Archive for category オーディオ評論

Date: 11月 18th, 2011
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役目」、そして「役割」(批評と評論・その3)

オーディオにおける批評と評論と、いったいどう違うのか、とときどき親しい人と話していて話題になるものの、
なかなか、はっきりとしたことは出てこない。
なんとなくではあっても、批評と評論の違いを感じてはいても、
いざ言葉にして、その違いを述べるとなると、けっこうたいへんな作業である。

批評と評論の境界線といったものは、はっりきとあるのかどうか。
そんなことも考えてしまう。

いまはっきりといえるのは、すくなくとも評論は、それ自体がリファレンスである、ということだ。
参考・参照、それにひとつの基準として存在できるのが評論であって、
そうでないものは批評にとどまっている、ということ。

そして評論家とは、評論をする人のことである。
つまりは、そういうことである。

Date: 11月 18th, 2011
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役目」、そして「役割」(批評と評論・その2)

どんなにいい音がするオーディオ機器でも、
日によって、音がころころ変るモノならば、試聴室という状況・条件ではリファレンス機器としては使えない。

試聴室は、個人のリスニングルームとは違い、ほぼ毎日、そこで音が鳴っているわけではない。
試聴がないときには使われていない。
ときには実験で使うときもあるが、編集作業が〆切間際では試聴室は使われることはない。

そして試聴が始まると、朝から始まることもあるし、長引けば夜中までということもある。
鳴らしているとき、そうでないときの差はどうしても大きくなる。

そういう使われ方であっても、
しばらく鳴らしていれば、安定した性能・音を発揮してくれるオーディオ機器でなければ、
リファレンス機器として使いにくい、ということになる。

それに丈夫である、ということもけっこう重要な要素でもある。
名の通ったメーカーのアンプならば問題はないけれど、
試聴室に持ち込まれるアンプの全てが、なんら問題がないわけではない。
とくに私がいたころのステレオサウンドは外苑東通りに面したビルにあった。
窓から顔を出せば東京タワーがくっきりと見える。

井上先生がステレオサウンドの誌面でたびたび書かれているように、
オーディオ機器をとりまく環境としてはよくないどころか、かなり厳しいものといえる。
電源もきれいで高周波ノイズもないところでは問題を発生しないアンプでも、
このころのステレオサウンド試聴室では問題を発生するモノ、
もしくは発生寸前の、やや怪しい状態に陥るモノがないとはいえなかった。

そういうアンプが接がれても、壊れないことはリファレンス用スピーカーとして意外と重要なことである。

それからパワーアンプならば、どんなに音がよくても、
たとえばマークレビンソンのML2のように出力が25Wしかないモノは、リファレンスとしては使いにくい。
試聴するスピーカーシステムの能率が、すべて93dB(この数字は4343のスペック)以上あれば、
25Wでもなんとか使えるけれど、
それ以下の出力音圧レベルのスピーカーシステムとなると、25Wではあきらかに不足する。

それにCDが登場してきて、さらにパワーは求められるようになってきたから、
リファレンス用パワーアンプには、ある一定以上の出力が要求されるし、
ある程度の低負荷でも安定していることが必要となる。
それにバランス伝送が当り前となってきたため、アンバランス入力、バランス入力の両方を備えていること。

スピーカーシステムについてもパワーアンプについても、
リファレンス機器に要求されることとはどういうことなのか、まだまだある。
それにコントロールアンプ、CDプレーヤー、アナログプレーヤーについてもふれておきたいが、
ここではこれが本題ではないのでこのへんにしておくが、
結局なにがいいたいのか──、
それは批評と評論の違いについて、である。

Date: 11月 18th, 2011
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(批評と評論・その1)

ステレオサウンドの試聴室には、リファレンス機器と呼ばれるモノがつねに置いてある。
私がいたときはそうだったし、おそらくいまもそのはずだ。

私がいたころ、1980年代のステレオサウンドのリファレンス機器は、
スピーカーシステムはJBLの4343、そして4344だった。
アナログプレーヤーはパイオニアのExclusive P3aで、
そのあとマイクロのSX8000IIとSMEの3012-R Proの組合せだった。
カートリッジはオルトフォンのMC20MKIIだったころもあるし、SPU-Goldを使っていたときもある。
また試聴さる方によってもカートリッジは随時変っていた。

アンプはマッキントッシュのC29とMC2255の組合せから、アキュフェーズの組合せへ変っていった。
私がステレオサウンドに入る前は、マークレビンソンのLNP2がリファレンスだった。

一度、読者の方からの電話があった。
「誌面ではかなり高価な製品を高く評価しているのに、なぜそれらの製品をリファレンス機器として使わないのか」
こういった内容の問合せだった。

1980年にトーレンスのリファレンスが登場して以来、
そのメーカーの旗艦モデルの型番に、Reference とつける例がいくつかあった。
そういう製品のイメージからすれば、リファレンスというものは、その時点で最高のモノという捉え方もしたくなる。

けれどreferenceの意味は、参考・参照。
そこには最高、最優秀という意味はない。

試聴における、ひとつの基準としての存在がリファレンス機器である。
もちろん、ひどい音であっては困るし、できるだけいい音であってほしい。
それに性能的にも優れていなければならないけれど、その時点での最高の性能でなければならない、
ということはリファレンス機器にはそれほど求められていない。

それよりもあるレベルの性能(音をふくめて)の高さを、
つねに安定してい維持できるか、ということが優先される。

Date: 3月 20th, 2011
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(続・朝沼予史宏氏のこと)

朝沼さんに感じていた役割と、
ステレオサウンド創刊当時からのオーディオ評論家の方々に感じていた役割とには、
私個人としては、微妙な差がある、と思っている。

誤解を招く書き方になるが、朝沼さんの役割には、ある種の演じている、と感じるところがあるからだ。
もちろん、瀬川先生ほか、オーディオ評論家の方たちにも、そういう演じている役割はあったと思う。
それでも、表立つことはそうはなかった。

その点において、朝沼さんは違う。
なぜ違うのか。
世代の違いがある。

役割を果してこられた方たちと朝沼さんとは、ひとまわり以上違う。
朝沼さんは、若手と呼ばれるグループにいた。
そのグループ内には、共通認識としての役目・役割がなかったのではなかろうか。
上の世代には、それがあった。
朝沼さんの世代には、それがなかった。
これが朝沼さんが、役割を演じていると感じることに関係している、と思う。

まず共通認識としての役目があり、そしてそれぞれの役割があるのだから。

話はそれるが、いまでも朝沼さんのことに関して菅野先生を誤解している人がいるのを、見聞きする。
菅野先生ご本人が語られていないことを私が語るわけにもいかないが、
なにひとつ事情を知らない人の誤解であることは、はっきりと書いておく。

2002年12月8日の未明に、朝沼さんは亡くなられている。
その日の午前中、私は菅野先生のお宅をうかがっていた。
そのときの菅野先生の表情を私はみている。
そして、菅野先生から、直接聞いていることがある。

だから言える、菅野先生は朝沼さんに期待されていた。
それゆえのことだった、と。

いつか詳しく書く日が来ると思うが、いまはこれ以上は書かない。

Date: 3月 20th, 2011
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(朝沼予史宏氏のこと)

オーディオ雑誌(ジャーナリズム)に「役目」、それぞれのオーディオ雑誌に「役割」が本来あるべきなのと同じに、
そこに書く人たちにも、当然「役目」、「役割」がある。

ステレオサウンドが幸運だったのは、五味先生を筆頭に、
岡俊雄、井上卓也、岩崎千明、上杉佳郎、菅野沖彦、瀬川冬樹、長島達夫、山中敬三の各氏みな、
「役目」に対する共通認識が、なんらかの形であったこと。
そしてそれぞれの方たちが、それぞれの「役割」を果してこられていたこと。

だから、ステレオサウンドをおこした原田勲氏には、編集者は黒子、という考えがあるのだ、とも思う。
「編集者は黒子」という発言は直接聞いているし、
いつの号だったかは失念してしまったが、菅野先生と原田勲氏との対談の中でも、やはり語られている。

編集者は黒子であるべきなのか、黒子でいいのか、については、
当時は黒子の方が、いい結果を生んだように思う。
なまじ編集者が表に出しゃばったりするよりも、
役目と役割を共通に新規としてもっておられる方たちにまかせたほうがうまくいくように思うし、
事実、うまくいっていた。
もちろん、そこに編集者の役割がなかった、というわけではないし、
編集者は黒子としての役割を果してきたとは思う。

だが、岩崎先生が1977年に、五味先生が1980年に、瀬川先生が1981年に亡くなり、
菅野先生も不在のいま、編集者が黒子でよかった時期は、とうに過ぎ去っている。

いまステレオサウンドに書いている筆者(菅野先生が不在のいま、オーディオ評論家という言葉は使わない)で、
「役目」「役割」をはっきりと認識して、果してきている人がいる、とは思えない。

上にあげた方たちのあとに、「役割」を意識していた人は、朝沼予史宏氏だと思う。

Date: 3月 18th, 2011
Cate: オーディオ評論, 井上卓也

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(続・井上卓也氏のこと)

井上先生が「ステレオサウンドの一人勝ち」をよくないことと考えられていたのは、
いまにして思うと、オーディオ雑誌(オーディオ・ジャーナリズム)の「役目」と「役割」について、
言葉にしては出されなかったものの、井上先生の中にはなんらかの想いがあったのかもしれない。

いまオーディオ雑誌(オーディオ・ジャーナリズム)は、「役目」についてはっきりと認識しているのだろうか。
これは、ステレオサウンドが、とか、オーディオベーシックが、とか、その他のオーディオ雑誌を含めて、
ぞれぞれが個別に考えてゆくものでもあるし、全体としての共通認識としてもっていなければならないもの。
そのうえで、それぞれの「役割」を考えていくもの。

オーディオ雑誌の「役目」を共通認識としてもち、
それぞれのオーディオ雑誌が、それぞれの「役割」をになっていく。

井上先生は、こういうことを言われたかったのかもしれない。

Date: 3月 13th, 2011
Cate: オーディオ評論, 岩崎千明

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(岩崎千明氏のこと)

岩崎先生は、ジャズを聴かれていた。
そのことは文章を読めば伝わってくる。

それはなにも、岩崎先生の文章のなかに、ジャズに関係する固有名詞が登場するからではなくて、
文章そのものが、ジャズでもあったと感じていた。

この点が、クラシックもジャズも聴かれる菅野先生との違いのひとつでもあったと思うし、
だからこそ、ジャズの熱心な聴き手ではない私なのに、岩崎先生の文章を読み終えると、
ジャズが無性に聴きたくなっている。
それは岩崎先生の文章には、ジャズをオーディオで聴く面白さと楽しさがあるからだ。

ステレオサウンドを、オーディオ評論を築き上げてきた人たちは、
岩崎先生を除けばクラシックを主に聴かれる方ばかりだった。
クラシックでもなくジャズでもなく、ロック、ポップスをメインに聴く人は次の世代になってあらわれてきた。

いまのステレオサウンドに執筆している人たちは、
クラシック以外の音楽をメインに聴く人の方が多いようにみえる。
音楽の多様性からみれば当然のことだろう。

だが、岩崎先生のような人がひとりでもいるだろうか、と思う。

つまり文章そのものがジャズであったように、
ロックそのものが伝わってくる文章を書いている人は、いるだろうか(少なくとも私にとっては、いない)。

その文章からロック、ポップスに関する固有名詞を取り去ったあとでも、
ロックを感じさせてくれる文章を書けるオーディオ評論家の登場は、期待できるのだろうか。

それとも、単に私のロックに対するイメージが古すぎるだけなのだろうか。

Date: 3月 12th, 2011
Cate: オーディオ評論, 井上卓也

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(井上卓也氏のこと)

2000年12月10日に、井上先生が亡くなられた。
その数ヵ月前に電話で話す機会があった。

私が audio sharing をやっていることはご存知で、「いいことやっているじゃないか」と言ってくださった。

井上先生は、ステレオサウンドだけを執筆の場とされていたわけではない。
サウンドレコパル、それにリッスン・ビュー(のちのサウンドステージ)にもよく書かれていた。

「ステレオサウンドが一人勝ちすると、オーディオ界にとってはよくないことだ」
そういう主旨のことを話されていた。
それぞれのオーディオ雑誌がそれぞれの役割をもって成り立つことが、
オーディオ界のためになることだから、依頼があれば応じる、という姿勢を一貫してとおしてこられた。

だからなのか、電話を切るときに「がんばれよ」とも言ってくださった。
私が聞いた井上先生の最後の言葉だ。

Date: 3月 8th, 2011
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(その24)

瀬川先生だけがデザインの勉強をされ、デザインを仕事にされていた時期がある。
私は、このことも「瀬川冬樹からオーディオ評論が始まった」に大きく関係している、と思っている。

デザイナーとしての「かたち」の追求、「形」への問いかけ──と考えると、
やはりどうしても川崎先生の「いのち・きもち・かたち」が浮んでくる。

長島先生の書かれたものにあるように、瀬川先生の書かれるものが、
「単なる解説や単なる印象記」から離れることができたのは、
「かたち」という意識が瀬川先生の中にあったのではないだろうか。

あるスピーカーシステムを聴く。
その音について微にいり細にいり書いたところで、うまく伝わることはほとんどない。
そこに聴いた人の気持がはいっていなければ、抽象的な音を言い表すことはおよそ無理である。

だが「気持」さえあれば、それが読者に伝われば、それでオーディオ評論が成立するとは、私は思っていない。

それを評論と呼ぶ人も大勢いるだろうが、それは「瀬川冬樹から始まった」オーディオ評論ではない。
それをオーディオ評論と公言する書き手にも、それをオーディオ評論として受けとる読み手にも、
甘え・怠惰がある。

「きもち」を「かたち」にしていってこそオーディオ評論であり、
瀬川先生が苦心されていたのは、「かたち」にすることだったはずだ。

Date: 3月 7th, 2011
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(その23)

この項の(その9)で引用した長島先生の文章をもういちど載せよう。
     *
オーディオ評論という仕事は、彼が始めたといっても過言ではない。
彼は、それまでおこなわれていた単なる装置の解説や単なる印象記から離れ、
オーディオを、「音楽」を再生する手段として捉え、
文化として捉えることによってオーディオ評論を成立させていったのである。
     *
このことが、この項の最初にほうに書いた「オーディオの知識」の「有機的な体系化」が、
瀬川先生のなかでなされていたことをあらわしている、と私は受けとめている。

Date: 3月 6th, 2011
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(その22)

瀬川冬樹からオーディオ評論は始まった、と書いた。

この項を書いていくごとに、そして瀬川先生の「本」づくりにとりかかっていると、
そのことを以前以上につよく感じる。

けれど瀬川冬樹ひとり、だけでは、もちろんない。
才能のぶつかり合いのできる相手に恵まれ、
ぶつかり合う場(ステレオサウンド)があった。

ステレオサウンド登場以前には、瀬川先生の上の世代のオーディオ研究家の方たちがおられるし、
そしてなによりも五味先生の存在が、もう一方の極にある。
淺野勇、伊藤喜多男、加藤秀夫、今西嶺三郎、岡原勝、といったオーディオ研究家の方々という「土」、
五味康祐という「水」があり、瀬川冬樹という「芽」があらわれた。

こういう偶然と必然があったからこそ、「瀬川冬樹からオーディオ評論は始まった」。

Date: 3月 6th, 2011
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(その21)

ステレオサウンドは幸運だったといえる。
井上卓也、岩崎千明、上杉佳郎、岡俊雄、菅野沖彦、瀬川冬樹、長島達夫、山中敬三、といった方々が、
創刊号から、もくしは創刊まもない号から参加されている。

これだけの才能がぶつかり合ってきたのが、ステレオサウンドの歴史のなかで、もっともよいところである。
ステレオサウンドが登場したころは、オーディオ評論というものが確立されている時代ではなかった。
ステレオサウンドの場(ときにはその裏側)で、才能のぶつかり合いがあり、「価値を有する意見」が生れてきて、
ステレオサウンドの誌面・テスト方法も変っていった。

ステレオサウンドの試聴は、いまみれば、まったく問題がなかったわけではない。
試聴方法は、つねに変化してきた。一度として,まったく同じ方法での試聴はなかったはずだ。

だから「熱かった」といえると思っているし、いまはどうだろう……とも当然思う。

Date: 3月 5th, 2011
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(その20)

41号から読みはじめたステレオサウンドを、オーディオの本だと、ずっと捉えてきた。
いまもオーディオの本なのだけれども、
もうひとつの側面としてステレオサウンドには、オーディオ評論の本という特質がある、とここ数年思っている。

あくまでも主となるのはオーディオの本ということ、のように見受けられるけど、
実のところ、オーディオ評論の本、ということの方が隠れた主となっている、といえなくもない。
ただ、これは、いまのステレオサウンドにはあてはまらなくなった、ともいえる。

いまステレオサウンドは、オーディオの本だ。
これが、ステレオサウンドの本来のあり方だと受けとる人もいれば、
私のように、そうじゃないだろう、と心の中でつぶやいている人もいるはずだ。

だから、あるところまでステレオサウンドの歴史は、オーディオ評論の歴史であった。
ステレオサウンドがあったからこそ、オーディオ評論が芽生え育ってきた。
大きく育ち、実を結ぼうとする手前で、その樹の幹の中では変化が起り方向が逸れていってしまった……。

フルトヴェングラーは「音楽ノート」で語っている。
     *
批評は正しさの獲得のために存在すると考えるのは間違っている。批評とは論議するために存在するのだ。もし論議が不可能になれば、価値を有する意見は生まれないであろう。
     *
論議すること、とは、才能のぶつかり合い、でもある。
ぶつかり合い「価値を有する意見」が生れることで、批評が評論へとなっていくのではないだろうか。

Date: 3月 3rd, 2011
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(その19)

ステレオサウンド 14号に、上杉先生がこんなことを書かれている。
     *
いつの間にか私にもオーディオ評論家という肩書きがついてしまったようだ。しかし、私は、評論家という自覚よりも、やはり、技術者という自覚の方が、はるかに強い。
     *
私は、オーディオ評論は、ステレオサウンド創刊以前には、
はっきりとしたかたちでは存在していなかった、と思っている。
ステレオサウンドも創刊号では、明確な「オーディオ評論」は打ち出せてない。

それまでなかったものをいきなりかたちにできるわけがないからしかたのないことであって、
2号以降、オーディオ評論とステレオサウンドとともに形づくられていった、といえる。

ステレオサウンドが、オーディオ評論を生み出したわけではない。
だからといって、ステレオサウンド以前にオーディオ研究家・技術者として活躍されていた人たちだけでは、
やはりオーディオ評論は生れてこなかったか、もしくはもっと遅れてきたはず。

ステレオサウンドという場があってはじめて、
オーディオ研究家・技術者とそれまで呼ばれていた人のなかから、オーディオ評論の芽が生れてきた。

Date: 12月 2nd, 2010
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(その18)

昭和30年代なかばころまでと,いまとではオーディオの状況は様変わりしているところもある。
なにも、すべてのオーディオマニアに、自作を強要するつもりはない。
それでも、オーディオをより深く研究していきたい心がわずかでもあるのなら、
自作してみることを、おすすめする、というわけだ。

だが、オーディオ評論家として仕事をしている人たちに対しては、違ってくる。
ここでも、自作をした経験のないオーディオ評論家は信用できない、とはいわない。

だが、ステレオサウンド創刊当時から書いてこられた人たちと、
真剣な自作の経験なくしてステレオサウンドほかオーディオ雑誌に書くようになってきたひとたちのあいだには、
大きな違いが存在している、といいたいだけである。
どちらがいいとか悪いとか、そんなことではなく、ただ大きな違いがある、ということだ。

この、大きな違いは私だけが感じていることかもしれないし、他のかたも感じておられるのかどうかはわからない。
それでも、この、大きな違いこそが、
オーディオ批評とオーディオ評論の違いに深く関係しているのではないだろうか。