コーネッタとケイト・ブッシュの相性(その2)
コーネッタというスピーカーの形態が、
ケイト・ブッシュの再生に適している、とは、これまで思ったことがない。
コーネッタを今回手に入れたのは偶然のようなものだし、
手に入れるまで、ずーっと欲しい、と思い続けていたときでも、
コーネッタでケイト・ブッシュを聴きたい、と思っていなかった。
でせ、音だけは聴いてみたいことには、わからない。
このあたりまえのことを、あらためて感じている。
「五味オーディオ教室」には、ステージということについて何度も書かれている。
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私は断言するが、優秀ならざる再生装置では、出演者の一人ひとりがマイクの前に現われて歌う。つまりスピーカー一杯に、出番になった男や女が現われ出ては消えるのである。彼らの足は舞台についていない。スピーカーという額縁に登場して、譜にあるとおりを歌い、つぎの出番のものと交替するだけだ。どうかすると(再生装置の音量によって)河馬のように大口を開けて歌うひどいのもある。
わがオートグラフでは、絶対さようなことがない。ステージの大きさに比例して、そこに登場した人間の口が歌うのだ。どれほど肺活量の大きい声でも、彼女や彼の足はステージに立っている。広いステージに立つ人の声が歌う。つまらぬ再生装置だと、スピーカーが歌う。
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ここ以外にも、ステージの再現については書かれている。
このステージは、いわゆる音場感とはちょっと違う。
音場感がうまく再現されていたとしても、
そこにステージを感じとれるかどうかは、また別のことである。
ケイト・ブッシュの音楽は、マルチ・マイクロフォン、マルチ・トラックによる録音だ。
そこに、クラシックでいうところのステージがある、とはケイト・ブッシュ好きの私でも思っていない。
なのに、今回コーネッタでケイト・ブッシュを聴いていて、
そのステージ的なもの、ある種の舞台を感じとっていた。
聴いていて、不思議な感じだった。