Archive for category 老い

Date: 9月 21st, 2022
Cate: 老い

老いとオーディオ(若さとは・その17)

別項でふれているように、ここしばらくシューベルトを主に聴いている。
そのこともあって、しばらくグレン・グールドの演奏を聴いていなかった。

といっても三ヵ月ほど聴いていなかっただけである。
今日、グールドを聴きたくなった。

昨夏よりグールドを聴く、ということは、TIDALでMQA Studioを聴くことに、
すっかりなってしまっている。
さきほども、だからTIDALでMQA Studioで聴いていた。

何を聴こうか、ということよりも、グールドを聴きたかった。
なので目に入ってきたアルバムを選択した。

バッハの平均律クラヴィーア曲第一集を聴いていた。
MQA Studioで聴いたからといって、最新録音のように聴こえてくるわけではない。
いまとなってはもう古い録音である。
テープヒスもきこえてくる。

いまどきのピアノ録音と比較するまでもない。
それでも十分ほど聴いていると、
グールドのバッハが身体にしみ込んでくるような感触がした。

聴きながら、しみ込んできている、しみ込んできている──、
そんなことをつぶやきそうになるくらいにだ。

平均律クラヴィーア曲集は、グールドの演奏をいちばん多く聴いている。
それでも、いままでこんなふうに感じたことはなかった。

これは老いからくることなのだろうか。

Date: 9月 16th, 2022
Cate: アナログディスク再生, 老い

アナログプレーヤーのセッティングの実例と老い(その10)

OTOTENでのDSオーディオのブースで、一つだけ確認したいことがあった。
けれど、それをリクエストするのは、さすがにどうかな、と思い何もいわなかった。

何を確認したかったのかというと、
ES001を使うことで偏心量を数値で確認できる。
そして減らすことで、音は良くなる。

偏心量を検出するときはもちろんディスクのレーベル上に、ES001がのっている。
ディスクをずらすときものっている。
偏心量がある値よりも小さくなって、もう一度再生するときものっている。

OTOTENでは、偏心量が大きいときも小さくなった時も、つねにES001がのっている。
ES001がのっている音しか聴けなかった。

私が聴きたかったのは、偏心量を小さくした状態で、
ES001がのっている音とのっていない音である。

いま書店に並んでいるオーディオ雑誌は、ES001を取り上げていることだろう。
誰がどんなことを書いているのかは知らないが、
ES001をのせた音、のせない音に言及している人がいるだろうか。

そしてES001の効果を絶賛しているようにも思う。
だがES001は、くり返すが測定器である。
偏心をなくしてくれるわけではない。

これまで感覚量でしかなかった偏心の度合を、数値で表してくれる測定器である。
そして、偏心による音の影響については、
昔からアナログディスク再生にまじめに取り組んできた人にとっては、
あたりまえすぎる常識である。

測定器に頼ることなく、すぐに対処できることでもある。

私はES001を評価しないわけではない。
測定器として捉えている。
測定器としてES001は、存在価値がある、と思っている。

ただいいたいのは、ES001を持ちあげている人で、
私と同世代、上の世代の人がいたら、
その人は、それまでただ漫然とアナログディスクを扱ってきた──、
と白状しているようなものだ。

そのことに気づかずにES01を高く評価しているのであれば、
それはもう老いでしかない。

Date: 9月 16th, 2022
Cate: アナログディスク再生, 老い

アナログプレーヤーのセッティングの実例と老い(その9)

ディスクの偏心に関しては、ステレオサウンド時代に、
井上先生から指摘されたことが一度ある。

アナログディスク関連機器の試聴の時だった。
当然だが、アナログディスクを何度もかけかえる。

そのうちの一回、「けっこうズレているな」と井上先生がいわれた。
ズレているとは偏心が大きいということである。
それでどうしたかというと、かけかえである。

これでまた偏心の大きいかけかたをしようものなら、
それは漫然とディスクを扱っている証左であり、
もしそんなことをしようものなら井上先生から怒られただろう。

一度目は偏心が大きくても二度目で偏心の少ないようにすればいい。
そこに測定器はいらないし、結局はどういうかけかたをするかである。

もちろん反対に、ほとんど偏心のないと思えるときも何度かあった。
そういうときはきまって井上先生は「いいところに決ったな」ときちんといってくれる。

これだけのことなのかもしれない、他人から見れば。
それでもそんな井上先生のことばがあったからこそ、レコードのかけかたである。

DSオーディオのES001は、それまで感覚量でしかなかったことを数値で示してくれる。

そういう経験があるからこそ、なぜディスクのかけかえをせずに、
ディスクの縁を指でチョンチョンと押すのだろうか。

なんとなくいじましい行為におもえるし、
偏心が大きかったら、スパッと一度やりなおす(かけかえる)ほうが、
見ている側としても潔く見えると思うのだが、どうだろうか。

これは私だけの感覚なのかもしれないが、
ターンテーブルプラッター上でディスクをずらすことは、
ディスク表面を傷つけるような感じがして、やりたくはない。

良質のシートがあれば傷つくことはないのだろうか、
なんとなく雑に扱っているようにも感じてしまう。

Date: 9月 15th, 2022
Cate: アナログディスク再生, 老い

アナログプレーヤーのセッティングの実例と老い(その8)

DSオーディオのES001は、スタビライザーというよりも測定器といったほうがしっくりくる。

ES001は、ディスクの偏心量を測定してくれる。
検出したディスクの偏心を少なくしていくのは、人の手(指)である。

DSオーディオのデモでは、ES001でディスクの偏心を検出後、
ディスクの縁を指で少しずつ押して、またES001で測定。
それで偏心量が減っているのか、増加したのかを判断。

ナカミチのDragon-CTがやっていたことを、人の指で行うわけだ。
この作業になれていなければ、指で押して、逆に偏心を増やすことにもなりかねない。

この作業をやっている人がどのくらい馴れていたのかはわからなかったけど、
偏心の仕方によっては、けっこうな時間をかけて指を押す作業をくり返していた。

それを見て私が思っていたのは、なぜディスクをかけかえないのか、だ。
指でこのくらいかな、とチョンチョンと押すくらいなら、
ES001を取って、ディスクも取って、もう一度ターンテーブルプラッターにのせる。
こちらの方がずっと早い。

そしてもう一度ES001をのせて測定してみればいい。

ディスクの偏心による音の影響は、なれれば、最初の音が出た時点でわかるものだ。
偏心量が大きい、とわかる。

ただ漫然と聴いていてはわからないかもしれないが、
偏心に注意して、同じディスクを何度もかけかえては、
その音の違いを意識して聴くようにしていれば、
今回は偏心が大きいな、とか、今回はうまく芯出しができた、とかわかるようになる。

もちろん偏心の量まではわからない。
ES001は、これまで偏心が大きいな、と感じていたのが、
どのくらいの偏心量なのかを数値で示してくれる。

その意味での測定器である。

Date: 9月 14th, 2022
Cate: アナログディスク再生, 老い

アナログプレーヤーのセッティングの実例と老い(その7)

今年のOTOTENで、DSオーディオのES001を聴くことができた。
DSオーディオいうところの偏心検出スタビライザーなのだから、
その音を聴くという表現は、少し間違っているのかもしれないが、
その効果を聴いた、という表現も少し違うように感じてもいる。

DSオーディオのブースに入ったときに、
ちょうどタイミングよくES001のデモが始まろうとしていた。

ES001が出ていたのは知っていた。
ただどんな製品なのかを正確には知ろうとはせずに、
レコードの偏心の問題を自動的に解決してくれるモノだと勘違いしていた。

DSオーディオのスタッフの話は面白かった。
ナカミチのDragon-CTの話も出てきた。

私よりも二まわりほど若い方のようで、TX1000の話はなかった。

アナログディスク再生において、ディスクの偏心は音に大きく影響する。
そのことはずっと以前から云われてきたことだし、
だからこそナカミチが、いまから四十年以上前にTX1000を開発しているし、
高価すぎるTX1000の普及モデルとしてDragon-CTも出してきた。

私はどちらもステレオサウンドの試聴室で、その効果を聴いている。
偏心しているレコードの芯出しを行うと、誰の耳にもあきらかなほどの音の違いが生じる。

ナカミチのアナログプレーヤーは、どちらの機種も偏心を検出し、
芯出しまでボタン一つで行ってくれた。

その印象が残っていたために、
ES001も検出・芯出しまで行ってくれるモノだと思い込んでしまった。

思い込みながらも、実際にはどんな方法で行うのだろうか、とあれこれ想像はしていた。
検出はなんとなくこんな方法だろうと想像はついたけれど、
芯出しの機構をスタビライザーのなかで、どう実現するのか。

なかなか大変なことなのに──、
と思っていたわけだが、ES001の説明を聞くと、
ユーザー(人間)が芯出しを行う。当然といえば当然か。

Date: 8月 23rd, 2022
Cate: 老い

22年(コメントを読んで)

その3)へHiroshi Noguchiさんのコメントがあった。
残念ながら、ボザール・トリオはMQAではない。

ワーナー・クラッシクスでの録音はMQAになっているが、
私がボザール・トリオときいて、まず思い浮べるフィリップスへの録音は、
いまのところTIDALではMQAになっていない。

e-onkyoはどうかというと、
ベートーヴェンのピアノ三重奏曲がMQA(192kHz)になっている。
今年の6月に配信が開始になっている。
個人的には、デジタル録音なのだが、モーツァルトもぜひMQAにしてほしい。

Date: 8月 18th, 2022
Cate: 老い
1 msg

22年(その3)

昨晩、五味先生の、この文章も思い出した。
     *
 死のつらさを書かぬ作者は、要するに贋者だ。
 そいつは初めから死馬である。幾らだってだから書ける。狂うことも、自殺することもないわけで、死馬ほど安楽な状態はあるまい。シューマンはその点、所詮、死馬に耐えられなかった。彼の作品は、悉く若い時代に為したもので、私に言わせればシューマンは音楽家よりは文学者になるべき人だったとおもう。彼の作品活動は、その良いものは三十二歳までだ。音楽に向っては、若い裡にしか流露しないそういう才能なのであり、あとの十余年は、死馬になった己れとの闘いだったろうと思う。ライン川への投身はその意味では、潔い行為で、精神錯乱と呼ぶのは死馬の輩だ。しかもシューマンには、しっぺ返しを喰うほどの才能の結実さえ(作品四一の弦楽四重奏曲、同四四のピアノ五重奏曲、それにピアノ四重奏曲を除いては)なかったと、私なら言う。少なくとも作曲上不可欠な構成力といったものが、彼には欠けていたのではなかったかと。
(「音楽に在る死」より)
     *
思い出したから、シューマンのピアノ五重奏曲を聴いた。
ボザール・トリオの演奏で聴いた。

Date: 8月 16th, 2022
Cate: 老い

22年(その2)

《勿論いたずらに馬齢のみ重ね、才能の涸渇しているのもわきまえず勿体ぶる連中はどこの社会にもいるだろう。》

五味先生が「私の好きな演奏家たち」で、そう書かれている。

22年目。
五味先生の、この言葉が浮んできた。

Date: 8月 16th, 2022
Cate: 老い

22年(その1)

audio sharingは2000年8月16日に公開した。
今日で22歳。

20よりも22のほうが、個人的にはなぜか感慨深かったりする。
いろいろあった。

あと22年やれるかどうかは、なんともいえない。
あと10年くらいかもしれないが、
これまでの22年よりも、いろいろあるのかもしれない。

Date: 8月 12th, 2022
Cate: 楽しみ方, 老い

オーディオの楽しみ方(天真爛漫でありたいのか……・その4)

その2)で、オーディオマニアのなかには深刻ぶっている人がいる、と書いた。

深刻ぶる人は、若い時からそうだ。
少なくとも、私の周りにいる深刻ぶるオーディオマニアは、若い時からそうだった。

みな歳をとる。
深刻ぶるのが好きなオーディオマニアもそうでないオーディオマニアも。

みな老いていく。
老いとともに深刻ぶるのが好きな人は、さらに深刻ぶっているように見える。

私からすれば、深刻ぶっていて何が楽しいんだろう──、となるのだが、
深刻ぶっている人は、深刻ぶるのが好きなのかもしれない。
だから老いとともに、さらに深刻ぶっているのか。

本人が楽しければそれでいいのだけれど、
オーディオって、そういうものじゃないのに……、といいたくもなる。

Date: 6月 14th, 2022
Cate: 老い

老いとオーディオ(その11)

五味先生が「五味オーディオ教室」に書かれていたことを、
最近思い出すことが多い。
     *
 いい音で聴くために、ずいぶん私は苦労した。回り道をした。もうやめた。現在でもスチューダーC37はほしい。ここまで来たのだから、いつか手に入れてみたい。しかし一時のように出版社に借金してでもという燃えるようなものは、消えた。齢相応に分別がついたのか。まあ、Aのアンプがいい、Bのスピーカーがいいと騒いだところで、ナマに比べればどんぐりの背比べで、市販されるあらゆる機種を聴いて私は言うのだが、しょせんは五十歩百歩。よほどたちの悪いメーカーのものでない限り、最低限のトーン・クォリティは今日では保証されている。SP時代には夢にも考えられなかった音質を保っている。
     *
五味先生は、スチューダーのC37を手に入れられている。
ステレオサウンド 50号掲載の「オーディオ巡礼」に、そのことが出てくる。

それでも《出版社に借金してでもという燃えるようなもの》は、
五味先生の裡からは消えてしまっていたのだろう。

この《出版社に借金してでもという燃えるようなもの》は、
どうしても欲しい、という気持のはずだ。

最近思うのは、「どうしても欲しい」と「どうしても譲れない」、この二つの違いである。

Date: 6月 9th, 2022
Cate: 「本」, 老い

オーディオの「本」(ラジオ技術のこと・コメントを読んで)

facebookにコメントがあった。
私よりも一世代若いMさんからである。

YouTube、ソーシャルメディア、ブログでは、オーディオの話をしている人がいる。
昔と違い、紙の本に頼ることなく情報発信ができる時代になっているのに、
なぜ紙の雑誌、書籍が必要なのか──、ということだった。

一ついえることは、マスで捉える能力について、である。
ステレオサウンドは昔、総テストを売りにしていた。
この総テストについては、別項でも書いている。

スピーカーシステムならスピーカーシステム、
アンプならばアンプを、一度に数十機種集めて数日で集中して試聴する。

この総テストを体験しているかいないか。
この違いが、オーディオ雑誌の存在理由である、と私は考えている。

このマスで捉える視点をもっているのかもっていないのか。
ただし、総テストを体験してきているかといって、
マスで捉える視点をもっているのかは、また別の話であるが、
私がオーディオ評論家(職能家)と認めている人たちは、
総テストをくり返し体験してきた上でのマスで捉える能力・視点をもっていた。

Date: 6月 8th, 2022
Cate: 「本」, 老い

オーディオの「本」(ラジオ技術のこと・その1)

別項で触れているように、
HiViが月刊誌から季刊誌へとなる。

広告が減ってきて、発行部数も減れば、そうならざるをえない。

別項「2022年ショウ雑感(その2)」について書いた。
ラジオ技術は、2020年にも、7月号が6月号との合併号として発売になったことがある。
新型コロナの影響のせいである。
2022年も、2月発売の3月号が休刊になり、3月発売の4月号との合併号になった。

6月になり、ラジオ技術のツイートは、
月刊誌から隔月刊への変更の知らせだった。

ラジオ技術のウェブサイトでも告知されているが、ツイートのほうが事情を説明してある。
それによると、ここ十五年ほど広告収入と発行部数の減少で、
実質的に赤字経営であったこと。

筆者の方たちも、原稿料無しで支援されていた、ということ。
数人の方から多大な資金援助があった、ということなどが語られている。

そして河口編集長の視力の急激な悪化により編集作業に支障をきたすようになった──、と。

出版業界は厳しい、とよくいわれるようになっている。
そういったことをよく目にするようになってもいる。

でもオーディオ雑誌はそれだけではないように感じられる。
老いの問題があるのではないだろうか。

ラジオ技術編集部に限ったことではなく、
若い人がオーディオに関心を持たなくなっている、といわれている。

そういう状況が続いていけば、
若い人がオーディオ雑誌の編集に就くことがなくなってくるのではないのか。

総じて、オーディオに関係する人みなが高齢化していく。
オーディオマニアも読者も、である。

Date: 5月 22nd, 2022
Cate: 老い

老いとオーディオ(とステレオサウンド・その14)

「人は歳をとればとるほど自由になる」はずなのに、
オーディオ評論家がそうでないのは(そう見えないのは)、
第一線を退いていないということも関係していよう。

オーディオ評論家に対し、ある年齢に達したら引退しろ、といいたいのではなく、
第一線の仕事は若い世代にまかせて、
あえて第一線から退いたところから、なにかを書いていくという人が、
いまの時代、なぜあらわれないのだろうか。

以前は池田圭氏がそうだった、と私は受け止めていた。
池田圭氏はオーディオ評論家ではなく、
オーディオ研究家、愛好家と呼んだほうがいいのだが、
私がオーディオ雑誌を読みはじめたころは、第一線からは退かれた人、
けれど大ベテランだけに、現役バリバリの人たちと違うところからの意見、
それがなんとも貴重なことのように感じていたし、事実そうだった。

書きたいこと(伝えたいこと)をきちんと持っている人ならば、
その道を選ぶのではないだろうか。

Date: 5月 21st, 2022
Cate: 老い

老いとオーディオ(とステレオサウンド・その13)

「人は歳をとればとるほど自由になる」
内田光子は、あるインタヴューでそう語っていた。

先月リリースされた内田光子のベートーヴェンのディアベリ変奏曲、
ここでの演奏に耳を傾ければ、内田光子のことばを確かに実感できる。

オーディオ評論家はどうなのだろうか。
歳をとればとるほど自由になっているのだろうか──、とふと思う。

いまのステレオサウンドで書いている人たちは、高齢者といっていい。
内田光子よりも歳をとっている人もいるし、同世代の人もいる。

評論家と演奏家は違う──、
そういう声がきこえてきそうだが、
内田光子は「人は歳をとればとるほど自由になる」といっている。

人は、である。

自由になっていない、と私がそう感じているだけで、
当の本人たちは、歳をとるほどに自由になっている(書いてきている)、
という自覚なのかもしれない。

それでも──、とあえていう。
私が読みはじめたころのステレオサウンドの書き手の多くは、40代だった。
その時代のほうが、ずっと自由であった、と感じている。