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Date: 6月 25th, 2015
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(UREI Model 813の登場・その1)

ステレオサウンド 46号は1978年3月に、
HIGH-TECHNIC SERIES 4は1979年春に、
「続コンポーネントステレオのすすめ」は1979年秋に出ている。

46号の特集は「世界のモニタースピーカー そのサウンドと特質を探る」で、
17機種のモニタースピーカーが取り上げられている。

17機種の中でひときわ印象に残ったのは、K+HのOL10UREIのModel 813である。
瀬川先生は、どちらも推薦機種にされている。

試聴記を読めばわかるが、このふたつのモニタースピーカーの性格は、かなり違っている。

HIGH-TECHNIC SERIES 4は「魅力のフルレンジスピーカー その選び方使い方」で、
国内外のフルレンジユニット37機種を、
32mm厚の米松合板による2.1m×2.1mの平面バッフルでの試聴を行っている。
ここにアルテックの604-8Gが登場している。

46号の特集にもアルテックのモニタースピーカーは、612C620Aが登場している。

UREI 813にもアルテック 612C、620Aにも、アルテックの604-8Gが搭載されている。

「続コンポーネントステレオのすすめ」では、JBLの4343、KEFのModel 105、スペンドールのBCII、
ダイヤトーンの2S305、セレッションのDitton 66、ヤマハのNS1000M、テクニクスのSB8000、
ヴァイタヴォックスのCN191、アルテックのA7X、BOSEの901SeriesIV、QUADのESL、
そしてUREIのModel 813の組合せをつくられている。

これらの記事をもとめて読む。
その後に「コンポーネントステレオの世界 ’80」でのアルテックの620Bの、
瀬川先生の組合せを読むと、すべてがつながっていくような気がしてくる。

Date: 6月 9th, 2015
Cate: 岡俊雄

アシュケナージのピアノの音(続々続・岡俊雄氏のこと)

菅野先生が、以前次のような発言をされている。
     *
たとえば同じクラシックのピアノ・ソロであっても、ぼくはブレンデルだとわりと小さい音で聴いても満足できるんだけれども、ポリーニだともうちょっと音量を高めたくなるわけです。
(ステレオサウンド別冊「コンポーネントステレオの世界 ’82」より)
     *
菅野先生の指摘されていることは、多くの人が無意識のうちにやっていることだと思う。
私も、いわれてみれば……、と思った。

岡先生はショルティとアシュケナージを高く評価されていたことは、以前書いた通りだ。
ショルティは、私の中では音量をけっこう高めにして聴きたくなる指揮者である。
ショルティのマーラーは、他の指揮者のマーラーよりも大きくしたくなるところがある。

これはすべての人に共通していえることなのか、そうでないことなのかはわからないけれど、
ショルティのマーラーをひっそりと鳴らしても……、とやはり思ってしまう。

アシュケナージは、どうなんだろうと、いま思っている。

意外に思われるかもしれないが、
岡先生はけっこうな大音量派だった。
岡先生の音を聴いたとき、その音量に驚いたことがある。

驚いたあとで、そういえば……、と思い出していた。
これも「コンポーネントステレオの世界 ’82」に載っていることだ。
     *
 ぼくは自分の部屋で、かなりレベルを上げて聴いて、ワイドレンジで豊かな感じを出したいなということでいろいろやってきて、専門的な言葉でいえば、平均レベルが90dBぐらいから上でピークが105dBから、場合によると110dBぐらいのマージンをもつ、ピアニッシモは大体50から55dBぐらいで満足できるような、その程度のシステムで聴いていた。わりと庭が広いので、春さきから秋にかけては窓をあけっぱなしにして聴いていたのです。
 隣の家までかなり距離はあるんですけれども、隣の家が改造して、昔は台所があってその向こう側に居間があったのを、こんどは居間を台所の横に移しちゃったんです。それでうちでデカイ音を出すと、平均レベルで90dB以上でピークで100dBを超えたりすると、モロにいくわけですね。それぐらいでやっていたら、ある日突然電話がかかってきて、お宅の音がうるさくて困ると、クレームがきてしまった(笑い)。
     *
これを読んでいたことを忘れていた。
そうだそうだ、岡先生はけっこう大音量派なのだ、ということを思い出していた。

だから岡先生もショルティはかなり大きめな音で聴かれていたように思う。
アシュケナージはどうだったんだろうか。
ショルティのマーラーほど大きくはなくても、他のピアニストよりも大きめの音量だったのだろうか。

Date: 5月 30th, 2015
Cate: 長島達夫

長島達夫氏のこと(図説・MC型カートリッジの研究)

ステレオサウンドから「MCカートリッジ徹底研究」というムックが発売になっている。

この本の後半は、長島先生の「図説・MC型カートリッジの研究」の再録したものである。
ただ完全な再録ではなく、「ほぼ全ページ」ということらしい。

それでも「図説・MC型カートリッジの研究」の復刊は素直に喜びたい。
でも表紙は「図説・MC型カートリッジの研究」の方が文句なしに素晴らしい。

ラックスのPD121にオルトフォンのMC20、
ヘッドシェルはフィデリティ・リサーチのFR-S/4。
撮影は亀井良雄氏。

まだ読んでいない本についてあれこれいいたくはないが、
「図説・MC型カートリッジの研究」のそのままの復刊であってほしかった。

もっとも「図説・MC型カートリッジの研究」には広告もはいっているから、
そのままの復刊が無理なことは理解しているのだけれど……。

とにかく「MCカートリッジ徹底研究」の価値は、「図説・MC型カートリッジの研究」である。
これだけは古くならない。

Date: 5月 27th, 2015
Cate: 五味康祐

続「神を視ている。」(その1)

「人は大事なことから忘れてしまう」と書きながら、思い出していた。
五味先生の、この文章を思い出して、また読み返していた。
     *
われわれはレコードで世界的にもっともすぐれた福音史家の声で、聖書の言葉を今は聞くことが出来、キリストの神性を敬虔な指揮と演奏で享受することができる。その意味では、世界のあらゆる──神を異にする──民族がキリスト教に近づき、死んだどころか、神は甦りの時代に入ったともいえる。リルケをフルトヴェングラーが評した言葉に、リルケは高度に詩的な人間で、いくつかのすばらしい詩を書いた、しかし真の芸術家であれば意識せず、また意識してはならぬ数多のことを知りすぎてしまったというのがある。真意は、これだけの言葉からは窺い得ないが、どうでもいいことを現代人は知りすぎてしまった、キリスト教的神について言葉を費しすぎてしまった、そんな意味にとれないだろうか。もしそうなら、今は西欧人よりわれわれの方が神性を素直に享受しやすい時代になっている、ともいえるだろう。宣教師の言葉ではなく純度の最も高い──それこそ至高の──音楽で、ぼくらは洗礼されるのだから。私の叔父は牧師で、娘はカトリックの学校で成長した。だが讃美歌も碌に知らぬこちらの方が、マタイやヨハネの受難曲を聴こうともしないでいる叔父や娘より、断言する、神を視ている。カール・バルトは、信仰は誰もが持てるものではない、聖霊の働きかけに与った人のみが神をではなく信仰を持てるのだと教えているが、同時に、いかに多くの神学者が神を語ってその神性を喪ってきたかも、テオロギーの歴史を繙いて私は知っている。今、われわれは神をもつことができる。レコードの普及のおかげで。そうでなくて、どうして『マタイ受難曲』を人を聴いたといえるのか。 (「マタイ受難曲」より)
     *
「どうでもいいことを現代人は知りすぎてしまった」とある。
どうでもいいことを知りすぎて、大事なことから忘れてしまう。
忘れてしまうのならば、また思い出せる可能性もある。

けれど「どうでもいいことを現代人は知りすぎてしまった」から、
大事なことに気づかないのであれば、思い出すことはできない。

もっとも大事なことは「神を視ている」なのではないか。

Date: 5月 26th, 2015
Cate: 五味康祐

続・長生きする才能(その4)

嫌われ愛想をつかされてしまう。
これしかないのではないないか、と思った。

最初のうちは周りの人も、たいへんな病に、それも不治の病なのだからと、
どんなわがままもイヤな顏ひとつせずにきいてくれるだろう。

けれどそれが一週間や一ヵ月ではなく、何年も何年も続いていくとしたら、
見放す人がひとりひとり増えていくのではないだろうか。

どんなに有名人であっても、素晴らしい音楽を奏でてきた人であっても、
いつ終るともしれぬわがままが、それも感謝の気持が示されることなく続いていくのであれば、
周りから人は去っていく……。

そんなことをおもっていた。
そうすれば自殺できるかもしれない。
時間はかかる。

ほんとうは感謝の気持をもっているのに、
それを抑え込んでわがままを押し通す。
健康な人であっても、こんなことをずっと続けていたらそうとうにしんどいはずである。

それをベッドの上から自力では起き上がれない人がやり続ける。

これは私の勝手な想像でしかない。
けれどジャクリーヌ・デュ=プレのような人が自殺を考えたとしたら、
これ以外の方法が私には思い浮ばなかった。

Date: 5月 20th, 2015
Cate: 岩崎千明

岩崎千明氏のこと(アナログディスクの扱い・その3)

 レコードジャケットに、適合カートリッジや最適針圧をメモしていて、一枚ごとにカートリッジを変え、針圧を再調整して聴くというマニアも知っている。その人はそういう作業がめんどうなのでなく逆にとても楽しいらしい。
 一枚かけるごとに、針先のゴミをていねいに除き、レコードのホコリを拭きとりまるで宝ものを扱うようにレコードをかける愛好家もおおぜい知っている。だが私はおよそ逆だ。もしもそういう丁寧な人たちが私のレコードをかけるところをみていたら、びっくりするかもしれない。
 レコードをジャケットからとり出す。ターンテーブルに乗せ、すぐに針を降ろす。レコードのホコリも、針先のゴミも拭きはしない。聴きたいと思ってジャケットを探し出したとき、心はもうその音楽を聴きはじめている。そういう人間にとっては、ホコリを丁寧に拭くという仕事自体、音楽を聴く気持の流れを中断させるような気がする。
     *
上に引用した文章を読んで、岩崎先生が書かれたものと思われたかたもいるだろう。
だが、これは瀬川先生の書かれたものである。
1979年にステレオサウンドから出た「続コンポーネントステレオのすすめ」の中、
「良いカートリッジ条件」の最後に書かれている。

Date: 5月 10th, 2015
Cate: ステレオサウンド, 五味康祐

五味康祐氏とステレオサウンド(「音楽談義」をきいて・「含羞」)

「含羞(はじらひ)-我が友中原中也-」というマンガがある。
1990年代に週刊誌モーニングに連載されていた。
曽根富美子氏が作者だった。

この「含羞」が読みたくてモーニングを購入していた、ともいえるし、
単行本になるのが待ち遠しかった。

タイトルからわかるように、中原中也、小林秀雄が、
この物語の中心人物であり、ここに長谷川泰子が加わる。

これは読み手の勝手な想像にすぎないのだが、
「含羞」を描いて、作者は燃え尽きた、というよりも、精根尽き果てたのではないか、
そんな感じを受けた。

これは文字だけでは表現できない世界であり、
同じ絵であっても、動く絵のアニメーションよりも動かぬ絵のマンガゆえの表現だとも思う。

ここで描かれているのは、少し事実とは違うところもある。
それをわかったうえで読んで、小林秀雄に対する印象が、私の場合、大きく変化した。
そうだ、このひとには「乱脈な放浪時代」があったことも思い出した。

「含羞」は残念なことに絶版のままである。

Date: 5月 10th, 2015
Cate: ステレオサウンド, 五味康祐

五味康祐氏とステレオサウンド(「音楽談義」をきいて・その4)

「音楽談義」をきいていると、どうしてもいろんなことを思い考えてしまう。

「人は大事なことから忘れてしまう。」

これは2002年7月4日、
菅野先生と川崎先生の対談の中での、川崎先生の発言である。

残念なことに、ほんとうに人は大事なことから忘れしまう。
最近のステレオサウンドを見ていても、そう思ってしまう。

そう書いている私だって大事なことから忘れてしまっているのかもしれない。
そう思うから、毎日ブログを書いているのかもしれない。
大事なことをわすれないために、である。

別項でも書いているのだが、
ステレオサウンドの現編集長は、創刊以来続く、とか、創刊以来変らぬ、がお好きなようである。

でも大事なことから忘れてしまっているからこそ、創刊以来変らぬ、といえるのだろう。
大事なことを忘れずにいようとしていたら、そんなことはとてもいえない。

「音楽談義」は、他のオーディオ雑誌に掲載されたわけではない。
ステレオサウンド 2号に載ったものだ。

「音楽談義」そのものも忘れてしまっているのだろうか。
そんなふうに思えてしまう。

Date: 5月 9th, 2015
Cate: ステレオサウンド, 五味康祐

五味康祐氏とステレオサウンド(「音楽談義」をきいて・その3)

「音楽談義」には小林秀雄氏と五味先生の「対談」(あえて対談としたい)だけでなく、
五曲のSP盤復刻による音楽もふくまれている。

R.シュトラウス指揮ベルリン・フィルハーモニーによるモーツァルトの交響曲第40番の第一楽章の一部、
エルマンによるフンメルのワルツ イ長調、
ハイフェッツ、チョツィノフによるサラサーテのチゴイネルワイゼン、
クライスラー、ブレッヒ指揮ベルリン国立歌劇場管弦楽団とによるベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲、
フーベルマンとシュルツェによるメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲(ピアノ伴奏、第三楽章縮小版)、
フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルハーモニーによるワーグナー「ジークフリートの葬送行進曲」、
これらが聴ける。

最初にかかるのはモーツァルトのト短調である。
「音楽談義」を最初に聴いた1987年では確信がもてなかったことがある。
あまり気にもしていなかったということもある。
けれど、ステレオサウンド 100号の特集「究極のオーディオを語る」、
ここで岡先生の文章を読んで、やっと気がついた。

《僕の乱脈な放浪時代の或る冬の夜、大阪の道頓堀をうろついていた時、突然、このト短調シンフォニイの有名なテエマが頭の中で鳴ったのである。》
小林秀雄氏の「モオツァルト」である。

このとき小林秀雄氏が聴いていたレコードが、
リヒャルト・シュトラウスがベルリン・フィルハーモニーを振ったものである。

岡先生は、なぜかという理由について、こう書かれている。
     *
「道頓堀を歩いていたら、突然『ト短調のシンフォニー』の終楽章の出だしのテーマが頭の中で鳴った……」という、あの有名な書出しで、彼の聴いたレコードはリヒャルト・シュトラウスがベルリンフィルを振ったものらしいことがわかる。なぜかといえば、昭和22年に入手出来たこの曲のレコードはシュトラウス盤とワルター盤で、ワルターとベルリンシュターツカペレによる日本コロムビア盤は出だしの1小節めで始まるヴァイオリンのテーマが全然聴こえない。2小節めから、まずチェロとコントラバスが2分音符を、1拍遅れて第2ヴァイオリンとヴィオラが3連4分音符を奏するが、2小節目後半でいきなりヴァイオリンが聴こえてくる。
 もし、小林がワルターの演奏で聴いていたら、『ト短調シンフォニー』終楽章の出だしのテーマの冒頭は聴くこともできなかったし、頭の中で鳴ることもなかっただろう。
     *
小林秀雄氏は「終楽章の出だしのテーマ」とは書かれていない。
「有名なテエマ」とだけあるが、新潮文庫の「モオツァルト・無情という事」を開けば、
終楽章であることがすぐにわかる。

小林秀雄氏の頭の中で鳴っていたのは、シュトラウスの演奏だったのか……、
とステレオサウンド 100号を気づかされた。

だからちょっと残念なのは、「音楽談義」では終楽章はおさめられていないことだ。

Date: 5月 7th, 2015
Cate: ステレオサウンド, 五味康祐

五味康祐氏とステレオサウンド(「音楽談義」をきいて・その2)

「音楽談義」は1967年春、鎌倉で行われた。
当時のことだからオープンリールのポータブルデッキでの録音だと思う。
当然モノーラルである。
それを編集してカセットテープ二巻におさめたのが「音楽談義」である。

そのことからわかるように、音は良くない。悪いといってもいい。
かなり聞き取りづらいところもある。
それでも聞いていると、話の面白さに引き込まれて、
まったく気にならないといえばウソになるけれど、がまんならないというほどではない。

この「音楽談義」から小林秀雄氏の発言だけを抜粋して、
「音楽談義」で語られているレコードを収録したものが、
いまも新潮社から発売されている「小林秀雄講演【第六巻】 音楽について」だ。

こちらはCD二枚組であり、収録されている音楽は「音楽談義」に収録されている数よりも多い。
けれどここでは小林秀雄氏の発言の抜粋であり、「音楽談義」そのものを聞くことができるわけではない。

このことを勘違いされていて、
「音楽談義」そのものが「小林秀雄講演【第六巻】」で聞けると思っている人がいる。

「音楽談義」には、ステレオサウンド 2号に掲載された「音楽談義」をおさめた冊子ついている。
その冒頭には、
このカセットブックの開設資料として、ステレオサウンド誌2号(昭和42年5月1日発行)に掲載されたものを、著作権者の許可を得て全文掲載いたします。
なお、両氏の加筆訂正を経て文字化された誌面と肉声のテープ内容とでは、表現等で多少の違いがありますことを予めお断りしておきます。
と書いてある。

小林秀雄氏は、話したものに対してかなり加筆訂正をされるときいている。
だからステレオサウンド 2号を読んでいるから「音楽談義」は聞く必要がないわけではないし、
「音楽談義」を聞いたからステレオサウンド 2号掲載の「音楽談義」を読まなくていいわけでもない。

ステレオサウンド 2号に掲載された「音楽談義」は、
新潮文庫「直観を磨くもの―小林秀雄対話集―」で全文が読める。

Date: 4月 2nd, 2015
Cate: ステレオサウンド, 五味康祐

五味康祐氏とステレオサウンド(「音楽談義」をきいて・その1)

五味先生の命日である昨晩、ひさしぶりに「音楽談義」をきいた。

「音楽談義」はステレオサウンド 2号の特別企画として、
《音楽談義》 小林秀雄 きく人 五味康祐、というタイトルで載っている。
二部構成になっていて、第一部は「音楽の本質について」、
第二部は「ワーグナーの人と音楽」である。

「音楽談義」のことは、まだ読者であったころに知っていた。
けれど2号(1967年3月発売)という古いステレオサウンドは、
私がステレオサウンドを読みはじめた1976年の時点ではすでに入手できなかったのだから、
「音楽談義」のことを知った1979年3月の時点では読みたくとも読めなかった。

私が「音楽談義」を読んだのはステレオサウンドで働くようになってからだった。

ステレオサウンドは1986年に創刊20周年を迎えた。
創刊20周年を記念して、「音楽談義」はカセットテープによるオーディオブックとして一冊の本となった。
(発売は1987年だった)
当時、原田勲社長は、社員全員に「音楽談義」をくばられた。
それが、いまも私のもとにある一冊である。

この時「音楽談義」をきいた。
会社の取材用の録音機であったソニーのWM-D6できいた。

カセットデッキはその時もそれ以降も所有してこなかったから、
「音楽談義」をきいたのは、その一度限りだった。

昨晩、約30年ぶりに「音楽談義」をきいた。
これだけあいだがあいていると、初めてきくような感覚もあった。

Date: 4月 1st, 2015
Cate: 五味康祐

五味康祐氏とステレオサウンド

五味先生は1980年4月1日に亡くなられているから、
ステレオサウンドは54号までしか読まれていない(54号も微妙なところである)。

創刊20周年記念号は80号。
六年半後のことである。

創刊20周年記念として、小林秀雄・五味康祐「音楽談義」がカセットテープ(二巻)で出た。
このときは気づかなかった。

ステレオサウンドの創刊者である原田勲氏は、
五味先生に80号を手にとってもらいたかったはずだ、ということに、その時は気づかなかった。

五味先生が創刊20周年まで生きておられたら、
原田勲氏とどんな「談義」をされただろうか。

Date: 3月 23rd, 2015
Cate: 岩崎千明

岩崎千明氏のこと(アナログディスクの扱い・その2)

(その1)を書いている時は、続きを書くつもりはなかった。
なので昨夜公開したときのタイトルには(その1)とはつけていなかった。

けれどfacebookでのコメントを読んで、続きを書くことにした。
同時に思いだしたことがあった。
二年前のaudio sharing例会で、「岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代」をテーマにした時に出た話だった。

西川さんが話してくださったと記憶している。
靴の話だった。

ステレオサウンド 38号に載っている岩崎先生のリスニングルーム(家)は、
周りに竹やぶがあった、ときいている。
38号のあとに引越しをされている。

だから当時岩崎先生のリスニングルームを訪れたことのある人同士では、
「どっち?」「竹やぶの方?」という会話が出る。

岩崎先生は新しい靴を手に入れられると、
その竹やぶの中を歩かれる、と聞いた。

新品のまっさらな靴で竹やぶを歩く。
当然靴は泥で汚れる。

ほとんどの人は、こんなことはやらない。
新品の靴であれば、汚さないようにふつうは気を使うものだ。
けれど岩崎先生は違っていた。

あえて汚されるのである。

Date: 3月 22nd, 2015
Cate: 岩崎千明

岩崎千明氏のこと(アナログディスクの扱い・その1)

岩崎先生のリスニングルームに行ったことのある人たちから何度も聞く話がある。
岩崎先生のレコード(アナログディスク)の扱いである。

レコードは、特にマニアでない人でも、
盤面に触れないように縁を両手で挟んで、静かにターンテーブルの上に置く。
岩崎先生は違った。

盤面を指で持ってジャケットから取り出しターンテーブルの上に置く。
聴き終ったらジャケットにしまうのではなく、
次に聴きたいレコードを、さっきまでかけていたレコードの上に置く。
さらにその上に、次に聴きたいレコードが置かれる。

当然トーンアームの水平がとれなくなり、トレースが困難になると、
数枚のレコードはターンテーブルの上からとりのぞかれる。

しかもカートリッジは静かに盤面に降ろすのではなく、落下である。
カートリッジがレコード盤上で数回バウンドすることもある。
ボリュウムは、もちろん上げたままである。

いまレコードマニア、オーディオマニアと呼ばれる人は、
レコードをほんとうに丁寧に扱う。
クリーニングに関しても、あれこれ試されている人もいる。
とにかく神経質なくらいに丁寧に扱う。

そんな人にとっては、岩崎先生のレコードの扱いは、論外となる。
そんな扱いをしていたのか……、と思われるかもしれない。

けれど、岩崎先生のレコードの扱いについて話す人は、みな楽しそうに話してくれる。
なぜなのか。

そして、もうひとつなぜなのかは、
なぜ岩崎先生はそういう扱い方をされたのかだ。

丁寧に扱うことの大事さはわかっておられた。
それに右手の小指をプレーヤーキャビネットについて、
聴きたい箇所に静かにカートリッジを降ろすことも得意だった、という話も聞いている。

そういう岩崎先生が、そういうレコードの扱い方(それは聴き方でもある)をされていたのか。
この「なぜか」と、岩崎先生の音とが結びついていく感触を、話を聞くたびに感じている。

Date: 3月 21st, 2015
Cate: 井上卓也

井上卓也氏のこと(続々・井上卓也 著作集)

井上先生の著作集がもうすぐ発売になる。
ステレオサウンドのサイトに、目次が公開されている。

あの記事が載って、あの記事は載らなかったのか、とは誰もがそれぞれに思っていることだろう。
私が、あの記事は載らなかったのか、ちょっと残念だな、と思ったのは、
私が担当した記事ではなく、組合せの記事である。

ステレオサウンド別冊「コンポーネントステレオの世界」での組合せの記事が載っていなかったのが、
井上先生のことを知らない読者に、どういう人だったのかを伝えるには、どうしても残念に感じてしまう。

井上先生の耳のよさは私がここでいうまでもないことで、
使いこなしに関しても、ここでくり返す必要はないだろう。
それだけに、井上先生といえば、ここに挙げたことを印象として思い浮べる人は少なくないはず。

けれど「コンポーネントステレオの世界 ’77」で井上先生を知った私には、
次の年にでた「コンポーネントステレオの世界 ’78」での組合せを見て、
井上卓也という人の想像力の広さに驚いていた。

’77年度版では女性ヴォーカルをしんみりと聴くための組合せだった。
’78年度版では180度違う音楽を聴くための組合せだった。
このふたつの組合せのダイナミックレンジの広さに驚いた。

オーディオに関心をもちはじめてまだ一年ちょっと私には、
このふたつの組合せを同じ人がつくっていることが、すごいと思っていた。
このときは、まだ井上先生が使いこなしにおいて卓抜なものをもっておられたことは知らなかった。
だから、より素直に組合せに驚けたのかもしれない。

このふたつの組合せだけではない、
’79年度版では平面バッフルにアルテックの604-8Gを取り付けた組合せもあった。

瀬川先生の組合せとは、ひと味ちがうおもしろさが、井上先生の組合せにあった。
組合せはオーディオの想像力の現れだと思っている私は、
だから井上卓也 著作集に、組合せ記事がなかったのが残念でならない。