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Date: 1月 28th, 2018
Cate: 菅野沖彦

「菅野録音の神髄」(その8)

オーディオラボでの録音で菅野先生が使われていたテープデッキは、
スカリーの280Bである。

オーディオラボのレコードジャケット裏には、使用録音器材についての記載があった。
そこにもスカリーは書いてあったし、
ステレオサウンド 41号の特集「世界の一流品」で、菅野先生は280Bについて書かれている。

38号、60号で菅野先生のリスニングルームが載っている。
そのどちらにも280Bはある。

スカリーのテープデッキについては、菅野先生から聞いていることがあった。
スカリーのデッキで録音したテープは、
スカリーのデッキで再生しないと冴えない音になってしまうそうだ。

他社製のテープデッキでも、多少そういうところはあるが、
スカリーは特に顕著で、他社のテープデッキで再生したら、がっかりする、らしい。

そのことを江崎友淑氏も、オーディオラボの復刻にあたっての苦労話のひとつとして話された。
まずマスターテープを探すことから始まった。
保管場所は判明したものの、
今度はそこに辿りつくまでがほんとうに苦労した、とのこと。

そのへんの詳細は、3月発売のステレオサウンドの記事でも紹介されるのではないだろうか。
やっと手にしたマスターテープであったものの、聴いてみると、冴えない音で、
これでは復刻は無理だ、と思わざるをえなかった、と。

そのことを菅野先生に話したところ、
「それはそうだよ、スカリーのデッキで録音したのだから、スカリーで再生しないと」
といわれ、それからスカリーのテープデッキ探しが始まる。

日本のレコード会社ではスチューダーやアンペックスの方がよく使われていた。
スカリーは、この二社ほどは有名な存在ではない。
最終的にはキングレコードの倉庫に眠っていた、とのこと。

長らく使われていなかったスカリーの整備に数ヵ月。
そうやって再生できたマスターテープの音は、
先週録音したばかり、といわれても、そう信じてしまうくらいに、新鮮な音が鳴ってきた、と。

Date: 1月 27th, 2018
Cate: 川崎和男

KK適塾 2017(一回目・その5)

すべてに寿命がある、といっていいのだろう。
人にもモノにも寿命がある。

オーディオ機器もそうだ。
どんなに高価で信頼性を重視、故障しないよう設計製作されたモノであっても、
乱暴な使い方をしていれば、故障を招くし、
どんなに丁寧に使ってきたとしても、いつの日か、どこかに不調をきたす。

そこを修理する。
しばらくは動作していても、またどこかが不調になる。
前回と同じ箇所のこともあるし、別の箇所のこともある。
また修理。直ってくる。

それでまたしばらく使っていると……。
そのくり返しが続くことがある。

そういう例をSNSで何例か見かけたことがある。
使っている人にとっては、そのオーディオ機器は愛機なのだろう。
これまで使ってきたことによる思い入れは、他人には理解できない。

それでもモノには寿命がある。
どんなにしっかりと修理をしてくれる人(ところ)に頼んで、
きちんとした修理がなされたとしても、そのオーディオ機器は、もう老人なのである。

寿命を延ばしたい気持。
それがPPK(ピンピンコロリ)を遠ざけてしまうような気もする。

人とモノ(オーディオ機器)とは違うのはわかっているが、
けれど、果してそれほど違うのだろうか……、とも思う。

その4)に書いた仕事関係の人のおじさん。
彼が定期的に病院で健康診断を受けていれば、癌は早い時期に発見されていた可能性はある。
その段階で手術を受けていれば、もっと長く生きていられたかもしれないが、
果して、元気であっただろうか、とも思うし、どちらがPPKなのか、とも思う。

久坂部羊氏はいくつかの例を話された。
そのことについては、ここでは書かない。誤解を招くかもしれないからだ。
生体検査について話された。
そういう可能性がある、ということだった。

だから思うのだ。
PPKには諦観が求められている、と。

Date: 1月 22nd, 2018
Cate: 菅野沖彦

「菅野録音の神髄」(その7)

そこでの音はともかくとして、江崎友淑氏の話はほんとうにおもしろかった。
そのひとつを、別項「オーディオの楽しみ方(つくる・その17)」で書いた。

江崎友淑氏は菅野録音のことを「かっこいい録音」と表現されていた。
菅野録音はかっこいい音である。
そうである。

バランスがとれていて、洗練されていて──、
その「かっこいい音」を具体的に説明していくとなると、意外に難しい。

私が思うに菅野録音のかっこいいは、野性味にあるように感じている。
「’81世界の最新セパレートアンプ総テスト」で、
スレッショルドのStasis 3の音について《もうちょっと野性味みたいなものがほしい》といわれている。
「THE DIALOGUE」を鳴らしての発言である。

野性味があからさまに出てきてしまっては、それはもうかっこいい音とはいえない。
けれど野性味の感じられない音で鳴ってしまった菅野録音からは、かっこいいは感じとりにくくなる。

この野性味も、結局はバランスなのだろう。
バランスではあっても、野性味は本質に関ってくることである。

そういう本質を持っていない人が鳴らせば、菅野録音からは野性味は消えてしまう。
そういう本質を持っていない人が、オーディオラボの菅野録音をマスタリングしていたら、
つまらない音のディスクになっていたはずだ。

現在オクタヴィアレコードから発売されているCD/SACDは、そうではない。

「菅野録音の神髄」が開場する前に、
菅野先生が江崎友淑氏の手をとって、
「君と出逢えてほんとうによかった」といわれたときいている。

Date: 1月 21st, 2018
Cate: 菅野沖彦

「菅野録音の神髄」(その6)

その4)、(その5)で引用したMC2500、Stasis 1での「THE DIALOGUE」の音の印象は、
ポジティヴな評価であり、「’81世界の最新セパレートアンプ総テスト」にはそうではない音の印象もある。

100機種ほどのアンプの総テストだけに、そうではない音の印象のほうが多い。
それらをここで引用はしないが、よく鳴ったときの音の印象、そうでないときの音のい印象、
自分「THE DIALOGUE」を真剣に鳴らしてみると、
どちらの意見も「たしかにそうだ」と感じられる。

それは「THE DIALOGUE」のCD/SACDのハイブリッド盤でも、まったく変らない。
「’81世界の最新セパレートアンプ総テスト」ではアナログディスク。
つまりは江崎友淑氏によるマスタリングは、
オーディオラボ時代の音の印象そのままが継承されている、ということでもある。

菅野録音の本質を理解されているからこその、出来であることは、
「THE DIALOGUE」の一枚を聴いただけでもはっきりとわかることだ。

今回の「菅野録音の神髄」での音は、その意味で江崎友淑氏の音ではない、といえる。
アキュフェーズのプレーヤーとコントロールアンプとクリーン電源、
B&Oのスピーカーシステム、
それにそれぞれのスタッフ。
杉並区の中央図書館のスタッフ。

今回の音は、誰による音なのか、とおもう。
そういえばステレオサウンドの編集長の染谷氏も来られていた。

染谷氏による今回の音だったのか。
そのへんははっきりとしないが、「THE DIALOGUE」にかぎらず、
他のディスクでも、音に関してはあきらかに足りないものがあった。

曲と曲とのあいだの江崎友淑氏の話は、来てよかった、といえる内容だっただけに、
足りないものが、はっきりとしてくる感じでもあった。

江崎友淑氏は、菅野先生のことばを引用されて、こういわれた。
「録音は、再生に始まり再生に終る」

そうである。
けれど、このことばが、より重みを増すために必要な音、
つまり再生がなされていたとはいえなかった。

Date: 1月 20th, 2018
Cate: 菅野沖彦

「菅野録音の神髄」(その5)

「’81世界の最新セパレートアンプ総テスト」では、
スレッショルドのパワーアンプは三機種取り上げられている。
Stasis 3、Stasis 2、Stasis 1である。

Stasis 3では、菅野先生はこういわれている。
     *
それから「ダイアローグ」も、全体に落ち着いた、力がないということではないんてずが、おとなしい雰囲気で鳴らしてくれます。
     *
この発言のあとに柳沢、上杉両氏の発言があり、最後のほうでは、こうもいわれている。
     *
 いや、ぼくももうちょっと野性味みたいなものがほしいと思います。「ダイアローグ」でちょっと不満をいったのは、実はその点なんですね。決して物足りないとか、弱々しいというんではないんですが、やはり音の鳴り方が端正なんでしょうね。
     *
Stasis 3は760,000円だった。その上のStasis 2(1,138,000円)となると、
「ダイアローグ」の鳴り方は
《明らかにステイシス3よりも力強くたくましく鳴ってくれました。スリリングという店ではこちらの方がグーッときましたね》
と変化している。

Stasis 1は、モノーラル仕様で3,580,000円していた。
Stasis 2の三倍である。
しかも出力はどちらも200Wである。

けれど菅野先生の「ダイアローグ」について印象は、
Stasis 3、Stasis 2とは別格であることを感じさせてくれた。
     *
「ダイアローグ」はソリッドな音で、ドラムスの音なんていうのはものすごく詰っていて、何かそこから飛び出してくるんではないかと思えるほど緻密な音が聴けました。ブラシでタンバリンを叩いた音が空間にサーッと抜ける情景などは、音が見えるような感じです。
     *
これを読んだときは《何かそこから飛び出してくるんではないかと思えるほど》の音で、
「THE DIALOGUE」を聴いていたわけではなかった。

その感じは、アナログディスクからCD、SACDとなっても、確実に残っている。
うまく鳴ったときは、何かが飛び出してくるような、
それゆえにスリリングな感じがいっそう増してくるところがある。

他にも「’81世界の最新セパレートアンプ総テスト」からは、
「THE DIALOGUE」についてまだまだ引用したいところはあるが、
このくらいにしておこう。

Date: 1月 19th, 2018
Cate: 菅野沖彦

「菅野録音の神髄」(その4)

「THE DIALOGUE」を、菅野先生のリスニングルームで聴いた経験は、ない。
いちど聴きたい、と思ってきた。
でも聴くチャンスはなかった。

「THE DIALOGUE」を聴かせてほしい、とお願いしてれば聴かせてくれた、と思うけれど、
なんとなく言い出せなかった。

そんな私にとっての「THE DIALOGUE」の鳴り方のひとつのリファレンスは、
熊本のオーディオ店で瀬川先生が4343で鳴らされた音である。
「THE DIALOGUE」を初めて聴いたのが、そのままリファレンスとなっている。

そのうえで、1981年夏に出た「’81世界の最新セパレートアンプ総テスト」を読んだ。
この総テストで使われている試聴ディスクは、
シェリングとヘブラーによるベートーヴェンのヴァイオリンソナタ、
シルビア・シャシュのドラマティックオペラアリア集からベルリーニの「ノルマ」、
そして「THE DIALOGUE」の三枚である。

試聴メンバーは上杉佳郎、菅野沖彦、柳沢功力の三氏で、
試聴記は鼎談形式である。

試聴ディスクが三枚ということもあって、
具体的なことがけっこう述べられている。
「THE DIALOGUE」についても、特にそうだといえる。
菅野先生は、「THE DIALOGUE」の鳴り方について、ほとんどのアンプで語られている。

読みながら、こんなにもアンプによって鳴り方が変化するのか、と、
当時興味深く読むとともに、
「THE DIALOGUE」はどういう鳴り方をするものなのかを、
くり返し読むことで頭のなかで構築していった。

たとえばマッキントッシュのMC2500のところでは、こう語られている。
     *
 確かにいわれたように、コントロールアンプのボリュウム設定、つまりコンスタントなレベル設定をした場合に、パワーに余裕があるために他のアンプと桁違いにダイナミックレンジは広いですから、ピークが悠然と出てくるわけで、音楽の躍動感の次元が違ってきてしまうわけです。特に「ダイアローグ」を聴いたときの躍動感は、他のアンプと比べて1桁も2桁も違うという感じですね。
     *
これはどういうことかというと、柳沢氏が冒頭で語られている。
     *
 全体的な印象としては、まず圧倒的な音量感を特徴として挙げます。もちろんアンプはデカイ音を出せばデカイ音が出て、小さい音を出せば小さい音が出るのですけども、たとえば最初の「ヴァイオリン・ソナタ」で、ある音量を設定しておいて、それに見合う音量にして「ダイアローグ」をかけるわけです。ところが、その音量感が他のアンプと全然違うんですね。「ダイアローグ」のときは、今まで他のアンプで聴いていた「ヴァイオリン・ソナタ」との比率が比べものにならないくらい音量感が増してきて、ボリュウムを間違って上げすぎたかなという感じがするくらい、ダイナミックレンジの大きさを出してくれたんです。
     *
これは喫茶茶会記でのaudio wednesdayで鳴らしても感じていることだ。
audio wednesdayではアンプは固定だが、
チューニングをしていくと、あきらかにそう感じる。
音量感が増して聴こえるのだ。

Date: 1月 18th, 2018
Cate: 菅野沖彦

「菅野録音の神髄」(その3)

「5 Saxophones」、「SIDE by SIDE 2.」、「THE DIALOGUE」、
この三枚のディスクがかけられるであろうことは、
オーディオラボの録音を全部とはいわないまでも、
けっこうな枚数を聴いてきた人ならば、予想できていたはずだ。

「THE DIALOGUE」、
何が残念だったのかといえば、その音以前に、ボリュウム操作だった。
SACDプレーヤーのPLAYボタンを押してからの操作であった。

もう音が鳴り始めてからボリュウムを上げていては、
このディスクの一曲目の「ベースとの対話」においては、なおさらである。

なぜ、この曲だけ、そんな鳴らし方だったのか、といまも残念に思う。

今回の講演は「菅野録音の神髄」であって、
「菅野録音の神髄を聴く」ではない。
だから、それほど音に期待していたわけではない。

ただ、こうして書いているのは、音量設定も、その操作も含めての音であるからだ。

優に百回以上は聴いている「ベースとの対話」。
どういう音が鳴ってくるのか、熟知しているといえるにも関らず、
この「ベースとの対話」がうまく鳴った時の出だしの音のインパクトの強烈さ。

その音が鳴ってくるとわかっているにもかかわらず、ドキッとする。スリリングである。
なのに音が鳴り始めてからボリュウムを上げていては、
「THE DIALOGUE」を聴いていないのか、と問いたくなる。
(ボリュウムを含めての操作は江崎友淑氏がやられていたわけではない。)

かけなおしてもいいじゃないか、と思っていた。
ボリュウムをあげてからPLAYボタンを押すようにして、もう一度かければいいのに……。

でも残念なことに、そのまま最後まで鳴っていた。

江崎友淑氏の話の中に、曲を最後まで聴くことの大切さがあった。
最後まで聴く、ということは最初から聴く、ということである。

そこが忘れられた「THE DIALOGUE」だった。

Date: 1月 18th, 2018
Cate: 菅野沖彦

「菅野録音の神髄」(その2)

菅野先生は挨拶をされて、すぐに楽屋にひっこまれた。

それからアキュフェーズと B&Oのスタッフによる器材の説明があって、
「菅野録音の神髄」が始まる。

最初にかけられたのは「5 Saxophones」だった。
この曲だろうな、と思っていた。
菅野先生のリスニングルームでも、「5 Saxophones」だったからだ。
もちろんSACDである。

それから「SIDE by SIDE 2.」、
そして「THE DIALOGUE」、
最後にアナログディスクで、宮沢明子によるモーツァルトのピアノ協奏曲だった。

四枚のディスクのあいだに江崎友淑氏の話があった。

「5 Saxophones」は菅野先生のところで 何度も聴いている。
その音が、私のなかではリファレンスとなっている。
なにも、菅野先生のリスニングルームで鳴っていた音のままで、
「5 Saxophones」が鳴るとは思っていない。

けれど、そうとうに違う。
録音の優秀さは伝わってきても、「5 Saxophones」の楽しさは、残念ながら伝わってこなかった。
音量も低めだな、と思っていた。

菅野先生は、けっこうな音量で鳴らされていた。
その音量も、私にとっては基準のひとつになっている。

「SIDE by SIDE 2.」のピアノはよかった。
いちばん残念だったのが「THE DIALOGUE」だった。

Date: 1月 17th, 2018
Cate: 川崎和男

KK適塾 2017(2月2日・補足)

今年度のKK適塾の二回目は、2月2日に行われる。
受付が始まっているが、ひとつだけ注意が必要だ。

スマートフォンから申し込む場合、Wi-Fiで接続していないと、
応募期間が過ぎています、というメッセージが出て、申し込みができない。

一回目のKK適塾、出先ということもあって、最初4G回線で接続していて、申し込めなかった。
帰宅してWi-Fiで接続して、やっと申し込めた。

今回、ある人を誘った。
その人から連絡があり、応募期限が過ぎている、と表示されて申し込めない、と。
スマートフォンからで4G回線での接続だった。
パソコンで接続したら、すんなり申し込めたそうだ。

あえてそういうふうにしているのかどうかははっきりとしないが、
もしスマートフォンで4G回線で接続していて、申し込めなかった人は、
Wi-Fiで接続するか、パソコンで申し込めば問題は生じない。

Date: 1月 17th, 2018
Cate: 川崎和男

KK適塾 2017(一回目・その4)

久坂部羊氏は、PPKといわれた。
ピンピンコロリを略して、PPKである。

健康で病院にもかからず、ピンピンしていて、ある日突然コロリと死んでしまう。
これは理想であろう。

私も昔、そんなふうに死ねたら……、と思っていたことはある。
私の周りにも、そんなことをいっている人は何人かいる。

昔から、細く長くか太く短くか、という。
けれど細く生きることを心掛けていたからといって、ほんとうに長く生きられるのか。
太く生きている人は、ほんとうに短い人生なのだろうか。

昔、山中先生がいわれていたことを思いだしていた。

細く長くとか太く短く、とかいうけれど、
人がコントロールできるのは太さだけであって、長さはどうすることもできないんだ、
細く短い人もいるし、太く長い人もいる、と。

そんなことをいわれていた。

昔の仕事関係の人のおじさんは、とても元気だったそうだ。
病院に行くことも、健康診断に行くこともなく、健康そのものだったらしい。

その人が、ある日突然倒れた。
病院に運ばれて検査の結果、癌だった。
末期の癌で倒れた日から、そう経たないうちに亡くなったそうだ。

もう手遅れ、ということで、治療も受けなかった、らしい。
この人は、PPKなのだろう。
倒れる日まで、ほんとうに元気(ピンピン)だったのだから。

KK適塾の翌日、12月23日には、ジャズ喫茶の閉店の話のほかに、
別の人からスピーカーがこわれてしまった、という連絡があった。

そのスピーカーシステムは、発売されてから25年以上経っている。
それほど数は売れていないけれど、私も欲しかったスピーカーである。

そのスピーカーでなければ聴けない音の魅力があった。
いま、そのメーカーはない。
純正の修理は無理ということになる。

スピーカーの故障の原因は、パワーアンプの異状である。
パワーアンプも同時期に購入されたモノだから、こちらもけっこう月日が経っている。

このことが重なったから、PPKについて、オーディオの場合なら……、ということを考えてしまう。

Date: 1月 14th, 2018
Cate: 菅野沖彦

菅野沖彦氏のスピーカーのこと(「菅野録音の神髄」でのBeoLab 90)

菅野沖彦氏のスピーカーのこと(その16)」で、B&OのBeoLab 5を挙げた。
そんな私だから、「菅野録音の神髄」でのスピーカーシステムがBeolab 90であったことは、
我が意を得たり、でもあった。

来場者のなかには、BopLab 90という選択に不満をもっている人もいたように感じる。
なぜBeoLab 90になったのかについては、中央図書館の方からの説明があった。

いくつかの事情が重なってのBeoLab 90であったようだが、
そういう事情がなくとも、私が担当者だったら、BeoLab 90を選ぶ。

開場前の音は、かなりよかった、とも聞いている。
60人以上の人が集まった空間では、開場前とは大きく音が違って当然であり、
そのあたりへの配慮が足りなかったのは、
おそらく中央図書館としても、こういうイベントは初めてであろうから、致し方ない面もある。

十全に鳴っているとはいいがたかったが、
BeoLab 90という選択は、正しい。

Date: 1月 14th, 2018
Cate: 菅野沖彦

「菅野録音の神髄」(その1)

今日は1月14日。
杉並区の中央図書館の視聴覚ホールにて、
オクタヴィア・レコードの江崎友淑氏による講演会「菅野録音の神髄」が行われる日である。

どんな器材なのかは、中央図書館のウェブサイトで紹介されていた。
スピーカーシステムはB&OのBeoLab 90、
SACDプレーヤー、コントロールアンプはアキュフェーズのフラッグシップモデル。
それからアキュフェーズのクリーン電源も用意されていた。

アナログプレーヤーもあった。
トーレンスのTD124にSMEのトーンアーム。
カートリッジはアキュフェーズのAC6にアキュフェーズのフォノイコライザーアンプ。

開場は13時30分。
私が着いたのは10分ほどすぎていたが、席は半分ほど埋まっていた。
どこに座ろうかと見渡していたら、最前列が空いていた。

そこまでの壁際には関係者の方たちが座っていた。
菅野先生の奥さまもいらっしゃった。
もう10年ぶりである。
挨拶をしたら、「うしろに……」といわれた。ふりかえると、
最前列の中央に菅野先生がおられた。

菅野先生が来られるとは、思ってもみなかった。

14時から「菅野録音の神髄」は始まった。
菅野先生の挨拶から始まった。

この時、あちこちからシャッター音がした。
振り返らなかったが、おそらく多くの人がスマートフォンやカメラをかまえていたんだろう。
私の隣の人も撮っていた。

おそらく個人のサイトやSNSに、公開する人もいると思う。
私は撮るべきではない、と思ったから、撮らなかった。
理由は書かないが、撮るべきでない、というのが私の判断だ。

Date: 1月 9th, 2018
Cate: 川崎和男

KK適塾 2017(2月2日)

今年度のKK適塾の二回目は、2月2日に行われる。
受付が始まっている。

KK塾、KK適塾に行って毎回おもうのは、
もっとオーディオ関係者が来てほしい、ということだ。

オーディオ関係者とは、オーディオ業界の人だけを指すわけではない。
オーディオ好きの人を含めて、の意味だ。

二回目の講師は藤崎圭一郎氏である。

Date: 12月 25th, 2017
Cate: 川崎和男

KK適塾 2017(一回目・その3)

成熟した大人。
たしか、そういわれた。

心臓移植を例に挙げられての話だった。
心臓は亡くなった人からの移植はできない、とのこと。
つまり生きている人から取り出した心臓だから、移植できる、と。

もちろん生きている人に麻酔をかけて心臓を取り出してしまったら、それは殺人である。
だから脳死がある。

脳は死んでいても、人工呼吸器をつけていれば心臓は動いている。
そういう状態の人がいるから、心臓移植ができるわけだ。

心臓移植を受けなければ助からない人が、家族にいたとしたら、
おそらく全員が心臓移植を望むはずだ。

だが自分の子供が、プールで溺れて脳死状態になったとしよう。
子供の心臓を、心臓移植を必要としている人に提供できるだろうか。

数時間前まで元気だった自分の子供が、突然脳死宣告される。
しかも心臓を必要としている人がいる。

もしかすると、奇蹟に近いことがおきて、脳死状態から復帰できるかもしれない、
と親ならばおもいたくなる。
目の前にいるのは、自分の子供である。
心臓は動いていて、肌にふれれば温かい。

ここで成熟した大人の決断が求められる。
自分の子供が心臓移植を必要とし、心臓移植を望むのであれば、
脳死となったら心臓を提供することを求められる──、
一方的に望むだけでは、それは成熟した大人とはいえない。

酷なことであっても、自分だけがよければ……、という考えは通用しない。
ドナーとなることを拒否するのであれば、移植を受けることも望まなければいい。
それも成熟した大人の考えである。

脳死と臓器移植が、転売屋とどう関係するのか、といえば、
直接の関係はないけれど、転売屋は成熟した大人のやることだろうか。
とても未成熟であると感じる。

Date: 12月 25th, 2017
Cate: 川崎和男

KK適塾 2017(一回目・その2)

秋葉原のパーツ店は、店そのものは小さくとも、
在庫としてはかなりの数を抱えている。

閉店のウワサをいちはやくかぎつけた人たちは、
在庫をすべて買い取りたい、といってきたそうだ。
ただし、話にならないほどの価格だった、と聞いている。

人をバカにするにもほどがある、という。
そんな感じだったようだ。

安く買い叩いて、高く売る。それが目的の人たちなのだろうか。
いわゆる転売屋と呼ばれている人たちである。

ジャズ喫茶の閉店のウワサとともに、同じことをもちかけた人たちも、
ほんとうのところはどうなのだろうか。
転売屋の人たちがまったくいないわけではないだろう。

すべての人がそうだ、といわない。
通い詰めた場所がなくなるのだから、何か記念として……、という人もいるはずだ。

職業に貴賎はない、という。
そうだ、とはおもう。
五味先生がラヴェルのマ・メール・ロワを聴かれたときのことを書かれている。
     *
 これを初めてS氏邸で聴くまで、ラヴェルにこういう曲があることを私は知らなかった。聴いて陶然とはじめはした。二度目に聴かされたとき、街かどに佇む夜の娼婦をまざまざ私はこの曲趣に見たのを忘れない。寒い夜で、交番所があって、其処にはフランスのしゃれた巡査がマントを着て立っており、コツコツ靴を鳴らして時々付近を巡邏する。街灯が遠く、建物の角に斜めに立っている。人気のないショー・ウインドからむなしい明るさが路上にもれ、そんな窓のかどに淋しそうな娼婦が佇んでいるのだ。街を通る人影はほとんどない。でも彼女は立ちつづける。吐く息が寒気で白い湯気のように窓の照明に映る。巡査は彼女が娼婦なのを知っているが黙って交番所にもどってくる。寝しずまった都会の夜景。娼婦も、詩人も、単に生き方がちがうにすぎない。詩人がすぐれていて娼婦は賤しいとどうして言えようか? 彼女は必死で生きようとしている。暗くて貌はわからないが、きっと美人だ。いろいろなことが彼女の過去にあったろう。めったにもう人は通らない時刻なのを彼女は知っている。それでも佇んでいる。過去を背負って立ちつづけるのが神の意志にそうことを彼女は知っている。忘れたころに、自動車のヘッドライトが遠くの街路を音もなしに走り去ってゆく……ゆっくり、彼女はハイヒールを鳴らして巡査の方にやってくる。煙草を吸いたいからマッチを貸してちょうだい、と彼女は言う。若い巡査は黙ってズボンのポケットのマッチを出すが、自分では点けてやらない。彼女は暗がりにボウと一瞬、炎の明るさへ自分の顔を泛べて、擦る。痩せてはいるが果して美貌だ。烟りが、交番所の火にゆらゆらと立ち昇る……あなたも吸わないかと彼女はすすめるが彼は無言で頭をふる。彼女は靴音を残してまた元の場所へ歩み去る──
(《逝ける王女の為のパヴァーヌ》より)
     *
《娼婦も、詩人も、単に生き方がちがうにすぎない》
こういうのを10代のころに読んでいるからなのか、
《詩人がすぐれていて娼婦は賤しい》とは思わない。

この文章を読んでいても、私と違う人もいる。
知人は、賎しい職業だ、と思う人だ。
そういうひとが、小説を書いて芥川賞が欲しい、という。

そういう人を間近でみていたから、《詩人がすぐれていて娼婦は賤しい》とは思わないわけだが、
それでも転売屋と呼ばれてる人たちは、賎しいのではないか、とすらおもう。

職業に貴賎はないのだとしたら、
商売に貴賎はあるのかもしれない。

こんなことを書いているのは、
久坂部羊氏の話に、脳死と臓器移植のことがあったからだ。