
そのことは、ケイト・ブッシュのミュージックビデオを見ると伝わってくる。

20代のころ、ケイト・ブッシュについて、なんでもいいから知りたい時期だった。
レーザーディスクも、テレビを持っていないにも関らず買った。
友人宅に持っていき、見ていた。

ストーリー仕立てといっていいのだろうか、そういうミュージックビデオもあったし、
舞台を思わせるミュージックビデオもあった。

後者のそれを見ていて、
これがケイト・ブッシュが表現したかった世界? と思うこともあった。
動くケイト・ブッシュを見る楽しみはあった。
けれど、当時の私にとっては、それ以上ではなかった。

LPやCDで音だけで聴いているほうが、
ずっとケイト・ブッシュの魅力を堪能できる。
それはいまも変らないが、コーネッタで聴いて、少し変ってきた。

Date: 8月 10th, 2020
Cate: Cornetta, TANNOY

コーネッタとケイト・ブッシュの相性(その2)

コーネッタというスピーカーの形態が、
ケイト・ブッシュの再生に適している、とは、これまで思ったことがない。

コーネッタを今回手に入れたのは偶然のようなものだし、
手に入れるまで、ずーっと欲しい、と思い続けていたときでも、
コーネッタでケイト・ブッシュを聴きたい、と思っていなかった。

でせ、音だけは聴いてみたいことには、わからない。
このあたりまえのことを、あらためて感じている。

「五味オーディオ教室」には、ステージということについて何度も書かれている。
     *
 私は断言するが、優秀ならざる再生装置では、出演者の一人ひとりがマイクの前に現われて歌う。つまりスピーカー一杯に、出番になった男や女が現われ出ては消えるのである。彼らの足は舞台についていない。スピーカーという額縁に登場して、譜にあるとおりを歌い、つぎの出番のものと交替するだけだ。どうかすると(再生装置の音量によって)河馬のように大口を開けて歌うひどいのもある。
 わがオートグラフでは、絶対さようなことがない。ステージの大きさに比例して、そこに登場した人間の口が歌うのだ。どれほど肺活量の大きい声でも、彼女や彼の足はステージに立っている。広いステージに立つ人の声が歌う。つまらぬ再生装置だと、スピーカーが歌う。
     *
ここ以外にも、ステージの再現については書かれている。
このステージは、いわゆる音場感とはちょっと違う。

音場感がうまく再現されていたとしても、
そこにステージを感じとれるかどうかは、また別のことである。

ケイト・ブッシュの音楽は、マルチ・マイクロフォン、マルチ・トラックによる録音だ。
そこに、クラシックでいうところのステージがある、とはケイト・ブッシュ好きの私でも思っていない。

なのに、今回コーネッタでケイト・ブッシュを聴いていて、
そのステージ的なもの、ある種の舞台を感じとっていた。

聴いていて、不思議な感じだった。

Date: 8月 8th, 2020
Cate: 218, MERIDIAN

218(version 9)+α=WONDER DAC(その13)

今年春に出たクリュイタンス/ベルリンフィルハーモニーによるベートーヴェン。
1959年録音の交響曲第4番をかける。

ベートーヴェンの4番といえば、カルロス・クライバーの演奏が出てからは、
もっぱらそればかり聴いていた。
他の指揮者の4番も持っていたし、聴いていたけれど、
クライバーの疾走感ある演奏のあとでは、ほかの演奏をずいぶんのあいだ聴く気にならなかった。

クリュイタンスの4番は、MQAで聴いている。
クライバーの4番は、私はCDでしか聴いていない。
SACDがかなりあとになって出ているが、買いそびれている。

クリュイタンスの4番は、60年ほど前の録音とは聴いていると、まず思えない。
気持良く音がひろがる。
どこにも無理がない。そんなふうに音がひろがりハーモニーを醸し出す。

こんなにも素晴らしい演奏だったのか、と、
ずっと昔に聴いた記憶をたどったところで、そのころの印象は、
2020年のいま聴くほど鮮烈ではなかった(はずだ)。

そうであったなら、記憶にはっきりと残っているはずだからだ。

聴いているとよみがえった、と思う。
ショートピンを218に挿さない状態でも、60年前の録音とは思えなかったのが、
ショートピンを挿すことで、ますますそうとは思えなくなった。

とにかくクリュイタンスの4番をMQAで聴いて、
古い録音だな、と感じるのであれば、再生装置のどこかに不備があると思っていい。
そういいたくなるほどの演奏・録音である。

Date: 8月 7th, 2020
Cate: 218, MERIDIAN

218(version 9)+α=WONDER DAC(その12)

ショートピンの効果は、218でも、アンプと同じようにあらわれる。
音のひろがりが、いちだんと増す。

聴感上のS/N比に配慮したシステムであればあるほど、
そこでの変化ははっきりとあらわれる傾向にある。

雜共振のかたまりのようなシステム、
つまり聴感上のS/N比の悪いシステムでは、
ショートピンの効果はそこまではっきりとは出ない傾向がある。

今回の218へのショートピンの効果が大きく感じられたのは、
218にこまめに手を加えてきたこと、
LAN用のターミネーター、200V駆動などの積み重ねなどが関係しているように思う。

ショートピンといえば、喫茶茶会記でのaudio wednesdayでは、
マッキントッシュのMA7900にも挿している。

MA7900にはフォノ入力が二系統ある。
使っていない端子に、常時挿してある。

audio wednesdayで使う場合に、CD端子にもショートピンを挿す。
メリディアンの218を使うようになってから、
218でレベルコントロール、トーンコントロールをするようになったため、
MA7900のプリアンプ部は使わずに、パワーアンプ部のみ、
つまりパワーアンプ入力端子に218を接続している。

こうやって使う場合に気をつけたいのは入力セレクターのポジションである。
私はショートピンを挿した端子にセットしている。

ほんとうならば、すべての入力端子にショートピンを挿してみて、
ということも試したほうがいいのだが、
効率的に、ということでショートピンをライン入力のどれかに挿して、
そのポジションにセレクターをあわせる。

便宜上、CD端子にショートピンを挿して、セレクターはCDにしている。
それから精神衛生上というか、ボリュウムは絞りきっている。

パワーアンプ部しか使っていないのだから、ボリュウム位置は音量には関係しない。
それでも絞りきっている。

Date: 8月 6th, 2020
Cate: 218, MERIDIAN

218(version 9)+α=WONDER DAC(その11)

物理的なS/N比を向上させたければ、
アンプの場合では入力端子にショートピンを挿せば、
たったこれだけのことでS/N比の数値は高くなる。

ステレオサウンドでは、以前、測定を積極的に行なっていたころ、
アンプのS/N比を、ショートピンを挿した状態、
実際の使用条件にあわせた状態での測定の両方を行っていた。

ショートピンありだとS/N比はよくても、
たとえフォノ端子にカートリッジ、それもインピーダンスが高いMM型を取り付けた状態では、
S/N比がかなり悪くなる機種が、意外にも少なくなかった。

私がステレオサウンドを読みはじめた1976年ごろ、それ以降も、
ヤマハのコントロールアンプ、プリメインアンプは優秀だった。

ショートピンありの状態でも抜群のS/N比の高さを誇っていたが、
カートリッジありの状態で、さほど低下せず、測定機種中、優秀な値を示していた。

つまりショートピンを、空いている入力端子に挿すだけで、
アンプのS/N比は向上する。

これは大半のアンプに有効なのだが、
ごく一部のアンプにおいてはショートピンを挿すと発振気味になる場合もあり、
100%良くなるとはいえない。

測定器がなくても、ショートピンの効果は、ノイズを聞けばすぐにわかる。
クロストーク、それも両チャンネル間のそれではなく、
各入力間のクロストークのことであり、
ショートピンの有無は、この各入力間のクロストークをなくしてくれる。

メリディアンの218には、アナログ入力端子がある。
ここにショートピンを挿す。

これだけである。

Date: 8月 6th, 2020
Cate: Cornetta, TANNOY

コーネッタとケイト・ブッシュの相性(その1)

コーネッタを鳴らして、その音の何にもっとも驚いているかといえば、
ケイト・ブッシュに関して、である。

先月のaudio wednesdayでもケイト・ブッシュをかけた。
昨晩のaudio wednesdayでも、やはりかけた。

どちらも2018年リマスターでMQAである。

ケイト・ブッシュのディスクは、自分のシステムだけでなく、
ステレオサウンドの試聴室でも何度も鳴らしていたし、
ほかの人のシステムで、少なからぬ回数聴いている。

ケイト・ブッシュを聴き尽くした、とは思っていない。
それでも、かなり聴いてきたし、どんなふうに鳴るのかも、ある程度は想像がつく。

それでもコーネッタで聴くケイト・ブッシュは、前回も今回も意外だった。
ケイト・ブッシュのディスクを最初に鳴らすのであれば、
そういうことがあるのもわからないではない。

けれど、ケイト・ブッシュの前に、聴きなれたディスクを何枚も鳴らしている。
それだけ鳴らしていれば、ケイト・ブッシュがどう鳴ってくるのかは、かなり予測できる。

にも関らず、今回もコーネッタで聴いていて驚いたとともに、発見があった。

フロントショートホーン付きのスピーカーは、独自のプレゼンスを持つ傾向がある。
すべてのフロントショートホーン付きのスピーカーを聴いているわけではないが、
フロントショートホーンなしのスピーカーでは聴けない独自の臨場感がある。

この独自の臨場感は、コーネッタに感じている。
しかも私の場合、意外にもケイト・ブッシュでいちばん感じている。

Date: 7月 29th, 2020
Cate: 218, MERIDIAN

218(version 9)+α=WONDER DAC(余談・その後)

ルンダールのLL1658に取り付ける部品の一つが、前回は手に入らなかった。
電話で問い合せてみた。

すると9月に入荷予定、とのこと。
9月なのか……、と思ってしまう。

自分のモノならば、9月まで待つのもいいけれど、頼まれている分だから、
9月までは……、と思うわけだ。

欲しかったのは、DALEの無誘導巻線抵抗の20Ω(3W)が、五本。
これが9月まで手に入らないのであれば、10Ω+10Ωでいくか、と考えた。

けれど10Ωも在庫がない、ということ。
そうなると、サイズがけっこう大きくなってしまうけれど、
20Ω(5W)の無誘導巻線抵抗の在庫を訊いた。

こちらはなんとか必要な本数分あった。
海神無線にはウェブサイトがあって、
そこで各部品の在庫は確認できる。

今回ももちろん確認していた。
DALEの無誘導巻線抵抗の在庫は、ウェブサイト上はあることになっていたが、
こまめに更新されているわけではないことは知っていた。

なので、電話で確認するのが確実である。

3Wと5Wとでは、かなり大きさが違う。
5Wのサイズだとちょっとめんどうかな、と思うところもあるが、
とにかく仕上げることができるようになった。

前回、コロナ禍の影響がこんなところにまで、と書いたが、
影響は想像以上に、こんなところでも大きくなってきているようだ。

Date: 7月 25th, 2020
Cate: Cornetta, TANNOY

TANNOY Cornetta(その25)

7月のaudio wednesdayで、フルニエのバッハの無伴奏をかけたときに、
「目の前で弾いているかのようだ」という感想があった。

そのときのコーネッタは、まだまだ本調子といえる鳴り方ではなかったけれど、
そう感じられるところは確かにあったし、そう感じてくれた人がいたのは嬉しいことでもある。

ここでの「目の前で弾いているかのようだ」は、人によってはそう感じないこともあるだろう。
もっと別の鳴り方でなければ、そう感じない人がいても不思議ではない。

いまどきのハイエンドオーディオの鳴り方になれている人だと、
「目の前で弾いているかのようだ」とは、たぶん感じないであろう。

フルニエのチェロの音像は、いわば虚像である。
その虚像に対して「目の前で弾いているかのようだ」と、まさしく錯覚であって、
錯覚のしかた、というか、そのひきがねとなる要素は、すべての人がみな同じなわけではないだろう。

同じ人であっても、時と場合によって少しは違うことだってありうるであろう。

7月のaudio wednesdayで、「目の前で弾いているかのようだ」と錯覚させてくれたのは、
なんだったのか、といえば、それはおそらく弦の息づかいではなかろうか。

ここ十年以上ステレオサウンドの試聴記をきちんと読まなくなった。
なので、そんな私の感想にすぎないのだが、
最近の試聴記に「弦の息づかい」は使われていないような気がする。

使われているとしても、
私が熱心に読んでいたころとは、ニュアンスの違いがそこにあるような気すらする。