TANNOY Cornetta(その26)
昨晩のaudio wednesdayは、三回目のコーネッタだった。
一回目、二回目とは鳴らし方のアプローチを変えた。
結果を先に書いてしまうと、うまくいった。
人には都合があるからしか。たないことなのだが、
一回目、二回目に来てくれた人に聴いてもらいたかった、と思っている。
昨晩は、途中から喫茶茶会記の常連の方が参加された。
オーディオマニアではない方だ。
こういうことはいままでも何度かあったが、昨晩の方は、最後まで聴かれていた。
それに一曲鳴らし終ると、小さな拍手をそのたびにしてくれた。
昨晩は、ディスクをけっこうな枚数持っていった。
そのなかで、私がいちばん印象に残っているのは、
カラヤンの「パルジファル」だった。
五味先生の、この文章を引用するのは、今回で三度目となるが、
それでも、また読んでほしい、と思うから書き写しておく。
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JBLのうしろに、タンノイIIILZをステレオ・サウンド社特製の箱におさめたエンクロージァがあった。設計の行き届いたこのエンクロージァは、IIILZのオリジナルより遙かに音域のゆたかな美音を聴かせることを、以前、拙宅に持ち込まれたのを聴いて私は知っていた。(このことは昨年述べた。)JBLが総じて打楽器──ピアノも一種の打楽器である──の再生に卓抜な性能を発揮するのは以前からわかっていることで、但し〝パラゴン〟にせよ〝オリンパス〟にせよ、弦音となると、馬の尻尾ではなく鋼線で弦をこするような、冷たく即物的な音しか出さない。高域が鳴っているというだけで、松やにの粉が飛ぶあの擦音──何提ものヴァイオリン、ヴィオラが一斉に弓を動かせて響かすあのユニゾンの得も言えぬ多様で微妙な統一美──ハーモニイは、まるで鳴って来ないのである。人声も同様だ、咽チンコに鋼鉄の振動板でも付いているようなソプラノで、寒い時、吐く息が白くなるあの肉声ではない。その点、拙宅の〝オートグラフ〟をはじめタンノイのスピーカーから出る人の声はあたたかく、ユニゾンは何提もの弦楽器の奏でる美しさを聴かせてくれる(チェロがどうかするとコントラバスの胴みたいに響くきらいはあるが)。〝4343〟は、同じJBLでも最近評判のいい製品で、ピアノを聴いた感じも従来の〝パラゴン〟あたりより数等、倍音が抜けきり──妙な言い方だが──いい余韻を響かせていた。それで、一丁、オペラを聴いてやろうか、という気になった。試聴室のレコード棚に倖い『パルジファル』(ショルティ盤)があったので、掛けてもらったわけである。
大変これがよかったのである。ソプラノも、合唱も咽チンコにハガネの振動板のない、つまり人工的でない自然な声にきこえる。オーケストラも弦音の即物的冷たさは矢っ張りあるが、高域が歪なく抜けきっているから耳に快い。ナマのウィーン・フィルは、もっと艶っぽいユニゾンを聴かせるゾ、といった拘泥さえしなければ、拙宅で聴くクナッパーツブッシュの『パルジファル』(バイロイト盤)より左右のチャンネル・セパレーションも良く、はるかにいい音である。私は感心した。トランジスター・アンプだから、音が飽和するとき空間に無数の鉄片(微粒子のような)が充満し、楽器の余韻は、空気中から伝わってきこえるのではなくて、それら微粒子が鋭敏に楽器に感応して音を出す、といったトランジスター特有の欠点──真に静謐な空間を持たぬ不自然さ──を別にすれば、思い切って私もこの装置にかえようかとさえ思った程である。でも、待て待てと、IIILZのエンクロージァで念のため『パルジファル』を聴き直してみた。前奏曲が鳴り出した途端、恍惚とも称すべき精神状態に私はいたことを告白する。何といういい音であろうか。これこそウィーン・フィルの演奏だ。しかも静謐感をともなった何という音場の拡がり……念のために、第三幕後半、聖杯守護の騎士と衛士と少年たちが神を賛美する感謝の合唱を聴くにいたって、このエンクロージァを褒めた自分が正しかったのを切実に知った。これがクラシック音楽の聴き方である。JBL〝4343〟は二基で百五十万円近くするそうだが、糞くらえ。
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《前奏曲が鳴り出した途端、恍惚とも称すべき精神状態に私はいたことを告白する》、
これまでも「パルジファル」は聴いてきている。
クナッパーツブッシュのバイロイト盤を聴いている。
回数的には少ないけれど、カラヤンの録音も聴いている。
それでも、今回ほど、五味先生の精神状態を追体験できたと感じたことはなかった。
アンチ・カラヤンとまではいわないものの、五味先生の影響もあって、
私は、熱心なカラヤンの聴き手ではない。
そんな私でも、カラヤンのワーグナーは、美しいと、これまでも感じていた。
それでも今回ほどではなかった。