オーディオの「美」(その4)
もう30年ちかく前のことだ、20代半ばだったころ、グレン・グールドのピアノを聴いていて、
なんて残酷なんだろう……と感じた。
グールドの演奏を聴いていると、ピアノを弾ける、ということは、なんと素晴らしいことだと思える。
人生を最初からもう一度やり直せるのであれば、ピアノを弾けるようになりたい、とも思わせる。
けれど次の瞬間、なんと残酷なんだろう……、となっていた。
たとえピアノが弾けるようになるのに理想的な環境が与えられて、もう一度やり直したところで、
グレン・グールドのようには到底なれない。
一度だけではなく、二度三度やり直せたとしても、絶対に無理だ……。
圧倒的に隔絶したものを、グールドのピアノの音は感じさせていた。
だから、なんて残酷なんだろう……、と感じたのだろう。
この話を、ある人にしたことがある。
彼は「そんなのあたりまえじゃないですか」といった。
説明したけれど、彼の反応は同じだった。
それは彼の音楽の聴き方がそうなのであり、
同じようにグールドの演奏が素晴らしいとふたりともいっていても、違うだけのことだ。
そのときに、この人とは、「美」について真剣に語り合うことはないだろう、と予感した。
この予感は的中した。
REPLY))
宮﨑様の文章、折りに触れて拝読しております。
その都度、心に引っかかっていたことがようやく腑に落ちましたのでお便りします。
貴方様は、才能の隔絶による絶望を味わったことが、果たしておありでしょうか?
絶望しながら、悔し涙にくれながら、歯を軋らせながら、それでもその人から目を逸らすことができなかったことが、果たしておありでしょうか?
グールドのピアノが残酷なのは「あたりまえ」です。
他者に冠絶するがゆえに、彼の人の演奏はかくも美しいのだから。
一度なりでも人類が可能とする頂点を夢見て、そしてそれが果たせなかった者にとって、
それを体現する者への憧れと賛美、妬みと憎悪がどれほどのものか、
貴方様は果たしてご存じだろうか?
その後も同じ道を歩み続けねばならない者の心情を、果たしてご存じだろうか?
貴方様は、隔絶の境地にある方々の間近にありながら、ただ傍観者に徹していただけに思えます。
過去の偉大な方々の、その遺骸を啄んで悦に入っているだけの卑小な俗人のようにすら思えます。
その貴方様が「現在描かれている餅の絵」を批判するのは、正直滑稽です。
貴方様がここで書き綴った文章は、常に大変興味深く、時々に賛否を抱きつつ今後とも愛読させていただく所存です。
貴方様のオーディオの対する想い、音楽に対する想いを否定するつもりはございません。
ただ、あまりにたやすく他者の異論を一蹴するこの日の一論に、私なりに一石を投じたく思い本日筆を執りました。
途中、非礼な表現も用いましたが、それもまた我が偽らざる本心です。
ご心情を害されたならば、深く陳謝いたします。
最後に、このようなことを書いておいて何事かとお叱りを受けるかもしれませんが、どうぞご壮健に執筆活動を続けてくださいますようお願い申し上げます。
2015.1.15 宮﨑勝己様、audio identityに拝して捧ぐ