Archive for category オーディオの「美」

Date: 5月 6th, 2018
Cate: オーディオの「美」

音の悪食(その3)

二ヵ月ぶりの音出しは、昨年末にも一度あった。
2017年11月のaudio wednesdayは、音出しができず、飲み会になった。
12月は、だから二ヵ月ぶりの音出しだった。

このときも感じたのは、二ヵ月という期間は、はっきりとブランクということだった。
今回もそうだった。

それに加えて今回は、スピーカーの状態があまりいいとはいえなかった。
喫茶茶会記では、通常はキャスター付きの台車の上に置かれている。
音出しのスペースは、オーディオのためだけにあるのではなく、
演劇や、その他のライヴにも使われるスペースであるため、
スピーカーは邪魔モノとしてあつかわれることもある。

比較的きちんと元に近い状態に戻されているときもあれば、
ひどいなぁ……、と思う戻し方も場合も、意外とある。
原状復帰とは言い難く、そういうときはゼロからのセッティングというよりも、
マイナスからのセッティングに感じてしまう。

今回もそうだった。
ホーンは斜めを向いていたし、
全体的な雰囲気もひどく扱われたんだろうなぁ、と感じていた。

これは愚痴ではなく、むしろ、そういう状況であればこそ、
得られるものが、私にはあるわけだ。
それでも、やはり時間は必要となってくる。

二ヵ月のブランクと、ひどい原状復帰が重なってのスタートゆえに、
いつもよりも、その時間はより必要となってくる。

こういうことは、個人のシステムではまずないことだ。
多目的に使われているスペースでの音出しだからこそ、
毎月一回経験できることであって、面倒だなと思うことはあるにはあるが、
腕は磨かれていく。

Date: 5月 3rd, 2018
Cate: オーディオの「美」

音の悪食(その2)

昨晩のaudio wednesdayに二人組の方が来られた。
一時間ほどで帰られたから、昨晩の音にあまりいい印象をもたれたわけではない。

音量が大きすぎ、
左右が逆じゃないか、
モノーラル的、
ひどい音、といった感想をもたれたようである。

左右は逆ではないし、ステレオで鳴っている。
音量は大きい。

喫茶茶会記がジャズ喫茶だから、ということも音の大きさに関係してくるけれど、
すべてのディスクで音が大きいわけではない。

ただ最初の一時間ほどは、意図的に大きな音で鳴らすようにはしている。
audio wednesdayは、毎月第一水曜日だから、月一回だけ、
だいたい23時ごろまでやっているから、音を出している時間は四〜五時間ほど。

一ヵ月のあいだ、これだけの時間しか鳴らしていないわけだ。
もちろん、通常は喫茶茶会記のスピーカーとして音を鳴らしているわけだが、
それは店主・福地さんの音(鳴らし方)であり、私の鳴らし方ではない。

毎月第一水曜日の夕方に喫茶茶会記に着いて、
スピーカー、アンプ、CDプレーヤーをセッティングしていく。
最初の音が出るのは、たいてい18時すぎであり、
ほぼ毎回、一ヵ月という時間を感じてもいる。

福地さんの鳴らし方を否定するわけではないが、
やはり私の鳴らし方とは違う、と、最初の音を聴いて感じるわけだ。

一ヵ月ぶりだね、私の鳴らし方に慣れてくれよ、
もっと早く戻ってこいよ、という気持がある。

しかも今回は、前回(4月の会)がアンプのトラブルで音を出せなかったから、
丸二ヵ月の、私にとっての空白がある。

Date: 12月 12th, 2017
Cate: オーディオの「美」

人工知能が聴く音とは……(その5)

長島先生は「ステレオへの分離」と書かれている。

モノーラル録音されたものをステレオにするということは、
分離でいいのだろうか、と考える。

長島先生が書かれているやり方では、
調査に音楽学者、歴史学者、が各社、エンジニア、レコーディング・ディレクター、
その他大勢の有能な人びとがあたることになる。

そうとうな時間と手間が必要となる調査である。
「2016年オーディオの旅」では、
述べ数百人の人たちが二年間かけて、
フルトヴェングラーのベートーヴェンの五番の修復が行われた、とある。

そのくらいかかるものかもしれないし、もっと人も少なく、時間も短くなるかもしれないし、
その逆だって考えられる。

まだ誰もやっていないのだから、なんともいえない。
ただそう簡単にはいかないことだけは、確かだろう。

だから思う。
人工知能が行ったら……、と。

画像処理技術の進歩を見ていると、
音を音として扱うよりも、画像として扱ったらいいのでは……、
まったくの素人は思うことがある。

コンピューター(人工知能)にとっては、
元が音であろうと画像であろうと、デジタル信号であることは同じである。

ならば人工知能の深層学習、独自学習によって、
モノーラルの音源をステレオへと分離するのではなく、
モノーラル音源を元に、新たにステレオ音源を創成することができるのではないのか。

Date: 12月 12th, 2017
Cate: オーディオの「美」

人工知能が聴く音とは……(その4)

ステレオサウンド 50号(1979年春)、
長島先生の「2016年オーディオの旅」の中に、
フルトヴェングラーのベートーヴェンの第五が、ステレオで再生される話が出てくる。

フルトヴェングラーの録音は、いまのところすべてモノーラルばかりである。
ステレオ録音だ、といわれていたスカラ座とのワーグナーも、
結局はモノーラルだった。
他にもウェーバーの「魔弾の射手」はステレオといわれていたが、
CDを聴くかぎり、そうといえない。

フルトヴェングラーのステレオ録音は残されているのかもしれないし、
まったく存在しないのかもしれない。

ただ市販されているディスクは、疑似ステレオをのぞけば、すべてモノーラルである。
そのフルトヴェングラーの録音が、ステレオだけでなく、最新録音のように聴こえてくる。

「2016年オーディオの旅」は創作だ。
ここに登場する主人公に、フルトヴェングラーのステレオを聴かせてKが説明する。

どのような状況で録音が行なわれたかの調査、
使用された楽器、楽器の配置、ホールの構造、材質などが綿密に調べられ、
録音器材に関しても同じことが行われる。

その調査結果を元にして、録音された信号の変化を割り出す。
そして残されているマスター(モノーラル)から、ステレオの分離が行われる──、
というものだった。

ほんとうにそんな時代が来てほしい、と、読んだ人なら、
クラシック好きの人ならみなそう思ったはずだ。

フルトヴェングラーのベートーヴェンやワーグナー、ブラームスなどが、
ステレオで聴けたなら……。

フルトヴェングラーだけではない、他にも聴きたい演奏家は大勢いる。

現実には2016年は過ぎ去っている。
そんな技術は、いまのところない。

けれど最近の人工知能(AI)による画像処理技術のニュースを見ていると、
もしかして……、と思うことがある。

Date: 6月 14th, 2017
Cate: オーディオの「美」

人工知能が聴く音とは……(その3)

別項「会って話すと云うこと(その3)」で、
アナログプレーヤーの調整に六時間かけた人に対する印象の違いについて書いた。

この話をしてくれた人は、
調整に六時間もかけて、すごい人だ、オーディオのプロだなぁ、と感心した、ということだった。

私は反対だった。
熱心なオーディオのアマチュアの方だな、と感じていた。

はっきりと記憶していないが、
六時間の調整は、フローティング型プレーヤーのサスペンションの調整だったはず。

四年ほど前に書いたことも、ここでもう一度取り上げているのは、
この項の(その2)で、リンクしている羽生善治氏のインタヴュー記事を読んだからである。

ある意味、サスペンションの調整に六時間かけるということは、
人工知能的といえるような気がした。

コンピューターの処理能力の驚異的な向上により、
わずかな時間でも膨大なシミュレーションが可能になっている。
考えられるかぎりのシミュレーションを行うことは、人間の脳では無理なことであり、
だからこそ、羽生善治氏が述べられているように、
《人間の思考の一番の特長は、読みの省略》があるわけだ。

フローティング型プレーヤーのサスペンションの調整と、
将棋における読みを完全に同一視できないのはわかったうえで、
それでも読みの省略なしに、ただただ順列組合せ的にすべてを試してみるということは、
プロフェッショナルとアマチュアとの根本的な違いそのもの、とも思える。

羽生善治氏のインタヴュー記事を読んでから考えているのは、
省略の美、ということだ。

Date: 4月 4th, 2017
Cate: オーディオの「美」

人工知能が聴く音とは……(その2)

iPhoneにインストールしているGoogleアプリが、
「3月のライオンに興味のある方に」とカードを提示する。

すべてをクリックするわけではないが、いくつかはクリックする。
クリックした先で、また別のリンク先をクリックする。

そうやって今日、興味深い記事を見つけた。
二年前の記事だ。
タイトルは『羽生善治「コンピュータ将棋により人間が培った美意識変わる」』。
ぜひ読んでほしい。

オーディオのことはもちろん出てこないが、
オーディオの将来と聴き手の美意識について示唆的であり、考えさせられる。

後半のところだけ引用しておく。
     *
──より将棋を深められると。いいことばかりですか。
 
「いや、どうしても相容れられない部分もあると思います。人間の思考の一番の特長は、読みの省略です。無駄と思われる膨大な手を感覚的に捨てることで、短時間に最善手を見出していく。その中で死角や盲点が生まれるのは、人間が培ってきた美的センスに合わないからですが、コンピュータ的思考を取り入れていくと、その美意識が崩れていくことになる。それが本当にいいことなのかどうか。全く間違った方向に導かれてしまう危険性も孕んでいます」
 
──長い年月をかけて醸成されてきた日本人の美意識が問われている。
 
「変わっていくと思います。今まではこの形が綺麗だとか歪だと思われていた感覚が、変わっていく……」
     *
同じことはオーディオにもいえよう。

それから《人間の思考の一番の特長は、読みの省略》、
これはそのままオーディオのチューニングにおいてもそうである。

Date: 4月 2nd, 2017
Cate: オーディオの「美」

音の悪食(その1)

音の美食家だ、と自身のことをおもっている人は、けっこういそうである。
けれど、音の悪食だ、とおもっている人は、どのくらいいるのだろうか。

かくいう私も、音の美食家とはおもっていないが、
だからといって音の悪食ともおもっていなかった。

けれど、いまごろになって、どうだったのだろうか、とふり返っている。
音の悪食といえる聴き方をしてきだろうか、とおもっている。

Date: 8月 25th, 2016
Cate: オーディオの「美」

美事であること(50年・その2)

見事ではなく美事とすれば、
ステレオサウンドが50年を迎えることは、
オーディオ雑誌として季刊誌としては、見事とはいえようが、
いまの(というかここしばらくの)ステレオサウンドは美事といえるだろうか。

私は美事であってほしいと願っている。
願っているのだから、美事ではないと思っているわけだ。

これを書いている私も、あと10年すれば、
オーディオマニアとして50年を迎えることになる。

Date: 7月 3rd, 2015
Cate: オーディオの「美」

美事であること(50年・その1)

50年を半世紀ともいう。
私も半世紀ちょっと生きている。

ステレオサウンドも来年秋、50年(半世紀)を迎える。
このことはステレオサウンドが創刊されたころ、
すでに世の中に登場していたオーディオ機器も半世紀を迎えるということでもある。

例えばマランツのコントロールアンプ、Model 7も登場して50年以上経っている。
いまもModel 7で聴いている人は少なからずいる。

いまもコンディションのいいModel 7は高値で取り引きされている。
高値で取り引きされているからコンディションがいいわけでは決してないのだが、
そういうコンディションのModel 7も高値がついていたりする。

50年(半世紀)経っているわけだから、
新品を購入し、どれだけ大事に使ってきたとしても、メンテナンスは必要である。
どんなメンテナンスを施されてきたのかでも、コンディションは変ってくる。

いま現在、どれだけきちんとしたコンディションのModel 7があるのか、
はっきりとしたことはわからないけれど、
そういう状態にあるModel 7が、その語、登場した数多くのコントロールアンプよりも、
優れているところを持っているからこそ、いまも愛用する人がいるわけだ。

つまりModel 7は50年生き残っている。
Model 7だけではない、他にも50年生き残っているオーディオ機器がある。

Date: 6月 30th, 2015
Cate: オーディオの「美」

美事であること

素晴らしい、という。
素晴らしい音、素晴らしいスピーカー、そんな使い方をする。

これまで素晴らしいに関して、何の疑問も感じていなかった。
けれど別項の「素朴な音、素朴な組合せ」を書き始めて、
素朴、素晴らしいに共通する「素」の原意を辞書でひくと、
素晴らしいがなぜ、素晴らしいと書くのかがわからなくなってくる。

素晴らしいの意味は、どう書いてあるのか。
大辞林には、こう欠いてある。

(1)思わず感嘆するようなさまを表す。
 (ア)(客観的評価として)この上なくすぐれている。際立って立派だ。「—・い眺望」「—・いアイデア」
 (イ)(主観的評価として)きわめて好ましい。心が満たされる。「—・い日曜日」「—・いニュース」
(2)程度がはなはだしいさまをいう。
 (ア)現代語では,多く好ましい状態について用いられる。驚くほどだ。「—・く広い庭園」「—・く青い空」
 (イ)近世江戸語では,多く望ましくないさまをいうのに用いられる。ひどい。「此女故にやあ—・い苦労して/歌舞伎・与話情」

意外だったのは、近世江戸語では、多く望ましくないさまをいうのに用いられる、とあることだ。
それがいつしか誤解され、現在のような好ましい意味で使われるようになったらしい。

とはいえ、素晴らしいと使うのをやめるべきとは思わないけれど、
以前以上に、素晴らしいと使うことに抵抗を感じるようにはなっている。

となると、素晴らしいではなく、なんと表現するのか。
美事(みごと)を使おう。

みごとは見事と書く。
大辞林で「みごと」をひくと、見事・美事の両方が載っているが、
美事は当て字である、と書いてある。

この当て字がいつから使われるようになったのかは知らない。
けれど、オーディオこそ「美」であると考えれば、
私は、いまのところ素晴らしいよりも美事のほうが、オーディオがどういうものかを深く表していると思っている。

Date: 5月 24th, 2015
Cate: オーディオの「美」

美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない、を考える(その1)

美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない。

別項「正しい音とはなにか?」の(その8)でもとりあげた。
小林秀雄の有名すぎる一節であり、これまでにいろいろな解釈がなされている。

私はオーディオマニアだから、まず「花」を「音」に置き換えて考えてみる。
それでもわかったようなわからないような……。

だが「花」を別のものに置き換えてみたら、どうだろうか。
「月」である。

美しい「月」がある、「月」の美しさといふ様なものはない。
こうなるわけだが、月そのものは、ほんとうに美しいのか、と思う。

夜空に浮ぶ月は、美しいな、と思うことはある。
けれどわれわれは実際の月を写真で見て知っている。
月の表面がどうなっているのかを知っている。

私は月そのものを美しいとは思えない。
けれど遠く離れたここ(地球)にいて、夜空の月を眺めれば美しい、と思う。

となると、美しい「月」がある、「月」の美しさといふ様なものはない、といえるのか。

Date: 3月 22nd, 2015
Cate: オーディオの「美」

人工知能が聴く音とは……(その1)

自動運転の車が現実のモノとなるのは、漠然とずっと遠い未来のことだと思ってきた。
自動運転の車は、映画、マンガ、小説などの世界にはずっと以前から登場していた。
いつかは登場してくるであろうけれど、ずっとずっと遠い未来のことであり、
生きているうちには登場しっこない、と思い込んでいた。

現実は、ある時点から加速していく。
自動運転の車は、すぐそこの未来のモノになっている。

自動運転を可能とするのは人工知能の進化である。
どこまで進化するのはわからないけれど、
自動運転ができるのであれば、人工知能が音を聴いて判断して調整することも、
そろそろ登場してもよさそうに思えてくる。

すでに、その兆しを感じさせるモノはいくつか登場してきている。
ここ数年で加速していくような予感すらある。

人工知能が近い将来そうなっとして、
私が期待したいのは人間とまったく同じ音の聴き方ではなく、
人工知能ゆえの音の聴き方である。

人間と違う聴き方を人工知能ができるようになれば、
それを人間である聴き手に提示してくれることも可能になる。

人工知能が、いままで気づかなかった音の聴き方を示唆してくれる可能性が考えられる。
私は人間とまったく同じ聴き方をする人工知能よりも、
違う聴き方をする人工知能に期待している。

Date: 1月 21st, 2015
Cate: オーディオの「美」

オーディオの「美」(美の淵)

絶望の淵とか死の淵などという。
絶望の淵に追いやられる、死の淵に立たされる、ともいう。

幸いなことに、私はまだ死の淵、絶望の淵に立たされたり追いつめられてはいない。

オーディオは美の淵なのだろうか、とふと思った。

よくオーディオは泥沼だ、といわれる。
いまもそうなのかはよく知らないが、昔はよくいわれていたし書かれてもいた。
その泥沼に喜んで身を沈めていくのがオーディオマニアである、とも。

この項へのコメントを、川崎先生からfacebookにいただいた。
「オーディオの美ではなく、オーディオはすでに美であるべき!」とあった。

オーディオは美であるべきなのに、それを泥沼とも表現する。
泥沼は泥沼である。もがけばもがくなど深みにはまっていく。そして抜け出せなくなる。

けれど、この泥沼はオーディオマニアと自認する人、まわりからそう呼ばれる人にとっては、
案外と居心地のよいところもあるのかもしれない。

でも、それでも泥沼は泥沼である……。

こんなことを考えていた。
そして、この泥沼の淵は美の淵なのだろうか、とも考えた。

いまのところは、美の淵という言葉を思いついただけである。
この美の淵に、オーディオは聴き手を導いてくれるのか。

なにもはっきりとしたことは、まだ書けずにいる。
それでも、美の淵について考えていこう、と思っている。

Date: 1月 17th, 2015
Cate: オーディオの「美」

オーディオの「美」(コメントへの返信・その4)

上野晃一様のコメントは、16日にもあった。
そこに、オーディオ評論の「美」とある。

いますぐというわけではないが、オーディオ評論の「美」もテーマになる。
何か書いていける予感がした。

オーディオ評論の「美」は、オーディオの「美」のひとつでもあるかもしれない。

Date: 1月 17th, 2015
Cate: オーディオの「美」

オーディオの「美」(コメントへの返信・その3)

オーディオ評論家とオーディオ雑誌の編集者。
一般的にはオーディオ評論家の方が編集者よりもオーディオのプロフェッショナルであるように思われている。
当事者たちもそう思っているのかもしれない。

けれど本来はどちらがオーディオのプロフェッショナルとして上ということではなくて、
同等にオーディオ・エンジニアリングに長けていて、
その上でオーディオ評論家とオーディオ雑誌の編集者とでは役割が違うだけのはずだ。

だが実際には……。
この人(たち)は、オーディオのプロフェッショナルなのだろうか、
オーディオ・エンジニアリングに長けているのだろうか。

私はオーディオ評論家、オーディオ雑誌の編集者はオーディオ業界の中心にいると考える。
オーディオ評論家とオーディオ雑誌の編集者がオーディオ業界の主人公というわけではなく、
あくまでも業界の中心にいると見ている。

だから、くり返すが、彼らはオーディオ・エンジニアリングに長けていなければならない。
オーディオのプロフェッショナルとして、である。
つまり圧倒的であってほしいのだ。

圧倒的といえるほど長けている人たちがオーディオ業界の中心にいれば、
彼らに接しているオーディオ業界の人たちも感化・触発・挑発されていくのではないのか。

私がグールドの演奏が残酷だという話をした知人も、オーディオ業界にいた人だった。
彼はいまも自身のことをオーディオのプロフェッショナルと自認・自称している。

私は自称であれ他称であれ、オーディオのプロフェッショナルを名乗っている人に対しては、
はっきりというようにしている。
オーディオマニアの中には、キャリアの短い人やシステムの総額がそれほどでない人を、
オーディオの素人という人もいる。

誰かをオーディオの素人というのであれば、
その人はオーディオの玄人(プロフェッショナル)といっているのと同じである。

認めるところは認める。
けれど、あまりにもいいかげんなことを言っている人(オーディオのプロフェッショナルであるべき人)には、
「あまりにたやすく他者の異論を一蹴する」と思われてしまうことでも書いていく。

オーディオ業界がよくなれば、オーディオの世界はより広くより深く楽しく素晴らしくなっていくはずだ。
なのに、いまのオーディオ業界にははっきりと欠けている「もの」がある。