オーディオの「美」(コメントへの返信・その1)
この項の(その4)へ、上野晃一様のコメントがあった。
グールドの演奏が残酷であると感じたことを、ある人に話した、と書いた。
ここのところは、ある人を否定することにもつながるから、それ以上のことは書かなかった。
言葉足らずなのかはわかっていた。
言葉たらずなのだから、上野様のコメントにあるように、
そういう受けとめ方をされるかも、と思っていたけれど、それはそれでいいかな、と思い、
あえて言葉足らずのままにしておいた。
知人の「あたりまえじゃないですか」の後には、
「彼はプロなんですよ」という言葉が続いていた。
その人とのつきあいは長かった。
彼と話すことといえば、オーディオと音楽の話ばかりだったといってもいい。
それでも、彼に私がいいたかったことは伝わらなかった。
ここで知人との会話の逐一を書いたりはしない。
コメントには、
《グールドのピアノが残酷なのは「あたりまえ」です。
他者に冠絶するがゆえに、彼の人の演奏はかくも美しいのだから。》とある。
知人の「あたりまえ」とコメントにある「あたりまえ」は同じ意味で使われているとは、私には思えない。
知人と私の関係をほかの人は知らないのだから、
それに言葉たらずなのだから、そういうふうに受けとめられてもしかたない。
それでも、「あまりにたやすく他者の異論を一蹴」したのではない。
こんなことをここに書くことではないのだが、
「あまりにたやすく他者の異論を一蹴する」のは知人の方だとつねづね感じていた。
一蹴するのは、別にかまわない。
人の話を禄にきかずに知人はたやすく一蹴する。
そういうことがあって、昨日のブログであった。
コメントには「才能の隔絶による絶望を味わったことが、果たしておありでしょうか?」とある。
オーディオに関する限りはない、と答える。
なんという自惚れといわれても、オーディオに関しては「才能の隔絶による絶望」はまだ味わっていない。
これから先、味わうことになるかもしれない。先のことはわからない。
だからといって才能の差、違いを感じていないわけではない。
私よりも専門知識を持っている人はいる。けっこうな数の人がいる。
たとえばメーカーのエンジニア。
スピーカーのエンジニア、アンプのエンジニア、
そういった人たちのスピーカーに関する専門知識、アンプについての専門知識は私の敵うところではない。
けれど、オーディオの難しいのは、
スピーカーの専門知識をもった人がオーディオの専門家といえるかどうか、
アンプの専門知識をもった人がオーディオの専門家といえるかどうか。
スピーカー・エンジニアリング、アンプ・エンジニアリングが、
オーディオ・エンジニアリングと常に直結しているとはいえない。
だからこそオーディオ評論家の存在が求められるのだと考えてもいる。
そしてオーディオ評論家の活躍の場となるオーディオ雑誌の編集者も、
オーディオ・エンジニアリングに長けていなければならない、とも考えている。
REPLY))
謝罪と感謝をこめて
私の多分に稚拙かつ極めて非礼な一文に対し、かくも丁寧なご返答をいただきありがとうございます。
「知人」の方の「あたりまえ」がそのように軽々しい一言であったとは、知らぬとはいえ大変失礼なことを申しました。
深く深く陳謝するとともに、「あまりにたやすく他者の異論を一蹴する」と書いた一文は撤回させていただきます。
まことに申し訳ありませんでした。
本日は上記の件とは別に、お礼を申し上げたくコメントさせていただきます。
“オーディオの「美」(コメントへの返信・その1)”における、「オーディオの才能」についての記述は非常に素晴らしいと感じました。
オーディオには(釈迦に説法ですが)「作り手」と「使い手」が存在します。
「音源制作」「オーディオ機器製作」そしてそれぞれの販売者。
それらに対する「受け手」としてのオーディオマニアや音楽愛好家など。
「スピーカーの専門知識をもった人がオーディオの専門家といえるかどうか、
アンプの専門知識をもった人がオーディオの専門家といえるかどうか。」
以降の文章はある意味使い古されたフレーズかもしれません。
しかし、その前に書かれた「才能」という言葉についての文章の存在が、
「オーディオの才能」とはいかなるものか?
という疑問を私の中にもたらしてくれました。
「作り手」「売り手」として「プロ」には「プロ」としての才能が、まぎれもなく存在するでしょう。
では「受け手」「使い手」として「アマチュア」の「才能」とは果たしてどのようなものだろうかと。
例えば既に貴方様が繰り返し述べられておいでのように、五味 康祐先生の遺された文章などは、先生なりの答えを提示されているようにも思えます。
しかし、おそらく答えは一つだけではないようにも感じます。
むしろ各々がめいめいに探し続けるものなのかもしれません。
「プロ」にとってのオーディオの「美」、アマチュアにとってのオーディオの「美」、
どのような共通点、どのような差異が存在するのでしょうか?
ゆえに「だからこそオーディオ評論家の存在が求められるのだと考えてもいる。」
以降の文章は真に素晴らしいと感じています。
「プロ」と「アマチュア」の狭間にあるもの、そこに求められる「才能」はいかなるものであるのか?
「オーディオ評論」に「美」はあるのか?
まことに興味が尽きません。
後半の部分は、本来ならば“オーディオの「美」(コメントへの返信・その2)”にて述べさせていただくべきものですが、上手く分けて書くことができませんでした。
貴方様にはご迷惑かもしれませんが「audio identity (designing)」、今後とも楽しみに拝読させていただきたく存じます。
長々とお目汚し致しましたこと、改めて陳謝いたします。
2015.1.16 宮﨑勝己様、audio identityに拝して捧ぐ