オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(その20)
41号から読みはじめたステレオサウンドを、オーディオの本だと、ずっと捉えてきた。
いまもオーディオの本なのだけれども、
もうひとつの側面としてステレオサウンドには、オーディオ評論の本という特質がある、とここ数年思っている。
あくまでも主となるのはオーディオの本ということ、のように見受けられるけど、
実のところ、オーディオ評論の本、ということの方が隠れた主となっている、といえなくもない。
ただ、これは、いまのステレオサウンドにはあてはまらなくなった、ともいえる。
いまステレオサウンドは、オーディオの本だ。
これが、ステレオサウンドの本来のあり方だと受けとる人もいれば、
私のように、そうじゃないだろう、と心の中でつぶやいている人もいるはずだ。
だから、あるところまでステレオサウンドの歴史は、オーディオ評論の歴史であった。
ステレオサウンドがあったからこそ、オーディオ評論が芽生え育ってきた。
大きく育ち、実を結ぼうとする手前で、その樹の幹の中では変化が起り方向が逸れていってしまった……。
フルトヴェングラーは「音楽ノート」で語っている。
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批評は正しさの獲得のために存在すると考えるのは間違っている。批評とは論議するために存在するのだ。もし論議が不可能になれば、価値を有する意見は生まれないであろう。
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論議すること、とは、才能のぶつかり合い、でもある。
ぶつかり合い「価値を有する意見」が生れることで、批評が評論へとなっていくのではないだろうか。